電気釜を開けると、内側に封入されていた湯気が自然法則に従って上方へと逃れていく。密から疎へ、高きから低きへ。熱も、内に籠もるしかなかった水分も逃げ道を見付けるや一目散に周囲の空気へと混ざろうとする。それは当たり前の現象、見飽きる程に繰り返してきた朝の一風景である。余分な熱の放出が収まるとシャモジで適度にご飯をかき混ぜ、茶碗に盛る。他の料理は味噌汁をおたまで適量、焼き魚と付け合わせの大根おろし、卵焼き。盛り付けが終わり、皿を並べ目の前のテーブルには平均的すぎる程に平均的な朝食の用意が出来た。
溜息が漏れる。だがそれに付随する意図は落胆ではないことは彼を見てしまえば、一目瞭然だろう。ブレザーの上からエプロンを付けた姿の少年からは、朝の労働を終えた者特有の満足感が漂っているからだ。
二枚目と呼ぶ程に整った顔立ちではないが、悪し様に形容するのは躊躇われる。快活さや活発な雰囲気こそないが、かといって陰に籠もっている者が持つ翳りは見当たらない。特徴らしい特徴はない。強いて言えば、人の良さが身体構造の半分を担っているような彼の雰囲気こそが特徴だろうか。
「さて」
朝食の用意は出来た。居間の時計に視線を向けると、時間は六時半を示している。彼が起きて作業を始めたのは五時半だったが、これは彼にとってあまり苦痛となる仕事でも大変な仕事でもない。当初こそ大変だったものの回数を重ねれば習熟がモノをいうので、どうということはないのだ。今では彼は半分眠ったまま料理が出来る。意識が定かならない時は、たまに自分の指を包丁で切ることもあるが。
エプロンを外し、畳んで所定の位置に戻す。本当の難事業はここからなのだ、彼は改めて気を引き締める。
寝室のドアをノックする。反応はなし、まだ部屋の主は寝ているのだろう。だが確認の為、もうひと行為を付け足す。たまに着替えを行っていることがあるからだ。
「姉さん、起きてる?」
朝が弱い姉を起こすのは弟の役目と我が家では決まっていた。世間的には逆なような気もするが、何しろ彼の家族はあらゆる意味で変わっていたのだ。朝昼夜の食事の用意も、掃除も、洗濯も、買い物も、家のことならば何から何まで彼一人の双肩に掛かっている。両親は家にいないので、頼れないことも少し変わっているといわれる要因であろう。
「入るよ」
ドアは安アパートよろしく甲高い悲鳴を轟かせながら、部屋への進入を許す。賃料の安いアパートなので当然ながら鍵などという高級な物が付いているはずもなく、また部屋の主がセキュリティに関心がある訳でもないのでここへ越してきたその日から現状は変わっていない。仮にも女性の部屋に、弟とは言え無断で侵入されることを良しとする姉の性格は問題ありかも知れないが、そんな疑問も今の彼女を見れば霧散してしまうことだろう。
長くそれでいて艶やかさを十分に保有した髪に、抜群とまではいかないかもしれないがかなり異性の心を刺激するであろう肢体。身長もそれなりに高く、化粧をせずとも通用すると思われる顔の造作、出る所は出ていて引っ込むべき所は引っ込んでいるその体型は何をいわんや、である。美人と評しても問題がないかもしれないが、そこは良い。
見ている方も伝染しそうなほどに幸せそうな寝顔だった。だが枕をその胸に抱いて、涎でシーツを濡らしていては折角の美人も台無しである。寝相も悪く、掛け布団は彼女の後方へ吹き飛ばされていて用を成していない。前をはだけたパジャマは胸の手前までめくれ上がり、臍が丸出しであった。いつか風邪を引くと彼は度々小言をいうのだが、改善される兆しは一向にみられない。
「姉さん、朝だよ」
パジャマの生地に包まれた肩を掴んで、左右に揺する。その行為でだらしなく乱れた胸元が蠱惑的に揺れるが、彼はなるべくそっちを見ずに姉の顔だけに注目する。腰の辺りから垣間見えるレース素材の生地(文字通りの『下着』だ)も、視界に入れないように努力する。
「うぅ」
「早く起きないと、朝ご飯冷めるよ」
「眠いのぉ、唯ちゃん」
薄目を開けた姉が、弟に睡眠不足を訴える。
「当たり前、いつもより三十分早く起こしてるからね」
「ふわ、おやすみぃ」
「寝ないでよ姉さん」
チョップが姉の額を打撃する。勿論彼も手加減はしているわけで、全力からは程遠い。姉の方も一瞬顔をしかめるだけで、懲りずに睡眠の泥海へと再び沈もうとする。今度は額に攻撃を受けないように、抱いた枕――それも涎の付いていない部分に回転させて顔を埋める防御対策まで講じて。
だが昨夜の彼女自身の要請により起こしに来ている弟は、その行為に対して少し頭に来るのは当然である。今度は延髄に、先程よりも少し強めに連続で打撃を叩き込む。
「痛い、痛いよぉ唯ちゃん」
「だったら早く起きてよ、ぽんこつ姉さん」
「わたし、ぽんこつじゃないもん。……それにどうして三十分も早く起こすのよぉ」
「始業式の準備で早く行かなきゃならないから、早めに起こしてっていったの姉さんだろっ」
そこで、姉は枕から顔を上げて弟を見る。
「そだっけ」
人差し指を唇に押し当て、枕に抱き付きながら思案顔。弟の彼はそこで軽い絶望感を味わった。彼女の天然加減は子供の頃から味わっているが慣れていない。鳥頭で、楽観主義で、良くも悪くも素直な彼女に彼は振り回されてばかりである。懐疑の色を濃く残して――寝起きで間抜け度が三割り増しになっているが、彼女なりに真剣な顔を作った。
弟の彼をして未だに信じがたい事実だったが、彼女はこれでも高校の歴史を教える教師である。高校教諭免許を取得できたことも驚異ならば、明日から二年目だという事実も冗談のように感じられる。全体的に生徒受けは良いのだが押しが弱いので生徒達に舐められてはしていないか、人の良さに付け込まれて無茶な仕事を押し付けられていないか、と彼としては不安要素が多く心配になるのである。
こんな朝にこんな爛れた遣り取りをせねばならないというのに、果たして生徒に対し示しがついていているのだろうか。
「化粧しなきゃならないから、っていってたでしょ」
「あ」
何か閃くものがあったのか、姉は抱いていた枕を放り出していきなりパジャマを脱ぎだした。ボタンを掛けていないだけあって、脱ぐ時は早いのだ。
「今日は教員と委員会総出で始業式の準備だよ!」
言うが早いか、パジャマの上着を脱いでしまう。パジャマの下に下着の類を付けない主義だとかで、彼女はTシャツもブラジャーもなしにいきなり素肌である。突如として出現した自らの双丘を惜しげもなく晒す姉に、弟は音速も超えそうな勢いで後ろを向く。顔は湯気が出るのではないかというほどに赤い。
当の姉はと言うと、事の次第を理解していないのか着替えを止めない。
「僕がいなくなってから着替えてよ!」
と腹立ち紛れ、驚愕の隠蔽のために慌てて部屋を出て来る。己の引き起こした失態に、声なき動揺が部屋から漏れる。布団に重くて柔らかいものが落下する音がその証拠となった。大方乳房を見られたことを後悔して変な動作をしている内に、転んで布団の上に落下したのだろうと彼は適当に予想した。
数分後に、涙目の姉が部屋から出てくる。流石にいくら姉がぽんこつだからといって、もう着替えは終わっていたが。
「酷いよ唯ちゃん」
「僕は何もしてないよ。大体姉さんがいつまでも起きないから、こんなことになるの」
何がどう酷いのか、説明して欲しいところである。
「ぶぅ」
頬を膨らまして抗議する姿は、どう見ても年上には見えまい。姉は子供っぽい精神に相応しく、童顔なので余計に年下に見られる傾向にあった。初対面ならば彼らのことを姉弟ではなく兄妹だと誤解する者が殆どという事実も簡単に頷けよう。
「豚になってないで、さっさと朝食済ませようよ」
弟はなおも何かいいたそうな姉を無視し、テーブルに付いた。
「わたし、ぶたさんじゃないもん」
「いいからそれは」
「ぶたさんじゃ、ないもん」
「もういいからそれは。ご飯冷めるから、早く食べようよ。今日の朝食は姉さんの好きな卵焼きがあるのに」
陽詩美の顔がふくれっ面から瞬時に笑顔へ早変わりする。恐ろしい程の変わり身の早さである。
「本当! やった、嬉しいなぁ。嬉しいことって続くんだね〜」
「続くって。何に続いているの、姉さん」
「それはね……やっぱり秘密。学校始まったら分かるから、唯ちゃん楽しみにしててね」
秘密といわれれば聞き出したくなるのが人情である。だがこの破壊力抜群な笑顔を向けられて人のサガを貫き通せる人間は、そう多くはない。彼女の弟の唯人も、例に漏れず貫き通せない人間の一人であった。
「ま、いいか」
彼はそんな疑問を思考の隅に追いやり、自分の分の朝食の前に座った。それはいつの間にか日常になっていた一風景。いつも通りの、代わり映えのしない、彼らにとってそれは朝の一コマである。