「唯ちゃん、今日は何の日か知ってる?」

「いや」

「大事な日だよ」

「思い出せないね」

「わたしと唯ちゃんにとって一番大切な日なんだよ。ちゃんと思い出して」

 放課後、日が傾く頃に二人は通学路を歩いていた。いつもの日傘を差して、いつも通り並んで歩いて、いつも通り仲良く歩いている。下らない内容の話題すらいつも通りなのだ、記念日でもないいつも通りの日のはずだと彼は自信を持っていえる。だがそれでも、陽詩美は今日を大事な日だという。

 いつも通りの代わり映えのない日常で、特別な――

「姉さんの給料日か」

「……あたりだよぅ」

 一瞬の間を置いて、陽詩美は先程貰った茶封筒を嬉しそうに取り出した。


学校の方針なのか、給料は封筒に入って直接渡される形式であった。銀行口座に直接入れても何の問題もないと思われるが、それでも手渡しに拘るのはやはり何らかの(下らない)理由があるからなのだろう。確かに無味乾燥に数字が増えるより、実体的に現金が渡される方が有り難みがあるのは確かだ。

「あのね唯ちゃん、お願いがあるんだけど」

「却下」

「まだ何もいってないよぉ〜っ」

「どうせ姉さんのことだから今日は外食しよう、でしょ」

「うっ」

 陽詩美は言葉に詰まるところを見ると、図星のようである。

「誕生日に外食で好きな物食べられるでしょ」

「誕生日しか、だよぅ。年に一回だもん」

「僕はそれすらも自粛してるけど? 略式でトマトジュース一本飲めるだけ」

「ううっ」


弟の唯人とこの手の話をすると、どうにも陽詩美は旗色が悪くなる。本来持っている欲求を全体的に自制するような生活をしてきたせいか、唯人は経済的効率性を最優先にする性格になってしまったようなのだ。新聞も取らない、テレビもない、水道も節約する、まるで何処かのテレビ番組の節約生活の如しである。

「僕の料理に飽きたとか」

「違うよっ!」

 冗談交じりの唯人の言葉に強い否定が返ってきた。余りの語気の荒さ、陽詩美自身の真剣さに彼は一瞬たじろぐ。こんな強力な返事を返すことは彼女にはなかなかないことである、それだけ本気なのだという裏返しでもある。

「ご、ごめんなさい。でも本当に唯ちゃんの料理に飽きたなんて絶対にないから」

「……うん。僕の方こそ、ごめん」

 会話が途切れ、気まずい沈黙が周囲を支配した。会話なく足音だけが耳に届く、それはまるで二人が出会った当時に時間が巻き戻ったようであった。そう、二人は最初から姉弟であったわけではないのだ。両親が再婚した時に片親ずつ連れ子という形で初めて知り合ったのだ。外見的に似ていないのは遺伝的に当然であるといえる。

 本来ならば他人同士だった二人が姉弟であるということは、二人の両親が一度は離婚しているということなのだ。家庭の不和が彼らを引き合わせたとすれば、親子の絆はやはり浅かったと見ざるを得まい。

 親子の絆が浅かったから、不幸を被っている者同士の絆が強まった。


一人ではどうしようもなく弱かったから、唯人は強く在るための理由を陽詩美に求めた。理由がなければ人はなにもできないから、弱い自分を改造するために彼は性別を利用した。男であることを、身近な女を護るためのを存在として自分を定義したのだ。


一人ではどうしようもなく弱かったから、陽詩美は唯人が強く在るための理由として彼を支えた。当時は現在よりも唯人はずっと体が弱く、自分が両親の争いの元となっていたことに頭を痛めていたから、彼に必要とされようと必死だった。要らない存在ではないと、彼を必要とする人間がここにいるということを彼女は教えたかったのだ。


既に二人には法的に親と呼べる存在は一人、唯人の父親しかいない。二度目の離婚で陽詩美の母親は既に法的な意味で母親ではなくなっていた、つまり彼女は親権を放棄していた。もう陽詩美には血の繋がりを持った肉親はいない。一度目の離婚で父親を失い、二度目の離婚で母親を失った。


今、唯人の保護者は彼の父親になっている。だが父親はアパートに居着かない。仕送りもしない。殆ど顔も見せない。いないも同然なのだ、そんな状態で父親面されたら唯人は怒るだろう。肉親だからこそ、父親だからこそ、血が繋がっているからこそそんなことは許さないだろう。

だから唯人は姉が大切なのだ。

だから陽詩美は弟が大切なのだ。

 血の繋がりよりもなお深き、なお強い絆で結ばれるから。不遇な時代を知っているから、二人きりで寄り添ってきたから、陽詩美にとって家庭の味が珠玉なのだ。だからこそ真剣に彼の発言に異を唱える。

 ならば今日に限って外食を勧める理由は何なのか。

「お二人さン、今帰りですカ」

「スゥちゃん」

 走って追いかけてきたのだろう、スゥは息を弾ませて声を掛けた。右の二の腕には報道部の腕章、取材の途中らしい。

「突然ですけド、二人は夕食を食べましたカ」

「いや、まだだけど」

 言い淀むスゥ。一体なんだというのか、陽詩美も口を出さない。それとも余計なことを言えば唯人のチョップが額に直撃することを理解したからか。

「お二人の事情はスゥも知っていますけド」

 しばし虚空に視線を彷徨わせ、歩み寄って彼の持っている日傘の中へ入る。顔を上げて唯人の瞳と目を合わせると、サファイアのような碧眼には決意が浮かぶ。意味が分からない。原因が分からないから、彼にはスゥの行動が理解できなかった。見つめ合っていく内にどんどん自分の体温が上昇し、筋肉が緊張で固くなっていくのが自覚できた。だがそれが唯人の限界であった。

 唯人とスゥが顔を赤くして至近距離で見つめ合っているのが気に入らないのだろう、面白くないと冷めた表情を作る陽詩美に彼は全く気が付いていない。彼の集中力は全て目の前のスゥに向かっていた。


「お願いでス、付き合って下さイ」

 沈黙は一瞬だった。

「駄目っ! 駄目駄目駄目駄目だめダメだよっ、不純異性交遊だよ児童福祉法違反だよ淫行条例違反だよソフ倫規程違反だよエプロンの下は付けたままでとか食後のデザートよさぁ召し上がれとかじらさないではやくぅとか今日は屋上だから見られたらどうしようとか、とにかく色々駄目なんだよぅ!」

 いつもの陽詩美からはとても想像ができないような凄まじい剣幕で、日傘の中で見つめ合う二人を引き剥がして固まったままの唯人に抱き付いて自分の所有権を主張する。唯人が持っていた日傘が道路に落ちるが、彼女には構っている余裕などない。そんな彼女を見てスゥは一瞬悲しそうな表情を浮かべるが、すぐに表情を苦笑に変えて弁明を試みる。

「あノ、メグミ先生いいですカ」

「良くない、良くないよっ。唯人は駄目なの!」

 全く反論の余地を与えず喚く陽詩美を見て、唯人はようやく正気を取り戻した。

「ええと、レミィさん」

「唯人っ!」

 鋭い非難が唯人に突き刺さるが、彼は敢えて無視した。陽詩美が騒いでくれたお陰で、彼は冷静な思考を取り戻すことができていた。だからこそ、努めて抑えた声音でスゥに一言注文を付けることができたのだ。姉を自分の身体から引き剥がし、彼は道端に落ちた自分の日傘を拾って彼女に必要なものが何なのかを指摘する。

「目的語、いれないと意味が伝わらないと思うよ。言葉は正確に、丁寧に、ね」

 彼の一言に、スゥは自分の発言を思い返す。確かに、彼女は目的語を入れていなかった。

「……成る程。ではこういえバ良いわけですネ、これかラ食べ物屋の取材をするかラ付き合って下さイ」

「うん、伝わったよ」

 納得する二人に対し、陽詩美一人が置いていかれた形になる。今度は目が点になった彼女が立ち尽くす番である。

「……あれ?」

「つまり、姉さんの早とちり」

 スゥもゆっくりと頷いて唯人の発言を肯定する。状況を理解した陽詩美の顔が耳まで赤くなった。

「な、ちょっと、今のなし。唯ちゃんもスゥちゃんも酷いよぅ、とっても恥ずかしいよぉ〜っ」

「少しでも羞恥心があるんだったら、往来で不思議な踊りしないでくれるかな。それといろんな意味で僕達注目の的みたいだから、早く移動しようよ」

「ぶぅ〜っ」

「豚はいいから」




「オブイェークト!」

「T−72なんてそんなに良いかしら」

「唯物論者の国家が、何故か戦車を神聖化しているのよ? その矛盾がこう、グッとくるってもんでしょ軍オタとしては」

「真笠さん、私をあなたと同じ軍事オタクにしないでくれませんか。それに日本人ならチハ式戦車でしょう、小銃に装甲を貫かれたという逸話まである神国日本の誇る文字通りの紙戦車なのですよ」

 私と緋岸さん、浅香さんと真笠さんの四人は第二書庫の整理をしていた。先日新刊が担ぎ込まれたことで、一般の利用者が入り込まない第二書庫にしわ寄せが来たのだ。館長の御坂さんが司書をやっているので、図書館の通常業務は問題ない。黙々と作業するのも暇だということで、最近の国際ニュースの話からいつの間にか戦車談義に移行している真笠さんと浅香さんを尻目に、私は緋岸さんに仕事を教えていた。

 普通立場が逆だが、この図書館のことならば私の方が詳しいのだ。

「このラベルの真ん中の、この本だと『歴史』って書いてありますからこれは歴史関係の棚です」

 私はそう言って、試しに手に取ったサミューラ=ハンチストン著作『文明の融和と衝突』を棚に戻す。戻す手が幽かに震えているが、悟られてはいないだろうかと心配になる。

「ジャンルはラベルの真ん中を見れば書いてありますが、より詳しく見るならその下にある番号で確認します。今回の作業はこうやって先日ここへ運び込まれた書籍を本棚に整理していくことですから、余り難しくないですよね」

 緋岸さんには説明しなかったが、浅香さんと真笠さんはもっと大きな図書館へ輸送する本をまとめる作業をしている。そうやってできた本棚の穴を私達が埋めていくというわけだ。横目で見たが、彼女は真剣そのものである。教える私が赤面する程に、必死で私の教えを吸収しようとしているのが目に見えて分かった。

「永源寺さん」

「……なんでしょうか」

 私は少しだけ間を置くことで、どもりを回避した。新人研修では上司は弱みを見せてはならないものだ、と何かの本で読んだことがある。焦らぬように、恥をかかぬようにと必要以上に気負ったところで何もならないことなど私自身の人生経験からうんざりする程分かっていたにも拘わらず、私はかちかちに固まっていた。

「永源寺さん、ってすごいですね」

「……は?」

 思ってもみなかった緋岸さんの発言に、思わず素が出た。そう思った時にはもう遅い、既に口から出た言葉は取り返しが付かない。修正はできるかも知れないが、なかったことにはできない。一つの失敗が原因で自分の気持ちが瓦解していく。頭の中がエラーで一杯になって、次の言葉が紡げない。

「永源寺さんはまだ十代でしょう、なのにこんなにしっかりしていて」

 微笑む緋岸さんの目尻には皺がある。はっきり年齢を聞いていなかったが、恐らくは私の母親の世代かその少し下くらいだろう。彼女の雰囲気はある程度歳経た者にしか出せない落ち着いたものがある。少しくらいでは動じない、温かくて大きな包容力のようなものだろうか。

 そんな緋岸さんの温かさに触れて、私も少しだけ緊張が解けた。まだ完全ではないので、声は上擦ったりするものの。

「そ、そんなことありません、要は慣れです」

「でも私はもうおばさんでしょう、物覚えも悪くなってきてるんですよ」

「大丈夫ですよ」

 それ以上は私には言えなかった。私はお世辞が大嫌いだったから、フォローが苦手なのだ。心ない発言は時として物理的な殴打よりも人の身を抉ることを、私は体験から知っている。両方とも嫌と言う程味わったからこそ、比較できる。どちらも他者を傷付ける行動には違いないが、精神的な苦痛を被る言葉の刃を私は特に嫌っていた。

 だから自分の発言にもできる限りの注意を払う。慎重さが過ぎて私に友達と呼べる人間は殆どできなかったものの、むしろ自分が他人を傷付けなかったことを誇るべきだと考えていた。

 先程自分で言った通り、私と緋岸さんがする作業は単純なものなのでこれ以上の説明がない。私は先日の内に出来上がった本の山の一部をカートに乗せ、作業を続行する。会話が途切れれば沈黙が周囲を支配する、当然のことだが少し寂しい気もする。

「永源寺さんの家族がうらやましいですね」

「どうしてですか」

「こんなにしっかりと成長しているんですもの、両親としては誇りに思っても不思議ではありませんもの」

「多分、それはありませんよ」

 胸がきりきりと締め付けられるような気がする。それが精神的なものか物理的なものかは分からないが、私が疼痛を感じている事実には変わりないのでどちらでも同じか。暗緑色のヘドロのような感情が心理の奥底より湧き上がる。

「私は捨てられたんですから」

 今度は緋岸さんが固まる番である。

「両親が二度離婚して、二度目の離婚の後私を引き取った母親が蒸発してます。あの人達が私を誇りに思うならば、二年前から私は今頃施設で暮らしてなんかいませんよ」

 私を捨てた両親を嫌っていても憎んでいても、前に一歩も進めないことは百も承知だ。どころか百害あって一理なしの愚行であることも分かる。それでも私の心象は納得しない、幾ら理屈で分かっても意味などないのだ。だからこそ親のことを考えると止めどなく昏い感情が湧き起こるのだろう。

 私は未だ朝の来ない夜の闇に抱かれたままなのだ。私は再び他者から傷付けられることを恐れている。その最たるものが男性恐怖症であり、今の私の頑なな態度だ。

 血の繋がりなど紙より薄いことを知っているから。形式的な繋がりはそれよりも脆いことを知っているから。私は、ヒトが恐い。

「ごめんなさい」

 申し訳なさそうな緋岸さんの謝罪が耳に届く。それは色々な人間から飽きる程よく聞いた科白である、それは何の意味もない科白だ。私は意味が分からなくて、何のための謝罪なのかを真剣に考えたことがある。直接私を傷付けた本人でもないのに、何故彼らは謝罪の言葉を口にするのかと。

 私はこう結論付けた、「気まずくなったことに対する謝罪」だと。自分の失態で自分の気分が落ち込んでしまった、だからできる限り緩和したいという気持ちの表れであると考えた。婉曲的に自分のためだが、それを悪いとも良いとも思わなかった。所詮自分と他人との関係はその程度だと思っているだけである。

「気にしないで下さい、もう慣れましたから」

 ――他人の同情には。

「……そうですか」

 緋岸さんにも言いたいことはあるだろうが、彼女はそれを口にしようとはしなかった。歳を重ねたことによる思慮深さのためか、それとも彼女自身の性格のためか、或いは人生経験故か。

 私に同情など必要ない。されたところで私の何が変わることもなく、癒されることもない。それどころか古傷に触れて却って神経を逆撫でにされてしまうことの方が多かった。

「謝らなくていいですから、今までと同じように私に接して下さい」

 卑怯な言い方だと自分でも思う。できるはずがない、今までこの私の要求を体現できた者はいないのだから。

「はい」

 固い。今までのどの声よりも硬質な、事務的な緋岸さんの声を聞いた気がした。




「食べ物屋の取材、って『千華屋』だったんだ」

「はァい、言いませんでしたカ」

「初耳だよ」

 角のボックス席に座った唯人、スゥ、陽詩美の三人は物珍しいとでもいうように(実際珍しいのだろう)店内を見回していた。店内の装飾が珍しいのではなく、接客をするウェイトレスの格好が珍しいのだ。学校の制服を着て給仕をする様は、はっきり言って間違っているとしかいいようがない光景であった。

 最近開店した学校指定制服着用飲食店『千華屋』は、地元では有名となりつつある店で大抵混雑している。出される食べ物の噂は聞かないが、高校の制服を着て給仕をしている変わったファミリーレストランなのだ。制服を着たウェイトレスを見るために足繁く通うリピーターは多いと唯人も聞いたことがある。戯れに制服を使っていると学校関係者からは良く思われてはいないが、今のところ商業主義の勝利に終わっているようだ。

 唯人としては学校の制服を着ていることに何の意味があるのか意味が見出せないのだが、世界は自分が思うよりも深いのだろうと思って気にしたことはなかった。故に入店したのは今日が最初である。陽詩美も同じらしく、妙にそわそわと落ち着かない様子だ。

「あ、あの女の子可愛いよぅ」

「こら、指差ささないの」

 陽詩美の華奢な手を真白い唯人の手が覆い、下げさせる。本当に仲の良い姉弟だ、とスゥは内心溜息を吐いた。微塵も付け入る隙を感じさせない彼ら二人には、ただただ感心するしかあるまい。嫉妬と羨望、そんな感情に引きずられそうになる自分を彼女は抑えた。

「ご注文は決まりましたか」


陽詩美に指を差されたウェイトレス(名札には水瀬と書いてあった)が、伝票を片手に三人に注文を聞く。

「杏仁豆腐を頼みまス」

「えと、わたしはイチゴショート」

「ホットコーヒーお願いします」

 畏まりました、と人数分の水の入ったプラスティックのコップを置いてウェイトレスが下がったのを確認してスゥが口を開く。声のトーンは抑えてあり、更に客が多く店員には聞こえていない。

「割と何でもあル飲食店だト聞いていましたけド、ラーメンありませんネ」

「お洒落系のファミレスだからね。どっちかというと、喫茶店に近いんじゃいなのかな」

 日本の首都であり政治経済の中心地にして桃色毒電波文化の総本山、魔都・東京の奥深くにあると聞くコスプレ喫茶のような趣なのだが、それに唯人は敢えて触れまいと思って口にしなかった。知らなくても良いことは、世の中には幾らでもあるのだ。

「三人とモ選んダ飲食物が全然違いますネ、それは二人の好きナ飲食物なんですカ」

「僕はともかくとして、姉さんは甘い物全般が好きだよ」

「うん、でもわたしは特にイチゴショートかなぁ」

 食い意地の張った陽詩美としてはイチゴショート待ち遠しいのだろう、笑顔が三割り増しで輝いている。まるで子供だ、と唯人は思う。

「レミィさんはラーメンが好きなの?」

「ラーメンも好きですけド、スゥが一番好きなのはラーメンの付け合わせのシナチクですヨ」

 驚いたような顔をする陽詩美と、さもありなんとでもいうように苦笑する唯人。仮にも歴史教師の陽詩美、彼女の影響もあって歴史や時事問題に詳しい唯人は彼女の何気ない発言の違和感を感じ取ったようだった。

「スゥ、おかしナことを言いましたカ」

「いや、日本語的におかしくはないよ」

「あ、あははは……」

 唯人は陽詩美の笑いが引きつっていることに気が付いていたが、敢えて無視する。藪蛇になりかねないからだ。

「ではシナチクが好キ、っておかしイことでしたカ」

「人の嗜好はそれぞれだからおかしいとかいう問題じゃないよ」

「そうそう、わたしと唯ちゃんは聞き慣れない単語を聞いたからびっくりしちゃっただけだよぅ」

 シナチクという呼称が差別的だ、と隣国が難癖付けて十年くらい前からメンマという名称に変わったなどと二人は言えなかった。テレビの報道に影響を受けておかしな発言を多々するスゥだったが、あまり踏み込んだ議論をしないところを唯人と陽詩美は見ているのでこの発言も他意はないと踏んだのだ。勉学の場でもないのに一々説明をするのが面倒だという、教師にあるまじき姿勢がなかったとは言えないが。

「そうですカ……怪しいですネ」

「あ、怪しくないし、隠し事もないよぅ。ね、唯ちゃん」

「間違ってはいないかな」

「メグミ先生、怪しくないにしてはユイトの発言が含みのあル言い方ですヨ」

「政治的に込み入った話になるから、多分レミィさんじゃ分からないということ。こういう難しい話はレミィさん日本語じゃ分からないと思うけど、英語で僕も姉さんもレミィさんみたいに英語で喋れないから、正確に伝える自信がないしね」

「そうですカ、それは残念でス」

 あ、と陽詩美が感嘆の声を漏らす。スゥは陽詩美の授業を受ける時、同僚であり一年先輩である英語教師の源 美紀と共同作成する英字で書かれたプリントを必ず受け取っていたことを思い出したのだ。会話は日本人と普通にできるものの、流石に世界一難しいとさえ言われる日本語の読み書きまでは完全ではないのだ。少なくとも事件という点を、政治的背景を元に線で結ばなくてはならない歴史の授業を日本語で受けられる程に語学の堪能さは期待できない。

「食べ物の話に政治が絡むなんテ、何か不思議ですネ」

「全くだね」

 また陽詩美は唯人に助けられた形となった。彼女は仮にも自分の授業のことなのに何の対処もできなかった、と恥じて小さくなる。

「姉さん、頼んだ物来たみたいだよ」

「えっ」

 頭を垂れていた反射的に陽詩美の顔が上がる。その表情は笑顔一点張りで、一瞬前まで見られた翳りなど既に微塵もない。何度見ても、彼女の変わり身の早さに唯人はついていけそうになかった。

「お待たせしました。ご注文の杏仁豆腐と、イチゴショートと、ホットコーヒーでございます」

 ウェイトレス(今度は名札が沢渡だった)がお盆から各々の前へ注文した品を置いていく。

「わっ、わっ」

 ごゆっくりどうぞと声を掛けて奥へとウェイトレスが引っ込むが、生憎とゆっくりできるかどうかは怪しいものだった。何しろ、大好物を目の前にして陽詩美が物凄い浮かれている。いつも子供っぽい彼女だが、好物を目の前にした時はまた別格なのだ。唯人と陽詩美の財政は相変わらず厳しいが、こんなに喜んでくれるならば来て良かったと唯人は思ってしまう。

 何だかんだ言って、姉の陽詩美に甘い唯人なのである。

「それでユイトはCoffeeが好きなんですカ」

 砂糖もミルクも入れずにカップを傾ける唯人をレミィは物珍しそうに見る。その仕草から、彼女はブラックコーヒーが飲めないらしいと彼は当たりを付けた。

「嫌いじゃないけど、特別好きってわけでもないよ。飲み慣れるとそれなりに美味しいし」

「でもそれだト他に飲み物あるのニ、その中かラ敢えてコーヒーを選ぶ理由になりませんヨ」

「安いから」

「うわ、ユイトってばStraightネ」

「唯ちゃんはトマトジュース好きだったよね」

「Tomato……」

 改めて唯人を見るスゥだったが、そこに感動はあっても驚嘆はない。病的に白くきめの細かい肌、色素が薄いために血の色を反映させて赤い瞳、そして彼を揶揄する通称『ホワイテッド・ヴァンパイア』、そしてトマトジュートと来る。何か狙っているようにしか見えないが、本当にただの好物であるという可能性もある。奥が深い。唯人と陽詩美の二人に対し、スゥはより一層興味を深める。

「僕はルーマニアの名君・ワラキア公ヴラドの血を引いているから、その影響だと思うよ」

「ええっ! じ、じゃあ唯ちゃんって王子様なの?」

「メグミ先生が初耳っぽいんですガ……」

「まあ嘘だからね、でも僕の好物がトマトジュースだというのは本当。それと姉さん、仮にも歴史教師なのに確たる証拠もない情報をホイホイ信じるのはどうかと思うよ。ついでに言わせて貰えば、王子様って何で姉さんはそんなメルヘン世界にまで思考が飛ぶかな」

「もぉ〜っ、唯ちゃんはどうしていつもお姉ちゃんに対していぢわるするのよぅ」


 そんな唯人に対し、騙されたと知った頬を膨らませて陽詩美は抗議する。そんないつも通りの情景が、スゥにとっては堪らなく眩しい。そう、思わず嫉妬してしまう程に。

「スゥも、ユイトやメグミ先生みたいナ兄弟姉妹が欲しかったでス」

「そうかな、大変だよ。前にもいったけど姉さん子供っぽいからね」

「わたし大人だもんっ」

 子供そのものな発言に対し、処置なしだとでもいうように唯人は身を竦める。だがそれが陽詩美の琴線をいたく刺激したらしく、彼女の感情がより高ぶらせてしまう結果となった。

「楽しそうでス」

「それは否定しないよ」

「わたしは楽しくないよっ。今日は折角記念日なのに、唯ちゃんお姉ちゃんにいぢわるするもん」

 肩を落とす陽詩美を横目に、唯人は溜息を吐いて一言。

「ただの給料日でしょ」

「違うもん、今日は唯ちゃんと初めて会った日だもん」

「……あ」

 二つ目の人生の分岐点、唯人は全く気が付いていなかった。それもそのはず、彼は忘れようとすらしていたのだから。実の母親と法的な家族でなくなったことが古傷となっている彼にとって、できる限り風化させたい日々だった。突然彼の生活空間へと押し掛けてきた陽詩美とその母親は、当時の彼にとってまさしく侵略者であり決して家族ではなかったから。

 程なくして唯人の父親と陽詩美の母親は籍をいれることになった。彼と同じ恵の姓を持つようになった仮初めの家族、恵と名乗ることになった陽詩美。母親でもないのに母親面をする新参者が子供心に許せなかったから、唯人は新しい母親に懐かなかった。彼女の表面的には仲良くしようとするものの行動の端々で彼に対する生理的嫌悪が垣間見えていたが、それは彼にとっても望むところだった。

 見た目から明らかに異常な肌の色の、明らかに異常な瞳の色を持って生まれた少年。彼は自分が他の人間と違うことくらいは知っている、自分の身体が他の健常者よりも虚弱であることも。今よりもずっと身体が弱く定期的な通院が欠かせなかった当時は、心身共に間違いなく唯人の暗黒時代だった。目にするもの全てが敵で、信用に値するものが何一つ見出せなかった。

 古い記憶が唯人の脳裏から掘り起こされる。唯人の父親と、陽詩美の母親と、唯人と、陽詩美の四人が初めて一堂に会した日のこと。あの日彼は疑心を感情と理性の奥底に隠して、他の三人を見ていた。陽詩美が美味しそうに食べたのは――

「……ごめん」

 幾ら今の唯人と陽詩美の仲が良いとはいえ、流石にばつが悪い。

「わたしはずっと覚えていたよ、今日が唯人と会った日だって」

「ごめん」

 同じ言葉。陳腐な言葉しか見つからず、唯人は申し訳なく思う。陽詩美はいつだって真剣なのだ、例えそれが他者に伝わらなくともせめて自分だけは分かってやろうといつも心に留めていたはずなのに。それが彼にとって忘れたい闇とヘドロの記憶だろうと、覚えておくべきだったと後悔が募る。

 彼の謝罪に対して陽詩美は横を向いたままである、まだ怒っているらしい。

「イチゴショート」

 陽詩美の発した言葉はそれだけであった。だがそれだけで意味は充分過ぎる程に伝わる、本気で怒っているわけではないことも。

「今回だけだからね」

「うんっ!」

 唯人の承諾を得て、陽詩美に満開の笑顔が咲いた。

「なんカ珍しくユイトがメグミ先生に言いくるめられタようニ見えたんでスけド」

「いいんだよ」

 初めてあったあの日も、陽詩美はイチゴショートを美味しそうに食べていたことを唯人は思いだしていた。そんな彼に対し嫉妬の視線を注ぐスゥに、彼は気付きもしなかった。

「ウェイトレスさん、追加オーダー良いですか」

 唯人は近くにいたウェイトレス(名札は川澄だった)を呼び付け、イチゴショートの追加を伝えた。