1月30日(土曜日) PARALLEL


 夕方。
 僕は秋子さんから駅前に呼び出された。
「どうしたんですか突然……」
 秋子さんは何故かとてもやさしい顔をしていた。
「すみません。買い物の途中だったので」
 そんなときに呼び出すなんてよっぽどの急用だろう。
「いえ、構いませんよ。病室でぼーっとしていただけですから」
「さっきあゆちゃんとお別れをしました」
「え……?」
 何を驚いているのだろう?
 今のあゆがいずれ消えるのは分かりきったことだったじゃないか。
「喫茶店にでも行きませんか?」
 そのときの話をしてくれるのだろう。
「はい」



 僕たちは百花屋に入り腰をおろした。
 注文を終えたところで秋子さんは話し始めた。








 土曜日の商店街は人が溢れていた。
 半日で学校が終わるせいだろう、学生らしい子供達が数多く遊びにきている。
 普通なら楽しく見えるはずの光景。
 だが、今のわたしにはこの夕焼けの商店街に哀愁が漂っているようにしかみえない。
 歓声が遠く聞こえる。
 地平線に沈む夕日……
 それは一つの別れの象徴だった。
 こんなに悲しい夕焼けを見たのは初めてだ。


「秋子さん」


 その瞬間、まわりの歓声が全て消えた。
 一人の少女がわたしをじっと見つめている。
「あゆちゃん」
「秋子さん、今までありがとう。もう…会えないと思うんだ」
 あゆちゃんが悲しそうな顔をする。
 そうか、この子は自分のことを知ってしまったのか。
 そしてひとりで全てを抱えて消えようとしている。
 その証拠だろうか? あゆちゃんの輪郭がはっきりしない。
 ぎりぎりのところでこの世界にとどまっているのだろう。
「秋子さんにはお世話になったし、この街から出て行く前にお礼が言いたかったんだよ」
 作り笑いをしてみせるあゆちゃん。
 心が痛い。
 この子はわたしが何も知らないと思って、気を使っているに違いない。
 でも、わたしは……。
「秋子さん、今まで色々ありがとうございました。さようなら。ボク秋子さんのことはずっと忘れないよ」
 そういい残してあゆちゃんがわたしに背を向ける。
 そして、夕日に向かって駆け出そうとしたまさにその時。


「あゆちゃん」


 わたしはあゆちゃんを呼び止めた。
 これでさよならなんて許せない。
 たしかにあゆちゃんだって7年間ずっと待っていて辛かっただろう。
 だけど……
 月宮さんだって7年間ずっと待っていたのだ。
 これでさよならなんて
 ただ信じて待っている
 目覚めると信じて、あゆちゃんの帰るところを守っている
 そんな月宮さんに何も言わないままさよならなんて
 絶対に許すわけにはいかない。
 だから
 だからわたしは今…
 見守るという立場を初めて自分から崩した。
 そして……

「月宮さんはあなたの帰りをずっと待っているわよ」

 全ての想いをこの一言にこめた。
「うぐぅ…月宮はボクだよ」
 あゆちゃんの姿が一際大きくぶれた。
 これ以上あゆちゃんを動揺させると、あゆちゃんは霧散してしまうだろう。
 今、あゆちゃんはぎりぎりのところで自分を保っているのだ。
「また家に来てくださいね。あゆちゃんなら大歓迎よ」
「う、うん」
 あゆちゃんの姿がはっきりしてくる。
 声が震えているのは、わたしの不可解な一言に怯えているのだろうか?
 それとも、果たせない誘いに返事を返す後ろめたさか、そのどちらかは分からない。
 あるいはその両方?
 わたしは目を閉じ、首を軽く振って表情を緩めた。
 最後くらいは、この子の望むお別れをして送ってあげよう。
 ただし、わたしはまた出会えることを信じて……。
「あゆちゃん、祐一さんには会わないでいいの?」
「今から会いに行くんだよ。約束だったから」
「そう。またね、あゆちゃん」
「うん。秋子さんさようなら」
 『またね』と言ったのにあゆちゃんが応えてくれなかったのは残念だった。




 今度は、わたしからあゆちゃんに背を向けて歩き出す。
 そのとき、あゆちゃんが短い叫び声をあげた。

「あっ」

 思わず振り返るわたし。

「お…父さ…ん……?」

 目に涙を浮かべてそう呟いた瞬間、あゆちゃんの姿は消えた。










「じゃあ……あゆは……」
 秋子さんの話が終わったとき、僕は泣いていた。
「はい…消える前に月宮さんのことを思い出したみたいです」
 あゆは僕のことを忘れていなかった。
 秋子さんの予想は当たっていた。
 あゆは僕のことを覚えていなかったのではなく……
 迷惑をかけたくないから、記憶の奥底に封じていたのだ。
 あゆは僕のことを拒絶なんてしていない。
 それが分かったことがとても嬉しかった。


 と、同時に心のもやも晴れていった。
 この数日間悩んでいたことの答えが出たのだ。
「秋子さん」
 僕は秋子さんを正面から見据えた。
「なんですか?」
 僕が真剣な顔をしていたからだろう。
 秋子さんの表情も引き締まる。
「あゆが目覚めたらですよ……」
「いいですね」
 秋子さんはにっこり笑って即答した。
 最後まで喋らせて下さい……
「いえ、そうじゃなくて…あゆが目覚めたら……」
「はい?」
「水瀬家に迎えてもらえないでしょうか?」
「えっ?」
 秋子さんは驚いていた。
「あゆを秋子さんの子供としてもらってくれませんか?」
「ちょっと待ってください! 月宮さんはあゆちゃんと一緒にいたくないんですか?」
 秋子さんが大声をあげる。
 秋子さんが大声をあげるところを見るなんてこれがはじめてだった。
「もちろん一緒にいたいですよ。僕はあゆが大好きですから」
 に対して僕は冷静だった。
 いつもとはまるっきり立場が逆転していた。
 というか、本来僕の方が年上のはずなのに、どうしてこの人にはへりくだってしまうんだろうな。
「だったらどうして?」
「この前からずっと考えていたんです。あ、それともあゆは迷惑ですか?」
 これは反則なのは分かっていた。
 秋子さんがあゆを自分の子供みたいにかわいがっているのは明白だったからだ。
「そんなことはないです。わたしもあゆちゃんみたいな子供が欲しかったですから」
「じゃあ了承ということですね」
 と強引に持っていくとジト目で睨まれた。
 当たり前か……
「それとこれとは話が別です。愛する子供を他人に渡す親がどこにいるんですか?」
 こんなに感情を露にした秋子さんを見るのもこれから先にはないのではないかと思う。
 そして、こんなに秋子さんに対して落ち着いて話をする自分も。
「愛しているから…だから秋子さんの子供にして欲しいんです」
「愛しているから、ですか?」
「正直言うとこの前まで、僕は認めたくなかったです。今日秋子さんの言葉を聞いて…あゆが僕のことを深く想っていてくれたことがわかったから決心できました」


 僕は秋子さんや祐一君になつくあゆに恐怖を覚えていた。
 あゆにとって僕はいらない存在なのではないか、という不安に常に脅かされた。
 秋子さんに違うと諭されても不安だった。
 あゆ本人がどう思っているのかがわからなかったからだ。
 だけど……
 あゆは涙を浮かべながら『お…父さ…ん……?』と言った。
 僕は秋子さんや祐一君とは違う形で、ちゃんとあゆに愛されていたのだ。
「僕ではあゆを笑顔にすることはできません。あゆにとっての幸せはお母さんといることです。秋子さん、あゆにもう一度お母さんのぬくもりを与えてもらえませんか?」
「たとえそうだとしても……月宮さんの幸せはどうなるんですか? あゆちゃんと一緒にいられないのに月宮さんは幸せなんですか? 仕事で遠くに行く間なら喜んでお預かりします。だけど……」
「秋子さん」
 僕は秋子さんの言葉を遮った。
「僕の幸せはあゆと一緒にいることではないですよ」
「えっ?」
「僕の幸せは、あゆの笑顔を見ることです」
 一緒にいることだけが幸せではない。
 一緒にいるだけなら7年前にすでに経験している。
 僕が幸せを感じたのは……あの子が僕に太陽のような笑顔を見せてくれていたとき。
 つまり、あゆが母親といたときだ。
「水瀬家にお邪魔していたときのあゆは、妻のいたころのあゆのようでした。あの頃は家に帰れるとなると、あゆの笑顔を見られると思って喜んだものです」
 そこで僕は話を切った。
 聡明な秋子さんのことだ。これだけ言えばもう分かってくれるだろう。


 しばらくの沈黙の後…秋子さんが口を開いた。
「月宮さんは…本当にそれでいいんですね?」
 秋子さんは落ち着いた表情に戻っていた。
「はい。お願いします。一応あゆの意思を尊重しますけれど、秋子さんも祐一君もいることだし答えはすぐに出ると思いますよ」
「わかりました。あゆちゃんは今日からわたしの子供です」
 この人のこういう時の思い切りの早さはいつも感心する。
「あっ……」
「どうしました?」
「あゆの生活費とお小遣いは僕が出しますからね」
「わたしが出したらだめなんですか?」
「…………」
 前のお小遣いの件があったので思いついたことだったが、真顔で聞き返されてしまった。
「そうは言っても……それじゃ秋子さんに迷惑が……」
「わたしの子供じゃなかったんですか?」
 こうまで順応が早いとこっちのほうが参ってしまう。
「もういいです。水瀬家の家計を適当に援助させてください」
「それは助かりますね」
 こちらの意図を理解しているのかどうか判別し難い笑顔でそう言う秋子さん。
 あゆ一人くらい養うのはわけないのかもしれないが……
 さすがにそれは父親として道に反する気がする。
「あと、こちらに寄ったら水瀬家にお邪魔してもいいですか?」
「もちろんいいですよ。あゆちゃんも喜ぶでしょうね」
 秋子さんはすっかりあゆの母親になっていた。
「せっかくですからこれを機会に結婚でもしますか?」
 さらに笑顔で凄まじいことを言ってのける。
「本気ですか?」
 たしかにあゆを秋子さんの子供にするということは、僕と秋子さんが義理の夫婦になるようなものだが……
 いやしかし、あゆは養子というわけでもないし……
 それに正直言って秋子さんを女性として好きかと言われると、間違いなく『いいえ』だった。
「冗談ですよ」
 と頬に片手をあてて微笑む秋子さん。
 ……真剣に考えた自分がなんだか馬鹿馬鹿しかった。
「あらあら、もうこんな時間ですね。名雪が拗ねているわ」
「そういえば、買い物の途中だったんですね」
「ええ、それではそろそろ失礼しますね」
「色々とありがとうございました」
 僕と秋子さんは一緒に喫茶店を出て、店の前で別れた。




 だが……秋子さんと別れてから不安な気持ちが溢れ出した。
 あゆが目覚めてからの話で盛り上がったが……
 肝心のあゆはまだ目を覚ましていない。
 今日の話はあゆが目覚めると確信させるものではない。
 それどころか、あゆが目覚めるという保証はどこにもなかった。
 僕は複雑な気持ちで病院に戻った。






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