…………。
 ……。


「奥さんの本当の名前は何ですか?」
 手帳を閉じて、静かにテーブルに置いた栞ちゃんが顔を上げて訊く。
「やまね、『月宮やまね』だよ」
 それを聞いて栞ちゃんはくすっと笑う。
「狐さんなのに『やまね』なんですか?」
「あゆを見ていれば分かるだろう、やまねがどんな性格だったか」
「あはは、そうですね。分かる気がします」
 『やまね』とは山に住むネズミやリスに似た、握りこぶしにも満たないサイズの小動物だ。
 木の洞で毛玉のように丸まって冬眠することから『鞠鼠』とも呼ばれる。
「あゆが生まれた時、『あたしが山女って名前だったら生臭い家族だね』って言ってたのが今でも忘れられなくてね」
「ああ、山女さんなら全員川魚ってことになりますね」
 僕の名前は鮎太、そして娘があゆ、妻の名前はやまねだ。
「『恵』というのは何だったんでしょう?」
「ああ、それは男の子でも女の子でもいいように考えていた名前の一つだったんだ」
 もっとも、徹夜で考えていた名前だったのに、あゆが生まれるとあっさり破棄されてしまったのだが。
 そう言うと栞ちゃんは『そういうこともありますよ』と笑ってくれた。
「でも、どうして名前を変えたりしたんですか? それに奥さんの容姿も違ってますよね?」
 栞ちゃんの言うとおり、やまねはあゆのように小柄でショートヘアだった。
 そんな細かいところまで覚えていてくれたなんて、この子は本当にお話好きだなと思う。
「迷っているんだ。あゆ向けに書くか、それとも多くの人に向けて書くか……」
 あゆだけにいつか伝えればいい話かもしれない。
 でも、多くの人にも知ってもらいたいのだ。
 やまねとその仲間達の想いがこの世界に脈々と受け継がれていることを。
 そして、これからも……。
「それと、僕はあえてこの話から目を背けたがっているのかもしれない」
「……え?」
「心のどこかでこの話の当事者であることを否定したがっている自分がいるんだ」
「そんな……どうして? 素敵なお話じゃないですか」
 そうだ。
 僕だってやまねのことは片時も忘れたことはない。
 いや、忘れるものか。
 ……でも。
「怖いんだ。本当のことを考えると、あゆも消えてしまうんじゃないかと思って……」
「あっ……」
 栞ちゃんも意味を理解したのだろう。
 小さく声を上げて不安そうな顔をしている。
 僕はやまねの記憶をごく普通の夫婦の生活に置き換えている。
 やまねの最期も風邪だったと自分に言いきかせ、秋子さんにもそう話した。
 そうじゃないと、やまねの血を受け継いでいるあゆのことが不安で仕方なかったからだ。
「みんな、それが怖くてそういうお話を残せなかったのかもしれないね」
 自分の娘や息子が突然消えてしまう、そんな可能性を考えたがる者などいるまい。
 いや、ひょっとしたら神隠しという現象は狐達の血を濃く受け継いでしまった者に起こることを伝えたものなのかもしれない。
「でも、やまねはこうも言った。僕より長生きするつもりだった……と」
 それはつまり、完全な術を使った妖狐は並の人間より長生きできるということだろう。
 やまねがいなくなったのは風邪か何かの病気が原因だったのかもしれない。
 あるいは、気付かれず人間として天寿を全うする妖狐達も少数ながらいたのではないか?
 むしろやまねのようなケースが稀で、完全な術を使えた妖狐達は狐と気付かれることなく一生を終えたとも考えられる。
 もしそうなら、妖狐の伝承に消えた結末しかないことにも納得できる。
 それに、決して多いとは言えないが、あゆの年で片親を亡くしている子供は珍しいことでもない。
 現に、秋子さんの娘さん、名雪ちゃんはあゆよりも早くにお父さんを亡くしている。
 だとすると、やまねは十分長生きしたとも言えるのではないか?
 あゆだってそうだ。
 17歳でも見方によっては長生きしているとも言える。
「月宮さん」
 少し考え込んでいた僕に栞ちゃんが声をかける。
 顔を上げると栞ちゃんは真正面から僕を見ていた。
「そんなに難しいことじゃないと思いますよ。私も月宮さんもいつ死ぬかなんてわからないんですから」
 そしていつまで生きなければならないかということも、と栞ちゃんは付け加えた。
「そうだね。君が言うと説得力があるな」
 栞ちゃんの言うとおりだ。
 僕だって明日、何が原因で死ぬかわからない。
 そうかと思えば、死ぬと言われていたはずなのにピンピンしている少女が目の前にいる。
「肝心なのは、そんなことを気にせず今を生きちゃうことです」
「『生きちゃう』か……君らしいね」
 あの口に指を当てるポーズで悪戯っぽく言ってみせる栞ちゃん。
 僕はそれを見て思わず笑う。
 やまねと元気な時のあゆにそっくりな思い切りのよさだった。
 そうか、あの丘の妖狐たちはそんな単純なことを僕達に教えてくれているのかもしれない。
 人は悩み、後悔し後戻りしたりするけれど、彼らはいつだって前向きだった。
 時には刹那的すぎたかもしれないけれども。
「やっぱり……山女で書くことにするよ。多くの人に知ってもらいたいからね」
「それがいいですよ。あゆさんには私がお薦めしておきますから」
「いやいや、薦めなくてもあの子は見ると思うよ。受験が終わったらね」
「……え?」
 何かを見透かしたような僕の言葉に栞ちゃんが首を傾げる。
 それに僕は笑って答えた。
「挿絵は栞ちゃんの絵だから」
「あ……」
 栞ちゃんは一瞬口をぽかんと開けたかと思うと……。
 次の瞬間とても嬉しそうな顔で、
「はい。喜んで」
 と言ってくれた。














 やまね……。
 最近、面白いことを知ったんだ。
 僕達の『月宮』という名前のこと。
 月といえば、お月さま。
 宮といえば、お宮。つまり神社のことだ。
 そしてこの地方の神社に祭られているのは、お稲荷さま。
 狐の神様だ。
 そうだよ。
 僕達の『月宮』という名前は……。
 お月さまの力を得た狐、とも取れるらしいんだ。
 もしそうだとしたら……
 みんなそれと気付いていないだけで、君達の血を引いた人間は数多くいるのかもしれない。
 伝えていこうと思う。
 君達の生き様を。
 そして、君達が僕達人間に贈ってくれた素敵な力のことを。










感想いただけると嬉しいです(完全匿名・全角1000文字まで)