1月11日(月曜日)


 夜。
 夕食を終えた後、わたしは家を出て病院に向かった。
 家を出る前、名雪と祐一さんがなにか言い合いをしているのを見かけたが、祐一さんが飄々とした顔でお風呂に向かったことから考えると、名雪が言いくるめられたらしい。
 こういうところは7年前のままね…
 と微笑ましく思いながらわたしは家を後にした。


 さすがに夜の街は寒い。
 コートを羽織っていて正解だった。
 自分としてはまだ若いつもりだが、体の方はそうでもないらしい。
 あと数年もすれば、昼間もコートが必要になるだろう。
 なんだか物悲しくなってきて、わたしは白い息を吐いた。

 あれ?

 前を見ると、名雪と同じ制服を着た子が歩いていた。
 いや、正確には駅前の広場をうろうろしている。
 うろうろというより、徘徊に近い感じもする。
 よく見ると知っている子に似ている気がした。
 似ている気がした、というのは、わたしの知るその子の雰囲気と、今前にいる子の雰囲気が全く違っていたからだ。
 わたしは恐る恐るその子に声をかけた。


「香里ちゃん?」
 すると、やはり本人だったのだろう。
 その子はこちらに振り返った。
「あ、秋子さん…?」
 どういうわけか香里ちゃんは泣いていた。
 といっても、涙の筋が見えただけで、本人は努めて冷静な顔をしている。
「どうしたのこんな時間に? こっちはお家のある方じゃないでしょう?」
 わたしがそう言うと香里ちゃんは…
「予備校です。あたしは少し希望が高いから」
 とにっこり笑って言った。
 すぐに嘘と感じたが、本人なりに何か事情があるのだろう。
 深くは訊かないでおこうと思い、
「そう、辛かったらいつでも言って下さいね。わたしでよければいつでも相談に乗りますから」
 と当り障りのないことを言っておいた。
「はい、ありがとうございます。それじゃあ、あたしはこれで…」
「さようなら香里ちゃん。また家に遊びにきてくださいね」
「あ、はい。さようなら」
 そう言って香里ちゃんは帰っていった。
 努めて冷静な顔をし続けて。


 あの子にも色々あるみたいね…
 そう思いつつわたしは病院への道を急ぐ。




 病院に近づいたとき、わたしは後ろに人の気配を感じた。
 なんだか荒い息が聞こえる。
 まさか…
 これが世にいう『変質者さん』なのでしょうか?

 肩に向かって伸ばされてくる手の気配……
 その先がわたしの肩に触れたその瞬間!
 わたしはその手を引っ張り、脇固めをきめた!


「うわっ、いたたたたっ! や、止めて下さいよ秋子さん! 僕です、月宮です!」


 ……え?
「月宮さん…?」
 振り向くとそこには息を切らした月宮さんの顔があった。
 わたしはきめていた腕を放して月宮さんに向かいあった。
「あらあら、すみません。てっきり変質者さんかと思いまして」
 月宮さんの顔が蒼白になっていく。
 変質者と間違われたことがショックだったのだろう。
「今度から先に声をかけることにします…」
 月宮さんはうなだれていた。
「それでどうしたんです?」
「それはこちらの台詞ですよ。駅から病院に行く途中、同じ方向に向かう秋子さんを見つけて走って追いかけてきたんです。一体こんな時間にどうしたんですか?」
「病院に行こうとしてたんですよ」
 途端に月宮さんの顔が険しくなった。
「名雪さんか祐一君に何かあったんですか?」
「違いますよ」
「じゃあ、お知り合いの誰かが?」
 時間が時間だけにあゆちゃんのお見舞いということは思いつかないようだった。
「お見舞いです。それと確認に」
「お見舞い……ということは、うちのあゆですか?」
 月宮さんは首をかしげている。『なんでこんな時間に?』ということだろう。
「はい。ところで月宮さん、5日は病院に行きましたか?」
「ええ、行きましたよ。そう電話で話したじゃないですか」
「あゆちゃん…どうでした?」
 月宮さんはなんだか合点のいかない顔をした。
 もっとも、合点がいってないのはわたしの問いかけの方かもしれないが……。
「どうって、どうもないですよ。いつものままです」
「…やっぱり、そうですよね」
 あゆちゃんはやっぱり病院にいた。
 昨日祐一さんと一緒にいた月宮あゆは、あのあゆちゃんとよく似ている別人だったのだ。
「そんなはずないですものね」
 確認が取れた以上、もう病院には用はない。
 わたしは帰ろうと思った。
「月宮さん、わたしはこれで帰ります。確認は取れましたから」
 そう言って踵を返したわたしを月宮さんが呼び止める。
「ちょ、ちょっと、秋子さん。お見舞いに来たんじゃなかったんですか?」
「はい、でももう時間も時間ですし」
「はい? 秋子さん何しに来たんですか?」
 首をかしげる月宮さん。
「というか、秋子さん今日はなんだか変ですよ。熱でもあるんじゃ?」
 変?
 ああ、確かにそうかもしれない。
 祐一さんの再来と、昨日の出来事でわたしは疲れていたのかもしれない。
「いえ、大丈夫です。祐一さんが帰ってきたばっかりで緊張してたみたいです」
「はあ…」
 さっきから月宮さんの頭には始終?マークが浮かんでいた。
 よっぽど今日のわたしはどうかしてたのだろう。
「秋子さんにも緊張するときがあるんですね」
 月宮さんはなんだか感心してるようだった。
 月宮さん、周りの人が聞いたら失礼以外の何物でもないんですけど。
「それでは、わたしは帰りますね。今度はもっと早い時間に来ます」
 わたしがそう言って立ち去ろうとすると…
「秋子さん、たまには一緒にお見舞いしませんか?」
「嬉しいですけど、時間が…」
「大丈夫です。僕について来てくれれば病室にもいけますよ」
 ああそうか。あゆちゃんの家族についていけば病室に入ることなどわけもないのだ。
「はい、行きましょう」
 月宮さんと一緒じゃないと、めったに拝むことの出来ないあゆちゃんだ。
 せっかくの機会を棒に振ることはないだろう。





 あゆちゃんの病室に向かう途中、月宮さんがわたしに訊いてきた。
「それにしても、病室に入れないのもわかっててなんでこんな時間に来たんです? 確認とか妙なことも言ってましたし」
 当然といえば当然の質問だった。
 が、確認が取れていた以上月宮さんに気を使う必要もなかったので、わたしは昨日の出来事を素直に話した。
 今となったらわたしの早とちりが生んだ笑い話もいいところだった。
「酷いな秋子さん。そんなに僕は信用ないですか?」
「すみません」
 月宮さんがわざとらしくむくれてみせる。
 わたしより10歳近く年上のはずだが、月宮さんは妙なところで子供っぽい。
 何故そう感じるのかは不思議だが、心は少年という感じがするのだ。
 そして、わたしは月宮さんのそんなところが嫌いではなかった。
「まあ、秋子さんの霊感のほうは信憑性がありますが」
「はい?」
 何故そっちはそんなに真剣な顔で肯定されるのだろう?
「あ、いやいや」
 手を振って『なんでもありません』のジェスチャーをする月宮さん。
 そして、わたしに改めて真剣な顔を向ける。
「今ここではっきり約束しておきますよ。あゆが目を覚ましたら、真っ先に秋子さんに連絡するってね」
「そうしてくれると助かります」
「それにしても、その子本当にうちのあゆに似てたんですか?」
 やはり親としては自分の子に似てる子のことが気になるのだろう。
 月宮さんは昨日のあゆちゃんに興味を持っていた。
「ええ、前に見た時のあゆちゃんが成長したらあれくらいだと思います」
「へえ、どんな子なんです」
「元気な、男の子みたいな女の子でしたよ」
「どんな女の子ですかそれは? マッチョなんですか?」
 月宮さんが苦笑する。
 確かに語弊が生じそうな表現だと気付き、わたしも思わず頬を緩めた。
「かわいい子でしたよ。自分のことを『ボク』というので、小学生の男の子みたいに思えるんです」
 それを聞いた瞬間、突然月宮さんの足が止まる。


「月宮さん?」


 月宮さんは睨みつける様な目でわたしをまじまじと見つめた。
「い、今、何て言いました? その子は、自分のことを『ボク』と言ってたんですか?」
「ええ」
 普段はひょうきんな月宮さんがこんな鬼気迫った顔をするなんて少しびっくりした。
 この顔で銀行に入ったら警報機を鳴らされてもおかしくない。
「あの、顔が怖いですよ」
 他の人が見たら卒倒しかねないので、一応諭しておいた。
「これは失礼」
 あわてていつもの顔に戻る月宮さん。
「ところで、その子、『うぐぅ』とか言ってませんでした?」
 うぐぅ?
 そういえば、言っていたわね。
「はい、祐一さんにからかわれるたびに言ってましたよ」
「な、そんな。それじゃ、まるで…」
 月宮さんは、またさっきの怖い顔をしたかと思うと、走ってあゆちゃんの病室の方へ行ってしまった。
 今、たまたまわたし達に会釈しようとした看護婦さんが、その月宮さんの様子に震えている。
「病院の廊下を走っては駄目ですよね」
 とりあえず看護婦さんの気持ちを代弁するように呟く。
 ……なぜ看護婦さんは怯えたように首を横に振っているのだろう?







 月宮さんに遅れること数分、わたしはあゆちゃんの病室にやってきた。
 窓から漏れる光で月宮さんが中にいることがわかる。
 わたしは扉を開け中に入った。
 目に入ってきたのは床に崩れ落ちている月宮さんの姿。
「秋子さんですか?」
 振り返らずに、膝を床につけたままの姿勢で月宮さんがわたしに話しかけてくる。
「はい」
「そんなはずないですよね。あゆはここにいるんですから」
 今度は月宮さんが、わたしと同じ妄想に囚われているようだった。
「なんなんですか、そのあゆは…」
 月宮さんは立ち上がってわたしのほうを見た。
 皮肉っぽい笑いを浮かべながら。
「うちのあゆと口癖がそっくりですよ」
「そうだったんですか」
 それはさっきの月宮さんの様子から大体想像できていた。
 わたしは物思いにふけるように頬に手を当ててベッドに近づく。
「……え?」
 我が目を疑った。
 いろいろな生命維持装置がついているが、そこで眠る少女はまさしく昨日わたしが見た少女だった。
 ずっと眠っているせいでやつれているものの、その子はあゆちゃんに間違いない。
「秋子さん? 何か?」
 わたしの異変に気付いた月宮さんがこっちにやってくる。
「わたしが昨日会ったのはこの子です」
「ええっ?」
 夜の病院に、月宮さんの声が驚くほどよく響いた。










「ものみの丘の妖狐」
「狐……ですか?」
 あれから30分。
 わたしたちは向かい合って座り、事態を把握しようとしていた。
 が、もはや現実離れした事態を把握などできるわけがない。
 単に似ているだけの他人、と片付けられたさっきまでが遠い昔に思える。
「その狐が、どうしてあゆちゃんに化けて祐一さんに会いに来るんですか?」
「彼らはいたずら好きのあくどい狐ですから」
「わたしたちを混乱させて楽しんでいるのですか?」
「どうなんでしょう。僕の調べた話では、彼らはそんな忌むべき存在じゃないという資料もありましたし」
「どっちなんですか?」
 わたしは少し月宮さんを睨みつけてしまった。
 それにしても、よりによって狐とは……月宮さんは狐と何か縁でもあるのだろうか?
「すみません。つい、いつもの癖で講義みたいになってしまいましたね」
 月宮さんは息を吐き出した。
「僕みたいな学者の分析より秋子さんの直感はどうです?」
 わたしは頬に手を当てて考えた。
 けれど言えることは一つだった。
「会いたかった」
「え?」
「あゆちゃんは祐一さんに会いたかったんじゃないでしょうか?」
 そうとしか考えられない。
 祐一さんに会ったあゆちゃんはとても嬉しそうだった。
 それを聞いた月宮さんはあごに手をやり、深く考え込むような仕草を見せる。


「生霊か……じゃあ、なんで僕には会いに来てくれないんだろう」


 何かを呟き、がっくりと肩を落とす月宮さん。
 思わず後ろから肩を叩きたくなるようなその姿に、声をかけずにはいられなかった。
「月宮さん?」
 わたしの呼びかけに対して月宮さんが顔を上げる。
 その表情はさっきにもまして厳しい。
「秋子さん、生霊って知ってますか?」
「いきりょう、ですか? 生きてる人の幽霊ですよね」
「ええ、僕は心霊研究家じゃないんで専門的なことは知りませんが……何か強い思いがある人は動けなくても、魂だけの状態で思いを遂げようとするそうです」
 そこで月宮さんは突然押し黙った。
「どうしたんですか?」
「もし、その子があゆの生霊だとすると……あゆはもう長くないかもしれない」
 それはわたしも考えたことだった。
 幽霊なら、思いが成就した時点で消滅するのが運命だろう。
 言いかえれば、思い残したことを果たすためだけの生、それが生霊だ。
 でも、どんな形であれあゆちゃんはまだ今ここで生きている。
 わたしは可能性を信じたかった。
「月宮さん…あゆちゃんは諦めてないんじゃないですか?」
 そう言ってわたしはベッドのあゆちゃんを見た。
「こんな体になっても諦めきれないから祐一さんに会いに来たんじゃないでしょうか?」

 しばらくの沈黙の後……
「そうかも…しれませんね、でも…」
 押し黙っていた月宮さんの息が荒くなる。
 そして嫌なものを振り払うかのように首を振りながら言い放った。
「こんな非現実的な話をして、それで一喜一憂して何になるんですか! もうたくさんです。そのあゆが何者かなんて僕は考えたくもありません! そのあゆが何者であれ、僕らに何ができるんですか!」
 月宮さんは吐き出すように言った。
 わたしだけにではなく、月宮さん自身にも言い聞かせているかのように。


「そうですね。もうこれ以上考えるのはやめましょう」
 わたしもこの言葉を待っていたのかもしれない。
 わたしたちには現実の生活がある。
 わたしには名雪と祐一さんを守るという現実が。
 月宮さんにはあゆちゃんのために入院費を稼ぐという現実が。
 それを放っておいてこんな非現実的なことに頭を悩ます余裕などないはずなのだ。
 わたしも月宮さんも、今はとりあえず、この『月宮あゆ』という夢から覚めたかった。


「それではわたしは帰りますね。お騒がせしてすみません」
「いえ、こっちこそ怒鳴ってすみません」
 腰を上げて軽く頭を下げたわたしに、月宮さんが深く頭を下げる。






 それでも……

「秋子さん」

 7年という停滞の澱みに初めて起きた波……

「はい」

 諦められるわけがなかった……

「もしも、もしもですよ。その子がうちのあゆだったら…」

 それがどんなに小さな希望でも……

「帰るところなんてないはずです」

 すがれるならたとえ嘘でもよかった……

「食事や宿泊等、積極的に誘ってやってもらえませんか?」

 このまま変わらぬ日々が続くことは獄死に等しい……

「ええ、あゆちゃんなら大歓迎ですよ」

 願掛けの一つくらい許されてもいいだろう……

「あゆをよろしくお願いします…」

 月宮さんは親の目をしながらそう言ったのだった。







 わたしはこの時からこの事態に対してあくまで傍観者として接することを決めた。
 もとより何かできる立場でもないのだ。
 それは月宮さんも一緒だったのだろう。
 最後の最後の一度だけ、わたしはこの立場を崩すことになるが……。





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