7年前の冬。
冬休みに入る前に妻が亡くなった。
風邪で高い熱を出したかと思うとぽっくり。
あっけないものだった。
あまりにあっけなすぎて僕は泣くこともできなかった。
胸に去来したのは、えもいわれぬ喪失感だった。
正直、僕には出来すぎた妻だった。
仕事でろくに家に帰らない僕をよく見捨てないでくれたものだ。
勿論、僕も妻の誠意に応えようと、家にいる時はできる限り妻に優しくした。
あゆが生まれてからも、家族の時間をできるだけ尊重したのは言うまでもない。
もっとも、いつも一緒にいれないためか、あゆは僕を苦手としていた。
まあ、それも仕方なかっただろう。
それでも僕は努力して、7年前の夏休みにはあゆと打ち解けていた。
あゆが初めて自分から僕に抱きついてくれたのだ。
もっとも妻のいない時だけだったが…
甘えん坊のあの子のことだ。妻には毎日抱きついていることだろう。
あゆは極度のお母さんっ子だった。
いや、あんな良い母親に恵まれたゆえの喜ぶべき結果ともいえた。
それだけに、母親を失ったときのあゆといったら…目も当てられなかった。
あゆは部屋に閉じこもり、かつての腕白ぶりは影を潜めた。
そして、あゆは延々と泣き続ける病的な少女になってしまったのだ。
太陽のような少女は、まるで新月の夜を思わせる少女になっていた。
「あゆ、泣くな。お父さんがついているから」
見かねて僕は声をかけたが……
「嫌だ…お母さんがいい…」
あゆはそう言って布団に閉じこもった。
僕はこの時あゆに拒絶されたことを痛感した。
所詮は付け焼刃の親子関係だったのだ。
妻とあゆの鋼の絆には及ぶはずもない。
僕はあきらめて、あゆのしたいようにさせておいた。
そうする以外に、何もできなかった。
数日後、閉じこもりはやめたものの、相変わらず泣き止まないあゆの様子が激変した。
どこに行ってたのか知らないが、その日家に帰ってきたあゆは泣きやんでいた。
そして、僕にこう言ったのだった。
「ごめんねお父さん、迷惑かけて。お仕事に戻ってもいいよ」
「馬鹿を言うな。お前を放っておけるわけがないだろう」
「うん、でも、毎日帰ってきてお話してくれるだけでも大丈夫だよ」
あゆの目には決意の色が漂っていた。
「いいのか?」
こくん……と、あゆの首が小さく前に動く。
「ボクがずっと泣いてたら、お母さん絶対に悲しむもん」
「わかった。確かに、仕事しないと親子で飢え死にだな。けれど、夕飯までには絶対に帰ってくるからな」
しばらく研究を諦めればそれくらいは訳もないだろう。
「うん、嬉しいよ」
しかし、どうして突然あゆが明るさを取り戻したのかわからなかった。
そこで、仕事は明後日からにして、明日はあゆのあとをつけてみようと思ったのだった。
あゆは駅前のベンチに座っていた。
こんなところで何をしているのだろう?
とりあえずあゆに気付かれないように後ろの歩道橋に陣取る。
鈍いあゆのことだ
これでまず気付かれることはないだろう。
物陰にから突然現れて脅かす、この古典的な悪戯に必ずびっくりする…
あゆはそんな子だった。
しかし…これでは変質者とかわらないな。
教育者としてかなり良心が痛む。
「よお、あゆ」
あゆと同じくらいの年の少年があゆに呼びかけた。
「祐一君」
祐一という名前らしい。
後ろなのであゆの表情はわからなかった。
「じゃあ行こうか」
「どこに?」
「決まってるだろ。商店街だ」
「そうじゃなくて…商店街のどこに行くの?」
「いきなりたい焼きじゃ芸がないし、ゲーセンにでもいくか?」
「ゲーセンって?」
「ゲームセンターのことだ。知らなかったのか」
「うん」
知らないだろうな。
妻の性格を考えると、ゲームセンターなんかにあゆを連れて行くとは思えない。
となると、妻にべったりだったあゆがゲームセンターに行ったことなどないだろう。
「どんなところなの?」
「いろいろなゲームが置いてあるところだ。行ってみればわかるって」
「そうだね」
「行くぞ、あゆ」
少年はそう言ってさっさと歩き出す。
少し意地悪な性格をしているようだった。
「あ、待ってよ祐一君!」
そんな少年の後をあゆが慌てて追う。
あゆと少年はクレーンゲームに熱中していた。
なかなか取れないらしく、少年はむきになっていた。
となりであゆが心配そうにそれを眺めている。
少年はしばらく続けていたが、一向に成功しない。
少年はがっくり肩を落とすと、クレーンゲームを蹴飛ばした。
察するに、一文無しになって八つ当たりをしたのだろう。
ゲームセンターから離れようとする二人に近づくと、会話が聞き取れた。
「ごめんな。たくさん取ってやるって言ったのに」
なるほど、少年はあゆに見栄を張った結果泥沼に陥ったようだ。
「ううん。祐一君ががんばってくれたんだもん、じゅうぶんだよ」
帰路につく二人の後を追う。
商店街なので、近くを歩いてもまったく気付かれない。
「がんばって疲れたから、たい焼き食べてかえろうよ」
「たい焼き買う金、もうないよ」
「だったら、今日はボクのおごり」
早く早くと小走りに先を行くあゆを少年も小走りに追っていった。
それを眺めながら思った。
そうか、友達ができたのか……
お母さんっ子、ということもあって、あゆにはあんなに打ち解けた友達はいなかった。
そういう意味で、妻はあゆにとって鳥篭のようなものだった。
外に出て行けない代わりに、極めて安全。
妻も、あゆが自立できるのかいつも心配していたものだ。
今日のあゆは楽しそうだった。
加えて、あゆが外の世界に積極的になるのは喜ばしい傾向だ。
相手が男というのが少し気になるが…それはこの際どうでもいいだろう。
僕はもう安心して、仕事に戻ろうと思った。
だが……
今思えば、僕は軽率だった。
妻の言葉をもっと深くかみしめておくべきだった。
「あゆは目を離すとすぐに危なっかしいことをする」
「だから目が離せなくて、べったりになるんですよ。悪循環ですね」
危なっかしいこと…
まあ、階段で転んだり、なにかにぶつかったりはあるかもしれないだろう。
しかし、あゆが明るく、外向的になるならそれくらい腕白でもいいだろう。
怪我をしたら、叱ってやればいい。
僕はそう思っていた。
そして…冬休み最後の日
事故は起こった…
「……そうだったんですか」
わたしは意外に落ち着いていた。
最初の口ぶりだと、まるで月宮さんがあの事故を仕組んだようにも思えたが、何のことはない。
月宮さんは決してあゆちゃんを愛してないわけではない。
愛娘の笑顔を優先しただけだった。
わたしだって名雪が笑ってくれるなら同じ間違いをしただろう。
「僕を責めないんですか?」
「責めてどうするんです? 月宮さんは立派な父親じゃないですか?」
「どこがですか。娘が悲しんでいるときに何の力になってもやれないばかりか、拒絶されたっていうのに」
月宮さんは泣いていた。
いままでずっと自分の胸のうちにあったものが吹き出てきたのだろう。
「あゆちゃんは月宮さんを愛してますよ」
わたしは目をつぶって言った。
「なぜそう言いきれるんです? 赤の他人の秋子さんが」
「月宮さんはあゆちゃんにとって甘える対象じゃないんですよ。あゆちゃんにとって月宮さんは、生活を支えてくれる立派なお父さんなんです」
肩の力を抜き、出来るだけ表情を和らげる。
月宮さんに言ってきかせるように。
わたしの方がずっと年下だが、何故かここはそうするべきだと思って。
「ほとんど初対面のわたしに泣きつくような甘えん坊のあゆちゃんが、月宮さんには甘えようとしない。月宮さんには心配をかけたくないという、あゆちゃんの愛のあらわれだと思いますよ」
「でも僕はあゆに拒絶されました」
月宮さんは譲ろうとしない。
人間というのは難しい。
一度意固地になると、何故こんなに窓が狭くなるのだろう。
「それだけ月宮さんはあゆちゃんにとって特別なんですよ。自分のために月宮さんの生活を潰したくなかったんだとわたし思います」
「じゃあ、あゆが今、僕を無視して祐一君に会いに行っているのも愛だというんですか?」
吐き捨てるように月宮さんが言い放った。
わたしはそれにも動じず、努めて平静を装う。
ここでわたしが取り乱したら、月宮さんは明かりのない夜道に投げ出された人のようになってしまうに違いない。
「ええ、そんな体になっても、どこかで月宮さんには迷惑をかけたくないという想いがあるんですよ」
月宮さんは黙って何も言わない。
わたしは畳み掛けるように言葉を続けた。
「祐一さんは困っている人を放っておけない性格ですから。あゆちゃんも頼りがいがあるんでしょう」
そして、そこまで言ったところで頬に手を当てて微笑んだ。
二人で信じてあげませんか?
祐一さんのことを、そしてあゆちゃんのことを。
そう月宮さんに語りかけるように。
しばらく沈黙を置いて、月宮さんがゆっくりと顔を上げた。
「秋子さん、あなたは本当にいい人ですね」
「そうですか?」
「ええ、いい人です」
月宮さんも、どこにも確証も保証もないわたしの話によく耳を傾けてくれたと思う。
やはり、こういうところではわたしより大人なのだろう。
わたしには、あのくらいで気をしっかり持ち直せるかは分からない。
「秋子さん、申し訳ないですが、うちの娘をよろしくお願いします」
翳りの消えた顔でわたしをみつめる月宮さん。
わたしはそこに『父』と表現すべき力強さを見た気がする。
「了承」
それに負けないようわたしは力強く返事をした。
あゆちゃんならいつでも大歓迎だ。
「もう迷いません。僕はあゆの帰る場所を守ってやります。それが僕のあゆに対する最大限の愛なんですよね?」
ニッと歯を見せる月宮さん。
ああ、まただ。
『父』を見たと思った次の瞬間にこの人は少年らしい顔を見せる。
やはり、何か不思議な印象のある人だ。
「ええ、そう思いますよ」
一瞬、呆然としながらも、わたしは笑顔で月宮さんにそう応えた。
月宮さんはふっきれたようだ。
あとは、その希望がかなうのを祈るばかり。
わたしたちは、まだ夢の中にいる……。
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