山女が居候をはじめていつの間にか1年が過ぎ、雪国の短い夏がやってきた。
家ではもう山女が出て行くと言い出さない限り、いつまでも山女を置いてやろうという雰囲気になっていた。
山女はそろそろ年で家事が辛くなっていたばあちゃんを甲斐甲斐しく手伝い、ボケたじいちゃんの面倒もしっかり見てくれていた。
しかも、昔から僕の家のことを知っているかのように家の勝手もよく分かっていて、もう山女抜きの生活なんて考えられないようになっていたのだ。
そう、山女はもうそのころには家族同然の存在だった。
ある日、学校から帰ってきた時、庭に面する縁側に腰掛けて本を読んでいる山女を見つけた。
山女は一応記憶喪失ということになっているので、学校には行っていない。
本当は行かなければいけないんだとは思うけど、じいちゃんもばあちゃんも戦前の学校しか知らないものだから、学校というものを結構いい加減に捉えていたように思える。
おまけに山女自身に行く気がないのだから仕方ない。
多分授業を受けるのが嫌いなんだろう。
あの子狐も授業中は寝ているか、教室の外に出て行って遊んでいるかでつまらなそうにしていたから。
「何読んでるの?」
僕はそう言って山女の傍に腰掛けた。
同い年の女の子と話すのがそろそろ気恥ずかしい年頃だったけど、何故か山女にだけはそういう遠慮をする気も起きなかった。
むしろ、一緒にすごした時間が長くなればなるほど僕達の距離はますます縮まっていったような気がする。
それに、僕達には少し変った縁もあったから。
「あ、おかえり。お料理の本だよ」
本から顔をあげ、僕の顔を見てぱあっと顔を明るくする山女。
里芋の煮っ転がし、筑前煮等々。なるほど、確かに料理の本だ。
でもなんか地味なのばっかりである。
「あのさ、なんで和食ばっかりなの?」
最近体が悪くなってきたばあちゃんに代わって今は山女がうちの食事を作ってたりするのだが、それは全部ばあちゃん譲りの和食ばっかりだった。
で、今見ているのも和食の料理ばっかり。
当然、中学になってまた昼食が弁当になった僕に山女が持たせてくれる弁当も和食ばっかり。
おにぎりだけの弁当からは進化しただけマシかもしれなかったけど、食べ盛りの身としてはもう少し濃いものが食べたいものだ。
学生食堂の唐揚げやラーメンみたいなのを。
「うーん、でもおじいちゃんとおばあちゃんの口に合わないでしょ」
「それはそうだけど」
だったら僕のお弁当ぐらい洋食にしてくれたっていいと思う。
そんな僕の不満を読み取ったか、山女がにこっと笑う。
僕の好きな表情だ。
山女はいつもこんな笑うところじゃないところで笑顔を見せて僕を喜ばしたり慰めたりする言葉を言ってくれる。
その言葉はいつも突拍子ないものばかりで、口が開かれるまでのちょっとの間がとても待ち遠しく楽しかった。
「じゃあさ、あたしは今よりもっとおいしい和食を作れるように頑張るから、洋食が食べたくなったら一緒に食べに行こっ」
「一緒にって、じいちゃんとばあちゃんを連れて?」
連れて行っても、二人の口に合うものはないだろう。
二人にそんな我儘は言いたくないし、それに――ますますボケが進んでるじいちゃんを連れての外食は色んな意味で危険な気がしてならない。
僕がそう思っていると、山女は首を横に振って言った。
「そうじゃなくて、あたしと恵とあたしたちの子供で一緒に行くの」
あたしと恵と――で、何だって、子供?
一瞬、言葉を失った。
そりゃ、僕だってそんな鈍感でもないし、山女が僕に家族以上の好意を持っているのはもう十分承知だったけど、子供なんていきなり言われたらさすがに。
「山女、いくらなんでも気が早すぎ」
深呼吸をして、溜息混じりに僕は言った。
いや、そう言うのが精一杯だった。
山女はそれに対してわかりやすいくらいぷーっと頬を膨らませる。
「何よう、あたしはただそうなったらいいなって思っただけで」
と、言ったそばから山女の頬が少し赤くなってきた。
「やっぱり恥ずかしかったんじゃないか」
「うん――言ってみるとかなり」
山女は顔を真っ赤にして俯きながら、蚊の鳴くような声で言った。
妙に素直なところが山女の愉快なところだと思う。
だいたい僕ならそんな恥ずかしいこと最初から言わないけど。
しばらく二人で顔の熱が冷めるまでぼーっと庭を眺める。
日も落ち始めて、ヒグラシの鳴き声が聞こえはじめた。
縁側に投げ出した裸足の足をなでていく涼風が気持ちいい。
「あっ、そうだ。山女嘘ついただろ」
僕は鬼の首を取ったように大きな声をあげた。
ちょっと声が大きすぎたのか、びっくりして僕の方を振り向く山女。
「な、何のこと?」
嘘と言われて、山女はしどろもどろしたように目を泳がせてる。
どうやら心当たりが多すぎて慌てているらしい。
昨日僕の部屋に置いてあった駄菓子がなくなったのはやっぱり山女の仕業だな。
あれくらい言ってくれればもっと買ってきてやるのに。
わざわざこっそり食べて、しらばっくれるのは山女の悪い癖だ。
こっそり食べるのにスリルを感じているのかもしれないけど。
「そんなつまらない悪戯のことじゃなくて」
僕がそうことわると、山女はほっと胸をなでおろした。
山女、そこでそんな反応したら犯行を認めているも同然なんだけど?
相変わらず嘘の下手な山女だった。
「図書館で調べてきたんだ。ものみの丘の狐は人に化けられるけど、その術は不完全で、人間になるには記憶と命を犠牲にするって書いてあったぞ」
僕達の間の少し変った縁、それは山女と僕が昔会っていたかもしれないということだ。
つまり、山女がうちで介抱された子狐じゃないかという話である。
うちにやってきた日、それらしきことをほのめかした山女に、僕は二人きりの時は決まってその質問をぶつけた。
山女はそれに関して、否定もしなければ肯定もしなかった。
僕が「君はあの時の子狐?」と訊けば「どうだったかな」ととぼけ、「そんなことあるわけない」と言えば「そうなんだ」と意味ありげな笑顔で返してくる。
これでは掴みようがない。
はじめはかなりこだわったりもしたけど、山女がうちの家族らしくなってゆくうちに僕もどっちでもいいかと思うようになり、今では二人だけの夢物語みたいな感じでその話題を楽しむようになっていた。
「あたしは記憶喪失だよ?」
山女が勝ち誇った顔を見せる。
そんな嘘くさい顔で『記憶喪失』とか言われても全然信憑性がない。
「じゃあ、命は? あの丘の狐は人になったら一ヶ月も生きられないってどの本にも書いてあったぞ」
この街の図書館にあった妖狐と呼ばれる狐に関する伝承のあらかたを調べたが、それ以外の解釈や記述はなかった。
付け加えるなら、人に化けた狐達は一ヶ月ほどで高熱を出し、全てを忘れて消えていくのだそうだ。
に、対して山女はこの一年風邪ひとつひかないほど元気だった。
つまり、山女が狐のわけがない。
「ふーん、そんなこと書いてあったんだ」
僕の証拠に対して山女はまったく焦りもしてなかった。
そしてまるでそんなことは最初から知っていたかのように不敵な笑みを浮かべていた。
「でも、そこに例外があるって知ってた?」
「例外?」
「不完全な術ってことは完全な術もあるってことだよね?」
「――あ」
言われてみてはっとした。
不完全な術って表現はつまり完全な術が存在するからこそ言える言葉だ。
それはつまり――
「ほんの一握りだけだけど、この街にも、ひょっとしたらこの国全体で、あたしの仲間たちは確かに人として生きている。完全な術を使って」
「でも、そんな術があるならみんな使えばいいじゃないか」
不完全な術を使って命と記憶を失うなんて、それじゃ自殺だ。
だけど、山女は僕の疑問に悲しそうに首を振る。
「わかっているのは完全な術があるっていうことだけ。その条件は誰も知らないの」
「そう、なんだ」
「あたしは二年間その条件を必死に探し続けて、それを見つけたから記憶も命も失わずに済んだんだよ」
「ふーん」
あれ? 何だか今おかしいことを言ってかったかな?
たしか山女は記憶喪失、――まあいいか。
話したところで誰も信用してくれないような記憶なら、ないということにしておく方が都合のいいこともあるだろうし。
でも僕にくらいそれは嘘だって言ってくれてもいいのにと思う。
自分が信用されてないようで、何だかそれが少し不満だった。
僕が難しい顔をして考え込んでいると、山女がぴょこんと横から顔を覗かせて茶目っ気たっぷりに微笑んでみせる。
「あたしの見つけたその条件、教えてあげようか?」
「え?」
不意を付かれてあっけにとられた僕に山女はもう一度くすっと微笑み、縁側から飛び降りて、西日を背にくるりと一回転。
ダンスのターンをするかのように僕の目の前に降り立った。
そして右手を天に掲げ、とても切なく優しげな顔でゆっくり口を開く。
思わずどきっとした。
とても神秘的で幻想的な雰囲気の漂う光景だったから。
「満月の夜にね、月明かりの下でこうやって術を使った狐は完全な術を使えるんだよ」
まるでジャンケンにグー、チョキ、パー以外の無敵の例外選択肢があるみたいな都合のいい子供じみた話。
でも、そんな例外の条件があってもいいんじゃないかと思った。
僕が見た伝承の全ては悲しい結末で終わっていたから。
僕は山女にそんな風に消えて欲しくない。
だから、本当はその伝承を見つけたとき山女が一年以上元気なことに安心したのだ。
それでちょっと意地悪を言ってみたくなったんだけど。
月明かりの下で満月を仰ぎながら人間になる狐。
きっと今夕日に照らされる山女みたいに神秘的な光景に違いない。
「なんてね。面白い作り話でしょ?」
そして山女は口に手のひらを当てて、いつものごまかしをする。
山女の御伽噺が終わる時はいつもこんな締めくくりだ。
だから、山女の話が本当なのかはいつも確かめようがない。
でも、僕はわかっていた。
山女はあの時の子狐なんだって。
色々癖も似ているし、最初からこの家の事をよく知っていた。
それに、あの左肩の傷痕が最大の証拠だ。
どうして本当のことを言ってくれないのかはわからないけど、別にどうでもいいかと思った。
僕達だけが知ってる、僕達だけの秘密。そんな感じがして素敵だったから。
「あ、もうこんな時間。そろそろ夕飯の支度をしなきゃ」
庭から部屋の奥にある柱時計を見たのだろう。
山女が今度は開いた口に手を当てて驚いたような素振りを見せる。
つられて、後ろを見てみると確かに結構な時間が経っていた。
「手伝おうか?」
「ダーメ、恵はちゃんと宿題やらなきゃいけないでしょ。それにこれはあたしの修行なんだから」
ちえっ、なんで山女にお姉さん風吹かされなきゃいけないんだ。
大体修行ってなんの修行――と思ったところで思考を中断する。
また恥ずかしい言葉が浮かんだから。
山女、やっぱり気が早すぎるって。
「あのさ、山女」
庭から縁側に駆け上がり、台所向かう山女を呼び止めた。
「何?」
それに答えて振り返る山女。
その吸い込まれそうな大きな黒い瞳に見とれて思わず息を飲む。
さっきの神秘的な山女の姿がまだ目に残っていたようだ。
「どうしたの?」
僕が呼んだまま黙ってしまったので、山女は不思議そうな顔をして少し首をかしげる。
その声にはっとして僕は続きを訊いた。
「あのさ、あの子狐はどうして僕のところにまた来たのかな?」
山女があの子狐だとしての質問だった。
山女はそれにくすっと笑うと僕から視線を逸らし、横顔を僕に向けながら他人事のように言った。
「きっと、その男の子の温もりが忘れられなかったんじゃないかな」
なんとなく、山女が僕にも本当のことを直接言わないのがわかった気がした。
だって、こんなことを面と向かって言ったら恥ずかしいに決まってる。
ちょっと変わっていても、山女は女の子なんだから。
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