Prelude Kanon



 ――秋、野山が綺麗に色づく季節。あの丘で君に出会ったのも、こんな頃だった。




 出会いは確か小学校の遠足だった。


 その丘は小学三年生の子供には適度に遠いところにあり、丘から見下ろせる僕ら街の全貌は思わず感嘆の声を漏らすほどであった。
 また、ぱっと開けた広場はまだ暴れ盛りの僕らには格好の遊び場だった。
 その丘の名前は『ものみの丘』といった。
 みんなめいめいに好きなことをして時間を過ごした。
 野球とかドッジボール、ゴム跳びという普段学校の運動場でやっていることをこの広々とした草原で楽しむ者もいれば、持ち寄った段ボール箱で草ゾリをするというここならではの遊びに興じる者もいた。
 涼しい風が流れるその丘で、みんな解放的な気分に浸っていた。


 そしてあっという間に正午がやってきて、お弁当の時間になる。
 弁当箱を開けてみると、やっぱりおにぎりだった。
 まったく、ばあちゃんもおにぎりだけが弁当じゃないって何でわかってくれないんだろう?
 保育園の時からお弁当というとおにぎりだ。
 以前「他のにしてくれ」、って言ったら弁当箱全体に盛られた白米の中心に梅干という、いわゆる『日の丸弁当』なんかを持たされてかなり情けない思いをしたことがある。
 他の子の弁当は色とりどりだっていうのに。
仕方ないので、それからはいつもおにぎりで我慢していた。「痛みにくいから」ってばあちゃんが言うこともわかるんだけど。

「あっ、狐」

 近くで弁当を食べていた数名の輪からそんな声があがった。
 見てみると確かに茂みから子狐がこちらを伺っている。
 狐がこの街の野山にいるのはみんな知っていることだが、こんなに近くでお目にかかることはまずない。
 犬や猫といった見慣れた動物とは違うその動物に僕たちは興味津々だった。
 僕もその狐を近くで見たかったが、うちのじいちゃんとばあちゃんはこういうのに妙に信心深くて、「狐に会った」なんて言ったら祟りだの呪いだの騒ぎ出すのは間違いない。
 それにこのあたりの狐は人を化かすとか子供の頃からそういう怖い話を耳にたこができるくらいに聞かされていて、僕も多少なりともビクビクしていたような気がする。
 ちょっと残念だけど、見なかったことにして忘れようとした。
 あのふさふさしてそうな明るい栗色の毛並みは触ってみたら気持ちいいんだろうな、とか思いながら。

「あっ」

 ところが、僕が狐から背を向けて、弁当を再び食べ始めた矢先、狐を見ていた数人から素っ頓狂な叫び声が上った。
 何だろう? と思ったときには遅かった。
 なんと子狐が僕の脇を猛スピードでくぐり抜けていったのだ――僕の最後のおにぎりを咥えて。
 しかも、そのまま茂みに逃げ込むかと思いきや、僕のほうをちらっと見て僕が驚いてるのを確認すると、こともあろうか僕から2メートルほど離れた草原のど真ん中で堂々とそれを食べ始めたではないか。
 完璧に馬鹿にされた気がした。
 残しておいた味海苔をありったけ巻いた最後のおにぎり、楽しみにしていたのに。
 そう思った時、僕は衝動的にたまたま傍にあった拳大の石をその子狐に投げつけていた。

「きゃんっ」

 次に聞こえたのは子狐の悲痛な叫び声。
 驚いた。だって本当に当たるとは思わなかったから。
 子狐はそのまま倒れて、まったく動く気配がなかった。
 まさか当たり所が悪かったのか?
 恐る恐る近寄ってみると、子狐は左肩から血を流し、目を閉じて小さく呼吸をしていた。
 傷口は中の肉が飛び出しかなり酷い状態だった。




 ――君との出会いは、僕をおとなしい人間に変えたと思う。




 クラスメイトから非難の視線を浴びながら、僕はその子狐を家に連れて帰った。
 本当は開き直ってほったらかしにして帰りたかった。
 だけど、あのままほったらかしてたら死んでしまいそうだったから。
 僕は怖かった。
 ここまでやりたかったわけじゃなかったのに。
 本当はちょっと脅かしてやろうってだけのつもりだったのに。
 腕の中で小さく震えている子狐は、とても小さく軽かった。
 今更ながらに、僕の投げた石がこの子狐にとってどれほどの凶器だったかを思い知らされた。


 じいちゃんとばあちゃんにその怪我をした子狐を見せると、二人は顔を青くした。
 二人はこの土地で生まれ育った老人で、この地の迷信を本気で信じていたからだ。
 この土地では、狐はいたずらをする忌むべき獣であると同時に、神の使いとしても畏れられていた。
 そのため、追い払ったり避けたりするくらいならよいとしても、怪我をさせたりましてや殺したりなどというのは大変バチ当たりなことと言われていたのである。
 だから僕が狐を怪我させたと聞いて二人が慌てるのも無理はなかった。
 僕が「この子狐を介抱する」と告げると、二人は「それがいい」と賛成し、消毒してやったり、包帯を巻いてやったりと色々手伝ってくれた。
 子供らしい反抗期というものかもしれないが、僕は祟りとかバチなんて迷信は信じてなかった。
 ただ、傷つけるつもりもなかったのにこんな結果を招いた後味の悪さに、子供心にも激しい後悔を感じていたのだ。


 手当てを終え、とりあえず一安心して寝ようとした時だった。
 子狐の様子がおかしくなった。
 完全に力なく横たわり、体が冷たくなっていた。
 はっきりと、子狐が危ない状況にあるのがわかった。
 呼吸で小さく動く喉だけがまだ生きているということを教える。
「じいちゃん、どうすればいいのか教えてよ」
 僕はじいちゃんの服にしがみついて泣いた。
 今確実に消えいく命。その原因は他ならぬ自分なのだ。
 戯れに蟻を踏み潰して遊んだこともある。
 でも蟻は叫び声も血も流さない。
 生き物だとは自覚はするけれども、人間とはかけ離れた存在だった。
 でも、この子狐は石をぶつけた時「きゃんっ」という痛々しい叫び声を上げ、僕と同じ赤い血を流して倒れた。
 そして今ここで死にかけている。
 でも蟻みたいに簡単には死なない。
 きっと凄く痛いだろう。死にたくないって思っているだろう。
 子狐の気持ちがありありと想像できた。
 何かの命を奪うってことがこんな気持ち悪いものだったなんて。
 そのときからだと思う。
 僕が道端の蟻を踏むのすら嫌になったのは。
 出された食べ物を残さず食べる努力をするようになったのもそれがきっかけだろう。
「人だったらこんな時昔は人肌で温めてやったもんじゃが、けつね様はどうなんじゃろう?」
 皺の濃くなった顔に更に皺を浮かせてじいちゃんはそう言った。
 『けつね』とは古い言葉で狐のことである。
 悩んでいるうちにも冷たくなっていく子狐の体。
 それしかない、と思った僕は子狐を抱いて一緒に布団に包まった。
「こらっ恵、そんなことしてけつね様が布団に粗相したらどうする」
 ばあちゃんが布団が汚れるのを心配して布団をはがそうとするが、僕は子狐を放さない。
 絶対に死なせるもんか。
 僕は意地になって布団をはがさせなかった。
 そんな僕に根負けして、ついにばあちゃんも諦めて部屋を出ていった。
 ――庭に置いてあったポリバケツを子狐の便所用に置いて。


 それから三日間は大変だった。
 僕は学校を休んで子狐を抱き続けた。
 それが効を奏したか、子狐は徐々に元気を取り戻していった。
 が、動ける余裕が出来ると子狐はその小さな牙を容赦なく僕の腕に突き立ててきた。
 当然だ、石をぶつけた憎い相手なんだから。
 僕は我慢した。血が出て、とても痛かったけど子狐を抱き続けた。


 そして三日目の朝、僕が目を覚ますと右腕に生温かいものを感じた。
 なんだろうと思って左手でそっと布団をめくると、あの子狐が僕の右腕につけた噛み傷を舐めていたのだった。
 僕が見ているのに気づいた子狐は気まずそうに小さく鼻を鳴らして顔を背けると、びっこを引きながら部屋の隅まで歩いていってそこで丸くなった。
 どうも僕が必死になって介抱していたということを理解してくれたらしい。
 狐って物分りがいいんだなあと不思議に感心した。


 それから一ヶ月、傷が完全に塞がるまで子狐は僕の家で暮らした。
 満足に歩けるようになってからは、いつの間にか学校についてきたりしてクラスの人気者になっていたっけ。
 妙に人間に対して警戒心がないことを先生が不思議がっていたのは今でも印象に残っている。
 そのせいで給食の時間は大変だった。
 子狐の癖なのか悪戯なのか、必ず誰かの食べ物を横からかっさらっていくのだ。
 酷い時なんかは自分に用意された食べ物もほったらかしでそんなことをしてみせる。
 で、かっさらった本人の目の前でお座りして余裕しゃくしゃくに戦利品を食べて見せるのだ。
 僕に石をぶつけられても全然懲りてなかったらしい。
 でも、落ち着いて見るとその人を小ばかにした行動もどこか滑稽で、いつの間にかクラスのみんなはその子狐に給食を奪われるのを期待するようになった。
 そしてそのうち、子狐が横から入りやすいようにわざと隙だらけにして給食を食べる者が増え始めた。
 そうなると今度は教室の隅で給食の余りを盛ってもらった自分の餌を、拗ねているかのように、もそもそと食べるようになってしまった。
 どうやら悪戯のやり甲斐がなくなってつまらなくなったらしい。
 子狐のやることなすことはどこか人間くさくて、なんだかそれが無性にかわいらしかった。


 そして、そんな風に愉快に過ぎていった一ヵ月後のある日。
 僕と同じように、ものみの丘の方向に住んでいるクラスメートたちで連れ立って子狐を丘に帰しに行った。
 あれだけ馴染んでいただけに別れるのは辛かったけど、子狐の親はきっと心配しているだろう。
 それに誰も狐の飼育方法なんか知らなかったので、自然に帰すのが一番だということになったのだ。
 丘で僕の腕から草原に降ろされた子狐は名残惜しそうに僕たちの方をしばらく見つめた後、一声高く鳴くと後ろを向いて走り出し、茂みの中へ消えていった。


 それからしばらく、僕は思い出すたびにものみの丘に行った。
 あの子狐が僕に気づいたら出てきてくれるんじゃないかと期待したからだ。
 出てきたら食べさせてやろうと思って、駄菓子屋で買ったおやつも忘れなかった。
 でも、あの子狐は別れた時を最後にまったく姿を見せることはなかった。
 きっと森の奥で静かに暮らしているんだろう。
 そう思って安心する反面、他の動物に襲われてしまったんじゃないだろうか? と不安に思ったりしながら丘からの風景を一人で眺めていた。
 僕の人格形成に深い影響を与えた出来事があったこの丘は、いつしか僕にとってとても思い入れの強い場所になっていった。










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