「夕映えの彼方」



たとえば、それが<向こう側>への歪――ひずみといえるのではないか。

それはどこまでも澄み渡る、悠久の水世界を映し出す、淡い蒼穹。

それは蒼茫へと世界が暮れる前の、褪せることのない真紅の色彩。

それは静謐な夜空を睥睨する、青白く輝く月光。

普段気付かないだけで、彼方への境界線は世界の何処にでも存在するのかもしれない。

そして、夕映えがあまりにも色鮮やかなときは、帰り来たる人間もいるという。



青年は恋人とのデートの帰り道、ふと空を見上げた。

夏の夕空は燃えるような紅に覆われ、西の家々と街路を彩っていた。

その鮮やかさは、長く見つめているとそれに呑み込まれてしまったとしても不思議ではないように思えた。

「どうしたの、まこちゃん」

隣に添う恋人――鳴風みなもが、呆けたように立ち尽くす青年に呼びかけた。

「いや……夕焼けが綺麗だと思ってな」

「うん、そうだね。最近はとくにいい色をしているけど、今日のはひときわ凄い」

空に広がる凄絶な夕映えに、雲の影さえも地に落ちる様が瞳に映る。

流れてゆく赤黒い影がひとつ通り過ぎるまで、二人は固まったままだった。

或いは、このままずっと空を眺めていたら、遠い何処かへ連れて行かれるのだろうか。

「そろそろ行こうよ」

「……ああ」

オレンジに染まる恋人に腕を引かれ、青年は名残惜しそうに歩みを再開した。

その肩を通り過ぎていく風にどこか懐かしい香りを感じながら。


青年は丘野真といった。

みなもとは恋仲になって早数年、来年には結婚式を挙げる予定だ。

真には数年前、彼女と付き合う以前に恋人と呼べる少女がいた。

その期間は僅か三日であったが、想いは通じ合っていた。

そして三日目の夜に少女は消えた――この世界から。

失った悲しみも、救えなかった後悔も、みなもは全て包み癒してくれたのだ。

彼の今があるのは少女と最後に交わした指きりと、彼女のおかげである。

それでもあの夏の日を忘れる事は一度も無かった。

深夜ふと眼醒めた真を、どうしようもないくらいの焦燥感が襲った。

まるでこの世界に自分ひとりだけしか存在していないような孤独感。

今日の夕映えが鮮烈すぎたせいだろうか。

隣ですやすやと寝息を立てるみなもが、ひどく遠い気がした。


翌日、仕事を終えた真がまっすぐ帰路に着く。

家に帰ってくつろいでいると、なんとはなしに喉の渇きを覚えた。

冷蔵庫を覗くと缶ジュースを切らしていたので、近所の自販機へ買いに行く事にした。

普段着に着替え、みなもに一声かけてから外に出掛ける。

暮れなずむ夏の夕空の下、何の変哲も無いいつもの道を辿り戻ってくると、居間の窓から談笑が聞こえた。

見知った顔でも来たのだろうか?

訝しみながら明かりのついた居間へ目をやって、真は愕然とした。

ソファに腰をかけて楽しそうにみなもと会話しているのは、丘野真自身に他ならなかったのだ。

見間違えようもなく、確かに自分だった。

「…………」

すると真は達観したように、無言で我が家の団欒に背を向けた。

不思議と落ち着いているのはいつかこんなときが来るかと心のどこかで感じていたからか。

蒼茫が濃くなってきた世界をぽつぽつと歩いていく。

この世に同じ人間は二人もいらない。だとしたら不必要なのは自分の方だ。

真の足は明確な意思を持ってある場所へと向かっていた。自分がこの世界からいなくなるのだとしたら、あそこがいい。其処しかない。


果たして辿り着いたところは、夜の帳が降りた風音神社であった。

数年前にひとりの少女が消えた御神木の前――此処しかない。

眼を閉じて感慨に浸る真。さわさわとそよぐ夜風が肌に心地良い。

そして瞼を開くと、眼前に小柄な人影があった。それは確かに数年前、三日間だけ愛し合った少女。

「彩ちゃん……?」

掠れ出るような声に少女はこくりと頷いて、はにかんでみせた。

風音学園の制服に身を包んだ彼女の容姿は、あの日のままであった。

「彩ちゃんは何も変わっていないな」

「真さんも、ですよ」

「えっ」

彩は真に近寄ると、ぎゅっと抱きついた。

すると彼女の身体を通して、不思議な活力がみるみる流れ込んでくるではないか。

彩が離れると、真は自分の身体が数年前のあの頃に戻ったのを感じた。

目の前には当時と変わらぬ少女の微笑み。

「彩ちゃん」

真が強く彩を抱きしめる。

どこからともなく、淡い輝きを放つ風蛍の群れが周囲を碧に染めた。

「行きましょうか、真さん」

「ああ」

ぎゅっと手を繋いだ真と彩が風蛍の中を歩いていく。

何処からか茜色の光が漏れていた。それは赤い鳥居の向こうだった。

二人の足は自然とそちらへ向かう。

やがてその姿は紅く染まる夕映えの彼方へと消えていった――



(了)