1月20日(水曜日)
朝、あゆちゃんに滅茶苦茶にされた台所を片付けた後
わたしはあゆちゃんと家の掃除を済ませて、夕飯のお買い物に商店街にやってきた。
もちろんあゆちゃんも一緒だ。
昨日、名雪と祐一さんにうちに誘われた時のお話を息をはずませながらわたしにしてくれるあゆちゃんはとても嬉しそうである。
きっと、お母さんがいた時のあゆちゃんはこんな感じだったのだろう……
並んで商店街のスーパーに入るわたし達。
あゆちゃんには、牛乳など探しやすいものを取ってくるようにお願いして、わたしは必要な物をカートを押しながらカゴに入れていった。
そして、大体必要なものが揃ってあゆちゃんとレジに向かおうとした時……。
「あっ、これ…」
あゆちゃんがレジ前の商品棚に目を止めて、そう呟いた。
「どうしたの?」
商品棚に並んでいたのは…いろんな種類のジャムだった。
「うん、これボクの好きなジャムなんだけど、秋子さんと同じ名前だから面白いなって思ったんだよ」
あゆちゃんはそう言って、イチゴジャムの瓶を取ってわたしに差し出す。
そこに貼られたラベルには『マダム・アキコのイチゴジャム』と書いてあった。
あら、ここのスーパーにも置いてあったんですね。
置いてるのはイチゴジャムとブルーベリージャムだけですか…ちょっと残念です。
でも、契約先の方の話だとそれが一番人気ですし、こんな小さなスーパーでは仕方ないかもしれない。
しばらくはママレードジャムの品質向上でも研究しようかしら?
「マダム・アキコってなんだか本当に秋子さんが作ったみたいだね」
その偶然の一致を笑顔で報告するあゆちゃん。
そういえば、まだ話してなかったかもしれない。
「うふふ、それは本当にわたしが作ったジャムですよ」
「えっ!?」
あらあら、驚かせちゃったみたいですね。
「マダム・アキコって秋子さんのことだったんだ」
が、あっさり信じるあゆちゃん。
大丈夫かしら? 悪い人に騙されなければいいけど。
「そのマダム・アキコシリーズのジャムを作るのがわたしのお仕事ですからね」
「そうだったんだ…秋子さんってジャムの工場で働いてるの?」
「ええ、そんな感じですね」
正確には食品会社と契約してジャムとかの製法を教えてるということなのだが。
ジャム以外にもパスタソースとかもある。
もっとも、『マダム・アキコ』というシリーズ名を持ってるのは、最初に商品化されたジャムだけだ。
「わぁ、秋子さんって凄いなあ」
あゆちゃんは素直に感心していた。
「本当は20種類近くあるんですけど、今度全部出しましょうか?」
「えっ、20種類もあったの? ボク3種類しか知らないよ」
…7年前の売れ筋はイチゴとブルーベリーと蜂蜜くらいのものだったから、あゆちゃんが知らないのも無理はない。
それに確か7年前は製品として世に出していたのは10種類くらいだったはずだ。
わたしが直に経営してるジャム屋さんでもあの当時は15種類だったはず。
「ふふ、じゃあ今度お勤め先から全種類持ってきますね」
家にほとんどは置いてあるのだが、せっかくだし作りたてのジャムを並べてあげたい。
「うぐぅ、楽しみだよっ」
この笑顔を見ると尚更だった。
「でもこのジャム、ボクの子供の頃からあるけど、そのときからマダムだった気がするんだけど」
様子を伺うようにこちらを見るあゆちゃん。
そうだ……あゆちゃんの言う通り、確かにおかしい。
今でこそわたしも『マダム』と言われておかしくない歳になったが……
まったく、あの人は……
「あゆちゃん、女性の歳を疑うものじゃないですよ?」
ちょっとすごんでみせる。
「う、うぐっ、ごめんなさい」
……あら?
そんなに怯えさせるつもりはなかったのだけれども。
「冗談よ。でも、名雪くらいの歳の娘がいる母親にしては若いかもしれませんね」
「何歳なのかな?」
「そうね……まだ30前半ですよ」
もうすぐ35なのは内緒です。
「ええっ!? 7年前のボクのお母さんとほとんど同じだよ」
それでわたしと7年前にいなくなったお母さんを重ねているのね、この子は。
それにしても…
『20歳ですよ』という冗談をいまだに通せる顔をしていると自信のあるわたしだが、昔は自分の顔を恨んだりしたものだ。
何しろ中学の時から大人びた顔をしてたせいで、私服で出歩くと20歳と勘違いされることもあった。
ようはかなりのフケ顔だったわけだ。
そんな顔をしておばさんクサイ言動をしようものならすぐに冷やかされた。
上品な言動を心掛けるようになったのはそのころからだろう。
おばさんクサイと言われるよりは大人びたと言われる方がマシだったから。
あの人、名雪の父親になる人と出会ったのは高校1年生の時だった。
と言っても学園ドラマのように高校で出会ったわけではない。
ほんの些細な偶然だった。
雪に足を取られている白い子猫、気付かず迫る車。
わたしは迷わず道路に身を投げ子猫を抱き止める。
そして通りがかった男の人に……。
「受け取って!」
「は、はいっ!?」
その子猫の命をかけたパスをした。
キキーーッ!
けたたましいブレーキ音と背中に走る鈍い衝撃。
ああ、轢かれたんだな……そう思ったところでわたしの意識は途絶える。
結論から言うと私は全くもって無事だった。
雪の上を徐行運転していたため車のスピードは遅かったし、雪がクッションになってくれたからだ。
わたしが気絶したのは『轢かれる』という恐怖心からくるショックが原因で、実際には触れた程度だったとか。
自分の大袈裟ぶりがちょっと恥ずかしかったりもする。
しかし、わたしが飛び出さなかったら雪の上の小さな白猫に運転手は気付きもしなかっただろう。
運転手のおじさんはわたしの無事を確認すると、パスを受け取ってくれた男性に抱かれた子猫に『よかったなお前』と一撫でして去っていった。
おじさんを見送ったあと、お互いに向かい合う残されたわたし達。
白い子猫を抱いた彼は苦笑しながら言った。
「無茶をしますね、奥さん」
頭の中が真っ白になったのを覚えている。
私服で買い物袋を持っていたのが勘違いの元だったのだろう。
服装も今着ているようなものだったのがよくなかったのかもしれない。
初めて会ったときのあの人は、わたしのことをどこかの新婚の奥さんと勘違いしたのだ。
わたしはそこの高校に通っている15歳です……
そう言うとあの人は目をぱちくりして驚いていた。
当時25歳だったあの人は、それを訊いて
「同年輩の方とばっかり……」
と更に酷いことを言ってくれた。
それを聞いたわたしが猫を抱いたままのあの人に顔を背け、怒って家に帰ったのは言うまでもない。
ちなみに、そのときあの人の年齢を訊かずに帰ったわたしはわたしで、あの人のことを30代後半と思っていた……
外見的にはあの人もふけ顔だったわけだが、その日のわたしにとってそれは屈辱以外の何物でもなかった。
そんな失礼な人と再び会ったのは、意外にも次の日だった。
学校の帰り道、商店街に寄ったわたしは昨日子猫を見かけた道路に差しかかった。
そういえばあの子猫は結局どうなったのだろう? そう思ってあたりを見回す。
見回したところでいるわけもないだろうと思っていたのだが、目の前に飛び込んできたのはとんでもない光景だった。
「パス!」
「は、はいっ!?」
雪の積もった道路にダイブする男性。
そして放り投げられる一匹の白い猫。
面食らいながらもわたしは必死にその猫を受け止めた。
そして男性の方は……。
ドンッ!
軽トラックにはねられ、見事に吹っ飛んだ。
「不公平すぎる。何で僕の時はトラックなんだ……」
「ま、まあ、いいじゃないですか。無傷だったんですから」
「よくない! おまけに運ちゃんに怒られたんだぞ」
「それはご愁傷様です」
男性の不憫ぶりを思うと苦笑するしかなかった。
トラックにはねとばされた挙句、運転手のおじさんにはさんざん悪態をつかれたのだから。
そう、笑うしかなかったのだ。
だって、その男性は昨日の男性だったのだから。
昨日とはまったくあべこべの立場でわたし達は向かい合っていた。
「しかし、何だな……。制服姿で笑う君を見てると、ちゃんと今風の女子高生に見えるね。昨日は失礼なことを言って悪かった」
「『ちゃんと』は余計です。でも、ごめんなさい。わたしの方こそこの子を押し付けたまま帰っちゃって」
お互いに頭を下げて、自己紹介をする。
その時はじめて、二人とも相手の年齢を勘違いしていたことに苦笑いした。
「……野良なんですか」
「うん、昨日このあたりの家をあたってみたけどね」
自己紹介も終わり、今度は助けた猫の話題に移るわたし達。
わたしの腕の中で気持ちよさそうに目を閉じている真っ白な子猫は野良猫だったらしい。
野良猫自体は珍しくはないのだが、子猫の野良猫は珍しい。
おまけにこの白さでは雪と見分けがつきにくく、足も短いためか雪の深みにはまると身動きも取れないだろう。
これではいつまた車に轢かれるか分かったものではない。
「二度あることは三度あるって言うしなあ」
「その度ごとにわたし達が轢かれていたら大変ですよね」
何となく言ってみた冗談にあの人はさもおかしそうに笑い始めた。
「君は真面目そうに見えて実は面白い子だな」
「何か失礼なこと考えてません?」
「ああ、いやいや、そんなつもりは全くない。決してない」
「二重に否定するところが怪しいです」
「ん、かわいい子猫だな。こいつの為にまた轢かれるのもごめんだし、僕が飼ってやろう」
……あの人は都合が悪くなるとよく話を誤魔化した。
思いっきり下手だったが、それだけ追及するのがかわいそうに思えて大抵はそこで許してしまう。
だが、そういうのも誤魔化し上手というのかもしれない。
それに、真面目な場面では決して誤魔化すことはない真摯な人だった。
「しかし、名前がないのも不便だな。うーん……」
わたしから子猫を受け取ったあの人は、子猫とわたしを見比べる。
そして、はじめて生まれた赤ちゃんに歓喜する親のように子猫を頭上に掲げた。
「よし、今日からお前の名前はプリスキン。イロコィ・プリスキン公爵だ!」
今思うと、その時からそんな目で見られていたのかもしれない。
『雄なんですね』とのんびり返していた自分の間抜けさを恥じる。
あの人はわたしを公爵夫人と見立てて子猫を公爵と名付けたのだ。
ついでに、『公爵』からも分かるとおりあの人は妙な貴族趣味があった。
今住んでいる家に関しても、あの人は『いずれシャンデリアを』とか『床に大理石を』とかいつも楽しそうに語っていた。
しかしセンスはネーミングセンスと相まって欠けていたらしい。
階段にミラーボールをつけようとか言い出したときには呆れたものだ。
もし、あの人が今もいたならば、あの家はとんでもないことになっていただろう。
……でも。
それはきっと楽しかったに違いない。
あの人がいたころは、たった二人でもあの家を広いとは感じなかった。
あの人の夢を飾るにはむしろ狭すぎたくらいである。
「ところで、お住まいはこの近くなのですか?」
「うん? 近くのマンションに住んでるけど。あ、ペットなら大丈夫だから」
「いえ、もしよかったらその子の様子を見にお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「なんだ、そんなことならいつでもいいよ。なんたって君はこいつの命の恩人だからな」
腕の中に収まっている小さな命。彼はその喉を優しく猫撫でしながら微笑んだ。
が、そこでちょっと照れたように頭を掻く。
「うーん」
「どうかしましたか?」
「いや。僕、忙しくてうちを空けることが時々あるんだ。その時、君に世話を頼めないかな……なんて」
「そんなことでしたら……喜んで」
15才の女の子相手に申し訳なさそうにするあの人はどこかかわいらしかった。
だからついでにちょっと意地悪を言ってみる。
「ああ、そうそう」
「なんだい?」
「わたしこれでも護身術は得意ですから。変なことをしたら痛い目を見てもらいますよ」
「しない、しない! そんなに僕は信用ないのか?」
頬に手を当てて考えるわたし。
答えは言うまでもないのだけれど。
「ぎりぎり合格です」
「…君ってほんとうに女の子なんだね」
ほとほと呆れ果てていたあの人の顔はやっぱりおかしかった。
奇妙な縁で出会い、お互いの優しさを知った二人。
気付いた時にはお互いに好きになっていた。
そして、あろうことかわたしは高校1年生の終わりに名雪を身ごもってしまったのだ。
当然高校は社会的体面から自主退学。
しかし、ことはそれだけにとどまらず、わたしは実家から勘当されてしまった。
父母は格式ばった人間で、そんな不名誉な娘を家には置いて置けないと怒り狂ったのだ。
この時わたしは心に誓った。
生まれてくる子には絶対に親の型にはめるような育て方はするまい…と。
今思うと、さすがに甘やかしすぎた気がしないでもないが…。
せめて早寝早起きの習慣くらいは厳しくすべきだったと思う。
世間的にも家庭的にも行き場をなくしたわたしの力となってくれたのは、1年前に家から出た姉夫婦と、あの人の実家、水瀬家の人たちだった。
「まったく、まさか8つも離れた秋子に先越されるなんて思いもしなかったわ」
姉はそう笑い飛ばして、当面自分達の家に住む様に言ってくれたのだ。
そう、姉が祐一さんを身ごもってるのがわかったのは、わたしの数日後のことだった。
もっとも、大雑把な姉が検査をほったらかしてたというだけで、妊娠自体は姉の方が早かったわけだが……。
祐一さんと名雪は、祐一さんの方が1月ほど年上だ。
ある意味、姉が大雑把だったせいで両親はわたしに必要以上に厳格だったのかもしれない。
嫁いで実家を出て行った姉はよく『放蕩娘』という名で呼ばれていた。
もっとも、わたしはそんなのびのび生きる姉が大好きだったが……
そして、あの人はわたしが家を追い出されたのを訊くと、あわてて家を作り始めたのだった。
今のわたしたちの家はその時完成したものだ。
わたしが、子供のために家を追い出されたというのに、あの人は子供は少なくても3人…というつもりで大きな家を建てた。
前向きなのか、無神経なのか…でも、それがあの人、いえ夫の魅力だった。
もちろん、いくら地方とはいえ、あんな大きな家を普通の25歳の若者が一人で建てられるわけがない。
それを、後ろで支えていたのが夫の実家、水瀬家だった。
水瀬家はこの地域で大きな力を持った食品会社で、夫はその支社の社長だったのだ。
といっても、そこまで財力があるわけでもなく、あの家を建てたときは、親に借金をしてお金を工面したらしい。
まあ、あの人の両親も結婚祝いということで随分奮発してくれたわけだが。
そして…
家も完成して、名雪が生まれ…
わたしも主婦が板についてきて、名雪がまだ三ヶ月の時。
朝の食卓に並べたある物に夫が目を止めた。
「秋子…このイチゴジャムはお前が作ったのか?」
「ええ、そうですけど? どうかしましたか?」
もともと料理は子供からの趣味で、中でもジャム作りは結構こだわっていた。
なので、ジャムにはかなりのこだわりがあり、決して市販の物は使わなかった。
姉夫婦にはとても好評の手作りジャムだが、夫には口に合わなかったのだろうか?
「これのレシピを教えてくれ。特に材料の分量とかを細かく」
「え、ええ…それは構いませんけど」
几帳面な気質のせいか、レシピはかなり正確に書きあがった。
季節ごとの煮込み具合の調節等も詳細に……。
「ありがとう。しばらくしたらきっと驚くぞ」
夫はそう言って、嬉しそうにそのメモとジャムの瓶を幾つか持って勤め先に出て行った。
部下の人たちにでもあげるのだろうか?
何にせよ、気に入ってもらえたようで嬉しい。
しかし、数週間後、夫が誇らしげに持って帰ってきた物を見て愕然とした。
それは……
『マダム・アキコのイチゴジャム』
とラベルの貼られた、夫の会社の製品だった。
「いやあ、店頭に出して1週間なんだが、飛ぶように売れて親父たちも秋子のジャム作りの才能に驚いてたよ」
何も悪びれることもなく上機嫌で笑うあの人。
しかし、そんな夫とは裏腹に、わたしには黒い感情が湧きあがってきた。
「あなた、『マダム』ってどういう意味ですか!?」
わたしはまだ16歳なのに……
夫に怒鳴ったのも、夫婦喧嘩をしたのもあれが最初で最後だった。
カンカンに怒ったわたしに対して、無断でこんな商品名をつけた夫は言い訳のしようもなく……
結果的に夫の父、つまりわたしのお義父さんにあたる人が出てきてわたしを説得してようやく事態は収まったのだった。
結局、もう出してしまったものを、こんな下らない事情で名前変更するわけにもいかず、ある意味その奇抜なネーミングが受けたという事情もあって……。
『マダム・アキコ』という、当時のわたしにとっては屈辱的な商品名のままそれは世の中に広まっていった。
人気が出て雑誌の取材を受けた時、決まってわたしの年齢に驚かれて悲しい思いをしたのも今ではいい思い出だ。
もっとも、悪いことばかりではなかった。
お義父さんは、わたしのためにジャム屋さんを1軒用意してくれたのだ。
商品名へのお詫び…も少しはあったのかもしれないが、わたしにもっとジャムを作って欲しいということだった。
それから1年……
名雪の子育てをしながらというのは大変だったが、楽しかった。
色んなジャムを作っては夫に喜ばれ、そして試行錯誤を重ねてわたしのお店に並べる。
夫もお義父さんにかけあって、量産できるものを商品化していった。
あの名雪に恐れられているジャムもそんな折に作られたものだ。
とても人に出せるものではなく、水瀬家の家族内のみの秘密として現在に至っている。
変わったジャムを作ろうということで、夫が挙げた材料を元に作ったらあんなものが出来てしまったのだ。
よせばいいのに、夫からそれを受け取ったお義父さんは、それを朝食の食パンに使ってその日、一日中寝込んだらしい。
また、夫がふざけてそれを舐めさせてみたプリスキン公爵は気絶してしまった。
名雪が猫アレルギーと分かって以来、既に立派な大人になっていたこともあって放し飼いにされていた公爵だったが……
この一件以来うちの中に入るのを極端に嫌がるようになる。
今でこそ口にしても害はないほどだが、初期のあれはそれくらいに強烈だった。
それこそ猫ですらトラウマになるくらいに。
色々な思い出たち。
それらに囲まれてわたしは本当に幸せだった……。
しかし、世に出回る『マダム・アキコ』シリーズのジャムが3種類になった頃、名雪の3才の誕生日。
夫は何の前触れもなく、言葉通り『唐突』に病に倒れた。
ただの風邪のはずなのに、高熱は一向に収まらない。
医者が、『この地域では時々こんな手の施しようのない悪性の風邪をこじらせる患者が出るんです』と首を振りながらわたしに告げる。
それが最後通告だった。
その言葉通り、夫は三日三晩うなされ続け28歳の若さでその生涯を終えた。
それから今まで……。
姉夫婦やお義父さんの励ましのおかげでわたしは名雪を一人で育て上げてこられた。
お義父さんはわたしにしきりに再婚を勧めてくれた。
あなたはまだ若いからやり直せる。息子に義理立てしなくてもいい…と。
でも、あの人のような優しくて愉快な人なんて思いつかなかったわたしは、その話をされる度に丁重に断った。
そのお義父さんももういない。
再婚を勧めて遠慮していたため、名雪にはついに会わずじまいだった。
わたしがようやく、『マダム』と呼ばれて相応の歳になり、そろそろお義父さんも再婚の話はしなくなりはじめた頃のことだ。
突然倒れてそのまま亡くなってしまったので名雪を会わせる暇もなかった。
わたしとあの人を巡りあわせた幸運の猫、プリスキン公爵は夫が亡くなった日から行方知らずとなっていた。
公爵だけあって気位の高い猫だったから、人に飼われたままでいるのは不満だったのかもしれない。
あるいは……夫の魂を連れてどこかに旅立ったのだろうか。
そんな神秘さを感じさせるほどにプリスキン公爵は真っ白な猫だった。
まるで降ったばかりの雪のように。
そう、彼から名付けられたのだ。『名雪』という名前は。
あの子が猫を愛するのは自分のルーツだから……。
そして、猫を追っていけばお父さんのいるところにいけると感じているからなのかもしれない。
わたしが名雪を抱いている側で、あの人はよく公爵を抱いていた。
だから、物心ついた名雪はいつしか猫の鳴き声に父の影を重ねるようになったのだろう。
再婚……か。
頭にちらりと浮かんだ言葉を反芻してみる。
そうね、あなたとよく似た優しくて愉快な人なら今身近に一人いますね。
あなたより少し不器用な娘思いの人。
わたしはそう思って、その人の愛娘の顔をじっと見つめる。
「何? 秋子さん」
「いえ、なんでもないです。あゆちゃん、これ持ってもらえますか? ゆっくりお願いね」
わたしは首を振って、小さなビニール袋を渡す。
「うん、任せてよ」
名雪も祐一さんもあゆちゃんのことが好きみたいですし…
月宮さんがもし言い出したら考えても悪くはないですね。
「ねえ、秋子さん」
スーパーを出てから、夕日がさす商店街を二人並んで歩いているとあゆちゃんが呼びかけてきた。
「何ですか? あゆちゃん」
「ボク、秋子さんみたいに料理がうまくなりたいなぁ、ジャムも作ってみたいよ」
目を輝かせてわたしを見るあゆちゃん。
「だったら、教えましょうか?」
「えっ、いいの?」
「あゆちゃんならきっとわたし以上においしいものを作れますよ」
「そ、そうかな?」
「ええ」
常に笑顔を絶やさず頑張るあゆちゃんにならきっとできますよ。
「うぐぅ、ボク頑張るよ」
あゆちゃんはそう言うと上機嫌で歩く速さをあげる。
早速今日の夕飯から教えてもらう気なのだろう。
ふふっ、この子ならいつかわたしの味を継いでくれるかもしれませんね。
2代目『マダム・アキコ』ですか……
あの人の残したおかしな名前。
あの時は恨みもしましたけど、今はとても大切な思い出の言葉です。
ベチッ
早足で歩いていたために雪に足を取られてあゆちゃんが転んだ。
持っていた袋から卵のパックが飛び出して地面に落ちる。
ケースの中が黄色に染まった。
幸い落ちた角度がよかったのか割れたのは2、3個のようだ。
「あらあら、まずは卵の持ち帰り方から教えないといけないかしら?」
「うぐぅ…」
泣きべそで雪を払いながら立ち上がり、卵の状況を見て慌てるあゆちゃん。
手間のかかりそうな子を後継者候補にしちゃいましたね……。
わたしは、あゆちゃんが袋に卵を戻すのを見ながらそう思って微笑んだのだった。
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