「報道部の取材はどの程度正確なの?」

「二人は同棲してるって本当?」

「恵先生との関係って本当のところどうよ」

 等々。


スゥの取材成果が紙面にまとめられ校内に出回った結果、彼の周囲は去年にも増して騒々しいものとなった。レポーターの真似事かはたまた野次馬根性の成せる業なのか、矢継ぎ早の質問と彼を標的にした好奇心の視線は入学式の比ではない。だが唯人は当然一人、口は一つしかない。一つ一つ返答など出せるはずもなく、彼は曖昧な表情で言葉を濁すしかできなかった。

「はい、みんな席についてぇ〜。ホームルーム始めるよぉ〜」

 予鈴がなり、担任の陽詩美が入って出欠評をパンパンと叩いて自分の存在を知らせる。担任が教室へと入ってきたのだ、普通ならば生徒達は無駄話を止めて自分の席へと戻るだろう。だがこの場合は火に油でしかなかったようだ。

「先生、今日のお弁当は唯人が作っているんですか」

「はわっ、どうして知ってるのぉ〜」

 どっ、とクラス中から歓声が上がる。報道部の取材が間違っていなかったこと、そして陽詩美が余りにも予想通りの反応だったのが原因であろう。要領が悪い彼女は己のやることなすことだけで精一杯なので、今朝張り出された学校新聞など知りもしなかったのだ。彼女自体がかなり鈍感であることも要因である。

 対照的に弟の唯人は困ってはいるが、動揺はない。スゥに取材を受けた時から、いや始業式当日にがヘマをやらかした時から予想してしかるべき事態だったのだから。重度の天然ボケを有する姉が担任、という特異さが自分達を目立たせるのも七十五日までだろうと踏んで彼はじっと耐えることを選択したのだ。

 人の噂も七十五日とはいうものの、その前に新たな噂が追加されかねないという現実味を帯びた観測には唯人は敢えて耳を塞いでいたが。

「はァい、一端静まっテ下さイ。全員で一度に訊いたところデ、ユイトやメグミ先生は答えられないですヨ」

 一応この騒乱の原因を作った本人である自覚があるのか、スゥは事態収拾に乗り出している。統率力皆無な担任の陽詩美や、基本的に穏やかな性格の唯人では興奮したクラスメイト達を取り纏めることなどできようはずがない。その辺りを考慮しているのかいないのか、彼女は殊更に声を張り上げる。

「代表者を決めてスゥのところへ質問状を下さイ、今日の放課後に記者会見しまス。回答を今度張り出しますかラ、気張って居残んなくてモいいですけどネ」

「ち、ちょっとスゥ……じゃなくてレミィさん、そんな勝手にぃ〜っ」

 学校が始まって初っ端から呼び名で躓いたので、今度こそという気構えが陽詩美にもあるのだろう。彼女の涙ぐましい努力に反し、辺り一帯を包む猛火にバケツの水で対抗するが如く全く効き目はなかったが。

 弟の唯人に助けを求めようと、陽詩美は視線を走らす。目が合うと、彼は首を竦めて頭を左右に振った。処置なし、甘んじて受け入れろ、らしい。

「〜〜〜〜っ」

 出欠評で教壇をバシバシと叩いて己の存在を誇示しようとするのに気が付いたからか、それとも自分のいいたいことを言い終えたからか。スゥは手を叩いて、事態の収拾を促す。

「メグミ先生が困ってますかラ、さっさとHome Loomを始めましょウ」

 クラスメイト達の「誰が原因の騒動だよ」という無言の共通見解に、スゥ自身は果たして気が付いていたのか。もっとも気が付いていたところで彼女が意見を変えるはずがないことは、去年同じ組にいた者ならば周知していることではあったが。




「酷い目にあったよぅ」

「いや酷い目に遭うのはこれからでしょ」

「そうそウ、ユイト君の言う通りでス。メグミ先生は先が思いやられますネ」

「「誰のせいだよ」」

 いつもは時間の巡りが明らかに遅い陽詩美だったが、このスゥの発言に対する突っ込みだけは違ったらしい。見事に二人の声が重なる。常人に勝るとも劣らぬ速度での発言に、唯人とスゥは顔を見合わせる。そんな二人の反応に、当の本人はご立腹らしく右手に持った箸を振り回して抗議した。

「何なのよぅ、二人してその顔はないよぉ〜。わたしだって反応できる時はできるもんっ」

「分かったから、分かったから姉さん。箸振り回さないでよ」

「あぅ。唯ちゃん、ごめんね」

 幾分気落ちした表情で、弁当のおかずに手を付ける。陽詩美の口に合わせた味に作ってあるために、弁当を食べると彼女の表情が和らぐ。色気より食い気と言ってしまえばそれまでだが、自分の作った弁当が好まれているという状況は唯人にとっても気分が良いものである。こんな表情を見るためならば、次も頑張ろうという気にもなろうというものだ。

 そして唯人は自分の目の前にある、蓋が開いて中身が垣間見えるバスケットにも目を落とす。視線を上げると、スゥの期待に満ちた瞳が彼に突き刺さっている。「どきどき」か、或いは「わくわく」か、またはその両方か。漫画ならば擬音すら入りそうな程の彼女の期待感に彼は軽い緊張を覚えた。

「さあさあユイト君。どうゾ遠慮なク、ぐぐいっトいっテ下さイ」

 スゥが勧めるのは、自分で作ったと主張するバスケットの中身――色とりどりのサンドウィッチである。見た目からいって別におかしいところはない、どころか食欲をそそる色彩感覚で一見して彼女の料理の腕を想像できる代物である。だが美味しそうなのは見た目だけという地雷の可能性も零ではなく、かといって食べなければ失礼に当たる。そして彼女自身の、唯人の一挙一足を見詰める期待に満ちた視線。

 選択肢は特攻しかなかった。

「……いただきます」

 唯人は意を決してバスケットの中の、比較的地雷率が少ないと思われるタマゴサンドを手にとって口に運ぶ。

「どうですカ」

 期待と不安、スゥの今の状況はそんな感じだ。

「いや、普通に美味しいよ」

 感想を聞いたその瞬間、スゥが軟体動物と化した。緊張が全て解けたのだ、どんなに上手に作ったと本人が思っていても第三者が美味しくないと評すればそれまで。自分では料理はそれなりにできると思っていた彼女の矜持は崩壊する。他人から見れば些細なことでも、本人にとっては牙城を一つ崩されることは重大事なのは何処の世界でも同じなのだ。

「良かったでス、ユイト君料理上手ですかラ美味しくないっテいうんじゃないかト思いましテ」

「別に僕は料理の評論家じゃないから、そんなことはないって」

 三人はビニールシートを敷いて、校舎の屋上手前で昼食を摂っていた。始業式の日に三人で昼食を摂ってから、何となく三人で食べるのが日課になってしまっていたのだ。場所は中庭だったり、教室だったり、屋上だったりと様々だが今日まで連鎖が途切れたことはない。今まで一番気持ちよく昼食を摂れたのは、いうまでもなく屋上である。


屋上に出て、春の風を受けながら昼食にするのが一番良いのは三人とも分かっている。だが今日は雲一つない快晴で、直射日光に弱い唯人にとって日差しが強すぎた。かといって生徒の多い場所、学食や教室で弁当を広げると要らぬ誤解を受けかねない。ならばせめて屋根のある場所で人のいない場所という唯人の要求と、スゥの遠足気分を味わいたいという意見を採り入れての現実と理想の折衷案でこの場所が選ばれたのだ。

 確かにこの場所は広いとは言い難いが、二人の要求を見事に満たしていた。

「しかし意外だね、レミィさんが料理上手だったなんて」

「うんうん、スゥちゃんのサンドウィッチ美味しそうだよぅ」

「こぉら姉さん、行儀悪いから身を乗り出してレミィさんの作ったサンドウィッチ凝視しないの」

 今回は陽詩美の行動を強制的に停止させるために行われる攻撃ではないので、唯人は軽く手を彼女の額に当てるだけに留めておく。柔らかい前髪の感触が彼の掌をくすぐる。

「あうぅ、でもでもぉ〜」

 そんな食い意地の張った陽詩美と、それを窘める唯人にスゥは「あはは」と控えめに笑い(唯人の目から見てその仕草はいつものスゥとは余りにかけ離れており、奇怪なものに映った)自分の鞄の中から同じ形をしたバスケットをもう一つ取り出し、中身を見せる。唯人の前にあるサンドウィッチと同じものである、陽詩美は歓声を上げた。

「本当は今日の放課後に記事作りながラ食べようかト思っていたんですガ。メグミ先生、食べたいなラどうぞこっちでス」

「わ、ありがとうスゥちゃん」

 今度こそチョップが陽詩美の額に降りた。

「痛いよぅ、唯ちゃん。スゥちゃんがいいっていったのにぃ〜」

「せめて自分の分のお弁当を全部食べてから次に手を付けようね、姉さん。それとレミィさんもあまり姉さんを甘やかさないで」

「あはは、了解でありますヨ」

 小言をいわれて陽詩美はむくれるも、反論が見つからないらしく大人しく唯人の作った弁当を片付けに掛かる。不毛な言い争いに時間を浪費するよりも、食い意地の張った彼女としては目の前にあるサンドウィッチを如何に早く味わえるかの方が重要事項であった。

「世話好きの弟は大変ですネ」

「世話好きだからかな僕の場合……って姉さん、やっぱり学習能力ないでしょ」

 手早く弁当を全て腹の中に納めようとして焦ったのか、陽詩美は白米を喉に詰まらせて緊急事態に陥っていた。唯人は慌てず騒がず、持参したお茶を水筒の内蓋に適量入れて姉に渡す。

「けほっ」

「本当に、ユイトはお姉さんが好きなんですネ」

「けほっけほっ、けほっ」

 唯人が答える前に反応した陽詩美の咳が激しくなる。今度は咥内に残留したお茶が気管に入ったらしい、本当に世話の焼ける姉だとでもいうように(事実その通りだが)唯人は食べかけのタマゴサンドを完全に腹に納めてから、溜息を吐いて彼女の背中を優しくさする。

「レミィさん、もしかして僕と姉さんのことからかってる?」

「スゥは本当にそウ感じただけですヨ。ちょっとだケ羨ましいかナ、って思いましタ」

「羨ましい、ね」

「甲斐甲斐しク世話をするのは女の子の、いえ古しきゆかしき大和撫子の夢ですヨ」

 スゥは伏し目がちに語る。

「レミィさんアメリカ人でしょ」

「スゥは確かにAmericanでス、スゥはAmericanであることニ誇りを持っていまス。ですガそれでモ心は大和撫子たろうト今日まデ在りましタ、それニ」

 スゥはそこで口を噤み、強引に喉まで出かかった言葉を腹の奥底に沈めた。

「……なんでモ、ありませン」

 スゥの真剣さを見て取った唯人は、これ以上の詮索を取り止めた。彼女が冗談で口にしているわけではないことくらい、本人の態度を目にすれば良く分かる。幾ら年中無休で脳内にお花畑を咲かせている陽詩美ですら、スゥが真剣なのは分かった。

「さて早くお弁当を食べてしまわないト、授業に間に合わなくなっテしまいまス」

 努めて明るくいうスゥに促され、唯人と陽詩美もそれぞれの昼食を片付けに入る。陽詩美の分の弁当は先程彼女自身が頑張って腹に納めたため、殆ど残っていないので実質スゥと唯人が食べ終われば撤収できる形となっていた。食べ終わっているとは言え、陽詩美は教師なので次の授業の準備をしなければならない。彼ら二人を待つ時間くらいならあろうが、新たに食料を広げる時間はなかったので自然と弟の食べているサンドウィッチに目がいく。

「ああもう、レミィさん。サンドウィッチ、姉さんにも食べさせて良いよね」

「はァい、遠慮なクどうゾ」


未練がましく凝視していた陽詩美の表情に笑顔が咲いた。そんな彼女の現金さ加減に、唯人は悪戯心を刺激されてしまう。

「でもあんまり食いしん坊だと、太るよ」

「うっ」

「姉さん甘い物大好きだもんね。ケーキにどれくらいの砂糖と卵黄と生クリームが使われてるか、知ってる?」

「ううっ」

「ユイト、その辺で止めておいテ下さイ」

「そうだよぅ、唯ちゃんはお姉ちゃんをいぢめすぎだよぉ〜っ」


スゥを味方に付けた陽詩美が強気に出る。全く以て恐くも罪悪感も湧かない抗議ではあるが、一応本人は真剣だ。

「メグミ先生の余分な栄養は全部胸に行くのですかラ、先生は太らないのですヨ」

「スゥちゃんっ」

「冗談はこのくらいにするけど姉さんはレミィさんが作ったサンドウィッチ食べるの、食べないの?」

「あ、食べるよぅ」

 何だかんだ言っても、陽詩美と唯人の二人が仲の良い姉弟であることは変わりないのだ。




 今日の図書館は休館日、だが私は今日も図書館で本に囲まれていた。私は文字通り、言葉通り本の山の中にいると表現した方がしっくり来るだろう。大きく分けて山は二つ、右と左の山脈である。間違って搬入された本がないかどうか、そして搬入したはずの本が本当にあるのか、それを確認する手伝いを私はしているのだ。電脳上では数量、タイトルに間違いはない。だがそれでも最終的な判断を下すのは人間だからこそ、人的な間違いは起こるのだ。

「神々の足跡、共著、ブルース=ハンコック・ビル=ボーヴァル。上下巻で冊数は四、番号は、と」

 それは少し前、話題になった世界の古代史に一石を投じた本だ。私自身も興味があったものの、今は仕事優先である。分厚い上下巻のハードカバーを目の前に、プリントアウトされた紙に書かれてある情報が一致していることを確認していく。

 問題なし。紙の上の情報に丸を付けて、確認済みであることを示して右の山脈から左の山脈へと『神々の足跡』を移す。この私の左側にできた山脈を図書館所有のカートに乗せて指定の場所に載せるのは別の人の役割。全行程を一人一人でやっていたら、いつまで経っても仕事は終わらないだろう。

「済まないね、蘭ちゃん。いつも手伝わせちゃって」

 御坂さんはトラックから荷台を降ろして、右の山脈を作る役割と業者との交渉役だ。館長であることと、この図書館で唯一の男性職員であることで明らかに損な役回りを背負わされているような気がする。率先して辛い仕事や責任がついて回る仕事をこなすのはやはり館長だからか、それとも男性だからか、或いは彼自身の特性からか。

「いえ、私の趣味ですから」

 本当は趣味というより、逃避だ。私は異性が近くにいると意識するだけで、ストレスになる。彼らが私に対しまるで注目しなくとも、身体の方はそうはいかない。常に軽い緊張状態を強いられているのだ。かといって異性が悪いわけでもないことは、私自身も分かっている。私の特殊な症状を理由に異性を閉め出すことが不当以外の何者でもないことも、分かっている。

 だがそれでも、頭では分かっていても身体の方は納得しなかった。今、この瞬間に休館中の図書館にいることそのものが証明となる。私は他者を傷付けることで自分が傷付くことをおそれている。方策が分からないことから逃げるのは悪いことではないはずだ、図書館に来たら一度はそんなことを自分に言い聞かせている気がする。

 戦術的撤退、今の私は多分そんな感じだ。

「でも、やっぱり職員でもないのに働いて貰うのは僕のプライドにも関わるからね」

 重量制限一杯に積載されたカートから紙袋に包まれた新刊を次々と右の山脈へ追加していく。御坂さんは無駄口を叩きながらも手を休めることはしないところをみると、始業式前日の唯人君の働きぶりを思い出してしまう。そういえば彼も今の私と同じ立場だったかと思うと、何だか不思議な気分である。

「バイト代くらいは出すよ」

「えっとそんな、……悪いですよ」

 御坂さんは私の返答を訊く前に積載物を全て右の山脈へと置き終わり、トラックの方へとカートを移動させていた。忙しない人だ、といつも思う。他者にまるで興味ないような素振りをしながら、その実全体をしっかりと捉えている。口調通り軽い人かと思えば、思慮深い一面がある。御坂さんを一言で表すなら、「意外な人」であろう。

「何度もいうようですけど、私が手伝っているのはお金のためじゃないですから」

「いや、蘭ちゃんがどう思おうと僕はバイト代を出すよ。決定、今決めた、館長権限でたった今決めた」

 御坂さんは何かを統括する指揮官の才能があり、司書としても有能な人物ではあるが些か強引なところがある。無駄とは思いつつも、私は遠慮してみることにする。

「でもここ、一応市営の施設ですよ。何の手続もなしにお金なんか出ないと思うんですけど」

「いや、出す」

 御坂さんはそう宣言すると、貸し出しカウンターの裏側に据え付けてあるメガホンを取った。営業(?)時間中は滅多に使われないのでこんなものがあることを普通の利用客は知らないが、普通ではない利用客である私は館内にいる職員全員を呼び付けるためにしばしば使われることを知っていた。用途は至って簡単、メガホンの通常の用法通り大声を出すだけだ。ちなみに機械の力を借りた拡声器ではないので、肺活量がものを言う。

「集―――合――――っ!」

 出入り口には盗難防止用の機械が設置されてあるのに、変なところでアナクロな図書館である。

 御坂さんの呼び声に反応し、様々な場所で作業していた職員達がバラバラとカウンター前へと集まる。全員が集まったところで、彼は手に取ったメガホンをカウンターへ置いた。業者の人達の注目も集めていたが、あんな大声では仕方なかろう。

「君達に重大なお知らせがある」

 芝居がかった口調と、全てを睥睨するような視線で職員達の顔を一瞥する。怪訝な表情、仕事を中断されて不満げな表情、単調な作業に疲れていたのかほっとした表情と様々だ。そんな部下達に対して、彼は一顧だにしない。する必要などないとすら考えているだろう。

「本日付けで、我が図書館はアルバイトを雇うことにした」

「館長、自分は我が図書館ではアルバイト募集をしていなかったと記憶しています」

 ノリが良い真笠さんが、軍隊口調で御坂さんに反論する。彼女は軍隊関係のものが大好きという偏った思考を持っているのだ。ちなみに館長と艦長を掛けているらしいことを、私は最近彼女本人に聞いた。そんなの誰も気付かないよ、とは口にできなかったが。

「真笠副(館)長、私は誰かね?」

「は、御坂 孝館長であります」

「そうだ、この図書館の館長は私だ、ここでは私が法だ。私が雇うと言ったら雇うのだ!」

「は、失礼しました、サー!」

 ここで「誰が大佐殿(サー)だよ」などと口にする者はいない。こんな妙なやりとりをする二人だが、一応御坂さんと真笠さんは館長と副館長なので権力的構図としては間違っていない。

「ですが実際問題、この図書館は市営であって私営ではありません。今すぐにアルバイトを採用すると、データが出揃っていないと上層部にも文句を言われます。それに形式的でも書類が整っていないと、アルバイト料が正式な予算として捻出できません」

 冷静な言い分を述べるのは、フレームレスの眼鏡が知的な印象を与える浅香さんである。そんな彼女に対し、御坂さんはあくまでも超然としていた。

「書類など捏造して後から上に送り付けてやればよい。それまでアルバイト料は皆で負担する」

 不満が噴出するのは当然だろうが、それでも御坂さんは狼狽えることもなくアルバイトの人物を職員達に紹介した。

「紹介しよう、アルバイトの永源寺 蘭ちゃんだ」

 ……まあ、こんなことだろうとは思ってはいた。それでも私は御坂さんの厚意が嬉しかった。遠慮しがちな私のために居場所を作ってくれたことが、そしてアルバイトが私だといった途端に何だかんだといっても「まあしょうがないか」と受け入れてくれる職員達に感謝した。

 疎らに拍手が上がる。

「ありがとう、ございます」

「これで僕の面子も保たれる、蘭ちゃんも遠慮する必要はない。良いことずくめだね」

 理不尽を押し通す時の軍隊口調から一転、御坂さんは私に対しておどけてみせる。

「館長には上層部に無理を押し通すために、絞られて貰いますけどね」

「そこを何とか、お願いだよ浅香さん」

「なりませんよ」

 冷静な浅香さんの発言に、御坂さんと浅香さん以外の職員がどっと笑う。今度は威厳も何もあったものじゃないが、この姿もまた彼の真実だ。私はここを楽しい職場だ、といつも思っていた。そして正式に私の居場所になると思うと、頬が緩まずにはいられなかった。