あれから2ヶ月。
 何が変わっただろう?
 街からは雪が消えた。
 それだけだった。
 あれからあゆちゃんの姿は見ていない。
 あゆちゃんは今も眠っている。
 いや、何も変わらなかったわけではない。
 あの1月30日の翌日のことだ。
 あゆちゃんの病室にあのカチューシャが戻ってきていたのだ。
 その脇には月宮さんも覚えがない天使の人形が置いてあったという。
 そして、祐一さんはその日、暗い顔をして帰ってきた。
 それが何を意味するのか、わたしにはわからない。
 ただ、これだけはわかった。
 その人形は、あゆちゃんと祐一さんの間を結ぶ大切なものなのだと。
 月宮さんもそう思ったのだろう。
 今その人形はあゆちゃんのベッドに吊るされている。
「まあ、いい夢を見させてもらいましたよ」
 月宮さんはそう言っていた。
 それは強がりでもあったし、希望のあらわれでもあった。




 そのまま春がやってきた。
 月宮さんはもうすぐこの街を出る。
 これでしばらくはこの街に戻ってくることはないだろう。
 そして、祐一さんも前向きに生きようとしているようだが、どこか元気がなかった。
 あの日あゆちゃんに月宮さんのことを教えたことは意味のないことだったのだろうか?
 祐一さんとあゆちゃんの再会は悲しみを生むだけだったのだろうか?


 いけない、いけない。
 悲しいことばかり考えていても始まらない。
 それに、今は春だ。
 生命が動き始める目覚めの季節。
 きっとあゆちゃんも春を待っていたはず。
 そのとき電話が鳴った。


「……秋子さん」
 嗚咽混じりの声で月宮さんがわたしの名前を呼ぶ。
「あゆが…あゆが…『お父さん』って…目覚めるなり…一番に…そう呼んでくれたんです」
 後は言葉にならなかった。
 よかった。
 わたしの言葉はあゆちゃんに届いていたのだ。
 思っていたとおり、あゆちゃんは月宮さんのことを誰よりも愛していた。
 ひとしきり泣いた後、月宮さんの言葉が続く。
「秋子さん、例の件……」
「了承」
 わたしは満面の笑顔で答えた。
「僕もあと1ヶ月ここに留まります。あゆの顔を見足りないですから」


 月宮さんと電話を終えたわたしはテレビをつけた。
 地元のニュースではあゆちゃんのことが流れている。
『眠り姫、奇跡の意識回復!』
 画面の右下にはそう出ていた。
 そこにいまだに涙を拭っている月宮さんが映る。
 月宮さんは約束どおり、わたしへ真っ先に知らせてくれたのだ。




 昼頃、祐一さんたちが起きだしてくる気配がした。
 確認を取ったわけではないので、少し不安だが、祐一さんはもう記憶障害から回復しているに違いない。
 あゆちゃんに託された人形がその証だと思う。
 いや、たとえ回復していないにしても、あゆちゃんの目覚めを聞いたら回復するに違いない。
 全ての原因はあの事故にあるのだから。
 祐一さんと名雪がやってくる。
 さあ、落ち着いて……
 今まで全て黙っていたとわかったら恨まれてしまうに違いない。
 それは祐一さんの記憶障害が完全に解決したときにでも、おいおい話すことにしよう。
 わたしは何でもないように二人を迎える。


 今ではすっかり家族らしくなった祐一さんにも手伝ってもらって昼食の準備をする。
 そして、昼食をはじめようと3人で席についた時、わたしは世間話のように切り出した。
「祐一さん、今朝のニュースで言ってたんですけど、知ってますか?」
「なんですか?」
 祐一さんがいつもの世間話を聞くような感じで問い返してくる。
「昔、この街に立っていた大きな木のこと」
 祐一さんの記憶障害も気になるのでここから話を振った。
「……え」
 祐一さんが過敏に反応する。
 以前、木のことを訊いたときとは大違いだった。
 予想していたとおり、祐一さんは全て思い出していたのだろう。
 わたしは安心して次の言葉を告げる。
「昔…その木に登って遊んでいた子供が落ちて…同じような事故が起きるといけないからって、切られたんですけど…」
 知っているわよね?
「その時に、木の上から落ちた女の子…」
 祐一さんの目に光が宿り始めた。
 わたしは頬に手をあてて微笑む。
「7年間戻らなかった意識が、今朝戻ったって…。その女の子の名前が、たしか…」














 それからまた1ヶ月。
 温かい日差しが水瀬家にも降り注いでいた。
 五月晴れとはまさにこんな日を言うのだろう。
「お母さん、用意できたよ」
 名雪のほうも準備が出来たようだ。
「あとは焼くだけね」
「でもこれ40個は焼けるよ」
 名雪は作りすぎじゃないか、と目で訴える。
「大丈夫よ」
「本当に?」
「祐一さんがそれくらいは食べるって言ってましたから」
 それを聞いて名雪が渋い顔をする。
「祐一ったら、さっそくあゆちゃんを困らしたいんだね……。でも歓迎会だし、これでもいいよね」
 名雪は一人で頷いていた。
 その時、インターホンが鳴った。
「あっ、来たみたいだよ」
「行きましょう、名雪」
「うんっ」


「不審人物を連行してきたぞ」
「うぐぅ、また不審人物って言う…」
 祐一さんの後ろからあゆちゃんが姿をあらわす。
「だれ?」
「うぐぅ! 酷いよ名雪さん」
「え、あゆちゃんなの? 雰囲気が全然違ってて分からなかったよ」
 名雪は本当に驚いていた。
 無理もない。
 散髪屋でカットしたような荒っぽいショートの髪に、不釣合いなくらいに大きな白い帽子。
 背丈以外はどこがあゆちゃんなのかぱっと見分からないくらいだ。
「やるな、あゆ。あの名雪に動揺を与えるとは」
「うぐぅ……わざとじゃないもん」
 でもこのやりとり。
 間違いなく祐一さんとあゆちゃんだ。
 運命の赤い糸というものがあるのなら、この二人はまさにそれによって結ばれているのだろう。
「随分思い切った、イメージチェンジをしたのね」
 拗ねていたあゆちゃんがわたしの方を見る。
「あ、秋子さん。これからお世話になります」
 ペコッと、威勢のよいお辞儀。
 3ヶ月前のあゆちゃんの姿を思い出す。
「ええ、おかえりなさい。あゆちゃん」
「おい、あゆ。どういうことだ?」
「あゆちゃんは今日から水瀬家の家族なんだよ」
 名雪があゆちゃんに代わって答える。
「そうなんだよ」
「そうなんだよって、お前家族はいないのか?」
「お父さんが秋子さんに頼んでくれたんだよ」
「お前の親父は何を考えているんだ……」
 祐一さんは状況をまったく理解できずに呆れていた。
 驚かせようと思って祐一さんには話していなかったのだから当然といえば当然である。
 そのことはみんなでたい焼きを食べながらお話することにしよう。
「あゆちゃん。たい焼きの用意が出来てますよ」
「秋子さん本当にたい焼きも作れたんだ」
 今まで何かと機会を逃していたが、これで約束のたい焼きをご馳走できる。
「わたしも手伝ったよ〜」
「うぐぅ、嬉しいよ」
「じゃあ行きましょうか」
 わたしと名雪、それにあゆちゃんはダイニングに向かった。
「おい、待て。説明をしろ。あゆ」
「まずはたい焼きだよっ」
「……ったく、仕方ないな」
 諦めて祐一さんもついてきた。




 これからこの家も明るくなるだろう。
 名雪、祐一さん、あゆちゃん、そしてわたし。
 理想の家族がそこにはあった。






【Kanon Trilogy1章『夢』 完】





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