これは夏も終わりに近付いた、常盤村でのある日の出来事――
あぜ道を、さんさんと降り注ぐ太陽。
その熱波をもってして地上を睥睨する陽光は、その周囲一帯に日陰をつくることを許さない。
加えて一片の街灯すら存在しないが、これは夜になれば静謐無音たる星々の煌めきが生を謳歌するため、不必要であるといえる。
さて、そんな猛暑の最中を、リン、と涼しげな音色が流れていた。
黒い、大きなもの。
帽子と形容されるそれの、左右の端から響く鈴の音であった。
陽光を受けてなお輝く、麗かな銀の髪をした少女。
小柄な体躯を覆うマントは、吸血鬼か魔法使いにも思える漆黒ぶりである。
「ううーん、と」
桜色の唇から漏れるのは少女らしく、清廉とした、明るく甘酸っぱいような囀り。
手には一冊のスケッチブックと、一本のボールペン。
少女の紅玉色を髣髴とさせる瞳が映すのは、スケッチブックの中の一枚に描かれた未完成の地図。
上の方に、「探検発見ボクの村」と明記されている。
さらさらと流れるボールペンのペン先が、その世界に「あぜ道」という名前の新たな空間を創造し終えたところだった。
「これでよし♪」
満足げに笑顔を綻ばせる少女。
ぱむ、とスケッチブックを閉じて左腕に抱える。
「そろそろ帰らないと、ちーちゃんたちに悪いし」
つぶやいて、帰路を辿ろうとした、そのときだった。
少女の眼が風のように歩く大男の姿を捉えた。
長い年月を重ねた樹林ほどに濃く、また、驚くべき長さをたくわえた白ひげ。
それは明らかに異国の人間であった。
「あっ!」
その光景は、衝撃という名の矢となって少女の心を貫く。
遠い昔に、アルキメデスから聞いたことがある。
あまりにも酷似していた。
汗をかきながら、長い歩幅で歩く男は、今にも少女の傍を通り過ぎようとするところだった。
「ねえ、立ち止まってボクとお話しようよ」
少女が言った。
「私には時間がない」
足踏みしながら男が答えた。
この国で生まれたのではと思わんばかりの流暢な日本語だった。
伝説が本当のものであるならば――それは疑問符すら浮かばない当然のことなのだ。
「……」
問答はそれで終わった。
男の姿が彼方へ遠ざかっても、少女は微動だにできなかった。
刹那? それとも永遠?
実際にはそれほど時間は経っていなかっただろう。
やがて、少女は駆け出した。
暑い、暑い日差しの下。
そよ風に乗って何処へ流れる、鈴の音よ――
「駄目だよ、お兄ちゃん。まだお嬢ちゃんが帰ってきてないよ?」
「あ、ああ……そうだな」
妹――稲葉ちとせに窘められ、宏はテーブルの上に広げられた焼きもろこしの山に伸ばしかけた手を引っ込めた。
別段好物というわけでもないのだが、焼きたての表面から漂う、甘く香ばしい匂いと、たっぷりと塗られた醤油の煌めきが脳髄を刺激する。
何と形容すべきか、不思議な食べ物である。
この世はすべて不可思議に満ちている――――
そんな言葉が頭の中で通り過ぎ、宏の眼は、ちとせの近くに寝転んでいる黒い物体に逸れた。
奇天烈な風貌の黒猫。
アルキメデスという名前の、今はもう喋らないぬいぐるみ。
「……」
いかなる感慨が脳裏をよぎったか。
ただひとつ言えるのは、「彼」のおかげで妹の今があるという事実。
成就された願いのためにも、この日常を決して崩してはいけない。
「ところで、華子お姉ちゃんは?」
「んー、野球の実況中継でも見てるんじゃないか?」
確か今頃は坂神の試合がやっているはずだ。
宏がひとりで頷いたのと、ほぼ同時だった。
バタン、と。
勢いよく開かれたドアは、鈴のついた帽子をかぶった銀髪の少女を吐き出す。
それは紛れもなく、お嬢だった。
「お嬢ちゃん、おかえ……り?」
ちとせの後尾のアクセントが狂った。
お嬢の手には、何故か藍色の衣装箱が――
「んしょ……」
肩で息をしながら、衣装箱を床に下ろす。
ひとつ深呼吸をしてから、きょとんとする稲葉兄妹の方を向いて、
「大変だよ! ボクね――」
何やら言いかけたお嬢の視線が、テーブルの上の「宝石」に吸い付いた。
「焼きもろこし〜♪」
ルビーのように赤い双眸をきらきらと輝かせ、お嬢がテーブルの向かい、宏とちとせの正面に腰を下ろした。
「お嬢ちゃんのために用意したんだよ」
「ありがとー」
顔をほころばせて焼きもろこしに手を伸ばそうとしたお嬢に、宏が待ったをかけた。
別に先ほどの報復というわけではない。
「おい、お嬢。今何か言いかけてなかったか?」
とりあえず衣装箱のことには触れないでおいた。
何か嫌な予感がしたからだが、このとき既に運命の歯車が――
時を告げる振り子のようにゆっくりと、カチカチと回り始めていたのだ。
「あっ」
ハッとしてお嬢が顔を上げた。
期せずして「赤」と「鳶色」が重なり合う。
「そう、大変なんだよ。ボクね、会っちゃったんだよ!」
「バートリ・エルジェペト伯爵夫人にか?」
「違うよ〜」
違ったらしい。
隣でちとせも首をかしげているぞ。
「イザアク・ラクデム・アハスヴェロスにだよ」
「……」
今度は二人して首をかしげた。
お嬢の口から出てきたのは、見たことも聞いた事もないような名前だった。
とりあえずカタカナ語ということで、外人らしい事だけ分かる。
ちんぷんかんぷんといった表情の二人を見て、お嬢がその大きな目をパチクリとさせた。
「知らないの? 伝説の「永遠のユダヤ人」を」
お嬢の話によると(実際はアルキメデスから聞いた話らしいが)、それは次のようなものらしかった。
十字架を負ってゴルゴタの丘へ向かうイエス・キリスト。
その彼に、ひとりのユダヤ人が石を投げて嘲笑した。
だがその報いはすぐに訪れた。
神の罰を受けた彼は、死ぬことも休むことも許されず、最後の審判の来る日まで、永遠に世界を彷徨い続けなければならなくなったという。
そして、そのユダヤ人こそがアハスヴェロスであった――
「……お、お嬢ちゃん?」
さすがのちとせも困惑気味だ。
というより、話が突拍子すぎだった。
何だか妙な方向へ向かっているような気がしてならない。
こういう場合、どうしたらいいのか?
そしてお嬢は言った。
「だから、ボクとあなたと、ちーちゃんとで、あの人を休ませてあげようよ」
「……焼きもろこし」
宏がすっと焼きもろこしを差し出した。
「わあ♪」
途端、それまでの空気を嘘のように氷解させて、お嬢は嬉々として黄金色の宝石にかぶりついた。
「ほら、ちとせ」
「う……うん」
ぽかんとしながら、ちとせも焼きもろこしを受け取る。
そして、宏も自分の分を手に取った。
「美味しいね〜」
「うん、美味しいね」
満面の笑顔を見せるお嬢。
ちとせもそれに合わせて、にっこりと笑った。
ああ、幸せな光景だ――と、宏が思ったかどうかは定かではない。
「――――って、違うよ〜っ」
お嬢が困り顔であんぐりと口を開いたのは、テーブルの上の焼きもろこしが空になった後であった。
気付かずに平らげる方も問題あると思うが。
「あのな、お嬢。そんな非現実的な話が本当にあるわけが……」
言いかけて、止まった。
生きた「証拠」が目の前にいたからだ。
さらに宏自身も「内野」にいたのではなかったか。
「……」
重なり合う二つの瞳。
やがて宏は、ふうっと息をついて目を伏せた。
「わかったよ。そのユダヤ人とやらを休ませてやろう」
「ありがとうっ!」
お嬢が宏に元気よく抱きついた。
「お、お兄ちゃん?」
「ちとせ、お嬢の好きなようにさせてやらないか?」
意外にも真摯な眼差しに、思わずちとせの頬が赤くなる。
そして、嬉しそうなお嬢の姿を見て、小さく頷いた。
「うん……そうだね」
ああ、妹よ――――
「それじゃ、そういうことで♪」
意気揚々と、鈴の音がドアの近くで鳴った。
そこにあるのは、例の衣装箱。
そうだった。
気にしないようにしていたのだが。
何が入っているのか、お嬢がごそごそと藍色の包みを開く。
果たして、中から出てきたものは――
「ううむ……」
宏は唸った。
神父の服装をしている自分を鏡に映して、小首を捻る。
やはり似合わない格好はするものじゃない。
「わー、ちーちゃん可愛いよ〜」
「そ……そうかな」
振り向くと、お嬢とちとせがシスターの服装に着替えていた。
さすがにフードはかぶっていないが、やはりお嬢の帽子はそのままだった。
シスターの服にその帽子は、すごい違和感があるな――そう思わざるを得なかった。
「ボクとちーちゃん、似合ってるよね♪」
「……もうちょっと萌え度の高い服装だったらな」
「え?」
「なんでもない」
別にコスプレを期待しているわけじゃない。
――断じてない。
「メイド服とかナース服とか巫女服とかの方がよかったかな?」
「聞こえてるんじゃないか」
どこでそんなこと覚えた。
それにお嬢のメイド姿なら数週間前に「なると」で見ている。
しかしナース服はいいかも知れない。
巫女服は少し似合わないような気がする。
いや、そんなことはどうでもよかった。
つまりは何故こんなことをしているか――である。
話によると、永遠のユダヤ人は十年に一度しか立ち止まって休むことを許されていないらしかった。
さらに、五分間だけという条件付きで、尚且つキリスト教徒が席を与えなくてはいけないというのだ。
そういう理由により、お嬢の持ってきた衣装箱の中に入っていたのが、神父とシスターの服だったわけだ。
服装だけ真似ても問題ないのだろうか――
この十年間に既に休みを取っていたらどうするのだろうか――
そんな疑問も浮かぶが、それで駄目だったら仕方ない事だ。
宏はただ、お嬢の思うとおりにさせてやりたかったのである。
夕刻。
灼熱の陽光は、郷愁の想を誘う茜色に変貌を遂げ、空一帯はオレンジに染まっていた。
あの彼方に、誰も知り得ぬ、遠い「世界」があるのだろうか。
成程。
なれば「永遠」とも「悠久」とも思えるのも無理はない。
現実に見えるものだけが世界の全てでは決して有り得ない。
そんな、ある種、幻想的ともいえる世界の中を、宏たちは歩いていた。
「……」
やっぱり、この格好で外を出歩くのは恥ずかしかった。
傍らを見ると、ちとせも同様らしく、少し気恥ずかしそうだ。
まあ、さっさと目的を果たして帰ろう。
「ところでお嬢。そのユダヤ人はどこにいるんだ?」
「ん〜、知らないよ」
「……は?」
予想外の返事に、一瞬、言葉がつまる。
てっきり知っているとばかり思っていたのだが。
何やら雲行きが怪しくなってきたような気がした。
「知らないって、こんな聖職者の衣装まで用意してきてか?」
「まだ会ってから、そんなに時間が経っていないから大丈夫だと思うよ。それにね……何か絶対に邂逅できるような気がするんだ♪」
邂逅なんて、えらく大層な単語が飛び出してきている。
「じゃ、俺はこれで――」
「わわっ、どこいくの!」
くるりと踵を返す宏に、慌てるお嬢の声。
「俺は帰るから、後は好きなようにやってくれ」
さすがに今どこにいるかもわからない見知らぬユダヤ人を、あてもなく探索するのには付き合っていられない。
とっとと帰路に着こうとした宏の腕が、背後から引っ張られた。
「一緒に探そうよ〜」
「あのなあ」
「ちーちゃんだって、一緒に探そうって言ってるよ?」
「え――」
いきなり自分に振られ、ちとせは思わず「こくん」と。
「ほら、頷いた♪ 頷いた♪」
「お嬢、ちとせをかどわかすんじゃない」
「お兄ちゃん。それじゃまるで、お嬢ちゃんが人攫いみたいだよ」
ちょっと収集がつかなくなってきたかも知れない。
こういうときにこそ、事態を解決させる救世主――メシアが降臨すると相場は決まっている。
そのとおり、ちとせが遠くを指差した。
「あれ? 華子お姉ちゃん――」
いや、華子はメシアという柄じゃないだろう。
想像して、あまりのミスマッチに吹き出しそうになった。
「って、馬鹿なこと考えてる場合じゃないな」
確かに、ちとせの指差す先に、見慣れたショートカットの女性がいた。
問題はそれではなかった。
華子は驚くほど背の高い大男と会話しながら歩いていたのだ。
それも一メートルもの長さの白ひげをたくわえた外国人と――
ちとせの「あれ?」という疑問符の意味は、そこにあった。
「あーーっ!!」
続いて、お嬢が大声を響かせる。
「お、お嬢ちゃん、どうしたの?」
「あの人だよ、アハスヴェロス!」
「なにっ!?」
宏の顔に驚愕の色が浮かんだ。
まさかそんな展開。
あまりにもご都合主義すぎないか?
それに何故、華子が?
千夏のときみたいに「オッケー」という感じなのだろうか?
次々と湧き上がる疑問。
「とにかく、行ってみようよ」
「そうだな」
考えていても仕方がない。宏たちは華子とユダヤ人のもとへ向かって駆け出した。
夕焼けに照らされて疾走する三人だが、服装が服装なだけに、何ともシュールな光景でもあった。
名前を呼ばれ、振り向く華子。
走ってくる、見知った三人の姿が映った。
そして――
「……で、さっきの試合だけど」
何事も無かったように、隣のユダヤ人との会話を続けた。
「豪快に無視するなっ」
ようやく追いついた宏が、ぜいぜいと息をきらす。
そこで、やっと立ち止まる華子。
瞳から半分ずれた眼鏡が、夕陽を受けて、きらきらと反射する。
「言っとくけど、変な宗教の勧誘ならお断りだから」
「……」
言い返せないのが何かすごく悔しい。
「好きでこんな格好をしてるわけじゃないぞ」
「いいんじゃない? それはそれで面白いしね」
おいおい、と心の中で突っ込む。
さすがは坂神買収を企てたことのある女だ。
「ね、ねえ、立ち止まって平気なの!?」
「おや、君はさっきの」
いつの間にか、お嬢がユダヤ人に話し掛けていた。
そういえば「キリスト教徒が席を与えないと立ち止まれない」とか言ってた割に、何か平然と足が静止している。
「あんた、お嬢ちゃんと知り合いだったの?」
「いや、さっきすれ違っただけだが」
「ちょちょ、ちょっと待て。話がつかめないぞ? 一体どういうことだ。そいつは何者なんだ?」
たまりかねて宏が問い掛ける。
しかし、華子とユダヤ人はきょとんと顔を見合わせた。
「何者って……私の知り合いで、英会話の講師よ。生徒からは白ひげ先生って呼ばれてるみたいだけどね」
きっぱりと言い放った華子の横で、顎を軽く上下させるユダヤ人。
英会話の講師?
「で、でもさっき「私には時間がない」って」
「ああ、坂神の試合中継が迫っていたからな」
食い下がるお嬢に、淡々と答えるユダヤ人。
「私は坂神ファンでね。華子さんとは気が合うので、たまにこうして試合の話をしているのだ」
坂神ファン?
「…………」
宏のジト目と、ちとせの困ったような視線が、何ともいえない雰囲気を醸し出しながら、お嬢に注がれた。
「おい、お嬢」
「ん〜と……」
そしてお嬢はこう言った。
「誰にでも勘違いはあるもんだね♪」
「間違いですませるなあぁぁぁーーーーっ!」
絶叫と同時に「よしなさいってチョップ」なるツッコミを発動させる稲葉宏。
「わわっ」
びっくりして、すんでのところで回避するお嬢。
空を切った右の手刀は、滑らかな放物線を描いて、その傍にいたちとせの顔面へ――
びしぃっ。
ゆらり、ゆらり、と――
それはあたかも幽明の境に揺れる陽炎のように。
少女の身体が、どさりと崩れ落ちる。
刻に忘れられた哀しい人形を思わせるほど、儚く、可憐だった。
愕然とした表情で、宏は妹を抱き起こす。
ちとせは、震えるような眼差しで、精一杯の笑顔を燈しながら、
「お、お兄ちゃん……それでも……それでも地球は回ってたよ?」
それが、稲葉ちとせの最後の言葉だった。
「ちとせえぇぇぇーーーーーっ!!」
骨が折れそうなほどに、強く、強く、ちとせの小さな身体を抱きしめながら、宏は天に向かって叫んだ。
オレンジから、赤黒く変色していく世界――
まるで、空が泣いているようだった。
「ちとせ……誰が、誰がこんなことをっ!!」
「お前よ、お前」
ごすっ。
華子の「祝★坂神優勝チョップ」の直撃を、まともに後頭部に喰らった宏は、ちとせに覆い被さるようにして意識を失った。
夕暮れの空、どこかで鴉の鳴き声が響いた――――
かくして事件は解決した。
しかし、これはただの伝説だったという訳でもないのだろう。
死神がこの世に存在するのだ。
神の罰を受けた「永遠のユダヤ人」だって、千年以上経った今もなお、この世界のどこかを彷徨い続けているのかも知れない――
数日後。
あれから何事もなく平穏な日々が続いた、ある日のこと。
宏とちとせは、のんびりと西瓜を食べていた。
世はすべて事も無し。
そんな言葉が浮かぶくらいに、長閑な空気を楽しんでいるときだった。
否応もなく、ドアは開いた。
肩で息をしながら、少女が手に抱えていた衣装箱を床に下ろす。
「……」
その光景は、宏とちとせに「B級ホラー映画のラストシーン」を思い起こさせた。
そして、少女の唇が、ゆっくりと開かれた。
「大変だよ。ボクね、今度は「さまよえるオランダ人」に会っちゃったの!」
――――――――夏はまだ終わらない。
(了)