1月13日(水曜日)
今日は珍しく名雪がちゃんと起きたのでのんびりとした朝食風景となった。
「昨日は早く寝たからね」
名雪が笑顔で祐一さんにそう説明している。
7時から7時まで、つまり12時間寝て人並みの行動が出来るのだ。
我が娘ながらその睡眠欲には驚かされる。
どこをどう間違ったらこんなに寝ていられるのだろう。
猫好きが高じて猫にでも憑かれたのだろうか?
水瀬家から猫憑きを出したくはなかったが、出てしまったものはしょうがない。
親として責任もって見守るべきだろう。
などと心の中で勝手な想像をしながらキッチンを出ていこうとした時、祐一さんがトーストに何もつけてないことに気付いた。
わたしの自慢のジャムを使ってくれないのは寂しいので声をかけてみる。
「祐一さん、ジャムをつけないんですか?」
「俺、甘いの苦手なんですよ」
祐一さんが即答する。
そういえばそうだった気がする。
「…おいしいのに」
わたしのイチゴジャムが大好きな名雪が非難するような表情で不満を漏らした。
そんな名雪は名雪で、トーストを食べてるのかジャムを食べてるのかわからないくらい、たくさんジャムをのっけている。
二人とも極端すぎだ。
しかし、マダム・アキコの名にかけても、ジャム嫌いの家族を更正させなくては。
家族にジャム嫌いがいるなんてマダム・アキコの沽券に関わる。
他の事は大概大目に見れる自信のあるわたしだが、ジャムにだけは妥協したくない気持ちが強い。
しかし……いきなり困った。
甘いもの嫌いの人にジャムを食べさせること自体が既に難問である。
まだ未完だが、あのジャムを出すしかないだろう。
「…甘くないのもありますよ?」
「ごちそうさまでしたっ」
わたしがそう呟いた瞬間、名雪が突然席を立つ。
「ど、どうしたんだ? まだ半分以上残ってるぞ」
「…わ、わたし、お腹一杯だから」
「どうしたんだ…名雪が残すなんて」
失礼ね名雪は。
そんなに動揺したら祐一さんが警戒するじゃないですか。
わたしは極力名雪に触れないように気をつけて祐一さんに話し掛ける。
「祐一さん、こんなジャムなんてどうかしら?」
祐一さんの目の前にジャムの瓶を置く。
中には鮮やかなオレンジ色をしたゲル状の液体が入っていた。
見た目は我ながら悪くないと思う。
しかし、この見た目で何故あんな味になるのかわたしにも理解できない。
試しにちょっと舐めてみたが、やはり表現に困る味だった。
「わたし、今日はこれでごちそうさまっ」
名雪はそのまま逃げるように出て行った。
祐一さんは名雪の行動を不審に思っている。
「どうしたんですか?」
祐一さんに怪しまれないよう、何でもないように話し掛けた。
もしかしたら甘いものが苦手な人には気にいってもらえるかもしれない。
なんにせよ、味覚の研究の一環として多くの人に試してもらうのは悪くないはずだ。
問題はリスクが大きいので身内以外にはとても出せないということだが。
「さぁ?」
祐一さんは名雪の不可解な行動に混乱している。
このままならうまく押し切れるだろうか?
が、惜しいところで祐一さんは名雪の後を追うことを優先することにしたようだ。
仕方ない。下手に不審の念をあおらないようにしておこう。
「いってらっしゃい、祐一さん」
とわたしは平然を装って祐一さんを見送った。
……これでしばらくジャムの完成が遅れましたね。
わたしはとても残念だった。
このジャムはわたしが生きているうちに完成するのだろうか?
そのとき電話が鳴った。
誰かしら?
「はい、水瀬です」
「えーと、綾小路という者ですが…」
「月宮さんですか。おはようございます」
「ああ、秋子さんでしたか」
「なんですか、綾小路って?」
「まさか祐一君に月宮と名乗るわけには行かないでしょう」
なぜ山田とかじゃなくて綾小路なのだろう?
月宮さんのセンスはよくわからないが、気を使ってくれていることは嬉しかった。
「今は気にしなくてもいいですよ。二人とも学校に行きましたから」
「早いですね。高校生はいいなあ真面目で」
そうだ、ここにも味見してくれる人がいたじゃないですか。
「月宮さん、ジャムはいりませんか?」
「え、ジャムって、マダム・アキコのジャムですか?」
「はい」
なぜわたしが市販のジャムをあげなければいけないのだろう?
「それは有り難い。あれ県外の人にお歳暮で送ると喜ばれるんですよ」
「…………」
それは困る。
お歳暮なんかに贈られたら、企業秘密が守れない。
もとい、被害がどこに広がるかわからないのはまずい。
「どうしました」
「いえ、なにがいいですか?」
「じゃあ、イチゴジャムとブルーベリージャムを。できたら蜂蜜もお願いします」
やはり頼れるのは身近な身内だけのようだ。
あの新作ジャムのことはもう忘れておこう。
「って、そんなことのために電話したんじゃないですよ!」
確かに、用があって電話してきた人にこっちの用件を先に伝えるというのはおかしな話だった。
「すみません、それでどうしたんですか? こんな朝から…」
「普通…その反応が最初に出るべきじゃないですか?」
なんだか呆れた月宮さんの声がする。
「あのですね、秋子さんこの前病室に来たとき何か持って帰りませんでした?」
「いいえ」
「そうですか…」
「何かなくなってるんですか?」
「ええ、カチューシャがなくなってて…」
「月宮さんのですか?」
「怒りますよ」
なにか悪いことを言っただろうか?
「どんなカチューシャなんですか? わたしはカチューシャは使いませんけど」
「…赤いカチューシャです。言っときますが、僕も使いませんよ」
なぜドスの聞いた声を出すのだろう?
こないだの狐の話といい、月宮さんは時々つかみ所のない人だと思う。
「あの事故現場に落ちていた、多分祐一君からの贈り物でしょう」
「そんなものがあったんですか……初めて聞きました」
「ええ、事故の後警察から渡されたもので。秋子さんには言ってませんでしたね」
「病室においていたんですか?」
「どうして僕が後生大事に持ち歩かなきゃならないんですか?」
月宮さんはなんだかさっきにも増して怒っている。
そんなにまずいことでも言っただろうか?
「あゆにとっては大切なものでしょうから気になって…」
「そうですか」
「しかし、あんな安物を盗んでいくような奴はいないだろうし、看護婦さんが間違って捨てたのかなぁ」
電話越しに頭を掻いている月宮さんの姿が思い浮かぶ。
どういった代物かよく分からないが、月宮さんはそのカチューシャを大事にしてあげたいらしいことだけは伝わってきた。
「まあいいか、もう一つ伝えることがあるんです」
「何ですか?」
「こっちの方が本題なんですが、春までこちらで仕事をすることになりました」
「そうなんですか」
月宮さんがこの街に長期滞在するのは2年ぶりだ。
「こっちの家はもう引き払っているし、あゆのこともありますからこれからは病院に泊まります。ですから、僕に声をかけてくれればすぐに病室には入れますので」
「そうですか。近いうちにまたお見舞いに伺わせてもらいます。忙しかったら言ってくださいね。夕飯ぐらいでしたら差し入れしますから」
「いいんですか? マダム・アキコの料理なら毎日頼みますよ」
「構いませんよ」
口ではああいってるが、実際のところ月宮さんが夕飯時に病院に帰れることなんて殆どない。
1週間に1度でもあればいいほうだ。
真面目な月宮さんのことだから、看病疲れで倒れることもありえる。
少しは甘えてもらった方が、わたしとしても安心だ。
「…………」
月宮さんからの言葉がしばらく不自然に途切れた。
「どうしました?」
「そういえば、さっきのジャムの話ですけど…」
月宮さんが懐かしそうに呟く。
「和食派だったあゆもマダム・アキコのイチゴジャムだけは好きでしたね」
「そうなんですか」
「あれはいつ作ったんです?」
「15年前です。夫と初めて作ったジャムでした。マダム・アキコシリーズとして出したのは10年前です」
「旦那さんとの思い出のジャムなんですね」
「いいえ、名雪との思い出のジャムでもあります」
「娘さんとの?」
「ええ、あの子がイチゴ好きになったのはそのイチゴジャムのせいなんです」
「へえ、初めて聞きましたよ」
「…本当はもう一つあるんですけどね」
「え?」
「いえ、なんでもないです」
あのジャム。名雪は知らないだろうけどあれは夫とわたしの夢だったのだ。
最初はただの失敗作だった。
だけどいままでにないジャムを作る、という変な意地を通して今に至っている。
改良に改良を加えて何とか食べられるモノになったのがつい最近。
別にいやがらせで名雪や祐一さんにあのジャムを薦めている訳ではない。
わたしと夫の想いを受け取って欲しいがゆえの行為だった。
伝わってはいないだろうが…。
口に出して言ってないのだから仕方がないことでもある。
名雪が訊くつもりのない話を強要するのも気乗りしなかった。
「月宮さん。あゆちゃんが目を覚ましたらジャムでも料理でも何でもご馳走しますね」
「本物のマダム・アキコに会ったら驚くでしょうね」
月宮さんが冗談っぽく笑った。
「そうだと面白いですね」
わたしも頬に手を当てて笑う。
「おっと時間だ。それじゃあ、僕はこれで…朝からすみませんね」
「いえ、行ってらっしゃい」
「はい、行ってきます」
挨拶をかわしたところで電話が切れる。
なんだか清々しい気分だ。
自分の夢を再確認して、名雪の微笑ましい思い出の余韻に浸っていた。
感想いただけると嬉しいです(完全匿名・全角1000文字まで)