1月17日(日曜日)


 日曜日。
 休日の朝。
 特に理由もなかったが、わたしは家の外でのんびりしていた。
 いや、理由がないわけではない。
 あゆちゃんが通りかからないかな、という下心があったからだ。
 なぜそう思ったかはよくわからないが、前に会ったのが休日だったから、今日も現れるのではないかと考えていたのかもしれない。


 ベチッ!


「あらあら、受け身の取り方でも教えましょうか?」
「うぐぅ。秋子さん、冷静すぎるよ……」
 あゆちゃんは立ち上がるとコートをパンパンと払った。
「おはようございます、あゆちゃん」
「おはようございます、秋子さん」
 あゆちゃんはぺこっと頭を下げた。
「こんなに朝早くからどうしたのかしら? 朝ご飯はもう食べたの?」
「えーっと、多分まだだと思うよ」
 多分という言葉がズキリと響く。
 この子は自分のことが何もわかってないのだろう。
「じゃあ、わたしの家で食べていきませんか?」
 わたしは努めて冷静に誘いの言葉を切り出した。
「え、いいの?」
「あゆちゃんならいつでも大歓迎よ」
「じゃあ、お邪魔します」




 あゆちゃんに食事の用意をしていると、わたしの目にあるものが飛び込んできた。
 映画のチケットだ。
 仕事の関係で誰かからもらったものだと思うが、一体いつの物だろう?
 恐る恐る広げてみてみる。
 お米券等と一緒に置いておくんじゃなかったと少し後悔しながら。
 そして日付を確認して少し溜息。
 困った。期限切れ間近のようだ。
 そうだ、せっかくだからあゆちゃんに祐一さんと一緒にすごす時間をあげることにしよう。
 わたしはその場でぱっと思いついたことを、すぐに実行に移すことにする。
「あゆちゃん」
「何、秋子さん?」
 姿勢正しく椅子に座っていたあゆちゃんがわたしのほうに振り返る。
「映画のチケットはいりませんか? わたしは見に行く時間がなさそうなので、よかったら」
「え、いいの?」
 胸の前で手を合わせて驚くあゆちゃん。
 その声は嬉しそうだが、どこか不安そうな響きもある。
 やはり、知り合って間もないわたしが何故そんなに好意を見せるのか不思議なのだろうか?
 そう思って、あゆちゃんが納得してくれそうな理由を付け足す。
「ええ、このまま使えなくなるよりはあゆちゃんに使ってもらった方が嬉しいですから」
「ありがとう秋子さん。ボク今日行ってみるね」
 あゆちゃんにチケットを渡すと、それを手にとったあゆちゃんが不思議そうにそれを見つめる。
「あれ、2枚あるんだ」
「ええ、誰かお友達を誘ったらいいと思いますよ」
 一人で映画に行ってらっしゃいというのは、好意と言っていいのか判断に困るところだと思う。
「じゃあ、ボク祐一君を誘うよ」
 あゆちゃんは目を輝かせて言った。
 なんというか、わかりやすい子だ。
 そこがまたかわいいのだけど……



「うぐぅ、祐一君と映画。楽しみだよ」
 わたしがキッチンに戻ってからもあゆちゃんの嬉しそうな独り言が聞こえていた。
 そして朝食の途中、祐一さんが起きてきた。
 いつものようにあゆちゃんをからかっていたが、あゆちゃんのお誘いには乗ってくれたようだ。
 嬉しそうに家を出て行くあゆちゃんを見て、わたしはホッとした。
 チケットが無駄にならないでよかったと思う。



「…あゆと映画か」
 あゆちゃんを見送った祐一さんがしみじみと呟く。
「デートですね」
 わたしはとりあえずからかってみた。
 あゆちゃんばかりからかわれるのはかわいそうだ。
「変なこと言わないでください」
 祐一さんが顔を真っ赤にする。
 この顔をあゆちゃんに見せてあげたい。
「…でーと?」
 と、そこにいつのまにか起きてきた名雪が目をこすりながら会話に参加する。
「寝てろ」
 祐一さんは照れ隠しのように名雪にあたった。
 本当に昔から変わってない意地悪さだ。
「今起きたとこだよ〜」
 が、名雪は名雪で意にも介してない。
 ここはさすがわたしの娘だ……と褒めるところなんだろうか?
 名雪の話によると、あゆちゃんが玄関で転ぶ音で起きたらしい。
「よっぽど嬉しかったのね」
「いや、あいつのドジは昔からです」
 わたしはその言葉を聞き逃さなかった。
 一体、祐一さんはあゆちゃんのことをどれだけ知っているのだろう?
 あの事件を覚えているのなら、ドジなんて軽く言える言葉ではないはずだ。
「祐一さん、昔からあゆちゃんのこと知ってるの?」
 わたしは何気ないように訊いてみた。
「…そう、ですね」
 祐一さんの言葉が止まる。
 今の質問はまずかっただろうか?
 一歩間違えれば祐一さんを壊しかねないだけに冷や冷やする。
「昔の、友達なんです…。この街に居た頃の…」
「そうだったの」
 わたしはホッとして微笑んだ。
 祐一さんは思ったよりあの悲しみから回復しているようだった。
 以前はそれに関する話を聞かせることすら危険だったらしいけれど……
 だがこれ以上深入りするのは危険だ。
 そう思いながらも、わたしはあゆちゃんのためにも一言だけ言いたくなった。
 願わくば、祐一さんがあゆちゃんの想いに気付いて欲しいと思いながら……
「もしかすると、ずっと祐一さんのこと、待っていたのかもしれないわね」
「…え?」
「何となくです」
 わたしは頬に手を当てて微笑む。
 祐一さんは複雑な顔をしていた。
 だけどわたしはこれ以上は立ち入らない。
 あゆちゃんの想いに応えてあげられるのは祐一さんだけですよ。
 わたしはそう思いながら、食器を持ってその場を後にした。






















     1月18日(月曜日)


 わたしはあゆちゃんの病室にお邪魔した。
 もちろん昨日の祐一さんとあゆちゃんのデートの話をするためだ。


「はー、秋子さんも若いですね……」
「どういう意味ですか、それは?」
 わたしは少しムッときた。
 月宮さんは今までわたしをどう見ていたのだろう?
「いや、変な意味ではなくて。女子高生みたいだなと」
 そういうことか。
 人のデートの話で盛り上がるなんて、たしかに女子高生と変わらないかもしれない。
「それにしても、今日は随分上機嫌ですね。何かありましたか?」
 正直本当に気になった。
 こんなに上機嫌な月宮さんは見たことがない。
「いや、昨日ある少女に会いましてね、彼女もうちのあゆのことを気にかけてくれてるんですよ」
「それはよかったですね」
 いままで月宮さんは一人だった。
 昔はお見舞いに来ていたあゆちゃんの同級生も、事故から数年後には誰も来なくなった。
 少なくともこの3年、月宮さんは完全に孤独だったと思う。
 わたし以外にもあゆちゃんのことを気にしてくれる人がいるなら、それは相当心強いだろう。
「どんな子なんですか?」
「昨日初めてあった子なんです。なんでも街であゆにあったとかで」
「あゆって、あのあゆちゃんですか?」
「ええ、その子を病室に入れてあゆに会わせたら、街で見たと」
「話したんですか?」
「はい。なんだか他人の気がしなくて。あ、でも彼女は真面目に聞いてくれましたよ」
「そうですか」
 こんな非現実的な話を真面目に聞いてくれるなんて変わった子もいるものだ。
「秋子さん、それでですね、お願いがあるんです」
「何ですか?」
「これから、あゆに会ったらその話を聞かせてくれませんか」
「それぐらいなら喜んで。でもどうしたんですか突然」
 こないだ、あゆちゃんの話をすることを拒絶した時と比べると、随分な心変わりだ。
「その子がその話を聞きたがっているんですよ。まあ、僕だって気になって仕方ないですが……」
 なんだかますます変わった子だ。
 月宮さんの様子からすると、その子のほうが話を聞きたがっているようだし……。
「その子、かわいいですか?」
「え、そうですね、かなりの美少女だったと思いますよ」
「…………」
「ちょ、ちょっと、秋子さん。何か誤解してませんか?」
「誤解を招くようなことを言ったのは月宮さんだと思いますが……」
「うぐぅ」
「誤魔化さないで下さい」
 なんだか今日の月宮さんは本当に上機嫌のようだった。
「それでは、そろそろわたしは帰ります。月宮さん、無理はしないで下さいね」
「それは秋子さんもです。仕事もあるのに病院に来るのは大変でしょう」
「お互い様です」
 そう言ってわたしが病室を出ようとしたとき、月宮さんが呟いた。


「…せめて、遅くても春前には目覚めて欲しいですね」


「はい?」
 思わず振り返ったわたしに月宮さんは平然を装って微笑んでみせる。
 何でもありませんよ、といった感じに。
「いえ、単なる希望です」
 月宮さんは何かを隠しているようだった。
 あゆちゃんの出現に希望を持ちたくなるのは分かるが、それが春前というのは何故だろう?


「おやすみなさい」
「おやすみなさい、秋子さん」
 わざわざ言う気もないことを問い詰めるのも悪いので、わたしは挨拶して病院を去る。
 月宮さんがわたしに余計な心配をかけないように気を遣ってくれていたというのは、後日知ることだった。





















     1月19日〜1月29日


 19日、思いがけないことにあゆちゃんが祐一さんと名雪に連れられてやってきた。
 そしてあゆちゃんのいる生活が始まった。
 あゆちゃんはまるで昔から水瀬家にいるように馴染んでいた。
 そう、まるで本当の家族のようだった。
 そして、色々なことがあった。
 料理を作ろうとして意気込んだあゆちゃんが台所を無茶苦茶にしたこともあった。
 あゆちゃんと二人で楽しく買い物もした。
 祐一さんと一緒にジャムを食べてもらった。
 わたしが病気になって看病してもらったこともあった。
 そういえば、そのときのあゆちゃんの動揺は今も忘れない。
 あゆちゃんにとってお母さんがどんなに大切な人だったか改めて知った。
 このあゆちゃんがいた数日間は、かつて祐一さんがこの家に遊びに来ていた時よりもはるかに楽しかった。
 名雪とあゆちゃんはまるで姉妹のようで、そこに兄にも弟にもなる祐一さんがいるという感じだろうか。
 それはわたしの望んだ理想の家族の一つの形でもあった。


 しかし、終わりはすぐそこにまで来ていた。
 物事には必ず終わりがある。
 それは当然のことだ。
 だが、今目の前にある終わりはそんな漠然としたものではなかった。
「あゆちゃんはいつまでもここにいられない」
 そのことがはっきりとわかっているだけに、楽しい日々の後に待つ別れが怖かった。


 そしてあゆちゃんがこの家を去ってから祐一さんの様子がおかしくなった。
 泥だらけになって帰ってきたり、明らかに元気がなかったり…
 あゆちゃんとの間に何かがあったのは明白だった。
 この話を聞いた月宮さんが複雑な心境をしていたのは言うまでもない。




 けれど……
 悔しいが、わたし達には見ていることしか出来ないのだ。





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