第三幕 エリ・エリ・レマ・サバクタニ
関東の地に夜初音という少女がいた。熱心なキリスト教徒で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。彼女は自らの名前の由来となった使徒聖ヨハネに相見えるという崇高な目的のために出立した。聖霊の導きにより幼なじみの青年を鷲とならしめ、同行者として付き添わせた。権能を授かった夜初音はその証しにより、目的を果たすための行為と旅とを続けていた。
四旬節に入ったある日のことである。東横インに泊まっていた夜初音のもとを親戚が訪れて、次のように報告した。
「大変だよ。夜初音ちゃんの両親が株で大損をして全財産を失ったんだ」
夜初音が驚く暇もあればこそ、続いて警察がやって来て、次のように報告した。
「聖夜初音さんですね? 二時間前、あなたのご両親が交通事故にあってお亡くなりになりました」
親戚と警察が帰った後、夜初音はホテルの室内でがっくりとベッドにうなだれた。鷲はおろおろと天井近くを飛び回ることしかできずにいた。
「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」
夜初音は神を非難することなく、敬虔に祈った。これはヨブ記のごとき、神が与えられた試練に違いないと考えたのだ。
すると、底なしの淵の穴が開かれ、トイレの便器から煙が立ち上り、煙の中から、一匹の大きないなごが出て来た。部屋に現れたいなごの姿を見て、夜初音の顔はひきつった。
「いなごの姿は、出陣の用意を整えた馬に似て、頭には金の冠に似たものを着け、顔は人間の顔のようであった。また、髪は女の髪のようで、歯は獅子の歯のようであった。また、胸には鉄の胸当てのようなものを着け、その羽の音は、多くの馬に引かれて戦場に急ぐ戦車の響きのようであった。更に、さそりのように、尾と針があって、この尾には……」
夜初音がふるえる声で『ヨハネの黙示録』の九の七からを口述し、途中でつかえたとき、いなごはベッドの上に到達していた。頭上で尾と針がゆらゆら揺れている。
「……この尾には、五ヶ月の間、人に害を加える力があった。いなごは、底なしの淵の使いを王としていただいている。その名は、ヘブライ語でアバドンといい、ギリシア語の名はアポリオンという」
そこまで口述を終えたとき、いなごの尾はしなり、針が夜初音の腕を刺した。そしていなごはベッドを下り、トイレへ戻ると、便器の穴から底なしの淵へと還っていった。
さそりが人を刺したときの苦痛のような激烈な痛みが夜初音の全身を襲った。夜初音はベッドの上に横たわり、シーツを引き裂いてのたうちまわった。
「夜初音ちゃん、そこまでして神の試練なんか耐えることないよ! それならまだ、神を呪って死ぬ方がマシじゃないかっ」
悲痛な声で鷲は訴えたが、夜初音は答えた。
「愚かなことを口にしないで、お兄ちゃん。神のなさることは絶対なの! 疑ってもいけないし、ましてや逆らうなんてもってのほかよ……っ!」
激痛に苦しみながらも、夜初音は神をののしるようなことはしなかった。鷲は幼なじみの少女のもがくさまを見ておられず、窓の外へ飛び出した。
夜初音は、ここが正念場と思った。ヨブは皮膚病に耐え切ることができず、嘆きと呪いを口にしてしまった。だが自分は耐えてみせる。いなごの与える苦痛は七日七晩どころか五ヶ月間も続き、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を願っても、死の方から離れていくという。
しかし、苦よもぎが本物でなかったように、これも本物の黙示録ではない。したがって苦痛が五ヶ月も続くことはないはずだ。きっと自分が信仰心と精神力で耐えられる時間に違いない。夜初音はその一念を拠り所に、激しい痛みに耐え続けた。
五時間が経過した。夜初音にとっては時が牢獄と思えるほどの時間だった。
苦痛はきれいさっぱりと失せ、今の彼女にあるのは、それまで感じたこともない、例えようがないくらいの清々しさであった。
鷲が部屋に戻ってくると、夜初音は静謐な表情で椅子に座っていた。そして、炎のような舌が現れ、彼女の上にとどまった。
夜初音は別人のような厳かな眼差しで鷲を一瞥して、言った。
「見よ、聖霊は降られた」
鷲を伴った夜初音は両親の棺の前に立った。
「お父さん、お母さん。起きなさい。立ち上がりなさい」
夜初音がそう呼びかけると、経帷子を着た両親が生き返り、棺桶を開けて出て来た。鷲は驚嘆のあまり墜落しそうになった。
両親はぽかんとして目の前の娘に訊いた。
「おお夜初音、おまえなのかい?」
夜初音は答えた。
「そうよ。このことは誰にも話さないように」
そうして夜初音は立ち去った。しばらくしてから、鷲が興奮冷めやらない様子で、ついさっき奇跡を起こしたばかりの少女に話しかけた。
「ど、どうしたっていうんだい、夜初音ちゃん! ししし、死人を生き返らせるなんて、ぶったまげたどころの話じゃないよっ」
「落ち着いてお兄ちゃん。何をそんなに驚くことがあるの。私は神の試練を乗り越え、聖霊を授かったのよ。使徒言行録では、聖霊を受けた使徒や信仰の強い弟子の何人かが、普通に死者を生き返らせているわ」
澄ました顔で言う夜初音に、鷲は言葉を失った。しかし、あれこれ考えても仕方がない、すぐに鷲は現状を受け入れた。このあたりは二次元世界にどっぷりと浸かった人間の順応性である。
「それで、これからどうするんだい」
「そのことなんだけれど……私は、試練を乗り越えて聖霊を授かったことを通じて、主から役目を与えられたのではないかと考えるわけよ」
「どういうこと?」
「たぶん今の私なら、使徒聖ヨハネにお会いすることは容易だと思う。けれど、そうしたら、せっかく授けられたばかりのしるしを失うことになる。なら、目的を果たすのはあとまわしにして、私は今の私にできるあらゆることをこの世に示してみるわ。はっきり言っておく。私は主の賜物を受けし者として、世に奇跡の数々を起こし、人々の心をひとつにしてみせる。黙示録における怒りの日が訪れるまえに、新しいエルサレムの到来、神の国の実現を準備する――それが私に与えられた使命なのよ」
オランスの姿勢で夜初音はそう言った。
鷲はびっくりして、少女の頭上を飛びまわった。
「ちょ、ちょっとまって! いくらなんでもいきなりすぎだよ。なんか夜初音ちゃんおかしいよ!」
「なに? 私の神聖なる使命を否定するっていうの?」
「いつもの夜初音ちゃんじゃないみたいだ。冷静になって、落ち着いて」
「鷲よ、どこへとなりと去りなさい」
夜初音がそう告げると、鷲は自分の意思に反していずこかへ羽ばたいていった。
やがて来る新天地に備えるため、世界中に奇跡を示さんと夜初音が進みだすと、唐突に嵐が巻き起こった。そして嵐の中からとてつもなく巨大な二匹の獣が現れた。一匹は陸に立って轟き、もう一匹は海に浮かんで共鳴した。
それを目にした途端、夜初音から仮初めの威厳が消え、愕然と身をふるわせた。
「そんな、まさか……ベヘモットに、レビヤタン?」
ここに鷲がいたならベヒーモスとリヴァイアサンと呼んだことであろう。
二匹は夜初音に敵意を向けていた。夜初音は、蒼白となって立ちすくんだ。この獣をまえにして、彼女を覆う栄えと輝きは何の助けにもならなかった。
聖書において、ベヘモットはこう記されている。
これこそ神の傑作 造り主をおいて剣をそれに突きつける者はない。
山々は彼に食べ物を与える。野のすべての獣は彼に戯れる。
聖書において、レビヤタンはこう記されている。
この地上に、彼を支配する者はいない。彼はおののきを知らぬものとして造られている。
驕り高ぶるものすべてを見下し 誇り高い獣すべての上に君臨している。
驚天動地の事態に自衛隊が出撃した。しかし、あっという間に全滅させられた。
神の傑作に睥睨され、夜初音は茫然とその場にへたりこんだ。そして大声で叫んだ。
「Eli,Eli,Lema Sabachthani(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」
ヨハネ福音書のように「成し遂げられた」などとはとても口にできなかった。ルカ福音書の「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」も同様である。
一匹の蛇が夜初音のまえに現れてあざ笑った。
「おまえに降った聖霊はわたしが与えたまがいものだ。おまえはそれに気づかなかった」
蛇はサタンだった。夜初音がいなごの苦痛を耐え切ったとき、その心の隙間に忍び込んだのだ。
サタンが姿を消すと、夜初音はがくりと頭を下ろした。
そのとき、彼方から鷲が飛んで来て、夜初音の盾になるように、ベへモットとレビヤタンのほうを向いて翼を広げた。
「夜初音ちゃんに手を出すというのなら、まず俺をやってからにしろ!」
「……お兄ちゃん?」
「さあ夜初音ちゃん、俺がひきとめているうちに逃げるんだ」
鷲の献身に夜初音は涙した。無下に追い払ったというのに、彼は神の威光に逆らってまで自分を助けようとしてくれている。夜初音は立ち上がって祈りを捧げた。
「主よ、この罪を鷲に負わせないでください。私は塵と灰の上に伏し自分を退け、悔い改めます。塵にすぎない私は塵に返ります」
夜初音がこう言うと、天から光が射し、神の造りしふたつの傑作は霞のようにぼやけて消えた。夜初音は悟った。これこそが神による本当の試練だったのだと。
少女は鷲を抱きしめて感謝の気持ちを伝えた。
主は夜初音の両親を元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。それから主は夜初音を祝福され、彼女の目的が果たされる日は近いと約束なされた。聖書において、主がアブラハムを試し、また、ヨブを試されたように、神を畏れ、敬虔であることが最も大切なのだ。
「お兄ちゃん、旅の終わりは近いけど、頑張って付き合ってくれる?」
「めずらしく素直だね。それはそれで夜初音ちゃんらしくないなあ」
「うっさいわね。さすがに今回ばかりは私に問題があったし、お兄ちゃんにはほんとに感謝してるんだから。あっ、勘違いしないでね。私がお兄ちゃんに恋愛感情を抱く展開はありえないから」
「いや、それは俺のほうから願い下げだよ」
夜初音は鷲をにらみつけて言った。
「鷲よ、どこへとなりと去りなさい」
「とんでもない。たとえ俺がそうしたくなっても、神がそうはさせないでしょう」
「この偽善者!」
こうして、謙遜な争いを続けながら、夜初音は十字を切ったのだった。
キリストの賛美のために、アーメン。