「一八七五年、日本の軍艦が李氏朝鮮の首都・漢城に近い江華島付近で無断測量して朝鮮軍と交戦する事件が起こります。この事件は江華島事件と呼ばれ、翌年朝鮮が開国するという国家間の約束である日朝修好条規が結ばれます」
教科書片手に、授業を進める陽詩美。普段の彼女を知っている唯人としては、彼女が別人のように凛々しく見えていた。聞く者の気力を奪う脱力系の雰囲気はなるべく発さないようにと、気を付けるくらいの自覚があるのが弟としては何よりだった。図入りで当時の国際情勢を解説してくれるのは良いが、彼女には絵心も模式図を書くための要点も心得ていないので少々ノートに取りにくいのが難点だろうか。
黒板には板書の他にロシア、清国(中国)、朝鮮、日本、イギリス、と書かれた文字に矢印が付いている。ゲームや漫画の人物相関図を連想すると分かり易いだろう。
「何故日本がこのような行動を取ったのか、その背景には当時最強とまで呼ばれた国だったロシアの影がありました。ロシアの南下政策については皆さんが一年生の時、勉強していると思います。誰か答えられませんか」
勿論挙手するような英雄などいない。陽詩美は授業となると普段の天然ボケ全開な雰囲気を意識して排除し、至極真面目に授業をする(始業式の前に真面目に授業をするように、と教頭に嫌味を言われたらしい)。授業時間を睡眠時間とする者を怒ったりはしないので、比較的彼女の授業は人気がある。彼女の文字やら図解の分かり難さで、真面目に授業を受けようとする者に対しては辛いものがあったが。
「では、先生と目が合った斗波さん」
今日も生け贄が選出される。
「あぅ、えと」
隣の席に座っている委員長の小牧さんが助け船を出しているのが、唯人の席から確認できた。禁止はされていないし、陽詩美もそれを咎めるような狭量ではないのだ。
「……不凍港を手に入れることです」
出所はともかくとして満足の得られる答えが返ってきたので、陽詩美は話を続ける。
「そう、正解です。ロシアは朝鮮を武力で属国或いは保護国化させて不凍港を得ることで、極東における地位を強化しようとしたのです。それに対して反発したのが勢力均衡を重視するイギリスと、朝鮮半島に一番近い独立国であった日本なのです」
陽詩美は先程の人物相関図のようなものを消して、朝鮮半島周辺の略図を新たに書き加えた。子供の落書きよりまだ酷いその図は、説明して貰わねば地図だと分かるものなどいまい。板書の方も、文字が丸みを帯びていて解読がしにくい箇所が見受けられる。唯人にも勉強を諦めて睡眠に費やす者の気持ちが分かるというものだ。
もう一つ、睡魔が生徒を誘う要因がある。
「ここで押さえておくポイントは、当時武力を背景にした保護国化・属国化が合法だったという事実です。今現在の常識から、過去のことを語るのは良くないことなのです。ともかく朝鮮半島が強国ロシアの手に落ちれば日本は国際社会へ出てくる入り口を塞がれる形となり未来は断たれてしまいますので、日本政府は頑なに鎖国を維持しようとする朝鮮王朝に紛争を仕掛けさせて強引に開国させるという強硬手段に出ます。イギリスは南下政策を何度も防いできた経緯からも分かる通り、ロシアの進出を快く思っていませんので影から日本を支援するのです。この辺りが日英同盟の締結理由になる訳ですね」
幾ら本人が真面目に授業を展開しようと、努めてそんな雰囲気を排除しようとも陽詩美自身の声が眠気を誘う類の性質なのだということである。彼女の授業を一から十まで真面目に聞いて理解しようとしている生徒はお世辞にも多くないのだ。
「教科書は一端二百六十ページを開いて下さい。朝鮮王朝は国論が紛糾していました。内政改革を求める閔妃一派、彼らに反対する大院君一派です」
紙を捲る音が控えめに教室に響く。当時の極東情勢を陽詩美は懇切丁寧に授業をするものの、努力は反比例しているのは火を見るより明らかなことであった。
「うぅ〜、わたしの授業面白くないのかなぁ……」
肩を落として陽詩美は卵焼きを一口食べる。先程の授業がいつもより生徒の睡眠率が多かったのが堪えたらしい。一生懸命努力しているのは事実として胸を張れても、結果に結びつかないのがもどかしく、そして悔しいのだ。多くの生徒に真実を知って欲しいから、彼女は歴史教師になったのだ。それなのに現状は真面目に聞いている生徒が少ない。
「授業は面白くないものだよ、姉さん」
「毒薬口に苦シ、ですよメグミ先生」
「良薬口に苦し」
「Oh、弘法も木かラ落ちルでス」
「……レミィさん、わざと間違えていないよね」
「スゥはいつだっテ本気ですヨ」
スゥと唯人の漫才も好い加減に息が合ってきたのだが、それを眺めていても陽詩美の機嫌は直らなかった。何を見ても最近彼女は溜息が漏れるようになっていた。誰にでも好不調はあるもので、当然万年脳内にお花畑が展開されている陽詩美も例外ではない。ただ唯人が心配するのは、今回は不調の波がいつもより長いことであった。
「必要以上に悲観することないよ」
「本当に?」
上目遣いで自分を見上げる姉に、唯人は一瞬たじろいだが平静を保つように努める。ここで狼狽えれば、彼女の自信がまた一つ崩れるだろうと己に言い聞かせ唯人は言葉を紡いだ。
「授業中に寝る生徒がいるのはいつものことだから、姉さんは己の正しい道を行けば問題ないよ」
「唯ちゃん、それ解決になってないよぉ〜っ」
食べ終わったお弁当の底に箸でこつこつと叩いて唯人の返答に対する不満を呈する。とは言え、弟の彼からは解決策を提案することなどできない。この問題に対する具体的な特効薬など存在しないからだ。対処療法は存在しても、根本的な問題解決にならない。ましてその対処療法も陽詩美が使いこなせるかどうかとなると、また別問題なのだ。
「解決策なんて、存在しないからね」
「それは身も蓋もないよぅ……きゃっ」
突風が三人を包み、唯人が陽詩美を抱き寄せたことで驚いた彼女が悲鳴を上げたのだ。スゥは咄嗟に持参したビーチパラソル(市街仕様に改造されているので、正確には「ビーチパラソル」と呼べる代物ではない)が風に飛ばされないようにとしっかりと掴んでいる。三人は中庭の一角で少し大きめなパラソルの作る日陰の下、昼食を摂っていたのだ。
それは直射日光に長時間当たることが健康に良くない唯人を思って、スゥが用意したとっておきである。風が収まってもくっついている二人を見て、スゥは嫉妬で頭が瞬間煮沸されたがすんでの所で自制して意地悪い表情を作った。
「熱々ですなァ、若旦那と若奥さマ」
「や、やだっスゥちゃんったら、違うのよぅ」
「弁解する前に僕から手を離してくれないかな、姉さん」
「え」
半ば無意識の行為なのだろう、陽詩美は抱き寄せられた際に自分でも唯人の背中に手を回していたのだと彼女は今更ながら気が付いた。いくら姉と言えどその十分に豊満と言える胸(例えるなら、やはり温かいマシュマロだろう)を押し付けられた弟は恥ずかしいようで、視線があさっての方へ向いている。彼女の顔は急速に紅潮していき、思考能力が正比例で削ぎ落とされていった。
唯人の鼓動が陽詩美の耳に届く。陽詩美の鼓動が唯人に伝わる。言葉はなく、ただ互いの生体反応のみが姉弟の間で行き交う。離れる機会を逸した二人は、次の行動に移れぬままに寄り添った形で固まる。
「二人とも離れテ、離れテ下さイ! 近親相姦の不純異性交遊は色々な意味で駄目のダメダメですヨ」
二人の予想の斜め上を行く反応に、スゥは憤激して二人を引き離す。冷静に彼女を見ていれば、馬鹿騒ぎやら他人の痴情のもつれやらが大好きなはずの彼女自身も相当におかしいことに気が付いただろう。
「はわわっ、き、きききききき近親相姦なんて、わたしは、そんなことっ」
だが三人の内、誰一人として冷静な者がいなかったことがスゥに味方した。彼女の道は茨を敷き詰めてある過酷な道程なのだ。陽詩美にバレることはなくとも、視野の広い唯人には露見する可能性があった。
だが唯人にも今は陽詩美を助けるような余裕はない。無言で深呼吸をして脈拍を正常に戻そうと、必死に己の中の動揺を沈静化しようと躍起になっていた。今発言しても墓穴を掘るようなことしか言えないだろう、との予測の下での無言である。
「た、確かに唯ちゃんのこと好きだし、大切な弟だけど、でもでもやっぱり姉弟でやっちゃいけないことだし、でもわたしは唯ちゃんのこと好きだし、それも良いかなって考えたこともあるわけで、ええええとっ」
陽詩美は恐らく自分で何を口走っているのかすら、分かってはいまい。彼女は自分で自分を混乱に陥れ、自爆する人種なのである。公表すべきではない内容まで口外にしている、と分かったら混乱は一層拍車が掛かってしまうところが余計に性質が悪いと言えよう。
「姉さん、深呼吸」
一足先に己の動揺を収拾した唯人が、陽詩美を誘導する。
どんな混乱しようと唯人の言うことを聞き入れるだけの理性(本能である可能性は否定できない)は残っているので、彼としてはやりやすい。
「吸って」
吸って――
「吐いて」
吐いて――
「吸って」
吸って――
「吐いて」
吐いて、と二往復する頃には陽詩美の混乱は収まっていた。落ち着いた後、改めて彼女は顔を赤くした。己の口から吐いて出た言葉を思い出したこと、そして自分自身の痴態を思い出しての赤面である。理性ある羞恥なので、先程のように暴走はしない。ただ彼女としては理性あるからこそ、余計に恥ずかしい訳で。
「唯ちゃん、恥ずかしいよぅ」
「僕にも悪かった部分はあるけど、半分以上姉さんの自業自得だよ」
「本当にユイトとメグミ先生は仲良いんですネ」
「うぅ〜」
唸っても解決などするはずがない、そんなことは陽詩美にも分かっている。照れ隠しにもなるまい。そんな彼女にスゥは真剣な顔を作る。
「メグミ先生、ユイト、今日の放課後空いてますか」
「……放課後? あまり遅くならないなら、大丈夫だよぅ」
「僕も平気だよ」
「屋上に来て下さイ。大事な、大事な話がありますから」
陽詩美が先に来て、十分後くらいに唯人が来て欲しいとスゥは妙な注文を付けた。先程とは打って変わってあまりの真剣さに陽詩美は気圧されるが、教師としての自覚からか今度は狼狽しそうになる自分を押さえることに成功する。
「絶対、来て下さいネ」
スゥにしては弱々しい笑顔を陽詩美と唯人に向け、パラソルを畳んでその場を後にした。いつものスゥとは何かが違う、それは二人とも分かっている。だがそれが何なのか、分からない。昼休みはもう終わりに近い、考える時間などもう残されてはいない。二人は顔を見合わせた。
「スゥちゃん、なんだろうねぇ」
「放課後になってみれば、分かるでしょ」