「……あ」
多分その時の私はだらしなく口を開け、相当な間抜け面になっていたに違いない。そんな己の表情に気付くこともなく、ただ驚愕が私の中を占拠していた。数瞬の時を要して、ようやく別の感情が湧き上がる。嬉しさとも気恥ずかしさとも取れる、くすぐったくてむずがゆい気持ちだ。
二年二組とワープロで書かれた文字の下、『永源寺 蘭』と見付けた。考えるまでもなく私の名前だ。そして男子の方の欄には『恵 唯人』とある。
――唯人君と同じクラスだ。
昨日まで彼とあんなに話し込むことはなかったが、いざ話してみると思っていた以上に気さくだったことに驚いた。今まではその雪よりも白い容姿から儚げな雰囲気が漂い、病弱な文学少年だと思っていたのが間違いだったことも。たまに図書室に本を借りに来るので、委員会の友達はみんなそんな風に思っているはずである。かく言う私も、その一人だったわけで。
考えてみれば昨年唯人君は陽詩美先生の授業でいつもフォローしていた。教室の敷居に靴を引っ掛けて転ぶ、チョークの粉を思いっきり吸い込んで咳き込むのは日常茶飯事。授業に使う道具を忘れてくることだって、彼女の新任一年目はよく見られた授業風景だ。そう言う彼女のドジを、弟の彼は可能な限りフォローしてきたのだ。
その代償として唯人君はシスコンとからかわれ、嫉妬と羨望と好奇の視線を一身に浴びていたようだけれど。
彼が図書室を利用していたのは、そんな姉を心配する行動の一環だったのではないか。考えてみれば陽詩美先生は図書委員会の顧問である、姉想いの彼が図書室を利用する理由としては十分だ。
どちらにしろ、状況証拠のみで推測の域を出ない。かといって本人に直接聞いて真偽を確かめるまで重大な問題でもない。些細な疑問だが、だからこそ気になる。私は芸能人の下らない内輪ネタに食い付く主婦の気持ちが少し分かったような気がした。
「永源寺さん?」
突然後ろから声を掛けられ、咄嗟に肩が首筋を護るために縮こまる。血液が冷水に変わったかと思ったが、当然それは錯覚だった。急激な筋肉組織の緊張に、汗が全身から噴き出し口腔が急速に乾いていく。
恐る恐る声を掛けられた方向に頭を身体ごと向けると、唯人君と陽詩美先生が立っていた。今日は厚い雲が隙間なく空を覆い尽くす曇天なので、日傘は彼の手にない。代わりに彼の右手は陽詩美先生の手と絡まっている。
「永源寺さん、早いね。まだ校舎開いてないよ」
それは唯人君だって同じじゃない、と咄嗟に軽口が出ない。そもそも気安い関係ができていない上に、心の準備が全くない状態での不意打ちである。身を固くする私が不審に思ったのか、それとも私の沈黙を自分の問い掛けに対する肯定と取ったのか、彼は話を続ける。
「僕は姉さんのお守り」
「唯ちゃん、わたし子供じゃないもん」
「大人はそんなこと口に出さないの。それに手を繋いだままだし、説得力ないよ」
顔を真っ赤にし、慌てて弟の手から離れる陽詩美先生。確かに説得力という面で些か問題がある構図である。
「い、意地悪ぅ。気付いてたなら言ってよねっ」
「寒いからとか、転ばないようにとか、しょうもない理由で自分から手を繋いでいたんでしょ」
「しょうもなくないもん。わたし、転んだらスカートだからパンツ見えるんだよ」
「仲良く二人で手を繋いでの登校風景の方が余程恥ずかしいと思うけど。損害補償要求して良いかな、姉さん」
「唯ちゃん!」
「ま、姉さんだししょうがないと言えばしょうがないけどね。それよりも、僕は何処のクラスかな」
「もぅ、お姉ちゃんのことまた馬鹿にしてっ」と喚く陽詩美先生の抗議を軽くいなし、唯人君は私の横へ並ぶ。私の隣に唯人君がきた時、肩がぶつかった。
「あっ」
女の子にはない硬質な筋肉の感触に、私の中に悪寒が駆け抜ける。過去のものとなったはずの悪夢が自らの意思とは関係なしに脳内に再生され、急に涙と声にならない悲鳴が込み上げる。飛び退いて己の胸を抱き、相手の出方を見ようするのは最早反射動作だ。
「ごめん」
「いえ」
長い科白はいえない。今そんな無謀を行えば、唯人君をより深く傷付けることになりかねないから。彼が思慮深く優しい男の子であることは、この一年同じクラスにいて知っている。だから私的なことで傷付けたくない。
でも唯人君は男の子だから。異性だから。頭では何の危害も加えないと分かっていても、感情の方が納得してくれない。視界に滲むこの歪みは心象奥深くに刻みつけられた男性不信から来るものなのか、それとも己を御しきれない自分自身の不甲斐なさから来るものなのか。
或いは両方か。
「ごめん、なさい!」
それだけ残して、踵を返し全力疾走。それは弾かれたようにという表現がぴったりくる程、声を掛ける暇も与えない早業だった。
心臓の脈動が切実に酸素を要求するようになって、ようやく私は速度を落として後方を確認した。唯人君と陽詩美先生が追ってきていない事に、若干の落胆と大きな安堵を得る。見慣れた風景から、それ程走ったわけではないらしい。私は運動部に所属しているわけでも取り立てて運動が得意なわけでもないこと、それに混乱は往々にして長続きするものではないことが私を精神的な崖から救ったらしい。
とはいえ、根本的解決から逃げているのは事実である。男性恐怖症も、それに関わる唯人君への失礼な行動に対する謝罪も、何も解決していない。特に前者は生きていく上でいつかは解決しなければならない問題ではあるが、残念ながら進展する可能性は低いと見ざるを得ないだろう。身体に刻まれた記憶が男性を拒否する。だが唯人君の方は?
「私のせいで傷付いたら」
私は己に恐怖を刻み付けた者と同質になってしまうだろう。故意か過失かは問題にならない、結果論として同じになってしまう。思い至ってしまったその可能性に、全身の力が抜ける。
嫌だ。絶対に嫌だ。
恐いけど、唯人君の中の性別は間違いなく恐いけど、それでもきっちり謝らなければならない。幸いかなり早く学校に着いていただけあって、まだ一般生徒達が登校するのには時間がある。人が集まる前に、唯人君会って謝りたくて私は足を学校へと再度向けた。
今日から担任としてクラスをまとめる教師が自己紹介を終えたその時、一斉に歓声が上がった。男女問わず、喜色を周囲に放散する様はさながら圧政国家から解放された少数民族である。唯人には誰も彼も興奮が些か度を過ぎているように見えた。
喧噪の中、クラスメイトがひしめく教室のただ中にあって、唯人は自分一人が無風状態の湖面のごとき冷静さを保っているように思えてならなかった。
「あうぅ。他のクラスもホームルームやってますので、静かに騒いでくださいぃ」
静かに騒げ、とは見事に矛盾する発言である。静かにできる程に冷静ではいられないから騒ぎになるのであって、静かにできるならばそもそも静かであるはずだと気付いているのだろうか。勿論そんなことは本人にそんなことを考える余裕はない、本人こそ思い切り取り乱しているのだから。
おろおろ、あたふたと教壇を右往左往しているのは今日から二年二組を担当する教師である。唯人が見覚えがあると思うのは当たり前だろう。
馬鹿騒ぎは収まらない。そうこうする内に、機関砲のような速度で質問の砲弾が放たれる。
「先生、スリーサイズ教えて下さい!」
「先生、恋人いますか!」
「先生、姉妹の契りを交わしませんか!」
矢継ぎ早と称するのも生易しい怒濤の質問攻めで、新担任はますます余裕をなくし意味不明な挙動が多くなる。「あの、それは」とか「えっと、えっと」とか「契るって、そんな」とか、律儀に全ての質問に反応するものだから余計に混乱を増すのだ。さしずめリスやウサギに近い、小動物的な愛くるしさを伴って目を白黒する。要領が悪いのだ。
「先生、年下は好きですか!」
「先生、同性にモ機会均等ですよネ、国籍違ってモ愛があれバ超えられル壁ですよネ。今度こソ先生のHeartはスゥがいただきますヨ!」
「きゃあ、スゥちゃん大胆。流石アメリカね、応援するわよ!」
一部女生徒から歓声が上がると同時に、調子に乗った者が更に過激な質問へと移行する。
「せ、先生は黙秘権を行使します〜っ」
益々興奮の坩堝と化す教室は最早自浄能力を失っている。肌でそれを感じたのか、新担任は逃げるようにこう言い捨てた。
「質問などは始業式が終わってから存分に聞いてあげますから、今は廊下に整列してくださいぃ」
言うが早いか、本人が真っ先に教室から脱出する。興味の対象を失った生徒達はその勢いを維持できるはずもなく、自然と大人しくなり言われた通り廊下へと動き出した。
ただ一人頭を抱えていた唯人を除いて。
「担任って、一体何の冗談なんだよ姉さん……」
姉の陽詩美が担任だなど、弟の彼すら聞いたことがなかった。昨日の朝に言った「良いこと」がこのことだったのだ、と今になって身に染みる。そしてこのことが良いことだったのかどうか、それは分からない。彼に分かることといえば、これから確実に己の気苦労が増えるだろうということのみであった。
彼は人知れず、深い溜息を吐く。
始業式が終わり、二年二組では陽詩美先生に対する質問攻めが再開されていた。好きな食べ物や好きな芸能人という当たり障りのないものから、お風呂に入ったら身体の何処から優先的に洗うのかというセクハラ的な質問まで幅広くて取り留めもない猛攻に質問タイムに突入してからものの一分も経たずに先生は先程と同じ状況に陥っていた。
困った顔で一つ一つ、質問に答えようとする陽詩美先生。答え終わる前に次の質問が飛び出し、先生の注意はそちらへ向く。解決されずに、質問は増えに増える。かくて騒ぎは拡大していく。
そんなクラスメイトの馬鹿騒ぎから一つ遠い場所に私はいた。美人で優しい教師が担任になった、それは自分達にとってやはり歓迎すべきであろうことは、私にも分かる。事実、私もどの教師が担任になるのかと内心不安だった。陽詩美先生の担任として、教師としての不安は新たに増えそうな気はするものの、これ以上ないくらい気楽な一年になるだろうと思うと先のマイナスを帳消しにして余りある。
全てに対応しようとする陽詩美先生は年齢を超えて可愛らしくもあり、誠実でもあるだろう。だが私はそこにストレスを感じた。昔の自分、無理に期待に応えようとしていた時代の私に何処か似ていて。だから私は立ち上がって、口走ってしまった。
「聞きたいことがあるなら、手を上げて一人ずつ聞けばいいでしょう!」
私の怒鳴り声を境にして、喧噪が吹き飛んだ。残ったのは耳鳴りが聞こえそうな程に痛い沈黙である。そこで私は己のしでかしたことの重大さにようやく気が付いた。クラス中の視線が私に集まっている。驚き、次に何が出るかを警戒する瞳、瞳、瞳、瞳。無機質な硝子玉を思わせる合計約八十もの目の圧力は否応なしに私の過去を想起させる。
何事かと視線を向けるものの最終的には無関心を装うヒトの群れ、私を実験動物か何かのように接する精神科医、汚物を見てしまったとでも言うように顔をしかめる母親、全く己の力で生徒を救おうとしない教師。私はそんな実体験から涙が込み上げるが、堪えて次の言葉を紡ぐ。
「恵先生に、聞きたいことがある人は手を上げて」
更に続く沈黙と空気感染する当惑がクラスメイト達に行動を躊躇わせる。互いを牽制するように目配せする頃になると、少しだけ先程のざわめきが戻ってくる。
そんな中、一人挙手をした者がいた。
「では、レミィさん」
陽詩美先生が指名する。
「はァい」
日本語の発音がおかしいのは当然のことで、スゥ=レミィは日本国籍ではない。金髪碧眼で生まれも育ちもアメリカ合衆国、生粋のアメリカンである。本人の言によるとフランス系なのだそうで、唯人君程ではないにしろ普通の日本人よりも色白である。そしてアメリカ仕込みの自己主張の強さで私なんかより目立つ存在で、一日足らずで新二年二組に溶け込んでいた。
「スゥはメグミ先生が今後、この教室をどうしたいのカ聞いてみたいでス」
おお、と今度は感嘆のざわめきで揺れた。彼女は真面目な時と不真面目な時の差が激しいことは昨年一緒のクラスだった者ならば知っていることである。だがクラス替えが起こった今では、その事実を知っている者は今では全体の三分の一程か。私や唯人君は少数派の一人だったので、どうということもないが他の三分の二に当たるクラスメイトはそうではなかったらしい。レミィさんのただの陽気なアメリカ人というレッテルは早くも消え去りつつあった。
そしてクラスメイト達は陽詩美先生がどう答えるのか、そこにも興味がある。
「先生は」
口を開いた途端、陽詩美先生へと視線へと集まる。それを感じるとまだ慣れていないのか(まがりなりにも先生は一年間教師をやっていたのだが)、彼女も喉の奥から小さい悲鳴と引きつった笑顔を浮かべた。それでも止まらなかったのはやはり教師という肩書きと責任故か、それとも先生自身の誠実さ故か。
「先生は二年二組を自浄能力のあるクラスにしていきたいと思ってます」
クラスの全員が耳を傾ける。無論陽詩美先生の弟である唯人君も、その一人だ。
「一人一人自分で決断していけるような、善悪を己の裁量でけじめを付けられるようになればいいですね。そのためのお手伝いだったら、先生頑張っちゃいますよ」
胸の前で両方の拳を固め、教壇の前で小さくガッツポーズを決める陽詩美先生。そんな先生の仕草がツボに嵌ったのか、感嘆の声を上げる男子一同(例外有)と応援の視線を向ける女子一同(例外有)。
そんな中、次の挙手が上がる。唯人君だ。
「ではそのために担任教師たる自覚を持ち、平等で公正な視点から物事に当たるということですね」
「うん。唯ちゃん頭良くて、お姉ちゃんうらやましいな」
あ、唯人君呆れてる。
唯人君は前の方の席に陣取っていて、どんな表情になっているのかは分からない。だがあの項垂れ具合から、己の姉の失態に頭を痛めていることはここからでも見て取れる。
「今のナシ、オフレコで。先生のお願いだよぅ」
曲がりなりにも真剣だった表情を崩し、生徒に対してお願いする陽詩美先生。先程まであった威厳(のようなもの)は何処へいったのやら、と唯人君も痛感しているに違いない。私は少し彼が可哀相に思えた。
そして教室は再び戦乱へと突入する。
雨後の竹の子の如く咲き乱れる生徒の手、手、手。彼らの質問事項は直接聞かなくとも、私ですら予想が付く。即ち唯人君と陽詩美先生の関係について、だ。事情を知っているはずの三分の一に属する生徒すら挙手していることから、からかい半分興味半分といったところだろうか。
「先生、恵君とはどういった関係ですか!」
「先生、恵君と同棲しているんですか!」
「教師と生徒のイケナイ関係……イイ、とてもイイィィ! ディ・モールト、エクセレントッ!」
「教師と生徒の恋愛、これガ『Moe』。これガ『Oyakusoku』といウ奴なんですネ、初めテ実物で見ましタ。Ah、スゥも混ざりたいでス」
「レミィさんはもう存在自体がお約束の塊だから、混ざりたいなら混ざれると思うよ」
どうして留学生に変なこと吹き込んでるんですか委員長の小牧さん、と彼女に問い詰めたかったが余計な口出しは私の方へ火種を飛び火させかねなかったので自粛する。間接的に陽詩美先生を売ったことになるが、私も当然我が身は可愛いのだ。ごめんなさい、先生と心の中で謝罪する。
「本当ですカッ。嬉しいでス、でハ遠慮なク」
「レ、レミィさん何やってるんですかっ、ちょっと、あっ」
「むム、メグミ先生見た目通りおっきいですネ。スゥ、ちょっト嫉妬してしまいまス」
「あ、ちょっと、ダメっ、くすぐったいから、そこはダメぇっ」
男子一同から歓声が起こると同時に、女子の有志が流石に拙かろうとレミィさんを陽詩美先生から引き離す。引き離された後の先生は肩で息をして頬を紅く染め、女の私から見ても艶を感じさせる。この辺りになると、私も半ば現実逃避に入っていて「陽詩美先生って、嗜虐心を煽るタイプなんだなぁ」とかしょうもないことを考えていた。完全に他人事である。
おかしな妄想を繰り広げる者、流言を広める者、妄想の交換を始める者、混乱は急速に教室中に感染して始業式開始前よりも酷くなっている。まるでブレーキのない車の暴走だ、もう既に私に止められるような状況ではない。唯人君も陽詩美先生同様の質問攻めに遭っていた。
「はわ、静粛にお願いしますっ。どうか静かに〜っ」
無論、半ば暴徒化したクラスメイト達は聞く耳を持ってはいなかった。
「スゥのモ、あんナ風におっきくなれるんでしょうカ……」
わきわきと左手を開閉させ、右手で自前のものに触れているレミィさんが私の席から見える。年齢を鑑みると十分に成熟した肢体を持つ彼女だが、まだ不満のようだ。欧米人と日本人との感覚的な違いだろうか。
乱痴騒ぎに対して現実逃避をしている私を、まるで他人事のように観察する私がいた。
「酷い目にあったよぅ」
ハンカチを片手にさめざめと泣く陽詩美に対して、唯人は掛ける言葉を持たない。彼女の場合はただの自爆だが、彼は完全にとばっちりを受けた形となるからだ。あれからずっと質問攻めにされたため、彼も疲労の度合いが濃い。
二人は今、誰もいない学校の中庭にいる。疲労回復のために下校せずに学校の中で昼食を摂っているのだ。今日はアパートに帰って昼食を作るのが面倒だ、と唯人が主張したのが一つ。そして家に帰ってから昼食ができるまで待ちきれない、と陽詩美が主張したのが一つ。そして性能的には今一つどころか二つ三つとまでいきそうな彼女だが、一応教師なので職員会議があったことが一つ。
以上を理由にして、中庭で出来合いの弁当をつつきながら今日の反省会と相成ったわけである。どうせなら学校の備品である青いビニールシートを敷いてピクニック気分を演出しようという陽詩美の提案が成立し、二人はベンチではなく直接膝を折って座っている。
「姉さん、もうちょっと危機感持とうよ」
「うぅ、ごめんね」
陽詩美は申し訳なさそうに謝って、塩鮭を一口。
「〜〜〜〜っ!」
予想以上に塩辛かったらしい塩鮭に表情を歪め慌てて白米を掻き込み、事なきを得ようとするが今度は喉が詰まったらしい。困った姉だ、と唯人は身を竦めてペットボトルのお茶を差し出す。ただ普通に渡しただけではそのまま零す可能性があったので、陽詩美の手がペットボトルを掴んだ状態であっても彼は手を離さない。ひんやりと冷たく、柔らかい指先の感触に唯人の方が一瞬動揺する。
取り落とさなかったのはやはり自分が姉をフォローしなければならない、という使命感の一端と捉えることもできるだろう。それでも仲の良い姉弟であることには変わりなく、微笑ましくすらある。周囲に対する注意力が低下していたのは何も疲労のせいだけではあるまい。
不意に閃光が二人を襲った。
「やりましタ、Best Shotでス」
呆気に取られる唯人と陽詩美に、スゥが駆け寄る。手には閃光の原因と思しき一眼レフカメラがある。右腕の腕章には『報道部』、そう言えば彼女は報道部だったと今更ながら唯人は思い出す。非常に好奇心旺盛で自己主張が強い彼女の別名が一昔前世間を騒がした『パパラッチ』だということも唯人は失念していた。
スゥは一眼レフカメラを年季の入った保護カバーに入れ、言葉を紡いだ。カバーには報道部の所有物であることを示す印がない。この骨董品のようなカメラは彼女の私物らしいのだ。校則に抵触しそうだが、割と自由な校風であることが幸いして咎められることはいままで起こっていない。
「やっぱりユイトとメグミ先生は特別な関係なんですネ、今月号は美人教師と生徒とのめくるめク関係で決まりですヨ」
「唯ちゃんとわたしはそんな関係じゃないよぅ」
「全然言葉に説得力ないよ」
「ゆ、唯ちゃ〜んっ」
陽詩美は少しでも不測の事態があると地を出してしまう。そこが校内における人気の源でもあるが、今回のように誤解を解く際には足枷にしかならない。彼女の正体を既に知っているスゥのような生徒だけならばまだしも、クラス替えで陽詩美を初めて見る生徒がいる状況で教師としての地位を忘れ、先の騒乱が起こったことなど彼女の頭にはないに違いない。だからこそ唯人は常に己に対して自制を科しているのであり、いつも彼女が迷わぬように先導しているのである。先の騒動では、便乗して騒いでいた者も相当数いたのは事実ではあるが、それはともかくとして。
唯人は恨みがましく非難の声を上げる姉を一端無視し、スゥを正面に捉える。
「レミィさん、これって取材だよね」
「はァい、取材ですヨ」
「僕の発言がそのまま記事に反映されるんだよね」
報道の良心に一縷の望みを託し、唯人はスゥに問う。
「Yes、ユイトの発言を元にスゥが面白おかしク誇張しテ記事にしまス」
「歪曲する気満々でしょ、それは」
「スゥの家が取っていル旭新聞でモ堂々と同じことをやっているのデ、問題ないでス。報道の自由ですヨ、スゥは自由と正義を愛すルUnted Statesの一員でス」
「歪曲するのは正義から外れると思うけど」
スゥは己の行動に内包する欠陥に気付き、固まる。そして数秒経ってから何事もなく活動を再開した。自己完結したらしい。
「愛国無罪!」
「レミィさん、時々何処の国籍なのか分からなくなるよね。それと一応突っ込んでおけど、使っている言葉の意味分かってないでしょ」
「冗談はこれくらいにしテ、本題に入りまス」
「冗談だったんだ」
唯人の呟きを聞かなかったことにして、報道部の部活勧誘パンフレットを丸めてスゥは彼の口元に突き出す。どうやらマイクのつもりらしい。
「さァ、吐いてくださイ。姉と弟で、しかモ教師と生徒な禁断の肉体関係は何処まデ進んだんですカ」
「肉体、って……やだ、スゥちゃんったらぁ」
「姉さんは黙って、火に油注ぐ結果になるから」
顔を赤くし、身体をくねらして奇怪に踊る陽詩美に対し唯人は彼女の額にチョップを入れて黙らす。「ゆ、唯ちゃんがお姉ちゃんにいぢわるするぅ〜っ」とチョップで不審な挙動を強制的に中断させられた彼女は、身近にいたスゥに縋り付いて唯人に抗議の視線を送る。縋り付かれたスゥは迷惑そうだが、取り敢えず被害は(唯人にとっては)最小限に抑えられたようである。
「しかしさ、僕と姉さんってそんな風に見られていたんだ」
「そりゃそうでしょウ。ユイトはいつもメグミ先生を手伝うシ、先生が転びそうになったラ抱き留めるシ、二人のお弁当だってユイトの手作りだっテ噂ですヨ」
「それはね、スゥちゃん」
性懲りもなく喋り出そうとする陽詩美の額に、今度こそ唯人の問答無用の一撃が入る。今度はチョップではなくデコピンである。衝撃の総量は大差ないかも知れないが打撃面積が指先に集約されているので痛いらしく、彼女は痛撃を受けた箇所を抑えた。
「スゥちゃ〜ん、唯ちゃんがお姉ちゃんに優しくないよぅ。しくしく」
「ユイト、女性には優しくしないト駄目ですヨ?」
「僕だけが一方的に悪者って絶対おかしいよ、姉さんも同情惹こうとして嘘泣きしないの……じゃなくて、ああもう話が逸れる」
困り果てる唯人を見て、くすくすとスゥが笑い出す。性別的に男性であるというだけで理不尽で一方的な要求をされるのは、日本社会ではよくある光景だったがアメリカ人のスゥにしてみれば物珍しかったのだろう。物心付いた時から日本語を学んでいて、日本に明るいスゥだったがこういった生のやりとりは未だに興味深いものなのだ。まだ留学してから、一年しか経っていないのだから彼女にとってまだまだ新鮮な日本があるといえる。
日本人の試験体としてからかわれる唯人は不幸であるとしかいいようがないが。
「ユイトが可哀相だかラ、さっさト取材に移りますカ」
「そうして、頼むから」
取材自体は唯人の予想範囲内の出来事、いつかは必ず来るだろうと思っていたので彼は心の準備をしてあった。故にいきなりカメラのフラッシュが焚かれたところで驚かないし、取り乱したりもしない。敢えて彼の不備を指摘するならば、姉の陽詩美に対し無意識にでもまともを期待した点だろうか。
唯人がこのような事態を想定できたのは、去年も野次馬根性旺盛な報道部から同じような内容の取材を受けていたからである。いきなり姉が担任となった時点で、まともな人間は取材されるような事態を予見するだろう。頭の中に年中無休でお花畑が広がる陽詩美にそれを期待したことが、唯人の失敗だったのだが。何年も弟やっているのだから姉の能力的欠陥くらい考慮に入れとけ、といわれれば彼には返す言葉もない。
「できタ新聞は壁に張り出しますかラ、スゥ個人がメグミ先生やユイトについテ知っていル内容も聞きますヨ。確認のためでス」
「了解したよ」
左手にメモ帳、右手にシャーペンを持ちスゥは臨戦態勢に入った。目元や口元も先程の唯人をからかっていた時のそれと違い、真剣なものに変わっている。
「ユイトとメグミ先生は二人は姉弟で、一つ屋根の下に同棲中なんですよネ」
好奇心剥き出しなところは変わっていないらしい。
「レミィさん、わざと言葉間違って使ってるでしょ」
「アイヤー、その見解は憶測に基づク誤解に過ぎないアルヨ」
似非中国人風におどけてみせるスゥに対する対処法はない。彼女とこの手の話をしても絶対に平行線になることは唯人にも目に見えていたので、彼は小さく溜息を吐いて彼女の取材を答えることにした。真面目に、真っ当に話を進めるのが精神的被害を最小限に食い止める効果的な手だからだ。
「僕と姉さんは確かに姉弟の関係だけど、多分他の人が想像するような嬉し恥ずかしの関係じゃないよ」
「では真実はどういっタ具合なんでしょウ」
「どうもこうも、普通の家庭の姉弟でしかないよ。姉さん、寝相悪いから色気も何もあったものじゃないし」
「その辺もっト詳しくお願いしまス」
「うん。姉さんは朝が弱いから、いつも僕が起こしに行くんだけど」
「わーっ、わーっ」
早速自分の恥部曝露大会になりつつある取材(?)を、陽詩美は必死で止めようと唯人とスゥの間に割って入る。
「スゥちゃんも唯ちゃんも、酷いよぅ」
陽詩美は拗ねてお弁当の塩鮭を一口、そして余りの塩辛さにまた目を白黒させる。そんな姉を見て、唯人は呆れるしかない。スゥは「大変ですネ、どうしましょウ」と全然大変そうじゃない口調でいうだけで、全く動こうとしない。
「姉さん、学習能力ある?」
唯人から手渡されたペットボトルのお茶をラッパ飲みして、取り敢えず事なきを得る。余程慌てていたのか、口から零れたお茶が顎まで垂れていたので唯人はハンカチで姉の口元を丁寧に拭う。唯人のそれは痛くないように、ぞんざいにならないようにという心遣いが他人であるスゥにも伝わってくるような優しい手付きであった。陽詩美もそれが当然というように、されるがままに任せている。まるでまだ食事のマナーを覚え切れていない幼い娘と、世話好きな父親だ。
「いいもんいいもん。どうせわたしは馬鹿だもん、ドジだもん、要領悪いもん」
今度は唯人とスゥから二人から顔を背け、ビニールシートの上に指で「の」の字を書き始める。
「メグミ先生、本格的に拗ねちゃいましたネ」
「姉さんのご機嫌取りは僕の仕事だから、気にしないでいいよ」
「……そうですカ、では遠慮なク尋問を再開しまス。先程の質問事項の一つですガ、メグミ先生のお弁当ユイトの手作り疑惑は本当なんでしょうカ」
スゥは尋問とかいっているが、もう唯人も突っ込む気はない。素で間違っているのか、それとも敢えて間違いを承知で使っているのかが判然としない。そしてどちらであっても大差ないのだから、突っ込むために消費されるエネルギーと時間が惜しくなるのも道理である。それよりも出された問い掛けに対し過不足なく、曲解できる余地を残さないように答える方が彼にとっては重要だ。
最初から歪曲する気でいる記者には何をいっても無駄ではあるが、スゥは自分で言う程に酷い記事を書く記者ではない。アメリカ人と日本人の感覚的な差異からくる曲解はしばしばあるものの、事実自体を捻じ曲げるようなことは唯人の知る中ではなかった。
「そうだね、確かにお弁当は僕が作っているよ」
「成る程、疑惑は真実、ト。毎朝早く起きテお弁当作るノ、大変じゃないですカ」
「要は慣れだよ。お弁当作りといっても、下拵えは昨日の内にやっておくから言葉の響き程大変じゃないしね」
事実として、唯人にとっては朝食の支度とお弁当作りよりも姉の陽詩美を起こす方が大変なのだ。姉は目を開けただけでは起きたと判断できない。寝ながら返事をすることもあるし、寝ながら着替えることもある。大体三日に一回は「起きるぅ〜」とやる気のない返事をしてから二度寝するのが姉の陽詩美なのだから、弟の彼としては油断できない。
「それに出来合いの物で済ませてたら、物理的に生活できなくなっちゃうから」
「物理的に……酸素がなくなったりするんですカ」
突飛な発想を口にするスゥに、唯人は苦笑する。スゥの想像があながち間違った方向の話ではないことに対して、苦笑を禁じ得ないのだ。
「それに近いね。僕の家の家計はさ、姉さんの給料で殆ど賄っているんだ。親がいないも同然だからね、当然仕送りなんてないよ」
束の間、目を閉じて唯人は心を静める。そうせねば昔に封印したはずのどす黒い憎しみの炎が浮かび上がりそうだったから。両親とは彼にとって不信の権化であり、余裕をなくし家庭生活をゼロサムゲームにしてしまった敗残者の同義語であったから。だがそれはスゥが口を挟む程の時間ではない、彼はスゥの相づちを待たずに言葉を続けた。
「だけど姉さんは今年で二年目の新米教師だよ、出来合いの物だけで二人の人間が生活していくにはどうしてもお金が足りなくなるんだ。借りてるアパートだって古いし、狭いよ」
「では今日に限っテお弁当じゃないのハ、何故ですカ」
なかなか鋭い指摘である。すぐに横道に逸れたり、悪ふざけもするがスゥは基本的に誠実な人間である。一年間クラスメイトをやっていれば、誰でもそこに気が付くだろう。他人を不快にさせるようなことも時にはしてしまうが、間違いに気が付けば素直に謝っている。彼女に悪意はないのだ。好奇心が強すぎるきらいはあるものの、それ自体が悪いことではあるまい。
「今日は始業式で半日だったよね、だから今日は自宅に帰ってからお昼にする予定だったんだ。でも家に帰ってから料理する気力はもうないし、姉さんも待てないっていうから今日はコンビニのお弁当」
「明日はどうですカ」
何故そんなことを聞いていくるのか、と唯人は目を丸くする。
「ユイトの作っタお弁当、食べてみたいでス」
「期待しているところに水を差して悪いけど、僕が作るのはいたって普通のお弁当だよ?」
「構わないですヨ、調理パンと交換でス」
「じゃあ、明日の昼休みまであまり期待しないで待っててね」
「はァい……ところでユイト、メグミ先生が悲しそうでスがいいんですカ」
いつの間にか「の」の字を書くことを止め、陽詩美は恨みがましい視線を唯人とスゥに送っている。唯人はいつものこと、と気にもしなかったがいつものことではなかったスゥは気になったようだ。
「酷いよ二人ともぉ、お姉ちゃんを無視して楽しそうにお話ししてぇ〜っ」
今にも泣きそうな声と顔は姉にも教師にも相応しくない。大体すぐに弱さを曝け出すことがどれだけ危険なことか、どれだけ無防備な状態かを彼女は分かっていないに違いない。だが陽詩美という人物にはこれ以上ないくらい相応しいと言える。余りにも弱さを見せるから、余りにも素直だから、余りにも無防備だから彼女の身近に在る者は保護欲をそそられて彼女を護ってしまう。その筆頭はいうまでもなく、彼女の弟の唯人である。
「姉さんを無視してたわけじゃないよ、明日のお昼は姉さんも一緒に食べるよね」
「……うん、食べる」
鼻を啜り、目元に抗議の跡を残しながら陽詩美は答える。そんな彼女の頭を唯人は優しく撫でると、彼女は気持ちよさそうに目を細める。本当にどちらが年上だか分からなくなる光景であるが、不自然さはない。
「麗しキ姉弟愛ですネ、感動しましタ」
「そんないいものじゃないよ」
そう、彼らの仲が良いことは決して善いことばかりではなかった。極端に味方が少なかったことで、弱い者同士寄り添ったに過ぎない。庇い合うことで苦痛を軽減しようという苦肉の策から生まれた関係である。双方に破綻した家庭環境がなければ、そもそも唯人と陽詩美の二人は巡り会うことすらなかったに違いないのだ。
二人の関係は家庭の暗黒時代を示唆するものであり、不幸せの証明なのだ。
「そうだよスウちゃん、唯ちゃんったら家でもそっけないんだよ」
「詳しくお願いしまス」
チョップ。
「ぶぅ〜っ、また唯ちゃんいぢわるするぅ」
「豚の真似しなくて良いから、墓穴掘る前に黙ってよ」
「メグミ先生はスゥが実地調査したところニ依るト、豚というよリ牛だト思うんですガ」
いわれたことを理解できずにきょとんとする陽詩美に、スゥが分かり易くジェスチャーで示す。即ち、自分の胸の前で球体を二つ持ち上げるような動作。
理解した時には陽詩美は耳まで赤くなっていた。
「スゥちゃんっ」
「誇るべきですヨ、女の人としてハ」
反省会どころではなくなっている現状に、唯人は小さく嘆息して弁当を食べた。天が高くなり、日差しが強まることに多少の不安を抱きつつ、目の前の漫才を眺める。
春の陽光が優しい午後の一時であった。