4月3日(金曜日)


 あゆさんが目覚めてから5日。
 私の状況は悪くなっていた。
 この5日間誰にも会っていない。
 もちろんお父さんやお母さんは決まった時間に来てくれているのだろうが……
 その間中私はずっと眠っていたのだ。
 この5日間合わせて起きていたのは10時間ほど。
 ひどい日は丸一日目を覚まさなかった。
 だが、今日は少し調子がいいようだ。
 朝から目が冴えている。
 朝の巡回をしているお母さんとも挨拶を交わした。
 動き回れるのは今日が最後かもしれない。
 せっかくだから街にも出よう。
 私はそう思って着替えると病室を出た。


 ベチッ


 廊下に出ると突然懐かしい音が聞こえた。
「う、うぐぅ……」
 少し髪が長くて、やつれているが、あゆさんだった。
 松葉杖を持っているところをみると、リハビリ中にこけたのだろう。
 長い間動かないでいると、歩くのにもリハビリがいるということを聞いたことがある。
 しかし、目覚めて5日程度でここまで動けるものなのだろうか?
 ひょっとして、テレビ局があんなに押しかけていたのはそれが理由……?
 少々疑問に思うところはあるけれど、あの冬の出来事に比べればそこまで不思議でもなかった。
 気にしないことにしよう。気にするほどの時間も私には残されていないのだから。


「病院内でエッチなことを考えるのはやめた方がいいですよ」
「だから違うって……えっ?」
 私の顔をみてあゆさんが驚く。
 月宮さんから私のことを聞いてないんだろうか?
「お久しぶりです、あゆさん」
 私はあゆさんに手をさし伸ばしながら言った。
「あ、ありがとう。でもどうしてここに栞ちゃんが?」
「私のこと…覚えてくれていたんですね」
 あゆさんが私の手につかまりながら何とか立ち上がる。
 とても危なっかしい感じがした。
「当たり前だよ。あの冬の一ヶ月は忘れたくても忘れられないよ」
 太陽のような笑顔で澱みなく言い切るあゆさん。
 その笑顔で私の鬱な気分が少し晴れた気がした。
 そして、あの冬に会ったあゆさんは、今私の目の前にいるあゆさんなんだと改めて確認する。
「とりあえずそこに座りませんか?」
「うん、いいよ」



 私たちは近くにおいてあった長椅子に座った。
「祐一さんはもうお見舞いに来てくれたんですか?」
「ううん。お父さんに頼んで断ってもらってる」
「会いたくないんですか?」
 私は驚いた。
 祐一さんは今一番あゆさんが会いたい人のはずなのに。
 その証拠にあゆさんの頭にはあのカチューシャがある。
「会いたいよ。だけどボクは自分の足で会いに行きたいんだ。目標があったら一日も早く退院できると思うしね」
 あゆさんはそう言って照れ笑いをした。
 やっぱりあゆさんは私なんかより前向きな人だ。
 普通なら歩くこともかなわない自分にショックを受けるものなのに、
 あゆさんはもう一人で歩こうとしている。
「ところで、栞ちゃんはどうしてここにいるの?」
「月宮さんから聞いてないんですか?」
「え? 月宮さんってお父さんのこと?」
「はい」
「じゃあ……お父さんが話していた薄幸の美少女って栞ちゃんのことなんだ」
 どうやら月宮さんは私の名前を伏せていたらしい。
 私は後悔した。
 月宮さんはあゆさんに余計な心配をかけたくなかったから私の名前を伏せていたのに……私がそれを台無しにしてしまった。

「…………」
「…………」

 しばらく沈黙があった。
 そして、お互い相手を頭の上から足の先までじーっと観察する。
「あはは、なんだかおかしいです。重病人は私なのに、外見はあゆさんの方が深刻ですね」
 あゆさんの松葉杖と細い手足を見て思わず笑ってしまった。
「笑い事じゃないよ! 栞ちゃんはどうしてこんなところにいるの? ボクはもう闘病生活に入っていると思っていたよ」
 月宮さんからそのように聞かされ、安心していたのだろう。
 ところがその当人がこんなところを歩いていて、しかもそれが知り合いだったと分かったのだからさぞ驚いたに違いない。

「前はそのつもりでしたけど……やめちゃいました」
「どうして?」
 あゆさんが憤慨する。
「病気が治っても私には何もないし……だったら痛い思いをするのも嫌だなって思いまして」
「何もないって……」
「もうお姉ちゃんと一緒の学校に通うこともできそうにないし…お姉ちゃんとやり直せる自信もないです」
「お姉さんがいたんだ」
「はい」
「栞ちゃん、お姉さんのこと好きなの?」
「大好きでした。でも私の運命に耐えられなくてお姉ちゃんには見捨てられちゃいました」
「見捨てられちゃいましたって、それでいいのっ?」
「いいんです。私がお姉ちゃんの立場だったら同じことをしていたかもしれませんし、いなくなるのがわかっている人と心を通わせば通わすほど、別れは余計に辛いですから」
「…………」
 あゆさんはしばらく何も言わなかった。
 私の言っていることの意味を理解したからだろう。



「栞ちゃんボクのこと好き?」
 しばらくうつむいて何かを考え込んでいたあゆさんが突然そんなことを訊いた。
「え?」
 どういう意味だろう?
「ボクは大好きだよ。もぐら叩きとか面白かったし。それに、ここで再会したのにも運命を感じるよ」
 そう言ってにこっと笑ってみせるあゆさん。
 『運命』……か。
 どうしてこの人がその言葉を使うと、そんなにも美しく聞こえるのだろう。
 私が知る『運命』という言葉は悲しい響きしかないのに。
「私もあゆさんのことは好きです」
 気づいた時には、そんな言葉が口から出ていた。
 好きどころか、私は月宮あゆという人が大好きなのだと思う。
 会ったときから惹かれていたのだから。
「ボクじゃお姉さんの代わりにはなれないかな?」
「えっ」
 わけがわからなかった。
 どういうことだろう?
 とりあえず思ったことを口にする。
「私のお姉ちゃんは大人っぽいです」
「うぐぅ…それはどういう意味だよ?」
 あゆさんが頬を膨らませて拗ねる。
 相変わらず面白い人だ。
「そういう意味じゃなくて…ボクと一緒に学校に行くのはダメかな?」
「えっ? でもあゆさんはお姉ちゃんと同じ学年じゃ…」
 と言ったところで、気付く。
 あゆさんは7年間眠っていたから、まだ小学生のままだったのだ。
「本当は来年中学校に入る予定なんだけど、栞ちゃんと一緒の学校に通えるなら、ボク頑張って栞ちゃんの高校に入学するよ」
 あゆさんが胸の前で手を合わせて目を輝かせる。
 その目は希望に胸を膨らませる子供それだった。
「祐一君とは一緒に通えなくて寂しいけど……」
 一瞬あゆさんが寂しそうな顔を見せる。
 が、それも一瞬のこと。
「でも、栞ちゃんと一緒ならきっと楽しいよ」
 次の瞬間あゆさんは笑顔でそう言った。
 その笑顔には何の打算もない。
 ほんとうに、私と同じ学校に通うことを楽しみにして望んでいる顔だった。



 あゆさんと……
 あゆさんと同じ学校に通う。
 大好きなあゆさんと同じ学校に通う。
 そんなことができるなんて思いもよらなかった。
 さっきまでまったくなかったものが湧き上がってくる。
 私は今……
 死にたくないという気持ちでいっぱいだった。



「あ、あれ? ボク何か変なことを言った? 何で泣くの?」
「あゆさん…私、私死にたくないです。あゆさんと同じ学校に通いたいです」
 あゆさんの言葉で世界が明るい方向に変わっていった。
 生きていればお姉ちゃんともいつか昔のように仲良くなれる。
 家族で笑いあえる日だっていつかきっと来る。
 それは時間のかかることかもしれないし、かなわないことかもしれない。
 けれど、これだけは言える。
 生き抜けば……あゆさんと同じ学校に通える。
「奇跡はあるんですよね?」
 私はあゆさんの小さな体に顔を押し付けながら泣いていた。
「大丈夫。奇跡は起こるよ。栞ちゃんが本当に奇跡を望むならきっと」
 私はしばらくあゆさんの小さな、けれど深い胸の中でしゃくりあげていた。


「そうだ、ちょっと待っててね」
 私が落ち着いたところで、あゆさんはそう言って立ち上がり、おぼつかない足取りで自分の病室に向かった。
「手伝いましょうか?」
 あまりに危なっかしいので声をかける。
「だめだよ。自分で歩かないと早く退院できないから」
 あゆさんがそう言うならここは心を鬼にするしかないだろう。
 結果的にあゆさんが戻ってくるまで30分近くが経過した。


 あゆさんは息を切らして椅子に座り込む。
「はあ、はあ、疲れたよ……」
「大丈夫ですか?」
 本当にどっちが重病人かわからない。
「うん」
 あゆさんは息を落ち着かせると、手に握っていたものを差し出す。
 それは……あゆさんの病室にかけてあったあの天使の人形だった。
「えと、これはなんでしょう?」
 あゆさんの意図がわからないので聞いてみる。
「この人形はね、二人が真剣に願うことを叶えてくれる人形なんだよ」
「そうなんですか?」
「うん。この人形のおかげでボクは目を覚ますことができたんだよ」
 お宝を自慢する子供のように得意げな顔をして語るあゆさん。
 この人形があゆさんの部屋に現れた不思議な経緯を考えると、ありえない話ではなさそうだ。
「願い事を最終的に叶えるのは、願った人だけどね」
 ……なんだかそれでは絵馬や達磨と変わりがない気がする。
 でも……お約束だけどそういうのも悪くないと思った。
「2人でこの人形にお願いしようよ」
「はい」
 私は笑顔でそれに答えた。
「じゃあ、ボクからね」
 そしてあゆさんは人形を眺めながらお願いをした。


    「ボクのお願いです
     栞ちゃんと同じ高校に入学して…
     栞ちゃんと一緒に登校して…
     栞ちゃんと一緒にお勉強して…
     栞ちゃんと一緒にお昼ご飯を食べて…
     栞ちゃんと一緒に掃除をして…
     栞ちゃんと一緒に帰って…
     そして、栞ちゃんと一緒にたい焼きを食べたい…」


 あゆさんは一気に言葉を続けて、そして呼吸を整える。
「こんなお願い…ダメ…かな…?」
「いいと思いますよ」
「うん。じゃあ次は栞ちゃんの番」
 あゆさんはそう言って私に人形を手渡す。
 私も人形を眺めながら言った。


    「私のお願いは、病気を治して…
     あゆさんと一緒に登校して…
     あゆさんと一緒にお勉強して…
     あゆさんと一緒にお昼ご飯を食べて…
     あゆさんと一緒に中庭でバニラアイスを食べて…
     あゆさんと一緒に掃除をして…
     そして、あゆさんと一緒に帰ること…です」


 私もここで一呼吸する。そして……
「こんなお願いですけど…叶いますか?」
 とあゆさんに向かって問いかけた。
 答えはわかっている。
 だけど、あゆさんの強さを分けて欲しい。
「叶うよ、きっと。栞ちゃんが本気で願うなら」
 その気持ちに答えてくれるかのように、あゆさんは力強い声でそう答えてくれた。
「そうですよね」
 その言葉を噛み締めるように、私は深くうなずいた。
 と、そこであゆさんが照れ笑いをする。
「ところで、毎日バニラアイスを食べてからたい焼きも食べるの?」
「そうですね、じゃあ間をとってタイヤキアイスにしましょう」
「えっ? ダメだよ。たい焼きは焼きたてじゃないと」
 あゆさんは本気で焦っていた。
 どうしてこの人はこういう妙なところでまで真剣なのだろう?
 それがなんだかおかしくて頬が緩む。
「冗談です。交互でいいんじゃないですか?」
「そうだね」
 私たちはお互いに微笑んで同意した。
「えっと、その人形は栞ちゃんが持っていたほうがいいよね?」
「でも、これはあゆさんの大切なものじゃないんですか?」
「そうだけど…でも栞ちゃんの勇気になればいいかなって」
「……なんだか悪いです。あ、そうだ」
「え、何?」
「ちょっと待っていてください。いいことを思いつきました」
 私はそう言って自分の病室に戻る。
 そして、スケッチブックと色鉛筆を取って帰ってきた。
 何が始まるのかきょとんとして見つめているあゆさんを横目に、無言で色鉛筆を紙面に走らせる。



 20分後、絵は仕上がった。
「どうですか?」
「栞ちゃんって絵がうまかったんだね」
「最近はうまいと言われます」
「最近は……?」
 私と月宮さんにしか分からない発言にあゆさんが首を傾げる。
 そのいかにもさっぱりといった表情が何となくおかしかった。
「何でもないです。私はこれを持っていますから、人形の方はあゆさんが大切にしてください」
「うん、栞ちゃん頑張ってね」
「あゆさんだって大変ですよ。9ヶ月くらいで高校の受験勉強をするんですから」
「うぐぅ、頑張るよ」
 あゆさんが真剣な顔をして気合を入れる。
 入れているつもりのようだが、あまりそうは見えないのがあゆさんらしい。



「じゃあお別れ前に指切り」
「指切り、ですか」
「うん」
 なんだか子供っぽい気もしたが、素敵なことのようにも思える。
 私は自然に小指を差し出し、あゆさんも自然に小指を差し出す。
 そして互いに指を切った。

「約束…だよ」
「はい。約束…です」

 そして私たちは別れた。
 またいつか、遠くない日に出会うために……。












 部屋に戻った私は看護婦さんにお父さんとお母さんを呼んでもらった。
 そして、後悔はしないから手術・治療を受けたいと言った。
 二人は私が余命いくばくもないことを知っていたことにまず驚いた。
 そして、それ以上に私の決意に驚いていたようだった。
 二人に手術・治療のつらさ、難しさをいくら説明されても私の気持ちは揺るがなかった。
 最終的に二人は根負けして、明日までには答えを出すと言って帰っていった。










 そしてその夜、突然私の部屋の扉が乱暴に開かれた。
 私はそこに立っていた人物を見て驚いた。
 それはお姉ちゃんだった……
「お、お姉ちゃん……?」
 夢でも見ているのだろうか?
 私を見捨てたお姉ちゃんがどうして私に会いに来たんだろう?
 お姉ちゃんは肩で息をしながら無言で私に近づいてきた。
 そして……
「え……?」
 私は言葉を失った。
 お姉ちゃんは突然私を強く抱きしめたのだ。
「栞の馬鹿! どうして今の今まで決意しなかったのよ」
 お姉ちゃんはこの土壇場まで治療の決意をしなかった私を責めているようだった。
「もっと早ければ、成功の可能性だってもう少しはあったのに」
 とは言うもののそれは些細な違いでしかない。
「もっと早ければ…一緒に学校にだって通えたかもしれないのに」
 それが本心だったのだろう、お姉ちゃんが泣いているのがわかる。
「ごめんねお姉ちゃん。私馬鹿だし、弱虫だったから」
 お姉ちゃんはそこで私の体から離れ、私を見つめた。
「謝るのはあたしの方よ。最後まで栞を見ないつもりでいた薄情な……」
 お姉ちゃんの体が小刻みに震えている。
「仕方ないよ」
 私はできる限り笑顔で言った。
「私がお姉ちゃんと同じ立場だったら、同じことしていたかもしれないし。でも大丈夫。奇跡は起きるんだよ」
 私はそう言ってあの天使の人形の絵を見る。
「絵、上手くなってたわね」
 お姉ちゃんは私が前にメモ用紙に描いた似顔絵を手にとりながら言った。
「えへへ……」
 ずっと忘れていた、この感情。
 お姉ちゃんに褒めてもらうと、なんだかとてもこそばゆい。
 お姉ちゃんは身内にも平気でシビアな態度を取る人だから。
 だから、お姉ちゃんに褒めてもらえるのはとても嬉しかった。
「今度はあたしの似顔絵を描いてね」
「う、うん。描いていいの?」
「こんな風に描いてくれるならね」
 お姉ちゃんはそう言ってメモ用紙を叩く。
 と、そこまで和やかな顔を見せていたお姉ちゃんが、目を伏せた。
 ここからは……現実の話。
 私が避けることの出来ない、今、目を向けなければならないことを言おうとしているのがなんとなく分かった。
「お父さんと、お母さんからの伝言よ。手術してから薬物治療をするって」
「やってくれるんだ」
「今の栞の精神力なら耐えきれるかもしれないって言ってたわ」
 もちろん精神力だけでどうにかなるものでもないが、それは家族からの精一杯の励ましだったのだろう。
「じゃあね。肝心な時に力になってあげられないふがいない姉でごめんね……」
 お姉ちゃんはそれだけ言うと病室を出ていった。


 手術に入る前にお姉ちゃんと話ができたのは嬉しかった。
 だけど……去り際に見せた、お姉ちゃんの後悔の表情が目に焼きついて離れない。
 お姉ちゃんとの溝が埋まるには、まだ時間がかかりそうだ。
 でも、生きていればいつかは昔のように二人で笑えるよね? お姉ちゃん。
 そう思うと、私の生きたいという気持ちはますます強くなっていった。





 そして翌日から私の闘病生活は始まった。
 途中何度死にたいと思ったかわからない。
 その度にあの天使の絵を見て自分を保った。
 もう何日が過ぎているのかもわからない。
 繰り返される苦痛は明けない漆黒の夜のようだった。
 いつまで続くのかもわからない……
 私はその闇の中をもがき続けながら……
 いつ来るかもわからない……
 来ないかもしれない……
 そんな夜明けを待ち続けていた。
 だが、闘病生活開始から1ヵ月後……
 夜はゆっくりとではあるが、確実に白みはじめる。







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