今日は図書委員会の方の用事で私は近くの商店街へと買い出しに出ていた。図書委員会とは基本的に図書館の本を取り扱うことを目的とした組織であるが、やはりそれだけでは委員会たることができない。戦争も生活も生産活動も、補給がなければできぬものである。本の貸し出しのために司書を常駐させるにしても、図書カードや学校指定の貸し出しスタンプがなければただの監視官にしか過ぎないだろう。

 資材と、人材と、組織の三つがそろって初めて委員会は委員会として機能するのだ。買い出しは交代制で行っていて、本来の私の役割ではない。だがその役割を担っていた委員会会計の松原さんが今日は休み(彼女は格闘技同好会の会長をやっていて、委員会も兼任する物好きなのだ。何でも今日は試合なのだ、と本人から聞いていた)なので、代役として私に白羽の矢が立ったのだ。

「油性マジック・黒が十、クリップ一箱、輪ゴム三箱、あとこれは……」

 松原さん直筆のメモなのだが、彼女の字は丸くて少々解読しにくいところがあるのが難点なのだ。可愛いと言えば聞こえは良いものの、はっきりと言えば文字の利便性を殺す傾向があると言えた。そして彼女の書くメモにはもう一つの難点があった。

「有栖インダストリィ社製……えいちえむえっくす……何かしら」

 型番で書かれていたり、略称で書かれてあったりと松原さん本人ではない私には解読に窮する箇所が幾つか見受けられるのだ。学校から商店街に行く道すがら、答えを解き明かそうと知恵を絞っているのだがこれがなかなかに手強い代物だった。文末にハートマークなんて付けている暇があるなら、ちゃんと正式名称を書いて欲しいと愚痴ろうにもここには本人がいない。

 仕方なしに次のメモに移る。

「ジオミレニアム社製アミノ=マトリクス三袋、って完全に私物ね」

 それはジオ社の主力商品である粉末式スポーツドリンクの名前で、どう考えても委員会で必要になるとは思えない。他にもエムロードサポート社製の強化リストバンドとか、クロームストレングス社製の最新モデルの運動靴とか、本気かどうかすら怪しい品々がメモの裏側に記載されていた。裏側に行くとバレーナアスリーテス社製のエアロバイクだの、ムラクモマテリアル社製のウォーターバックだのどんどん高価な物が追加されていくのだ。全部購入すると諭吉さんが何枚消えることになるのやら、試算するのも馬鹿らしい。略称やら型番で書いてある本当に必要なものと違って、これ以上ないくらい記載は正確且つ詳細である。

「松原さん、何処まで本気なのかしら」

 全部本気だった訳ではないだろうが、最初の方の私物は本当に公費で買うつもりだったのかも知れない。先生に告げ口する気は全くなかったが、公私混同だとからかい半分で問い詰めるぐらいはしても良いだろう。何しろメモが不可解なせいで私が難儀しているのだから。

「あ」

 さて何から買いに行こうかと店と今の自分の位置関係から思案していると、前方約十メートルに知っている人間を発見する。横断歩道を渡ろうとしているのは、陽詩美先生だ。別に特徴的な程派手な服装をしている訳でも特別目に付く程の美人という訳でもないが、陽詩美先生は何故か良く目立つ存在なのだ。

 駄目で元々、と陽詩美先生に声を掛けてメモの解読不能部分を聞いてみようという算段である。私は少し小走りに近付こうとして、足を止めた。

 陽詩美先生一人で歩いている訳ではなかったからだ。

 陽詩美先生の表情は、学校で見るそれよりも一段明るい。男の人と、二人で仲が良さそうに何かを話しているのが確認できた。当たり前だが、先生のそれは私の知らない顔だった。私は信頼できる者に見せる、先生の素顔なのだと何となく思った。

 陽詩美先生の横にいる男の人は、弟の唯人君ではない。多分四十代、良くて三十代後半の年嵩の落ち着いた雰囲気を纏っている男性だった。優しそうと言うか、穏やかな表情の中年紳士という形容が一番しっくり来るような、そんな人物である。自然体の先生を自然体で受け止めているように見えて、二人が恋人同士だと言われても信じてしまいそうである。

「永源寺さん」

「はい」

 彼が陽詩美先生にとって何者なのか、興味があった。だがそれと同時に人の秘密に土足で踏み込もうとしていることに対し、罪悪感もある。そして興味対象が未知の男性であることに対する、私独特の抵抗感がある。

 追うべきか、追わざるべきかと逡巡している内に二人は地下街へと姿を消してしまった。残念とも、安堵とも付かない溜息が私の口より漏れる。流石に自分の用事を後回しにしてまで、二人を追跡するような野次馬根性は私にはない。これで良かったのだ、と気を取り直して思考を本来の買い物へと戻す。

「良し」

「何がですか」

「ひぁっ」

 いきなり背後から声を掛けられ、私は思わず情けない声を上げてしまった。振り向くと緋岸さんが立っていた。ただ驚いたのは私だけではないらしく、私の咄嗟の反応に彼女も身を竦めている。

「脅かさないで下さい」

 まだ心臓の鼓動が身体を通して伝わってくる。予想外の行動に対して私は極めて脆いのだ。

「ちゃんと声を掛けましたよ。はい、って返事も貰いましたし」

 そう言われれば生返事はしたような記憶がある。前方に注意を向けすぎて空気のように聞き流してしまったが、確かに私に対して向けられた声があったらしい。

「すみません、前の方に知り合いを見付けたもので」

「追わないんですか」

 そんな緋岸さんの問い掛けに少しだけ決心がぐらつくが、それでは性質の悪いストーカーと変わらないと己を戒めて首を横に振る。人の秘密をそこまで熱心に暴こうという行為に対して、私は好奇心よりも罪悪感が強い。

「別に尾行が私の目的じゃないですし」

 目的は買い出しであって、ストーキングではないと私は自分に再度確認する。

「尾行する気があったんですか」

「あ゛」

 私の失策にくすりと小さく笑う緋岸さんを見て、からかわれたことを自覚する。図書館にいる品の良い中年女性の理想のような緋岸さんとは微妙に性格の違う、若々しさが今の彼女にはある気がした。やはり他人の知らない顔を発見するのは新鮮な気分になれるような気がする、その人とまた一つ親しくなったようなそんな嬉しさと共にそんな思いが湧き上がるのだ。

「冗談です。永源寺さんは学校帰りにウィンドウショッピングですか」

「いえ、委員会の買い出しなんです。係りの人が部活の大会で休みなんで、私が代わりに出てるんですよ」

「偉いんですね」

 緋岸さんみたいな女性に褒められると、何だか母親に褒められたような気になってしまう。本物の母親に褒められたことなんて、記憶にある限り一度もないのに。緋岸さんみたいな女性が私の実の母親だったらどんなに良かったか、と思う。

「そんなことはないですよ。それと緋岸さんはどうしてここに? 今日は休館日じゃないですよね」

「私も永源寺さんと同じで、買い出しなんですよ」

 ほら、と買い出しメモを見せる。行くべき店は奇しくも同じ店である、偶然もあったものだ。仲間がいることに、私は少しだけ勇気を持てた。

「行き先、同じなんですね」

 私と緋岸さんは目的地の店まで歩き出す。商店街といっても、目当ての店は正確には商店街の外れから更に外側にあるためにここから十数分程あるかねば着かない。それまで何か話題を提供しなければならないのだが、如何せん私には話題がない。どうにかしなければと焦れば焦った分だけ頭の中が空になっていく。酷くもどかしい感覚が、私を支配する。

「永源寺さん」

 話題探しに必死な私に、緋岸さんが話し掛ける。手前勝手なことだが彼女の方から話し掛けてくれるのは有り難い。そう思う私は間違いだったのか。

「ごめんなさいね」

 私は緋岸さんの謝罪の意味が分からない。

「何が、ですか」

「先日のことです、古傷に触れてしまったみたいで」

「構いませんよ」

 その言葉が嘘だということは、自分でも分かっている。本当に気にしていないのなら先日私があんな態度を取ることもなかっただろうし、あの当時を夢に見ることもないだろうし、まして古傷の象徴たる男性恐怖症だってもっと早くに克服できていたはずなのだから。だがどんな言い訳に言を費やしたところで緋岸さんに八つ当たりする理由になどならないだろう。

 分かっているからこそ、嘘を吐く。

「過去はなくなりませんし、私の不幸は緋岸さんのせいなんかではありませんから」

 平静を保ちつつ、心象から沸き立つ汚泥が体外へと流出しないようにと努めて感情を排除して言う。棘のある言い方だとは思うが、毒を垂れ流さないようにするための必要な処置だと自分に言い聞かせる。

 私の態度に気圧されているのか、それとも拍子抜けしているのか。横目で確認した緋岸さんには迷いが見られる。

「それでも、申し訳ないと思います。私自身、経験がありますから」

 緋岸さんのその態度を私のせいかと訝ったが、話の流れから言ってどうやら違うらしい。私は口を挟まずに彼女の話を促した。

「私は二度離婚してるんですよ」

 私の脳裏に言い争う男女の姿がフラッシュバックした。男性の顔はもう思い出せないが、女性の方は母親だ。

「その当時の私は余裕がなかったのでしょうね、今考えてみれば視野狭窄も良いところでしたよ。仕事で忙しいあの人、私に懐いてくれないあの人の息子、泣いてばかりの私の娘。自分一人だけが不幸なんだと思っていたのですから」

 緋岸さんの目に映るのは、後悔。かつての己を責めるさまに、私は己の人生を視た。

「毎晩毎晩夫婦喧嘩、いえ一方的に私が喚いているだけでしたね。あの人は私が幾ら不平を訴えても、何も言い返そうとしませんでしたから」

 最初に結婚した男性は緋岸さんに対して何でも口を出すタイプだったのだという。彼女はそんな男性に嫌気が差し、離婚してしまった。そんな経験を踏まえて寡黙な男性と結婚したが、今度は彼の寡黙さに耐えられなくなったのだという。更に双方の血筋の子供は緋岸さんを困らせるだけで、当時の自分には重荷にしかなっていなかったと彼女は語った。

 だが別れてから自分の我が侭さ、身勝手さに気が付いたと緋岸さんは付け加える。

「彼の息子も、私のそんな狡賢さに気が付いていたからこそ懐かなかったんでしょうね。だからでしょうか、離婚だという時に実の娘にまで私は見放されたんです」

 泣いてばかりいた娘を不憫に思ったのか、数年は歳に差があった彼の息子が娘を慰めていたのだと語った。親の愛情の決定的な欠如という、心身の成長において過酷な条件で生き抜いてきた強さが彼の息子にはあったのだろうと、私は思う。私も、覚えがない訳ではないのだ。

「だから、ごめんなさい。私みたいな大人がいるから、永源寺さんのような子供が生まれるのだから」

 緋岸さんの目尻の皺は伊達ではないのだと、私は改めて思った。人生の分だけ苦楽がある、彼女が顔に刻んだ皺はその証なのだと思う。

「やっぱり、緋岸さんが謝ることなんて何一つないです」

 無駄なことなど何一つないのだ、私はその考えを改めて強くした。

「緋岸さんは自分の過ちに気が付いて、こうやって反省しているじゃないですか。それだけ前進した、ってことですよ」

「ありがとう、そう言ってくれると気が楽になります」

 場が少しだけ明るくなった。もっと明るくしようという、そんな意図があったのは確かだ。殆ど冗談に近いその発言が場を明るくする以上の結果を引き出したのはやはり偶然か、それとも必然だろうか。

「そうそう、緋岸さんの子供さんの名前何て言うんですか。もしかしたら私の身近にいるかも知れませんし、きっと礼儀正しい人に成長しているでしょうからできれば知り合いにもなりたいですし」

「多分あの人の姓を使っているでしょうね。恵 唯人と、恵 陽詩美っていう名前ですよ」




 当時の記憶で最後に覚えているのは、私を置いて出ていく母親の後ろ姿だった。
「……あ」
 手を伸ばすが、何も掴めない。気が付くと私はベッドの上で手を伸ばしていた。何かを掴もうとして、けれど何も掴めなくて。目の前にあるのは自分を犯す男の影ではなく、二段ベッドの底だ。
「また、あの夢だ」
 上体を起こして胸元に触ると、寝汗でシャツがべっとりと張り付いているのが分かる。心臓の鼓動が己の身体を通して耳まで聞こえている。どうやら目が覚める直前まで酷い興奮状態にいたらしい。

今し方まで見ていたのが現実にあった悪夢の再現であることは、ぼんやりと覚えている。二次性徴も始まっていない私を度々犯したあの男はもうこの辺りにはいない。確か別件で逮捕されていたことを最近新聞で知った。母親の方は知りたくもなかったので、何がどうなっているのかは今を以て分からない。
 今でも傷が癒えていないといっても、保護された直後よりは随分マシになったと私でも思う。当時から続くのは大分改善されたとは言え未だ私の心に残る男性恐怖症と、悪夢の再現くらいだ。窓の外を見ると、まだ日が昇っていない。
 私は身体を倒し、再びベッドの中へと戻った。頭は冴えてしまっていて、また睡魔の渦へ回帰できるとは思えない。睡眠不足にはなるだろうな、と思いながら私はひたすら朝が来るのを待った。




 委員会は部活に入らない者の中から選出される。だが委員会などという面倒事に関わるということは、即ち自分の自由な時間を削ることに他ならない。故に自薦他薦のみで委員会の所属を決めようとすると、どうしても無駄な時間を食ってしまうのは何処の学校でも一緒である。その辺を解消するために二年二組では自薦なき場合、空席をくじ引きで決める取り決めになっていた。

 自薦で埋まった新年度の委員会員は三割、他は例年通りくじ引きで決まったのであるが。

「姉さん、ご飯食べるのが遅くなるって僕に愚痴られてもね」

 くじ引きで陽詩美の担当している図書委員会を選んだのは不幸中の幸いだろうか、それとも幸い中の不幸だろうか。唯人は今までなら商店街のスーパーで今晩の献立を考えているところだろうが、今日は委員会初日である。自薦ではないので、当然彼はやる気がない。彼が何かの委員会に立候補しなかったのは自分の自由時間のためではなく、自宅の家事をこなさなければならないからなのだがそれは委員会を辞退できる理由にはならないのだ。

「愚痴言うくらいなら、クラスで僕の事情説明してくれても良さそうなものなのに」

「あ、あはは」

 珍しく不機嫌な唯人に、自薦で図書委員になった蘭は乾いた笑いを上げる。彼が家事全般と姉の少ない収入で生活をやりくりしている学生であることは、一年前に同じクラスだった同級生ならば大半が知っている事実である。それを揶揄する者は多いが、実際に彼と同じ生活を実践しようとしてできる者は数少ないはずだ。

 趣味に掛けられる金などあるはずもなく、食費を切り詰め光熱費を切り詰め水道代を切り詰めしてようやく生活ができる程度だと、蘭は陽詩美から聞いている。新聞もない、テレビもない、パソコンやゲーム機など勿論ない。文明から切り離されたような生活を、果たして他の同級生が耐えられるかどうか。

「ごめん、永源寺さんには関係ない話だったね」

 唯人は苦笑して、まだ返却されていない本・返す場所を間違っている本を探してカートに積んでいく。長らく同じ作業をやっていたような手際の良さに、蘭は内心舌を巻いていた。図書館で正式にバイトもしだして、一日の長がある彼女に劣らず彼は作業のコツを掴んでいるようだ。

 簡単な説明の後、図書委員会は早速実働に移っていた。

「ちょっと興味あります。恵君がどんな生活しているのか、って」

「永源寺さんは他人に興味ないと思ってたよ」

「私だって人並みに噂話とか好きですよ」

 唯人君は私を聖人君子か何かだとでも思っているのだろうか、と蘭は内心面白くない。人よりもずっと暗い過去があるのは事実だが、だからといって人よりも清廉潔白生きているわけでもないのだ。知ることで回避できる落とし穴がある、それは彼女の経験則から来た生き方なのである。数年前の性的暴行体験という負の財産が彼女をそんな人間にしたのだ。当時の母親をつぶさに観察していれば、彼女の経験した惨劇は回避できたはずなのだから。

「逆に恵君は人の噂話とか、全然しませんよね」

「うん、まあ。他人を詮索するのは、好きになれないからね」

 唯人の考え方は蘭のそれとは真逆のところにある。知らないことで回避できる落とし穴がある、それが彼の経験則から来た生き方なのだ。知ろうとしなければ、探ろうとしなければそれはないも同然。だから彼はできる限り知ろうとしない。自分の与り知らぬところで何が起ころうと、それは関わらない以上は他人事でしかないのだ。

 突然にやってくる別れは痛いから、辛いから、悲しいから。そんな負の色彩を帯びた過去が彼をそんな人間にしたのだ。

「じゃあ、恵先生のことも知らないんですか」

「姉……先生に何かあったの?」

 身内のこととなると、基本的に「来る者は拒まず、去る者は追わず」を崩さない唯人も多少積極的になるのはいつものことだ。だが彼のこの聞き返し方から、本当に知らないらしいと蘭は確信を強める。彼女は彼女をいつも心配する弟に何も知らせない陽詩美に対して、憤りを覚えた。

「それこそ噂ですが、恵先生に年上の恋人ができたとか」

 それは蘭本人が数日前に目撃したことだった。彼女は目撃談を話した訳ではなかったが目撃したのは彼女だけではなかったらしい、噂として一部の情報通に囁かれるようになっていた。

「へぇ」

「それだけ、ですか」

「先生とは姉弟だけど、所詮他人だからね。個人的なことまで関わるのはやっぱり公平じゃないと思うから。僕も噂を耳にしても言わないし、あっちもそんなこと話さないよ」

 随分乾いた人間関係だ、と蘭は思う。いつも陽詩美の世話を焼いているとは思えない程、彼は割り切って物事を考えているらしい。だが彼は陽詩美が自由意思の下で行動した結果、手酷い失敗をしないと考えている訳ではない。失敗の後始末は手伝うが、失敗するのは本人の自由だと彼は言いたいのだ。

 それとも唯人は陽詩美とは血の繋がりがないから他人だ、とでも言いたいのだろうか。

「特に色恋沙汰となると、本人の自由だしね」

 口惜しいが、唯人の持論は紛れもなく正論である。だが事は仮にも姉の事情である、蘭には彼が余りに冷たく見えた。二人の仲が一般的な姉弟のように冷え切っているならばこんな考え方も成り立つかもしれないが、唯人と陽詩美の姉弟間の関係は普通では有り得そうもないくらい良好なものなのだ。

「お姉さんのこと、心配じゃないんですか」

「勿論心配だよ」

「だったら」

「でも僕は姉さんを信じているから」

 蘭は言葉が詰まった。唯人の理論が理解できない訳ではないし、それが彼独自の倫理規範に基づいての考え方であることも分かる。だがそれでも、彼女には納得できそうもなかった。感情がついていかないのだ。

 何を言うつもりだったのか、頭の中に存在した靄を吐き出したくて蘭は何気なく目を唯人に向ける。


それは全くの偶然だったのだろう。話しながら作業をしていた彼と、蘭の視線が空中で交差する。その瞬間に、蘭の中で彼女に性的暴行を働いていた『獣』の瞳と唯人の赤い瞳が重なり合う。

 何の関心も示さない冷たい瞳。笑おうが怒ろうが、決して変わることのない瞳。虚構の瞳に射抜かれた蘭は全身の力が抜けて、立っていられなくなってしまい持っていた本を取り落とした。

「永源寺さんっ!」

 切迫した唯人の声が、蘭にはむしろ遠く感じられた。本棚に身を預けるようにして倒れた蘭を、彼は即座に作業を中断して抱き起こそうとする。彼女の持つ過去の背景など、彼は知る由もなく。

「嫌ぁっ!」

 抱き起こそうとした当の蘭本人からの余りに強い拒絶に、唯人は身を固める。彼女の顔には恐怖の色が濃い。陰惨な体験から来る男性恐怖症は当初から比べると随分と影を潜めてはいたが、なくなった訳ではない。胸を両手で抱くように、本棚を背に自分を護ろうとする。

 彼が手をこまねいている内に、悲鳴を聞きつけた他の委員会員が駆け寄って彼ら二人を取り囲んでいった。

「やだ、やだぁ……」


ざわめく取り巻きに、蘭は狂乱の色彩を益々強めていく。他者が、男性が恐いのだ。ちょっとしたきっかけでそれはぶり返す。最近は特に唯人やバイト先の御坂館長などに対する拒絶反応の薄れから、彼女自身も甘く見ていたのだ。理由もなく男性が恐ろしくなるということを。心理的な発作に等しいそれは、まさしく病気であると言えた。

 群衆を掻き分けて、陽詩美が輪の中心に進み出る。いつものようなのほほんとした表情ではなく、真剣さが雰囲気からも見て取れる。余裕など、微塵も見られない。

「先生が永源寺さんを保健室に連れて行きますから、皆さんは作業を片付けて置いて下さい。先生が戻ったら解散します」

 陽詩美が唯人に「後をお願い」と耳打ちし、一人では立てない蘭を連れて図書室を出ていく。

 後に残されたのは唯人に対する疑惑と蘭に対する憶測だけである、作業を続行する雰囲気ではない。彼女が怯えている場面だけを見せられた者がどう判断するのかは想像に難くない。どんな言い分やどんな背景があろうと一方的に唯人が悪者にされるに決まっていた。あれ程衝撃的な場面ではどんな弁明も効果はあるまい、彼自身もそう考えて口を開かなかった。

 それでも去年蘭や唯人と同じクラスだった委員会会計の松原がこの図書委員会にいたのが、唯人を救った。彼らが蘭の持つ男性恐怖症の発作が原因であって、唯人が悪い訳ではないと弁解してくれたのは彼にとって幸いだった。

 彼が悪い人間でないからこそ。いつも陽詩美の世話を焼いているお人好しである、と知られているからこその助け船であった。

「ありがとう、みんな」




 心からの感謝が彼の口から出ても、不思議はあるまい。
 今日の図書館のバイトは、職員の浅香さんが育児休暇を取ったので少し忙しかった。元々職員数が少ない図書館である、一人の欠員が全体に響いてくるのだ。それでも私が正式にバイトとして働くようになったので、余裕ができたらしいと御坂さんは話していた。

 浅香さんにはまだ保育園に通っている娘が、真笠さんには同じく保育園に通っている息子が一人いる。御坂さんは二人に掛かる負担をできるだけ減らしたいらしく、その分私や緋岸さんにしわ寄せが来ている。そのこと自体には特に異論は出ないが、やはり人に接する機会が増えるのは私にとって辛いものだった。

 昨日男性恐怖症の発作(と呼ぶ以外に呼称が見当たらない)が発症してから、私は他人と目を合わせるのが恐くなっていた。また発作が起こったらどうしよう、そればかりが頭の中を巡る。もし発症してしまったら感情のタガが外れた私自身にはどうすることもできない。御坂さんや緋岸さんなど、他の職員に多大な迷惑を掛けることになる。その時私はまた居場所を失うかも知れない。

 恐い。それはとても恐ろしいことだ。だが私の持病を理由に仕事ができなければ、やはり居場所を失う羽目になる。暗く十分に有り得る未来像に、私は身震いした。

「司書さン司書さン、良いですカ」

「はい何でしょう……レミィさんですか」

 アメリカからの留学生、一年前からの同級生、報道部のハイエナ記者、お祭り好きの人間ラジオ、最近恵姉弟に急接近(取材の一環との噂もあるが)している女の子。カウンター越しに私に話し掛ける彼女はスゥ=レミィさんである。

「すみませン、少しノ間ランを借りますヨ」

「ちょっとレミィさん。私、仕事の途中ですってば」

「カウンターの方は私一人でもできますから、ごゆっくりしていって下さい」

 「永源寺さんには助けられていますし」と緋岸さんは小さい声で付け加える。物分かりが良すぎるのか、それとも人が良すぎるのか、或いはただお節介焼きが好きなだけなのか。もっと邪推するならば、私と一緒にいることを苦痛に思っているという可能性もある。視線を合わせようとしない私を。

 はっきりしているのは私を連行するレミィさんの味方をしているという一点である。当の彼女はと言うと、どうやら椅子に座りたいらしく(図書館で勉強したい人用に、ここでも例に漏れず幾つか椅子とテーブルが置いてあるのだ)私の腕を掴んでぐいぐいと引っ張る。

「レミィさん、引っ張らなくても自分で歩けますから」

「そうですカ」

 言うが早いか、既に目的の場所に着いてしまっていた。レミィさんの強引さに多少の憤りを感じないではなかったが、一体何なのかという疑問の方が強い。彼女は突飛ではあるが一年間同級生をやってきた感想としては、常識を弁えている人間であると思っていた。そして彼女の顔に何やら深刻なものが浮かんでいることも、理不尽に対する怒りを抑える一因にもなった。

「ラン、あなたニ早速質問してモ良いでしょうカ」

「その前に私から一つ質問させていいですか」

「何でしょウ」

 いつもは無意味な程に自信に満ちあふれているのに、レミィさんはこの時に限って余裕のない表情をしている。それともいつも教室で見ている表情こそが作り物で、この顔こそが彼女の素顔なのかも知れないと思考の隅に過ぎった。

「何で私がこの図書館でアルバイトしていると分かったんですか?」

 言うまでもないが、私は正式に市に申請して雇って貰っている訳ではないので正規のアルバイト要員ではない。当然学校に届出など出しているはずもないし、出せるはずもない。要するに私のやっていることは校則違反なのだ、学校関係者に事がバレるのはまずいのである。ハイエナ記者の異名を取るレミィさんに知れたなら、面白おかしく脚色されて校内新聞で公表されかねない。

「スゥは何でモ知っているのでス」

 胸を反らして答えるレミィさんだったが、まるで返答になっていない。

「と言うのはJokeデ、実は先日この図書館に調べものデ寄った時にランを見かけタんですヨ。真剣に本を読んでいたんデ、声は掛けませンでしたけド」

「じゃあ私がアルバイトでこの図書館で働いているのは?」

「今知りましタ」

 がっくりと肩を落とす私。これではまるっきり自爆ではないか、と自らの失態を責める。勝手に警戒し、勝手に秘密をばらしてしまうなど馬鹿であるとしか言いようがなかった。今から御坂さん達になんて言おうか、学校でどんな風に謝ろうかとそんなことが私の頭の中を占拠する。

「安心して下さイ、学校側にばらすようナ真似はしませんかラ」

「本当に?」

「一発だけなラ誤射かもしれないとカ、良く言うでしょウ」

「いや、言わないと思いますけど」

 どうでも良いことだが、レミィさんは報道番組とか新聞が大好きで妙な言葉をよく使いたがる傾向にある。そうやって新しく仕入れた言葉を正しく使用せず、殆ど間違って使うのはどう言う訳なのか興味深いところである。これ程日本語を流暢に操るのに、不思議に思う者は多い。これでは確信犯と噂されもするはずだ、と私は改めて思った。

「些細な問題でス。それよりも、ランは学校で図書委員やっテましたよネ」

「ええ、それがどうかしましたか」

 私を助けようとしてくれた唯人君の顔が一瞬浮かんでは消え、同時に胸に幻の刺痛が生まれた。それは表情に出してはいけない痛みだ。

「図書委員会の顧問はメグミ先生ですよネ」

「……何が言いたいのですか」

 礼儀を重んじているとは言い難いレミィさんの念を押しように、私の言葉が険を帯びる。そんな私に怯むこともなく、彼女の瞳はこちらを真っ直ぐに見据えている。冗談で聞いているのではないことくらいは、私にも分かった。

「スゥはメグミ先生に関するできル限り詳細な情報が知りたいのでス」

「報道部関係ですか」

 一瞬言い淀むレミィさん。俯き、その碧色の瞳は一秒弱の間に様々な感情を映す。更に数秒を要し、最後には決意一色を宿して顔を上げた。

「違いまス。スゥは個人的ニ、メグミ先生を知りたいのでス」

 陽詩美先生の眩しいくらいに自然な笑顔が、唯人君の優しい微笑みが私の脳内にフラッシュバックする。大切なものをまた取られる、と心の奥でもう一人の私が叫ぶ。異物が混入すると物事は絶対に元に戻らない、それは私自身が身を以て経験した現象である。母親の浮気によって、家庭が崩壊した。母親が連れてきた男によって、それ以前の私が崩壊した。

 陽詩美先生はドジで脳天気で天然ボケだが、彼女程教師という役職が似合う人物はいまい。人に教えることを無上の喜びとし、採算や効率性を度外視して生徒を接することのできる人物は私の知る限り彼女だけだ。


そして先生の弟で同級生の唯人君も、姉に負けず劣らず優しい男の子だ。外見も考え方も個人の能力も全く別物なのに、優しさという一点において二人は並ぶ。私にとって二人のいる場所はとても居心地の良い場所なのだ、これ以上壊されてたまるかと思う。先日彼にあれだけ迷惑を掛けておきながら実に自分勝手な想いであることは分かってる、だがそれでも譲りたくない一線なのだ。

「理由は何ですか」

「好きだかラ」

 即答の直球は周囲の時を止める。私は目の前のレミィさんの除く全ての色彩すら、抜け落ちてしまったような錯覚を感じた。

「どうしようもなク好きだかラ。はっきリ自覚したのハ今年だけド、一年前に会っタ時かラ好きだったかラ」

 私はレミィさんの真剣さに息を呑んだ。強い、彼女は私が考えていたよりもずっと強い人間だったのだ。ただ一つの目的のために、それ以外の全てを切り捨てられる強さが彼女に見える。恥も、外聞も、彼女には些細なことだったのだろう。ひょっとしたら一年前、留学生にも拘わらず報道部に入って陽詩美先生を追いかけていたのはそのためだったのだろうかと思った。

無意識に、追って。自覚してからもなお、猛追して。

私には果たして、そんな強さがあるだろうか。

「だかラ教えテ欲しいのでス」

「私は」

 何を言えばいいのだろう。

「……私は」

 唯人君のことを、陽詩美先生のことを、どう考えているのだろう。そう思うと先の言葉が出てこない。レミィさんはこんなにもはっきり自分の気持ちを形にできているのに、私は何も掴めてはいないのか。私は奥歯を噛み締めて俯くことしかできないのか。

「……ランも、好きなのですカ」

「分からない」

 たった一言、絞り出された科白がこれだけだと思うと私は泣きたくなった。自分が酷くちっぽけな存在に思えて、ただ汚れているだけの人より劣った存在だと言われているような気さえして。涙がテーブルに一滴、二滴と零れる。

 己の小ささを呪うことしかできない。

 指針がない、私の中に明確なものが何一つないのだ。

「分からないよ……っ!」

 レミィさんが何を聞きたいのか、それは分かる。彼女は噂の裏付けを欲しがっているのだ。陽詩美先生の恋人出現疑惑の真偽、それは彼女にとってとても大きな指針となるだろう。私も真偽は知りたいと思ったが、それは危機回避のための処世術に端を発するものである。彼女のそれとは、根本的に異なるものなのだ。

 そんな姉の動向を知ろうともせずに信じることを選択した唯人君。

 己の気持ちに正直だからこそ、真実を知ろうとするレミィさん。

 私には自分に対する素直さもなければ、相手を信頼するだけの度胸もない。純真たろうとするには、私は汚れすぎた。他者を恐れるが故にまず言葉の裏を、真意を探ろうとする私は相手に身を預けることに抵抗を覚えすぎていた。私は人の暗部に手を触れ過ぎたのだ。


目を背けても視界に入るモノ、瞼を閉じても聞こえてくるモノ、耳を塞いでも臭ってくるモノ。それはとても正視できぬ醜きヒトの本質だと、私は身に叩き込まれて育った。だから唯人君の、陽詩美先生の本質に触れたいと思わない。二人もまた、私と同じく人の闇に触れてきた人間だと知ってしまったから。二人にはいつも輝いていて欲しいから、知ろうという気が起こらないのだ。悪意を糧に生きてきた私が、人並みの環境で過ごしてきたレミィさんと違うのはやはり当たり前なのだろうか。

「メグミ先生がユイトじゃなイ男の人と二人で歩いていルところを、スゥは見てしまいましタ、だかラ」

 一拍置いて、レミィさんは改めて言葉にする。

「だかラこの噂を否定か、肯定すル証言が他にモ欲しいのでス」

 私は顔を上げ、レミィさんを正面から見据える。まだ他人の視線は恐いものの(それでも女の子であるレミィさんは、男の人の視線よりは随分マシであるが)、逃げる訳にはいかない。恐怖から、過去からは絶対に逃げられないのだから。

「私は男の人と恵先生が歩いているところなんて、見たことありません」

 嘘が口を吐いて出た。罪悪感が生み出す胸の鈍痛に耐えながら、私を護るための言葉を探した。私はレミィさんが口を挟まないのを確認し、先を続ける。

「多分弟の恵君も同じはずです。私に「姉さんを信じてる」って言ってくれましたから」

 多分唯人君は本当に陽詩美先生に恋人ができていようが、いまいがどっちでも構わないのだろう。どうでも良いから、ではない。それこそ信じているから、だ。恋人を作ろうが、愛人を作ろうが、結婚しようが、離婚しようが、彼は姉を変わらず信じ続けるだろう。どんな愚行を繰り返そうが、その度に姉を許すのだろう。

 信じている、たったそれだけの言葉に私はそれ程の重みを感じた。私の買い被りかも知れない、だがそれでも今の私には真実と同等の重みがあるのだ。

私は唯人君を、信じているから。

「そウ、ですカ」

 少しがっかりしたような、そんな弱々しい表情で笑いかけるレミィさん。いつも元気一杯とは、そうそう行くまい。

「では司書さン、実はスゥは読みたイ本があるのですけド一緒に探してくれませんカ」

「あ、はい」

 やはり、恋する乙女は強いらしい。私はレミィさんに促されて、本来の仕事を思い出した。その後は私も委員会と図書館、両方で司書をやっている分だけ作業に慣れているので切り替えは早い。

「Englishで書かれタ本デ、題名は……」