第二幕 エッケ・ホモ
二月十四日。夜初音は町中に広がる微妙に甘ったるい雰囲気を冷めた目で見ていた。
「まったく、以前より衰えたとはいえ、聖バレンタインの祝日を恋愛と絡めてチョコレート会社の宣伝広告に浮かれ騒ぐなんて、ほんとうに滑稽だわ。だいたい日本人はクリスマスも降誕祭という言葉の意味を気にもかけないし、降誕節、公現祭なんて知らん顔。おまけに最も重要なイースター(復活祭)に関しては習慣すら浸透してないんだから」
「でもバレンタインデーって、その名前の聖人にちなんだ由縁があるからできた行事なんじゃないの?」
肩にとまって言う鷲に、夜初音は呆れたように首を振った。
「あのね、サンタクロースの原型が聖ニコラオスにあるのはそれなりの理由があるけど、聖バレンタインと恋愛は露ほども関係ないの。そもそも聖バレンタインの祝日に恋人たちが贈り物を交わす習慣が生まれたのは中世末期のことだけど、その起源は同じ季節に行われていたルペルカリアっていう古代ローマの豊穣祈願祭にあるとされているのよ。そのへんの民間伝承と古代の祭祀が結びついてひとり歩きしたのがバレンタインデーなわけで……まあ、事の起源はともかく、結果として信仰の道に外れていないのなら認めようってことでキリスト教会は容認したの。それが日本ではこの有様。もっとも聖人は寛容であろうから、現代人の崇敬や行事にはおだやかに微笑してくださっているとは思うけどね」
自分から話題を振っておいてなんだが、陽性は聖人とバレンタインデーの関係についての薀蓄には関心がなかった。
長台詞にうんざりした鷲は方向性を変えることにした。
「ところで、夜初音ちゃんはいわゆる本命チョコを贈りたい相手とかはいないのかい」
「露骨にハンドルを切り替えたわね」
「いや、その、やっぱ俗物的だって怒る? あ、でもキリスト教は愛の宗教だって言ってたよね。えーと、愛は神から出るもの、神は愛だっけ」
「キリスト教の愛に相当するものは仏教における慈悲の心よ。でも、神が『産めよ、増えよ』と言われた以上、男女の愛が崇高なものには違いないわ。たとえ人の原罪が女にあってもね」
もちろん、崇高あるいは純粋といえる愛に限るけど、とつけ加えることも忘れない。
「とはいえ私の恋愛対象は、聖人のように敬虔で高徳なカトリックの教徒なんだけど、現代を見渡すとそういう人って殆どいないのよね。昔の立派な諸聖人様が現代にいてくれて、愛を求めてくれたらよろこんでお受けするけれど、そんな都合のいい話があるわけないし」
「じゃあ夜初音ちゃんはなんのために使徒のヨハネに会うつもりなんだい?」
「ただお会いしたいからよ。お姿をこの目で拝見して、お言葉を授かりたい。それだけよ」
彼女にとって使徒聖ヨハネは、ただただ崇敬の念のほかに何もなかった。
そして現実において、自分の恋愛観に見合う人物のいないことに、夜初音は溜息を吐く。
「私にもエヴァンゲリオンがこないかしら……」
「知らなかった。夜初音ちゃんがロボットに乗りたいだなんて」
「社会現象になった、聖書要素盛り込んだアニメのこと? 違うわよ。エヴァンゲリオンっていうのは福音のことで、良い知らせ、吉報を意味する言葉なの」
そう言ってまた溜息をつき、夜初音はしばらく澄んだ蒼穹を眺めた。「ルネサンス〜人間への讃歌」のメロディーが流れそうな雰囲気であった。
「『持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい』――を実行するには忍びない世の中だし、巡礼をしたほうが旅の目的が叶うかもしれないわね」
「聖地巡礼なら秋葉原でも可能だよ?」
夜初音は鷲をにらみつけた。鷲は黙った。
「キリスト教にとっての巡礼は、信仰の強化、墓所や聖遺物などへの参詣、罪の償い、感謝の祈りとか、様々な目的をもって聖人ゆかりの地を訪ねることなの。だから私の場合、使徒聖ヨハネにお会いすることが目的だから、パトモス島に向かうべきかしらん」
パトモス島はエーゲ海に浮かぶギリシャの小島で、ヨハネがキリストから黙示の啓示を受けた場所とされる。かつてローマ帝国はこの島を流刑地として用い、ドミティアヌス帝によって島に流された使徒ヨハネが啓示を受けて『ヨハネの黙示録』を著したとキリスト教では伝統的に受け止められてきた。黙示録の序文と挨拶においては、神がキリストを通じ、キリストが天使を通じてヨハネに伝えたものと記されている。
「夜初音ちゃんってパスポート持ってたっけ?」
「人はパンのみに生きるにあらず、よ」
「誰もそんなこときいてないんだけど……そうか、イエス様を見習って、詭弁を弄してるんだね!」
「あのねお兄ちゃん、私をバカにするのはものすごく腹立つけど、イエスを侮辱するのは許せないわよ。たとえイエスが『人の子に言い逆らう者は赦される』と仰っていてもね。まあ現教皇ベネディクト十六世は「ジョンレノンの発言――キリストより俺らのほうが人気がある――は怒りではらわたが煮えくり返ったが、もう死んだし、所詮身の程を知らない若造の世迷言と思い直したのでもう許した(意訳)」と言っておられたけど」
「魔王顔でオーラ全開の法王さま怖いから謝ります。で、なんでパンのみに生きるにあらず?」
「うっさいわね。小腹がすいたからパンを食べようって言ってるのよ」
公園のベンチに座った夜初音はバックパックからパンを出した。
「これはキリストの体である」
夜初音がパンを分ける動作をすると、一切れのパンがふたつに分かれた。夜初音は片方を傍らの鷲に与えた。鷲は驚嘆を隠せなかった。
「す、すごい! 夜初音ちゃん、いつからこんなことができるように!?」
「信仰の成せる業よ。真の信心があれば小さな奇跡くらい起こせるの」
パンを食べ終わると、夜初音はペットボトルを出した。
「これはキリストの血」
夜初音が赤茶けた杯に液体を注ぐと、ミネラルウォーターが赤褐色の液体に変わった。そして甘酸っぱく渋みのある風味で喉を潤した。鷲もそれを飲んだ。
「わお、たぶん上質のワインだ」
「こういうときは、ぶどう酒と言いなさい」
「夜初音ちゃん、こんなことできるなら聖女になれるんじゃ?」
鷲が何気なく口にすると、夜初音は怒った。
「これは私が崇高な旅に出たがゆえに主から授けられたささやかな権能にちがいないから、目的が果たされれば消えてなくなるはずよ。『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい』――」
街中を歩いていると、正面に青い目をした三人の人が立っていた。夜初音は驚いて駆け寄ると、どうか私にお食事を奢らせて休息を提供させてくださいと頼み込んだ。それから鷲に向かって、この近くにどこか丁重なもてなしの喫茶店はないか訊いた。
夜初音と三人は鷲に案内された店に入った。
「お帰りなさいませ、お嬢様、ご主人様」
そこはメイド喫茶だった。夜初音はものすごい形相で鷲をにらみつけたが、引き返すわけにもいかず、三人とテーブルを囲んだ。
三人の一人が鷲に目を向けた。
「おまえが人間の姿に戻ったら、数年内に職を見つけ、お笑い芸人になるだろう」
夜初音がきょとんと目をぱちくりさせ、鷲は思わず笑った。
「なぜ鷲は笑ったのか。なぜ無職ニートの自分が芸人になれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか」
鷲は恐ろしくなって発言を打ち消した。
「俺は笑ってません」
「いいや、笑った。ではおまえの芸名はイサクだ」
イサクはヘブライ語でイツハークといい、「彼は笑う」を意味する。
それから三人は席を立ち、一人が夜初音を振り返って言った。
「わたしが約束することをおまえに隠すことがあろうか。夜初音よ、おまえがこの先に待ち受ける試練を乗り越えることが出来れば、おまえの目的は果たされるだろう。その後、おまえの望みも叶うだろう」
三人は立ち去った。メイド店員が見送って頭を下げた。「いってらっしゃいませ、ご主人様」。
主に賛美と栄光が世々にありますように、アーメン。
自然を眺めに丘へ行くと、突如として地響きが起こり、地割れから一人の男が姿を現した。
「わたしはかならず竜を殺す!!」
その男はウェーブのかかった長髪で、顎鬚を生やし、上半身裸で、長いマントを背中になびかせていた。
「夜初音よ、よくここまで来た。見てのとおり、わたしは天からくだってきたイエスだ」
「え……いまおもいっきり地の底からせり上がってきたような」
「夜初音よ、なぜうたがうのだ。わたしはイエスだ。わたしは竜をたおすため復活した」
「いや、「なぜうたがうのか」と言われても……」
あなたが変なオッサンにしか見えないからです――夜初音は心の中でつぶやいた。
まるで説得力がない自称イエスの男の言葉を考えるなら、彼の言う「竜」とは、『ヨハネの黙示録』にある竜に間違いないだろう。火のように赤く巨大で、七つの頭と十本の角があり、その頭に七つの冠をかぶり、天の星の三分の一を掃き寄せる竜。年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者。かつては神の使い、裁く者として存在したものなのに。
「夜初音ちゃん、イエス様だよ! すごいなあ」
「Ecce Homo(この人を見よ)」
夜初音はイエスと称する男を指差した。
「お兄ちゃんの目は鷲になっても節穴なの? こんなのがイエスのわけないでしょ!」
アンチ・キリストは人の子として生まれ、メシアの姿で現れるという。ならば打ち倒さなければならない。夜初音は聖書を繰って、サムエル紀上の十七の四九に目をやった。
夜初音はバックパックからパチンコを取り出すと、近くにあった手ごろな大きさの石ころを拾ってセットし、構えた。
ふしぎな ちからが くわわる くわわる!
あんち きりすとを たおせ!
夜初音はパチンコで石を飛ばし、自称イエスの額を撃った。石は自称イエスの額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。これが本物のイエスであれば夜初音は「さまよえるユダヤ人」の運命を背負うことになっただろうが、たちまち男の体は黒い翼を生やした恐ろしい悪魔の姿と化して、逃げるように飛び去っていった。
「神は立ち上がり、敵を散らされる。神を憎む者は御前から逃げ去る。煙は必ず吹き払われ、蝋は火の前に溶ける。神に逆らう者は必ず御前に滅び去る。神に従う人は誇らかに喜び祝い、御前に喜び祝って楽しむ」
詩編六八によるダビデの詩の一節を詠い、夜初音は神を賛美した。神の御力がアンチ・キリストを追い払ったのだと理解したからだ。
鷲が肩にとまった。夜初音は満足げに十字を切った。