それから、ニ十年が過ぎていった。


 僕はものみの丘の狐達の話を調べているうちに、この土地に伝わる狐以外の様々な伝承にも興味が湧き、気づいた時には民俗学の学者になっていた。
 あの子狐との出会いが僕の人生にここまで影響を与えるなんて、僕自身ですら驚きだった。
 そして、僕はごく自然に山女と結婚した。
 少ない身内だけの小さな式だったけど、僕達にはそんな慎ましいものの方が似合っていたと思う。
 山女も喜んでくれたし、ばあちゃんも涙を流して祝福してくれた。
 僕の両親が亡くなってから、僕を一人前まで育てるのに責任感を持っていたばあちゃん。
 きっと、あの涙には自分に課したその重責をようやく果たしたという本人にしかわからない気持ちが含まれていただろう。
 じいちゃんは――僕が高校に入学した時に逝った。
 最後は完全にボケてしまって、ほとんど何もわからなくなっているような状態だった。
 そんなじいちゃんを山女はまるで自分のことのようにとても辛そうに眺めていたのを覚えている。
 そして、ばあちゃんも僕達の結婚を見届けるとほどなくして眠るように逝った。
 二人とも揃って享年90歳の大往生だった。
 僕達は二人をものみの丘近くのお墓に葬り、それからは二人への感謝の気持ちをこめて毎年一回はお墓参りをすることにした。


 そして、ばあちゃんが亡くなってから約一年。
 山女に待望の子供が生まれた。
 山女によく似たかわいい女の子だった。
 そのころ僕は仕事が忙しくて、あんまりその子に会ってあげられなかった。
 そのせいでなかなかなついてくれなくて、家に帰るたびその子に気に入られようと躍起になっていたっけ。
 山女はそんな僕とその子の光景を楽しそうに眺めていた。




 ――そういえば、君は生まれたあの子の顔を見るまで、ずっと心配のしっぱなしで神経質になっていたね。
 君が母親としてだけじゃなく、それ以上に色々心配していたのは今では痛いほどわかるよ。
 自分が子供を生めるのか、生まれてくる子供はちゃんと人間の姿をしているのか?
 結局全て杞憂だったけど、君が僕に本当のことを直接言わなかったのはそんな心配事を僕にさせたくなかったからでもあったんだね。




 娘が小学生になったころ、ようやく僕も仕事が落ち着いてきて一家団欒の時間を取れるようになった。
 あの山女が語った、皆で洋食屋に行くということも実現した。
 でも、そのころには山女は和食以外もうまくなっていて、あんまり意味がなかったけど。
 幼稚園時代の娘のお弁当に彩りを添えて行くうちに、カツやオムライス、ハンバーグといった見栄えのいいものを作るのが楽しくなったらしい。
 僕の弁当の時はやってくれなかったのに――なんだか娘に嫉妬したくなるような溺愛ぶりだった。
 でも、娘は娘で和食の方が好きらしく、「何か食べたいものはない?」と山女に訊かれると決まって和食のメニューを注文するのだった。
 そのほとんどは、昔僕が山女に渡された弁当の中に入っていて、僕がいい加減辟易していた品目ばかりだったりする。
 まったく人の好みは十人十色とはよく言ったものだ。


 そして、娘が小学四年生になった時、ようやく娘が僕に少しなついてくれてやっと家族全員で幸せな家庭を築いて行けると思った矢先――その日はやってきた。


 その日はもうすぐで冬休みというごく普通の一日のはずだった。
 朝は山女に起こされて、僕と娘はそれぞれ学校と勤め先に出ていく。
 そんな、何気なく繰り返される日常の一コマのはずだった。
 しいて言うなら、山女が朝だるそうに「風邪なのか熱っぽい」と言ってたくらいだ。
 山女は「お薬を飲んで寝ておくから」となだめながら心配する娘の頭を撫でていた。


 その日僕は仕事でちょっと遅くなって、家に帰ったのは11時過ぎ。
 当然、まだまだ子供の娘はもうおやすみの時間だ。
「おかえり」
「ただいま」
 この二十年間、ずっと変わらぬ明るい笑顔で僕を迎えてくれた山女。
 この笑顔を見ると「帰ってきたんだなあ」と、それだけでとてもくつろいだ気分になれる。
「風邪は治ったのかい?」
「うん、おかげさまで。サボっちゃったお洗濯物が明日大変だけどね」
 てへっ、とばかりに山女は髪をかきあげて笑った。
 そこに朝のだるそうな雰囲気はないので僕も安心する。
「夕飯の残りがあるけど、どうする?」
 寝室で僕の背広を受け取り、ハンガーにかけながらそう訊いてくる山女。
 お腹も減っているし、ちゃんと作ってくれたんだから食べなきゃバチが当たるだろう。
 食べ物を粗末にするともったいないオバケが――って、すぐこんなことを考えるから娘が嫌がるんだった。
 じいちゃんばあちゃんからそういう怖いお化けの話を悪さするたびに聞かされて育った僕。
 僕はその話が次第に面白くなっていって、そのうち自分からそういうお話をじいちゃんにねだったものだ。
 が、娘はそうじゃないらしい。
 一度二人っきりの時に話して聞かせてあげたら、本当に心底怖がってしまって数日口をきいてもらえなかった。
 まだまだ娘とは相互理解に至ってないんだなあ思うとちょっと悲しい。
 あの子から見て僕はまだ『お母さんと仲のいいおじさん』くらいにしか見えていないんだろう。
 これから時間をかけて、父親らしいところをあの子に見せてあげなければならないな。
 おりしも明日は休日。
 あの子と一日中一緒にいられる貴重な時間だ。
 山女の夜食を食べたら気持ちよく眠って明日の家族サービスに備えよう。
 そして、もうすぐ待望の冬休み。
 家族みんなではじめての旅行、なんて洒落た計画の実現も間近に迫っていた。
「うん、もらうよ。温めてくれる?」
 僕はパジャマに着替えると山女にそう告げて、先に居間に向かおうとした。
 だが、その後を山女がついてくる気配がない。
 おかしいな、どうしたんだろう?
 そう思って、僕は寝室に引き返した。
 そこで見たのは――


「どうしたんだ?」
 山女は、さっき僕から受け取った背広をハンガーに何度もかけようとしては、失敗して何度も背広を床に落としていた。
 僕に声をかけられた山女は、一瞬ばつの悪そうな顔を見せ、そして、次の瞬間誤魔化すように笑う。
「あ、あはは――何でだろ、うまくかけられないよ」
 山女の眼にとめどない涙が溢れてきた。
 そんな、そんなまさか。
 僕は慌てて山女の手を取る。
 山女の手は凄く熱かった。
 朝からずっと強がっていたのか?
 それとも今突然発熱したのか?
 朝の風邪っぽいものは前兆だったのか?
 そのいずれかはわからない。
 だが――
 山女のこの発熱が何を意味するのか、僕は皮肉にもはっきりと分かり愕然とした。
 ずっと興味を持ち続け、そして深く調べたこの地域に伝わる伝承だったから。
 そして、そこで語られる悲しい結末が今僕の目の前でなぞられようとしているのだった。


 高熱を出し、人らしい動作ができなくなり、そして全てを忘れ消えていく。
 それが人に化けた妖狐と呼ばれる狐達の末路――。
 その最期を看取った人間に深い心の傷を残していくことから、狐達は時折『災厄』、『忌むべき存在』とも呼ばれることもあった。
「このっ、今度こそっ――あ、あれ?」
 僕の手を振り払い、目に大粒の涙を浮かべながら再び僕の背広をハンガーにかけようとしてムキになる山女。
 まるでそれが出来れば、こぼれた水がまた元の盆に戻ると信じているかのように。
 でも、駄目だった。
 どんどん山女の手は乱雑になっていって、背広はくしゃくしゃになっていく。
 そして、ついに――山女の手からハンガーが落ちた。
 それと同時に力なく床に崩れ落ちる山女。
 僕は慌てて、床に倒れそうになった山女の背中を両手で抱き止めた。
 僕の腕の中で、山女は涙を震える右手で拭うと、舌を出していたずらっぽく笑う。
「ごめん、もうダメみたい。――あなたより長生きするつもりだったんだけどなあ」
「馬鹿――笑うところじゃないだろ」
 山女はこんな時までいつもの山女だった。
 僕は床に敷いてあった布団に山女を寝かせてやった。
 この方が少しは楽だろう。
 布団に寝かされた山女は更に発熱し、胸を上下させ荒い呼吸を繰り返した。
 僕に出来るのは傍でじっと眺めていることだけ。
 ああ、なんで狐達の最後を看取った人間が深い悲しみを負うのかわかった気がする。
 このどうすることもできない、何をしてやればいいのかも分からない無力感。
 相手がいとおしければいとおしいほど、身を千にも万にも斬られるような心地になるのだろう。


 一時間くらいが経っただろうか?
 山女の呼吸が落ち着いてきた。
 熱も少し引いたようで、さっきまで顔に浮かんでいた大量の脂汗がなくなっている。
 そして、落ち着いたのか、山女はしっかりと目を開いて、その瞳に僕の姿を捉えた。
「あたしも結局、他の皆と同じだったね」
 山女は悲しそうにぽつりと言った。
 他の皆とは、あの丘の狐達のことだろう。
 人の世界にやってきて、悲しみだけを残して消え、いずれは伝承となる。
「ううん、下手に長生きした分あたしのほうが酷いかも」
 だから笑うところじゃないっていっつも言ってるのに。
 でも、今回ばかりはそう返す余裕は僕にはなかった。
 それに、山女は間違っている。
 確かに、こんなに長く心を通わせた人と別れるのはとても悲しいことだけど、僕達の二十年はそれにも勝るくらい楽しいことがあったじゃないか。
「山女、そんなことは――ない。君は残してくれたじゃないか、君にそっくりなあの子を」
 そう、僕達の幸せの形は目に見える形で存在している。
 僕と山女が幸せだったという証が。
 家族で撮った写真もアルバムに残っている。
 その写真の中の僕達は笑顔だった。
「あの子は?」
 山女は枕から首を上げて僕の周り見回し、娘がいないことを確認して安心したように、それでいて寂しそうに枕に首を下ろして目を閉じた。
「自分の部屋でぐっすり寝ているよ」
 あの子の中では山女は普通のお母さんであり続けたいのだろう。
 僕も、あの子がこの状況を理解できるとは思えなかったので、今日だけはそっとしておいてやることに決めた。
「いい夢見ているといいね」
「ああ」
 山女の言葉に相槌を打つ。
 本当に、今日だけはいい夢を見ていて欲しいと思った。
 あの子はお母さんが大好きだから。
 きっと明日、あの子はお母さんがいなくなっていることに涙を流すことだろう。
 それを思うと、今ここに呼んでやれないことはとても心苦しかった。


 それからしばらく、二人ともただ黙って窓の外を眺めていた。
 ああ、昔はこんな風によくこの家の縁側から二人でぼーっと外を眺めてたっけ。
 なんだかとても懐かしい気がした。
 よく澄んだ冬の空には、寒々しそうに満月が光っている。
 こんな寒い夜じゃ、山女の術の手助けをしてくれたお月様の力も凍り付いてしまうのかもしれない。
「あのね」
 突然、山女が僕のほうを向いて呼びかけた。
 あの、僕の大好きな表情で。
「私達の出会いってどんな感じだったのかな?」
 山女は何を言いたいんだろう?
 まさか忘れたとでも言うんだろうか?
 そう思ったところではっとした。
 『全てを忘れ消えていく』
 そうか山女はもう――
 だけど最後まで必死に覚えていようとしているんだ。
 そう悟った僕は、何も訊かず静かに語り始めた。
 僕と山女の記憶を、しっかりこの胸に刻みつけるために。




 ――秋、野山が綺麗に色づく季節。あの丘で君に出会ったのも、こんな頃だった。















 何時間が過ぎただろう?
 外で雀の声が聞こえはじめたころ、僕の昔語りは終わった
 最初は相槌を打っていた山女だったけど、最後はただ僕をじっと見つめて聴いているだけだった。
 もう、聞いたそばから記憶が失われていったんだろう。
 山女がボケて何もわからなくなっていたじいちゃんを自分のことのように辛そうに眺めていたのは、いつか自分に訪れるこんな最後の時を想像していたからかもしれない。


 僕の語りが止まったのを確認して、山女は布団から右手をすっと僕に伸ばす。
 その昔、山女が願いを込めて満月にかざしたまさにその手を。
 そして、もはや人の言葉を発するのも困難なのか、かすれた声で呟いた。
「――て」
「て? 手か? 手をどうすればいいんだ? 掴むのか?」
 ぱあっと顔を明るくして、こくんと山女の首が小さく動く。
 言われたとおり、僕は山女の右手を両手で覆うように掴んだ。
 その手は、さっきまでの熱が嘘のように冷たく、そして軽かった。
 まるで、僕達のはじめての出会いの時のように。


 そして山女はゆっくりと目を閉じ、最後にこうはっきりと言った。
 僕の好きなあの笑顔のままで。
 それはもう言葉にはなってなかったかもしれない。
 でもそれは確かに僕の心にしっかりと響いた。


「最後まで――あなたの温もりを忘れたくないから」










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