二年半の時が過ぎた。
 季節は春、雪国のこの町でも雪がわずかに残るばかりとなった。
 あと数日で小学校最後の学年が始まる、そんな春休みのある日のことだ。
 その日、僕は特にすることがなく手持ち無沙汰だった。
 それで、もうほとんど行かなくなっていたあの丘に久しぶりに行ってみようとにわかに思い立った。
 あの子狐に会えるかなとちょっとだけ期待しながら。
 いや、もうあいつは大人になっているか。


 獣道を進むと、木々の間から差し込む光が強くなっていく。
 ここを抜ければ丘の草原だ。
 雪解け水と落ち葉で少しぬかるむ森の坂道を小走りで一気に駆け抜け、その場所に到着した。
 視界が一気に開け、その向こうには草原が広がっている――はずだった。

「あいたっ」

 叫び声と衝撃に思わず目を瞑る。
 森を抜けて、丘に広がる草原に出た瞬間、誰かにぶつかってしまった。
 恐る恐る目を開けてみると、草原に投げ出された見慣れない女の子が後頭部を押さえながら体を起こしているところだった。
「ご、ごめん」
 僕は慌てて謝り、女の子に手を差し出す。
 すると、女の子はにこっと笑って僕の手を取った。
「うん、ありがと」
 立ち上がって背中やお尻についた草を払う女の子。
 僕はその様子をただ黙って見ていた。
 女の子の身長は僕と同じくらい。多分年も同じくらいだろう。
 ただ、顔と服装がこのあたりの女の子とはちょっと違った。
 都会らしいとでも言うんだろうか?
 なんとなく垢抜けていて、その分大人びて見える。
「あたしはやまめ、山に女って書いて山女っていうの。いい名前でしょ?」
 突然女の子は自己紹介をしてきた。
 でも、「いい名前でしょ?」ってなんでそんなおかしなことを真剣な顔で訊いてくるんだろう?
 何か重要な意味でもあるのだろうか?
「いい名前だと思うよ」
 戸惑いながらも僕はそう答えた。
 すると女の子は息を大きく吐き出して、いかにもほっとしたという顔を見せる。
「ふぅ、よかった」
 そんな大げさな。
 もし僕が今「えっと、山姥(やまんば)の子供みたいな名前だね」なんて答えてたらどう反応したんだろう?




 ――今ならわかる。それは君が一生懸命考えた自分の名前だったんだね。




 女の子は安心したかと思いきや、今度は突然真剣な顔をして僕に顔を寄せてきた。
 文字通りの目と鼻の先の接近に僕はドキドキした。
 同じ年の女の子にこんなに顔を近づけられたことはない。
 ちょっと誰かが二人の背中を押せば、思わずキスって状況だ。
 女の子の背中にまでかかった長い綺麗な栗色の髪からは鼻をくすぐるほのかな香りがして、それが一層僕をドキドキさせた。
「あなたがさっきぶつかってきたから記憶喪失になっちゃったじゃないの」
「は?」
 女の子の口から出たのは奇想天外な言葉だった。
 たかが出会い頭にぶつかったくらいで記憶喪失になるなら、世の中記憶喪失で溢れかえっているだろう。
 それ以前に自分で記憶喪失だとなんでそんなあっさり分かるのかが謎だった。
「えっと、そんなことを突然言われても困るんだけど」
 僕は無難な言葉を選んで返事した。
 治せと言われて治せるものじゃないし。
「記憶が戻るまであなたの家に泊めてもらうから、いいわね?」
 女の子は目を吊り上げて、凄い剣幕でそうまくし立てた。
 反論できる雰囲気じゃない。
「わ、わかったよ」
 何でそういう展開になるのかわけがわからなかったが、女の子の剣幕に押されて渋々そう返事をした。
 僕が了承しても、じいちゃんとばあちゃんが了承しなかったら意味ないけど。
 まあ、じいちゃんとばあちゃんに駄目って言われれば女の子も諦めるしかないだろう。
「ほんと? やったぁ」
 でも、僕の生返事に女の子は頬を緩ませ、飛び上がって喜んだ。
 さっきまでの大人びた雰囲気とうって変わった子供みたいな陽気さ。
 その変りようがとてもかわいいと思えた。
「じゃ、改めてよろしくね。けい――ううん、えっとあなたの名前は?」
 女の子が僕に手を差し出してきた。握手ってことだろう。
 でも、今、僕の名前を言いかけていたような?
 まあいいか。そう思って僕も手を出す。
 握った女の子の手はほんのり暖かくて、なんだかくすぐったい気がした。
「僕の名前は――」
 その時、大きな一陣の風が起きて、草原を鳴らした。
 暖かい春の風、今触れている女の子の手とよく似ている気がした。




 ――山女、一言だけ言わせてくれ。もう少しマシな嘘はつけなかったのか?




 僕は女の子を家まで連れていった。
 連れてきたのはいいけど、じいちゃんとばあちゃんになんて説明すればいいんだろう?
「古い家だね」
 僕の家を見て、女の子はそう感想を漏らした。僕もそう思う。
 土壁に瓦葺きの典型的な日本住宅、しかも土壁はところどころ黒いときているんだから。
「じいちゃんとばあちゃんの家だから」
「えっ、お父さんとお母さんの家じゃないの?」
「両親はいないよ。僕が小さい時に二人とも事故で死んじゃったから」
 そう、僕の両親は僕が物心つかないうちに亡くなっていた。
 じいちゃんとばあちゃんが僕の両親代わりだ。
 でも、特に悲しくはない。
 じいちゃんとばあちゃんは優しいし、僕は両親のことをまったく覚えてなかったから。
「そうなんだ、あたしと同じだね」
 僕の気持ちを見透かしたんだろうか? 女の子は笑顔でそう言った。
「笑うところじゃないと思うけど」
「ごめん。でも同じなのはなんだか嬉しいじゃない」
 そうかもしれない。
 それを聞いて僕もなんだか女の子に更に親しみを持てた気がした。
 でも――
「君、記憶喪失じゃなかったっけ?」
「あはは、それだけは覚えてたの」
 そこも笑って言うところじゃないと思うんだけど。
 それに随分都合のいい記憶喪失もあったものだ。
 でも、その無邪気な笑顔を咎める気にもなれなくて、何となく自分を納得させてしまった。
 まるで春風のような掴み所のない女の子である。
「一応断っておくけど、じいちゃんとばあちゃんがいいって言わなかったら帰ってくれよ」
 玄関の前で僕がそう言うと、女の子はあからさまに不満顔をした。
「帰るところもないのに帰れって言うの?」
 そりゃ僕だってそう言われたら帰れって言えないけど、拾ってきた動物を隠れて世話するのとは勝手が違う。
「あなたもおじいさんとおばあさんに説得してよね」
 が、相変わらずそんなことをわかってくれるような女の子ではなかった。
「わかったよ。やるだけはやってみるって」
 溜息混じりにそう答えるしかなかった。
 そして、玄関の引き戸を開けた瞬間――

「成敗っ」

「うわっ」
 僕は慌てて横に跳んだ。
 じいちゃんが杖を振りかざして殴りかかって来たのだ。
「あいたっ」
 そして、僕がかわした杖は――女の子の左肩をしたたかに打った。
 女の子は肩を押さえてその場にうずくまってしまう。
 どう見ても凄く痛そうだ。
「きてぇいっ」
 奇声を上げて更に女の子に杖を振り下ろそうとするじいちゃん。
 僕は慌ててじいちゃんを羽交い絞めにした。
「じいちゃん、僕だよ僕!」
 老いたとはいえ、さすがは元大日本帝国軍人。
 子供の僕にはじいちゃんの力を止めるのが精一杯だった。
「恵、何かあったか?」
 騒ぎを聞きつけたばあちゃんが家の奥から現れる。
 そして、この状況を見るなり、無言でじいちゃんに近寄り、暴れるじいちゃんから杖を奪い取ってその杖でじいちゃんの頭をこつんとこついた。
「女子供に手を上げる軍人がおるか!」
 軍刀がわりの杖を取り上げられたせいか、ばあちゃんに怒鳴られたのが効いたのか、じいちゃんはそれでしゅんとして、すごすごと家の中へ引っ込んでしまった。
 じいちゃんは――ボケていた。
 最近めっきり老け込んで、時々今のようによくわからない行動をとることがある。
 特にそんな時に棒状の物を持つと、軍人気分になるのか危ないことこのうえない。
「大丈夫かい?」
 ばあちゃんは左肩を押さえてうずくまっている女の子に声をかけた。
 本当に災難だと思う。
 いきなりこんな目に遭わされるなんて。
「あ、大丈夫。平気です」
 痛みを笑顔で誤魔化して立ち上がろうとした女の子をばあちゃんが両手で肩を掴んで止めた。
 そして、襟をめくって女の子の押さえていた左肩の肌を曝け出させる。
 僕とばあちゃんは驚いた。
 じいちゃんの杖でそこが赤く腫れていたことよりも、そこにあったものに。
「どうしたんじゃ、この酷い傷痕は?」
 女の子の左肩にはまるでもみじのように、綺麗な肌には似つかわしくないただれた古傷が刻まれていたのだ。
 女の子はばあちゃんの質問に対して、明らかに僕のほうを意識しながら言う。
「むかし心ない男の子に石をぶつけられたんです」
 覚えがあるでしょう? と言わんばかりの笑顔で女の子は僕を見つめていた。
「そりゃまた、随分酷い奴がいたもんじゃなあ。とりあえずうちへお上がり。湿布貼ってあげるから」
「あ、はい。すみません」
 他人事のように呆れ果てた顔をしながらばあちゃんは女の子を連れて家の中に入っていった。
 外に残されたのは僕だけ。
 心臓が早鐘のように脈打っていた。
 そんな、まさか、あの女の子はあの時の――




 ――丘で会った時からそんな気はしていた。
 君の綺麗な栗色の髪はなんだか懐かしい気がしていたし。
 だから、僕は君が家に来ると言ったのに強く反対できなかったんだと思う。




 落ち着いてから家に入ると、女の子が家にしばらく居候することが決まっていた。
 ばあちゃんも記憶喪失云々は半信半疑だったみたいだが、身寄りがないのは本当だろうと不憫に思ってのことだった。
 女の子はこの家に居候できると聞いて、とても嬉しがっていた。




 ――君は本当に喜んでいたね。
 僕の家に居候する、それが君の本当の目的だったんだから。










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