1月30日(土曜日)


 祐一さんは目を覚まさなかった。
 学校が終わるまで家で寝ていたらしい。
 夕方近くに家に帰ってきたわたしに名雪がそう教えてくれた。
「祐一、なんだか凄く大切な約束があって今日は帰れないかもしれないんだって」
「そう」
 名雪は心配そうだった。
 そういえば、わたしは名雪にあゆちゃんのことを話してなかった。
 祐一さんのお友達が重態だ、なんて知ったらこの子は余計な心配をするだろう。
 そう思って話してなかったのだ。
 いや、わたしは名雪を傷つけるような話題にふれたことはない。
 それは名雪も同じで、決してわたしを傷つけるような話はしない。
 我ながら仲のいい親子だと思う。
 月宮さんのところとは大違いだ。
「大丈夫よ」
「え?」
 名雪が首をかしげる。
「祐一さんなんですから」
「うんっ」
 目を輝かせて、力強くうなずく名雪。
 これだけで十分意思疎通が出来てしまう親子は珍しいだろう。
 そう思うと月宮さんが少しかわいそうだった。
「名雪、わたしは夕飯の買い物に行ってくるわね」
「あ、わたしも行くよ〜」
「名雪はお留守番よ」
「どうして?」
「祐一さんが戻ってきたとき困るでしょう」
「そうだね、じゃあお母さん行ってらっしゃい」
「行ってきますね」
 名雪に見送られてわたしは家を出た。








 土曜日の商店街は人が溢れていた。
 半日で学校が終わるせいだろう、学生らしい子供達が数多く遊びにきている。
 普通なら楽しく見えるはずの光景。
 だが、今のわたしにはこの夕焼けの商店街に哀愁が漂っているようにしかみえない。
 歓声が遠く聞こえる。
 地平線に沈む夕日……
 それは一つの別れの象徴だった。
 こんなに悲しい夕焼けを見たのは初めてだ。


「秋子さん」


 その瞬間、まわりの歓声が全て消えた。
 一人の少女がわたしをじっと見つめている。
「あゆちゃん」
「秋子さん、今までありがとう。もう…会えないと思うんだ」
 あゆちゃんが悲しそうな顔をする。
 そうか、この子は自分のことを知ってしまったのか。
 そしてひとりで全てを抱えて消えようとしている。
 その証拠だろうか? あゆちゃんの輪郭がはっきりしない。
 ぎりぎりのところでこの世界にとどまっているのだろう。
「秋子さんにはお世話になったし、この街から出て行く前にお礼が言いたかったんだよ」
 作り笑いをしてみせるあゆちゃん。
 心が痛い。
 この子はわたしが何も知らないと思って、気を使っているに違いない。
 でも、わたしは……。
「秋子さん、今まで色々ありがとうございました。さようなら。ボク秋子さんのことはずっと忘れないよ」
 そういい残してあゆちゃんがわたしに背を向ける。
 そして、夕日に向かって駆け出そうとしたまさにその時。


「あゆちゃん」


 わたしはあゆちゃんを呼び止めた。
 これでさよならなんて許せない。
 たしかにあゆちゃんだって7年間ずっと待っていて辛かっただろう。
 だけど……
 月宮さんだって7年間ずっと待っていたのだ。
 これでさよならなんて
 ただ信じて待っている
 目覚めると信じて、あゆちゃんの帰るところを守っている
 そんな月宮さんに何も言わないままさよならなんて
 絶対に許すわけにはいかない。
 だから
 だからわたしは今…
 見守るという立場を初めて自分から崩した。
 そして……

「月宮さんはあなたの帰りをずっと待っているわよ」

 全ての想いをこの一言にこめた。
「うぐぅ…月宮はボクだよ」
 あゆちゃんの姿が一際大きくぶれた。
 これ以上あゆちゃんを動揺させると、あゆちゃんは霧散してしまうだろう。
 今、あゆちゃんはぎりぎりのところで自分を保っているのだ。
「また家に来てくださいね。あゆちゃんなら大歓迎よ」
「う、うん」
 あゆちゃんの姿がはっきりしてくる。
 声が震えているのは、わたしの不可解な一言に怯えているのだろうか?
 それとも、果たせない誘いに返事を返す後ろめたさか、そのどちらかは分からない。
 あるいはその両方?
 わたしは目を閉じ、首を軽く振って表情を緩めた。
 最後くらいは、この子の望むお別れをして送ってあげよう。
 ただし、わたしはまた出会えることを信じて……。
「あゆちゃん、祐一さんには会わないでいいの?」
「今から会いに行くんだよ。約束だったから」
「そう。またね、あゆちゃん」
「うん。秋子さんさようなら」
 『またね』と言ったのにあゆちゃんが応えてくれなかったのは残念だった。




 今度は、わたしからあゆちゃんに背を向けて歩き出す。
 そのとき、あゆちゃんが短い叫び声をあげた。

「あっ」

 思わず振り返るわたし。

「お…父さ…ん……?」

 目に涙を浮かべてそう呟いた瞬間、あゆちゃんの姿は消えた。
 でも霧散したわけではないようだ。あゆちゃんの気配は残っている。
 もうわたしには見えないだけなのだろう。
 最後の一言、あゆちゃんは月宮さんのことを思い出してくれたようだ。
 待っていることに気付いてくれただろうか?
 わたしはただ月宮さんの苦労が報われる事を祈るばかりだった。








 祐一さん。
 あとはお願いしますよ。

 わたしはやるだけのことをやった。
 やれたと信じたい。
 悔いがないわけではないが、あとはあの二人の問題だ。
 あゆちゃんの消えた先には、ただ赤黒い夕焼けが広がっていた。






感想いただけると嬉しいです(完全匿名・全角1000文字まで)