ホワイテッド・ヴァンパイア―己ノ敵ハ内ニ在リ―
Me262Tan
パイプ椅子といえど、二つ同時に持つとそれなりの重量となる。まして私は同性の中でも非力に属する部類である、五往復も保管場所から設置位置まで運んでいたら腰が痛くなっていた。十メートルほど先では同じようにパイプ椅子を運んでいた陽詩美先生も、私と同じく体力がない方なので背を反って痛む腰を宥めている。
私達と比べ、やはり男子達はまだまだ元気に動いている。動きにどこかやる気が感じられないが、一般生徒ならばやらなくても良い仕事なのだからやる気も半減するのだろう。動員されている人数も全校生徒と呼ぶには程遠く、委員会の生徒と若手の教職員だけなのも士気が低い一因である。
そもそもまだ一般生徒にとって、今日は春休み最終日である。休日出勤の辛さは体験した者ならば分かって貰えるのではなかろうか。
「痛ぅ……」
突発的な痛撃と違ってこの痛みは疲労性のものなので、少し休んだからといってすっかり消え去るわけではない。休めば一時的に痛みは影を潜めるが、また活動を開始すればぶり返す。騙し騙し身体を使っていくしか道がないというのは、どうにも私の性に合っていない。周到な準備の元に万全の体制を以て本番に望む、という姿勢自体は好きなのだが。非力な者に肉体労働をさせるのではなく、適材適所を考えて欲しいものだ。
その上、今日は愚痴を聞いて貰える相手もいない。悪態も付けない。
その点、唯人君はやはりすごいと思う。彼は陽詩美先生の弟で私達と同じくパイプ椅子を運んでいる男の子だったが、彼は私と違ってこんな仕事をする義務はない。委員会も部活も無所属の、ただの一般生徒有志の手伝いである。彼は体育館の床にへたり込む陽詩美先生に声を掛け、介抱している。
唯人君と陽詩美先生は、似ていないが姉と弟。口の悪い人は彼をシスコンと揶揄するが、実際は姉想いの弟なだけだと思う。
一年間唯人君と同じクラスだったが、彼は出会ったその日から目立つ男の子だった。そして彼と陽詩美先生は変わった姉弟だった。唯人君は病弱という言葉をそのまま形にしたような外見からは想像も出来ないくらい健康で、普通の姉弟とは大きく関係を異にするくらい姉の陽詩美先生と仲がよい。穏和で人から頼まれれば嫌とはいえない彼の性格は、まぁ外見通りか。
唯人君の肌は白い。女の人に対する辞令の句としての「白い」ではなく、文字通りの意味として白いのだ。無論肌を白くするファンデーションを使っているわけでもないのに、その肌の白さや極めの細かさは雪の白さに比肩しうる。私を含めたクラスの女子からは、密かに羨む声すらある。病気ではなく、さりとて人工的なものでもなく、それは彼の体質。彼はいわゆるアルビノ個体なのだ。
それなのに陽詩美先生は普通なのだ。どこも普通の人と変わったところがない。血が繋がっているならば唯人君と似通っている部分があってもよさそうなものだが、それらしいものは全く見当たらない。他の人と変わった点を挙げるならば、度を超した天然さ加減くらいなものだろうか。何でもそつなくこなす彼と違って、先生は何でもそつなくドジを踏む。何もない廊下でもよく転んでタイトスカートの中を周囲に見せているし、教室でトラブルが起こった時は首を突っ込んだ上で事態をこじらせる。わざとやっているのではないかという噂まで立ったが、どうも陽詩美先生の真剣な表情を見る限り一生懸命にやった結果らしい。
――先生、また転んでる。
転んで周囲にばら撒いたパイプ椅子を集め、一息入れる陽詩美先生。唯人君はそんなへばっている先生から椅子を奪い取り、自分の持っていた分と一緒に並べるべく所定位置まで運ぶ。姉の方は一方的な彼の行動に対し抗議するが、当の弟はそれを無視して仕事を終えていく。もう私の倍以上は働いている彼だったが他の男子に見られるやる気の無さも、じんわりと滲んでくる疲労も殆ど感じられない。別に彼は委員会に所属しているわけではない。それでも無償で出なくても良いはずの勤労に精を出しているのだ、私は頭が下がる思いだった。
対する私は図書委員会に所属している。そして陽詩美先生は図書委員会の顧問なので、唯人君は成り行きで手伝うことになったのだろう。他の男子よりも輪を掛けでやる気が失せてもおかしくないシチュエーションだったのだが、彼は気付いているだろうか。
「永源寺さんも疲れたの?」
持っていたパイプ椅子を並べ終えた唯人君が私に声を掛ける。
まさかこちらに話が振られると思っていなかった私は、思わず声から小さく悲鳴を漏らしてしまった。穏和で優しそうな微笑みを湛え、気遣ってくれる唯人君にすら私の持つ悪癖は顔を出す。
そんな私の態度を見て一瞬だけ唯人君に悲しそうな表情が宿った。それは一瞬のことで、ひょっとしたら彼自身そんな表情に気が付いていないのかもしれない。例え本人の無意識に出てきた表情だったと仮定しても、目撃してしまった私は胸が痛んだ。
「ご、ごめんなさい」
「僕の方こそ、驚かせてしまってごめん。僕も頑張って手伝うから、永源寺さんも頑張って」
違う、唯人君は誤解している。私は別に彼のことを嫌っているわけじゃないのに、頭で自分に言い聞かせても条件反射がついていっていない。対人恐怖症というより、私のそれは男性恐怖症といった方がより正確だ。男性に声を掛けるのも怖い、無論掛けられるのも同じくらい怖い。
でも唯人君は、誰にでもこんなに優しい唯人君ならと思える。それでも、恐怖は消えないけれど。
「あ、あのっ」
「何?」
怪訝そうに振り向く唯人君。
「あ……りが……とう」
たったそれだけを言葉にするだけで勇気を振り絞らなければならない。だが多大な心的コストを支払って得られた対価はあまりに小さかった。文字通り蚊の鳴くような声が、この広く音が拡散する体育館で果たして彼の耳に届いたかどうか。今私の耳には、自分の鼓動しか聞こえてはいない。
「どういたしまして」
一瞬間を空け、返礼がくる。何処までも真っ直ぐに私を見据える瞳に、私は堪らず視線を外した。恐怖と気恥ずかしさが同居する奇妙なこの感覚、私以外の誰にも分かりはしないのだろう。
頬に感じる熱が、心臓が刻む規則正しいリズムが「生きている」という当たり前の事実を実感させる。まだ私は死んでいない、生きている価値はまだ見付けられる。一歩、一歩歩いていける。それだけで、今の私は充分だった。
「恵先生」
ふぇ、と聞いているこっちも気力が萎えそうな返事が来る。仕事を取られたためか、それとも弟に迷惑を掛けたためか先生は落ち込んでいる。だがそれでも呼吸はすでに正常へと戻っており、胸の上下もゆったりとしたものに戻っている。私は先生に向かって手を差し伸べた。同性ならば恐怖はないので、男性と相対する時よりも遙かに安らいで行動することができる。
悲しそうな表情を掻き消し、陽詩美先生は目を細めて微笑む。
「永源寺さん、ありがとうね」
「はい。ゆ……恵君も頑張ってますし、私達も頑張りましょう」
危うく下の名前で彼を呼ぶところだったことに内心冷や汗を浮かべながら、改めてこの姉弟について反芻する。幸いにして陽詩美先生は気付いた様子がないことに私は安堵する。適度な鈍感さを持った先生に感謝せねばなるまい。
恵 陽詩美。
恵 唯人。
と女の子の名前のような変わった名字で結ばれる二人は、やはり何から何まで似ていない姉弟だと思う。
「やっぱり『永源寺さん』より、わたしは『蘭ちゃん』って呼びたいなぁ。それに二人も『恵』がいたんじゃ呼びにくいでしょ、わたし達のことも下の名前で呼んでいいからねっ」
もう心の中ではとっくに名前で呼称しているなど、当然二人は知らない。表情に出さないように努めて気を付けながら、会話を繋げる。いくら陽詩美先生が鈍感だとはいえ仮にも女性であるのだから、俗にいう『女の勘』まで未装備である保証はない。用心はしていてしすぎることはないはずだ。
「プライベートなら、いいですよ」
暗に学校内では『永源寺さん』と呼べといっているのだ、私は。
「うん、じゃあ蘭ちゃんだねぇ」
人の話を聞いているのだろうか、この先生。
始業式の会場設営は午前中で終わり、彼ら生徒達は解散となっていた。教師達はそうもいかず、式の進行などの打ち合わせがあるようで帰路に就くことはなかった。そのことを随分と残念がる姉を尻目に、後ろ髪引かれる思いで唯人は商店街にいる。別にぶらつくことが目的ではなく、夕飯の材料調達のための寄り道である。趣味の領域ではなく、義務の領域に属する寄り道に永源寺 蘭を伴うことに彼は多少の違和感を禁じ得なかった。
彼ら二人は特別親しい間柄ではない。一年間同じクラスだっただけで腐れ縁の象徴たる幼馴染みでもなければ、友達でもない。接点がなさすぎていっそ赤の他人と称した方がしっくりくる様な、そんな関係である。
当然、気の利いた会話など二人の間で交わされるはずもない。気まずい無言が彼らに焦燥感と、より重い気まずさを生み出し余計に二人の口を重くする。
「ねぇ」
「あの」
無理矢理に話題を作ろうとしてもほぼ同時に話し出そうとしてしまい、沈黙が空気を白くする。
「……恵君から、どうぞ」
「永源寺さんからいいよ」
遠慮し合っていて、どうにも前へ進まない。日傘を差している男の子と、その隣を歩く女の子の取り合わせは周囲の人間が一度は歩みを遅くして見入ってしまうほどに目立っているのだが、二人はそれに気が付く余裕はなかった。一つの傘が創り出す影に男女二人が仲良く入っているという光景、しかも不思議と絵になっているから恐ろしい。
蘭は視線を唯人に向けようとして、不意に浮かび上がる怖気に屈して自らの胸を抱く。彼に対して失礼に当たると思うも、身体がついていっていない。
一息間を置き、唯人が口を開いた。
「永源寺さん、男の人嫌いだったよね」
その一言に蘭の心臓は一際大きく跳ね上がった。
接点がないということは、興味を示す理由がないということである。人間は理由なしに動けない生き物なのだ、戦争も、殺人も、施しも、何もかも何の理由もなしにはできない。意味のない手続という鎖で縛らなければ大抵何もできない。だからこれといって注目に値する理由が見つからないのに、自分を見ている者がいたことに蘭は驚愕を示した。
それとも彼には彼の、蘭を注目する理由でもあるのか。
「分かってましたか」
事実として蘭は声を唯人に届かせることが辛い。隣を歩くのが怖い。視線を受けるのが恐い。ただ横に男の人がいると意識するだけで、体は固くなり動くことにも難儀する。苦行といってもよいだろう。
「何で僕と一緒に帰る、って言ったのかずっと気になってね」
その言葉に蘭は柔和な微笑みの裏に隠された唯人の牙を見た気がした。能有る鷹は爪を隠すともいう。ただのお人好しで姉想いの男の子という、今までの彼への評価は修正されるべきらしい。日傘の陰に隠れたその顔は、何だか彼女には別人に見えた。
「恵先生、私の所属する委員会の顧問なんです」
「そうなの」
先程の鋭さは何処へやら、唯人は子供のように目を丸くした。彼でなければそれなりに茶目っ気溢れる表情になっただろうが、色素不足で赤い彼の瞳は異様である。兎のようなといえば聞こえはよいが、彼の容貌を例えるのにもっと適切なものがある。蔑称になりかねない、本人を前にしては決していってはならないものではあるが――彼は吸血鬼に例えると一番しっくりくる。日光に弱く、白い肌で、赤い瞳、これで八重歯が長ければ完璧である。
「はい、図書委員会です。いつかお礼しなければ、って思っていたんです」
本を借りる時、融通してくれるのだ。それに生徒達と陽詩美とは年もそれ程離れているわけではないので、会話もよく噛み合う。生徒に対して威厳は欠片程もないが、その分親近感があるのだ。昨年の夏辺りから女子生徒の相談役として見られることも少なくない。美人で優しいので、男子生徒からの受けもよい。
蘭の話を聞いていた唯人はというと信じられぬという感情がありありと顔に出ている。鍵状に曲げた人差し指を自分の唇に当て、神妙にいった。
「姉さん、人にお礼されるようなことできたんだ」
「それ恵先生に酷いですよ」
「家ではだらしない、学校ではドジばっかりだからね。ちょっと想像しづらいよ」
蘭は言葉に詰まる。確かに委員会の仕事でも、陽詩美がドジばかりやらかしているのは事実である。整理のために平積みにしておいた山を崩したり、転んだ拍子に本棚に頭をぶつけたり、窓ガラスを拭いている途中で身を乗り出しすぎて転落しそうになったり(幸い図書室は校舎一階にあるので、大事には至らなかった)。それでも呆れられたり、馬鹿にされたりされないのはいつも彼女が真面目だからなのだ。幾ら要領が悪くとも、ドジを踏んで周囲に迷惑を掛けようとも自分の引き起こした事態は自分で収拾しようと努力する。そんな彼女の姿勢を皆、分かっているのだと思う。
泣いて済まそうだとか、都合良く教師権限を活用したりとか、生徒に罪をなすりつけたりは絶対にしない。要領こそ悪いものの物事に対する姿勢は常に誠実・実直であることが生徒の信頼を買っている一因であろうことは疑いない。
己に厳しく、他人に優しく。口では簡単に言えるが、実行できる者は数少ない。陽詩美はまさにその少数派の一人なのだ。実績が伴わなくとも、経験が浅くとも尊敬もされるのは道理である。
「確かに先生ドジですけどね」
どんなに言い繕おうと苦笑するしかない事実である。
「けれど私もあんなお姉さん、欲しいです」
「大変だよ。家事は全くできない、朝は弱い、学校では常にフォロー入れなきゃならないから」
「でもいつも先生お昼はお弁当ですよね。出来合いの物ではない、結構本格的なの」
「うん、毎朝僕が作ってるからね」
日傘の下にある唯人は笑顔であるが、紅い瞳は笑っていない。
「……冗談ですよね」
「冗談だったら、僕も少し楽できるね。お金を稼いでくるのは姉さんの仕事、学業と家事全般は僕の仕事になっているんだ」
いつも穏和な態度を崩さない唯人だったが、彼なりの苦労はあるのだ。何しろ彼には血の繋がった両親がいない。正確には血の繋がった両親は今も何処かで生きているのかも知れないが、もう法的な意味で親ではなくなっていた。
「僕の家に親はいないし」
「……ごめんなさい」
調子に乗って立ち入ったことまで聞いてしまったことに対し、蘭の中に罪悪感が芽生える。興味が向かないわけではなかったが、これ以上聞く道理はないだろう。彼女のような大多数の一般的家庭に育つ者は、両親が揃っていることが当たり前と考えがちである。だが普通とか一般、という言葉はそれ以外に属する少数派がいてこそ成り立つのだ。
やぶ蛇になるようなことから遠ざかるにはどうしたらよいか、そんなことを巡らせて蘭は黙った。
「苦痛にはしてないよ。二人で暮らすようになってから、結構長いんだ」
「いえ、私が無神経でした」
「姉さんがいれば退屈はしないから、淋しくなる心配もないんだ。永源寺さんも気にしないでいいよ」
日傘の奥、蘭が気まずさから目を逸らし何気なく視線を向けた先には、どきりとする程に艶やかな唯人の唇があった。余計な色素がないために、内に流れる血が鮮やかな朱色を成して見る者を釘付けにする。口紅を引いて作った人工的で光沢のある鮮やかさとは一線を画す、透き通るようなという比喩がぴったりの唇である。
それを見る女の子である蘭でさえ、いや女の子だからこそだろうか。彼女は唯人の自然な色気に惹き込まれた。
「永源寺さん?」
「え、あ、はい。……何でしょうか」
あなたの唇に見取れてました、など蘭が言えるはずもない。あからさまな動揺と紅潮した頬に思考の痕跡を残しつつ、彼女は視線を元に戻す。
そして先程とは別の気まずさから、迷った挙げ句視線を唯人から外した。
「僕はこのスーパーマーケットで買い物しなきゃいけないから、またね」
「……はい、また明日ですね」
日傘を折り畳み、左手で小さく手を振る唯人に対し蘭は頭を下げて返礼とした。彼の姿がスーパーマーケットに吸い込まれて見えなくなるまで、見送り見えなくなったと同時に近くの電信柱に寄り掛かった。無意識下で感じ続けていたストレスが今一気に負債となって彼女に降り掛かったのだ。
今頃震えが来る。つい先程まで全く汗など出ていなかったというのに、今度は汗腺が壊れたかと思う程に全身の毛穴から水分が滲み出てくる。だが彼女はこの症状がいつもよりずっと軽いものだと経験的に知っている。普段ならば男性と話し掛けられるだけで恐怖に身が竦み、口すら満足に聞けなくなる。
こんな風に話が弾むことなど、今までの彼女からすれば絶対にないといっても良い。唯人と、他の男性と。一体何が違うというのか、今の蘭にはそこまで深く考えるだけの体力的余裕はなかった。
呼吸を整え、足を引きずるように家を目指す。本当は彼女も買い物があったのだが、そんな雑事よりも早く自室で休みたいという欲求の方が強い。
蘭には家路までの距離が実際よりも遠く感じられた。