「後もう少しだったのに」
建物の闇を代表するように、彼女は呟く。小柄で元気な、この酒場兼宿屋『交差点』の陽気で愛嬌ある女の面影など最早何処にも感じられなかった。消え入りそうなその姿とは裏腹に、怖気を誘発せずにはいられない異質で圧倒的な存在感がパマド=ベアトリーチェから放散されている。
「そうね、後少しだったわね」
同意する幽 美澄も、恐怖を少しでも和らげるために彼女に寄り添うアルミナス=リエンもことの真相に辿り着いている。目の前にいる女がただの民間人でないどころか、半分以上人間をやめていることも分かっているのだ。それでいて美澄は微塵の動揺も、恐怖も、興奮すら体外へ漏らしていない。些細な判断違いが命に直結すると分かっていて、それでいて態度を崩さずにいるのは並大抵のことではない。
流石はヴェルフェニア帝国最強戦力の一角、対魔法騎士(アンチ・マジックドラグーン)の一員といったところだろうか。彼女に対抗するにはそれこそもう一つの帝国最強戦力『静刃(サイレント・ブレード)』でも持ってこなければなるまい。
「パマド=ベアトリーチェ。幽 美澄特佐はヴェルフェニア陸軍第十三特殊部隊・対魔法騎士(アンチ・マジックドラグーン)独立裁量権限により、あなたに国家反逆罪を適用します」
アンチ・マジックドラグーンの正式採用拳銃、コルレット社製自動拳銃『ブル・ショット』で美澄はベアトリーチェの胸元に照準を合わせる。重戦車(ブル)の名に相応しい威力を保有したその拳銃の反動は並大抵ではない。まともに標的に当てようとするならば鎧のような筋肉で反動に耐える体を作るか、それとも反動を肘で受け流すかのどちらかの選択を余儀なくさせる銃だ。
凡百の兵士に使える銃ではない、ヴェルフェニアでは『ブル・ショット』を扱えるというだけで畏敬の目で見られるのも道理というわけだ。
美澄に寄り添っていたリエンも腰に吊っていた拳銃を取り出して撃鉄を起こす。戦いの役には立たないかも知れないが、せめて足手まといにならないようにしたいのだ。武器自体はヴェルフェニア陸軍が採用しているコルレット社製回転弾倉式拳銃『リトル・スピア』なので、汎用性があり悪い物ではない。悪い点を上げるとするならば、やはり使用者たるリエンの経験不足の一点に尽きるだろう。
「だから、あなたは速やかに死になさい」
アンチ・マジックドラグーンにおける独立裁量権は対象を殺すために在る。一切の弁明も裁判も、あらゆる手続を省略して最も単純な結果を与えるために在るのだ。
だが引き金に掛かった指を動かす、ただそれだけができずに美澄はその場を飛び退いた。猛烈に嫌な気配のする力の塊が、一瞬前まで彼女がいた空間を薙いだのだ。逃げ切れなかった髪の毛の一房が腐食し、バラバラになって彼女の周囲に落ちる。
「私は、人間に戻りたかっただけ」
ベアトリーチェは指一本動かしていない。俯いたまま、ただ立っているだけだ。だが今美澄を動かしたのが彼女であることは、戦闘経験のないリエンにすら分かった。この嫌な感覚は、リエンがこの仕事に就いたきっかけとなった事件によく似ている。
「これが終われば、プロフシア連邦の連中が魔族因子を中和する薬を持ってきてくれるの」
魔族。その存在に、リエンはいつも振り回されてきた。親友を失った。望む、望まざるに関わらず人を大勢死なせてしまった。だからベアトリーチェの絶望が分かる、彼女の藁にも縋ろうとする想いが分かる。だが。
藁は、藁でしかないのだ。
リエンにはそれが痛い程良く分かっていた。だがそれを口にするのは余りに残酷である、己の目の前にある道には死しか残されていないと告げることにリエンは躊躇わずにはいられなかった。だからこそ、一言も発することはできない。だからこそ、美澄のような者が国家には必要になる。己を殺し死神の鎌に徹しきるアンチ・マジックドラグーンや、存在自体忌まれることを宿命としたサイレント・ブレードのような存在が。
「あたしは人間に戻りたい。死にたくない。死にたくなかったら殺すしかない、殺したくなくても殺すしかないの」
相手が聞いているか否か、それはベアトリーチェにとって問題にならないのだろう。俯いた彼女にあるのは、ただ生を渇望する動物の如き感情だけなのだから。
「プロフシアの工作員共が約束を守る、と本当に思っているの? おめでたいわね。奴らは赤化革命のためなら全ての手段を正当化するような屑以下の共産主義者(ゴロツキ)よ。あんたに魔族因子を植え付けて、操り人形にするような」
「でもあいつらを頼らなきゃあたしが死んでしまう。人間に、ヒトに戻れなくなってしまう」
リエンの表情が厳しくなる。ベアトリーチェは見たところもう末期症状だ、助かるまい。そう考えると彼女の心は締め付けられる。明日は我が身、他人事ではない。化け物と化して生ける者に害成す確率からいったらむしろリエンの方が遙かに大きい。いつか同じ運命を辿るのだろう、と彼女は漠然と思う。
「平和に、穏やかに暮らしたかった。それなのに、ねえ何で。なんであたしの生活に土足で踏み込んでくるのよ。あたしはただ普通に生きたかっただけなのに」
ベアトリーチェは一言一言に怨嗟を編み込み、リエンの肌がチリ付く程に存在感を増大させている。ヒトの領域を遙かに逸脱して魔力の流れを感じ取る彼女の能力が、周囲の空間に在る魔力異常を主に伝えているのだ。ベアトリーチェの周囲に魔力が偏在しすぎている、と。美澄もまた超一流と呼ばれる領域に属する人間であり、空気の流れが変わりつつあることくらいは把握している。そして魔力の他に、この場に膨れ上がるものが一つあった。
「ねえ、死んでよ。あたしが生きたいから、二人とも死んでよ。お願いだから、お願いだから、お願いだから、死んでよぉぉぉぉっ!」
即ち殺気。
悲鳴にも似た絶叫に対して、言葉ではなく美澄は『ブル・ショット』の発砲で答える。屋内に響く銃声が、戦いの嚆矢となって周囲に緊張を振りまいた。
章が変わる。読んでいた小説が一段落したので、読んでいた場所に栞を挟んで私は意識を外へ向けた。既に日が傾こうかという時間であることに多少の驚きを覚える。図書館に限ったことではないが、閉館時間は早い。もう何十分もこの場にはいられまいと思うと、私は気が重くなる。
私は借りようと思って見繕った数冊を改めてその目で確認する。勿論先程まで読み耽っていた小説――『Little Magicans2―赤華繚乱―』も入っている。後少しなので、読み終わりたいのだ。
名残惜しいが、今日はもう終わりらしい。溜息を一つ吐いて、私はカウンターに向かった。
何年も前から市民図書館が私の安らぎの場所になっていた。勉強をするにも、物思いに耽るにも、本を借りて読むのにも、いつも利用している。去年図書委員になっていたのも、居場所を得るためという意味合いが大きい。私には帰る場所がないから、閉館時間になるまで大抵図書館で過ごすことにしている。
私には家庭というものが存在しない。実体的意味を持って私が「永源寺」と名乗れたのはもう二年前の話になる。父親も母親も何処にいるのかなんて知らないし、知りようがないし、知りたくもない。母親が二度目の離婚をしたのは三年前で、唯一の肉親だった母親が私を置いて蒸発したのは二年前のことになる。血の繋がった父親となると、最早顔も覚えていない。
私にとって母親とは人生というゼロサムゲームの敗残者を指す別名であり、私にとって父親とは暴力と欲望の権化であり憎悪の対象である。そして家庭とは、私にとって地獄と同義であった。
そう考えると今の暮らしは悪くはないだろう。激しく口論する両親と自称する男女もいなければ、意味もなく私を怒鳴りつけて暴力を振るうこともない。今私が暮らしている児童福祉施設は時間に厳しく、甘えの許されない場所ではあるもののあの場所より悪いわけではない。だが保護者は当然いるし、私ではない他人も大勢いる。
だが男女も、年齢も関係なく人間の多い場所であることに変わりはない。学校のように問答無用で一定時間いなければならないわけではないので、私はなるべく他者との接触を避けるようにしている。若い男性は問答無用で恐ろしい存在だ、と心の奥底に刻み込まれてしまったから。意識しなければ良いといっても、保護者役の男性職員を無視するわけにもいくまい。施設にいる以上、どうしたところで接触せざるを得ないのだ。
ならば時間自体を少なくするくらいしか対応策がないのだ。この私の欠点を克服する術がまるで分からない以上は。
「すみません、本を借りたいのですが」
「はい」
奥で作業をしていた職員に私が呼びかけて、初めて気が付いた。受付に来た人物が初めて見る顔だったのだ。私は入り浸りすぎて殆どの職員の顔と名前が一致するし、暇な時は図書館の手伝いもするから私自身も職員に顔が知れているのだ。都心にある大規模な図書館と違い、ここは職員数がそれ程いるわけでもない。
図書カードと私の脇に置かれた数冊の文庫本を見て、新顔の職員――品の良さそうな中年の女性は何か合点がいったようである。
「あなたが永源寺 蘭さんですか」
「はい、そうですが」
私はこの図書館で何か変なことをしただろうか、と思い返して見るも何も思い付かない。都合の悪いことだったから忘れているだけ、というわけではないと思うのだけれど。
「いえ、御坂さんからお得意さまだから見かけたら一言挨拶しておけと言われたもので。しかし、御坂さんに通りですね」
「御坂さん、何か私のこといってましたか」
御坂、というのはこの図書館の館長のことである。本名を御坂 孝、三十歳前後の気さくな男性で職員・図書館利用者問わずに人気がある。私も随分彼に助けられているところがある。私の一番近くにいる男性といっても過言ではないだろう、彼に(とっては失礼だろうが)は不思議と男性を感じない。他の男性には等しく感じられる恐怖感や不快感がないのだ。
「蘭ちゃんは可愛いけど人見知りするから優しく接してあげてくれ、といわれましたよ。確かに、その通りだと思いまして」
上品に笑う彼女に私は素直に感心する。年経た者の貫禄というか、不思議な落ち着きを感じるのだ。私の人生経験からいって、この様なタイプの女性はいなかったからかも知れない。想定外のことに直面すると慌てふためく恵先生、意味もなく私を叱り飛ばしてストレス解消していた母親、常に他の子供の世話で忙しくしている児童福祉施設の女性職員。
どれも私の理想とは程遠い。
「そうでもありませんよ」
私が地味なことは、他ならぬ私自身がよく知っている。その代表例たる容姿は見事に、図ったように平均を地で行く。出るところも引っ込むところもそれなりで、一目を惹き付ける造形美が何処か一部分でもあるわけではない。奇抜なファッションセンスを有しているということもなく、話術が得意なわけでもない。同世代が好きな男性アイドルグループにも興味はない。
集団が在れば埋没する。
集団がなければ風景の一部になる。
恐らくクラスメイトに私のことを聞いても、すぐに返答はこないだろう。返ってきても「目立たない」「図書室にいつもいる」くらいの認識しかないに違いない。だがそれを他人のせいにする程無自覚なわけでも、自分勝手でもない。全ては私自身の蒔いた種だと分かっているからこそ、甘んじて今の地位にいるのだから。
「磨けば光ると思いますよ……と、貸出登録が終わりました」
私と世間話を興じつつも、やることはしっかりやるところがやはりプロなんだなと漠然に思いつつ、私は頭を下げる。
「ありがとうごさいます」、と定例的な中年女性職員の声を頭上から聞いてふと気が付く。
「一つ聞いていいですか」
「何でしょう」
「名前、聞いてもいいですか」
名乗っていなかったことに、彼女自身今更気が付いたらしく頬に赤みを纏ってはにかむ。不思議と似合っていると思ったが、口には出さなかった。大人の女性を前にして使う形容ではないような気がしたのだ。
「緋岸 眞子ですよ、蘭さん」
「何だか気恥ずかしいです、私の方が年下なのにさん付けだと」
見合って恥ずかしがっている私と緋岸さんが余程奇異に映ったのだろう、カウンターの奥にある司書室にいたらしい館長の御坂さんが会話に割り込んでくる。
「どうですか緋岸さん、蘭ちゃんはなかなかイイでしょう」
「み、御坂さん!」
「僕が図書館内にいない時は、蘭ちゃんに聞くといいですよ。この子は僕の次にここに詳しいですから」
「私は、そんな」
「いやいやいや、館長の僕が保証しよう」
そんな私と御坂さんのやりとりを、緋岸さんはおっとりとした視線で見守っていた。