今日は図書館のアルバイトがあるために長く学校に留まる訳にはいかないが、時間に余裕がない訳ではない。彼女は家代わりの施設に荷物を置いた後にアルバイトに赴く訳ではないので、その間四十分程の時間的空白ができるのだ(教室と特別教室の掃除当番が一週間に一回割り当てられているので、このくらいの余裕がないと必ず遅刻が発生してしまうために御坂さんに掛け合って時間的余裕を許して貰ったのだ)。でなければ私は彼女の誘いを断っていただろう。
それにしても、妙な誘いだったと私は心の中で反芻した。
放課後に校舎屋上へ来ること。それも約五分の時間を置いて、だ。その五分の時間差が何なのか、それまで私は聞かなかった。いや聞けなかった、と言った方が正解か。それに彼女に直接聞かされた話を前提にするならば、何のための五分なのかという理由すらも透けて見える。どちらにしろ、現地に向かえば分かることだと思って私は一端思考を保留にしていた。
「五分、経ったわね」
彼女が赴いた決戦場へと歩き出す。屋上へ。校内に存在する屋外へ。内なる敵を押さえ込んで華々しく戦ったはずの彼女の下へ。
白状しよう、私はそこへ辿り着くのが恐い。結果を知るのが恐ろしい。彼女の行動によって私の居場所が変化することに、私は恐怖する。そして喜びを全身で表現する彼女を見るのが、そして打ちひしがれた彼女を見るのが嫌だった。その姿は数年前の私を想起させる、とても辛い過去の似姿なのだから。
スゥ=レミィ。彼女は綺麗な瞳をしていた。曇りのない、悲壮感すら漂わせる固い決意を私は彼女の奥底に垣間見た気がする。人種も、血筋も、性別すらも関係ない。私にはない、今の私には決して得られない彼女だけの強さが結晶化していたのだと思う。
人を好きだと言ったレミィさん。私を真正面に見据えて、気持ちを打ち明けることはどれ程の勇気が要る行為なのだろうか。自分を曝け出せる彼女はどこまでも純粋なのだろう。気高く、純粋な結晶体なのだ。強くて、脆いもの。打ち砕かれた時、果たして立ち上がるだけの気力を持ち合わせているのだろうかと思うと、私は他人事ながら堪らなく不安になった。
レミィさんが唯人君に、いや二人に受け入れられることに恐怖する私が彼女のことを心配している。矛盾だらけで支離滅裂なのだと、自分でも分かっている。だが矛盾した私こそが、偽りのない私なのだ。男性恐怖症の癖に唯人君や陽詩美先生の側にいたいと思い、傷に触れられることを恐れながら傷を知って欲しいと思う。身勝手極まりない。
脱却したいと思っても、それには私自身を破壊する程の苦痛を伴う。しかしレミィさんの心に触れた今では、それでも克服したいと思っている。それはとても恐ろしいことで、荒療治であることは分かってはいるけれどそれでも、だ。
考えながら歩いている内に、屋内と屋外を隔てる扉の前まで来てしまった。戦場と非戦場を分ける壁、ここを跨ぐことは次元の跳躍を意味する。扉の向こうが待つ結果に、膝が震えた。それでも私は歯を食いしばり、己を叱咤して重い屋上への扉を開いた。
見開かれた世界は私の予想を裏切っていた。
「……唯人君は」
自分がいつも名字で彼を呼んでいたことすら忘れて、思ったことが自分の口から吐いて出る。何故なのか、ただそれだけの意味しか持たない言葉が私の胸裡に木霊する。
「もうすぐしたラ来ますヨ」
屋上にいたのはレミィさんと、陽詩美先生だけだった。彼女は好きだと、どうしようもなく好きだと言った。なれば唯人君がいないのは片手落ちではないのか、そう思う。二人きりになる機会を、何故彼女は切り捨てたのだろうか。
「レミィさんは告白したんじゃなかったんですか」
「しましたヨ」
清々しさすら漂う微笑みのまま、彼女は言葉を紡ぐ。
「結果は玉砕でしたけどネ」
「ごめんね、スゥちゃん」
「メグミ先生は悪くないでス、スゥの問題ですかラ」
話が読めずに私が目を白黒しているからだろう、スゥは苦笑して説明を付け加える。
「スゥはLesbianですかラ、同性愛者ですかラ告白すル相手は間違っていませン」
「どう、せいあい」
舌でその語感を転がしても、違和感が拭えない。今まで別世界の話だと思っていたものが急に現実味を帯びたことに、私の心が付いていっていないのだ。
「スゥの性癖はやっぱリ気持ち悪いですよネ。メグミ先生も、ランもそう思うでしょウ」
私の知っている敗残者とは全く別種の雰囲気が彼女にはあった。傷を負って臆病になった私の纏う空気とも、緋岸さんの――陽詩美先生のお母さんのような歳経た者が持つ風格ともまた違う。負けてなお光り輝く、そんなことが本当にあるのだと私は初めて知った。
「そんなこと、ありませんよ」
私の言葉はその場凌ぎの偽物に聞こえるだろうか。だが私はレミィさんが心の底から羨ましかった。私が彼女の告白相手を間違えたのは彼女がはっきりと相手を指定していなかったのが原因である。確かに記憶を掘り返してみても、彼女は好きな相手が唯人君だとは一言も言っていない。
レミィさんも恐かったのだと思う。自分の内なる問題で、相手に拒絶されることに恐怖していたのだと思う。だから私にもはっきりとは伝えなかったのだと、私は推測する。
「私は、レミィさんを羨ましく思います」
それでも彼女は自分の意思で戦場に向かい、華々しく戦ったのだから。恐いから、痛いから、辛いからと自分の戦場に出ることを拒否し続けてきた私とは根本的に違うのだ。
ある種の緊張感に包まれた屋上に、また変化が起きる。扉が開き、また一人この世界に入り込んだのだ。その人物は振り返らなくても分かるので、私は他の二人のように屋上の入り口に視線を向けなかった。
「姉さんに、レミィさんに、永源寺さん」
唯人君だ。役者は揃った。
「レミィさん、陽詩美先生(点ルビ)、唯人君(点ルビ)」
三人の視線が私に集まる。
「私は負けませんよ」
柔らかな微笑みをより深化させ、レミィさんは不敵な笑みに変える。今一意味を把握していない陽詩美先生、来たばかりで話の流れが全く分からない唯人君。私の宣戦布告に三者三様の表情が場を彩った。
「スゥだっテ、負けるつもリはありませン!」
私にはレミィさんのような明確な恋心などない。どころか男性恐怖症のお陰で、恋愛に関して異常なまでに臆病だ。それでも私は自分の居場所のために、戦おうと決意した。その意味では陽詩美先生が好きなレミィさんは好敵手だが、同時に仲間でもある。時が四人を分かつまで、私は私の戦いを止めないだろう。
「姉さんはレミィさんと永源寺さんの間に何があったのか、分かる?」
「わたしにも分かんないよぅ」
私と、レミィさんは魅了の凝視に囚われてしまったのだ。優しさと強さに満ちた、他者(ヒト)よりもなお暖かい二人の純白の吸血鬼(ホワイテッド・ヴァンパイア)の視線に。
完。
「ところで、恵先生は最近何で男の人と一緒に商店街歩いていたんですか」
「はわっ、見られてたの?」
「スゥも見ましタ」
「……あの人はね、わたしのお父さんなの」
「お父さン。援助行為といウ名の売春相手のことモ日本ではお父さんと呼びますネ」
「違うよっ。もぅ、スゥちゃんったらそんな日本語ばっかり覚えてるの? わたしと、唯ちゃんのお父さんだよぅ。お父さんも学校の先生だから私の教え方に悪いところないか、聞いてたんだよぅ」
「姉さん、僕もその話は初耳なんだけど。……この街に来てるなら、父さんも連絡ぐらい入れてくれても良いのに」
「あ、あはは。ごめん、お姉ちゃんが唯ちゃんに言うの忘れてたよぅ」
「そんな大事なこと、忘れないでよっ!」
「唯ちゃん、そんなに強く怒らないでよぅ。しくしく」
今度こそ本当に終わり。