1月19日(火曜日) PARALLEL
今日は仕事が長引き、あゆの病室に帰ったのは9時。
部屋には絵を描きながら待っている栞ちゃんがいた。
「せっかくだし、そのスケッチブックを見せてもらえるかい?」
ああは皮肉を言ったが、結構いい絵だったと思う。
なんというかとても暖かい気がした
「いいですよ」
栞ちゃんはニコニコしながらそう答えた。
「でも……下手くそとか言ったら……自主規制ですよ」
「なんなんだい、その自主規制というのは?」
「こんなかわいい女の子がとても口に出しては言えないことです」
「とても気になるぞ……というより自分で美少女とかかわいいとか言っていい加減恥ずかしくないのか?」
「私と月宮さんの間では公認の事実じゃなかったんですか?」
そうだったかもしれない。
「まあいいか」
いい加減引っ張ると、栞ちゃんにいじめられるのは間違いないので、ここらで止めておこう。
そう思って手を出した。
「どうぞ」
栞ちゃんがスケッチブックを手渡してくれる。
今さっき見た絵を除いて、他のページはまったく判別の出来ない絵が描いてあった。
心理学とかで見た、五歳児の絵に似てなくもない。
「えーっと、これは何歳から使ってるんだい?」
できるだけ遠まわしに聞いてみる。
「去年買ったものですけど」
栞ちゃんは不思議そうな目でこっちを見ている。
「別の人が描いた絵とかも入っているのかい?」
「全部私の絵です」
「本当かい? 最後の絵以外はどうみても下手く……」
「何ですか?」
栞ちゃんは笑っていた。
が、声が笑っていない。
「自主規制か?」
「そうですね、受けてもらいましょうか」
やっぱりあの自画像には角と尻尾が似合う気がする。
……牙も追加したほうがよさそうだ。
「許してくれないか? それ以前に批評は素直に受けるべきだと思うのは間違っているのかい?」
栞ちゃんは少しうつむいて考える仕草をしたあと、いつものように指を口に当てた。
『冗談ですよ』のポーズだ。
「……自主規制は私も恥ずかしいですし、月宮さんの言うことも一理ありますね。許してあげます」
「一体何をする気だったんだい?」
「内緒です」
と言ったところでニコニコした表情になる。
「冗談です。本当はその自画像を描くまで、自分らしい絵の描き方がわからなかったんです」
「そうなのか」
「私、本当は見たものを忠実に再現するのは苦手だったんです」
ということは、それ以前に描いてあった判別不能の絵は、何かを写生したものだったのか。
モデルがまったく想像できないのが恐ろしい。
「その自画像はそうだったらいいなっていう希望を思いのままに描いた絵なんですよ。ちょっと幼い感じがするから嫌だったんですけど、描いてみたら好きになってました」
「にしても変わりすぎだろうこれは……」
「自分でもびっくりです」
栞ちゃんは面白おかしそうに微笑んでいた。
「絵は好きなのかい?」
「好きかもしれません。自分で満足できたのはまだこの絵だけだからよくわかりませんけど」
栞ちゃんは遠い目をしながらそう言った。
「そうか……」
「病気が治ったら……絵の勉強をしてみてもいいかもしれませんね」
「そうだね、童話の挿絵とかにぴったりな気がするよ」
そう言ったところで栞ちゃんがいつものポーズをとる。
「もし、奇跡が起きたら、その物語を書いてみましょうか?」
「それは売れそうだな」
「夢の印税生活って感じですね」
「……あ、ああ」
いま一瞬、奇跡がえらく資本主義くさいものに思えてしまった。
コンコン
病室の扉が小さくノックされた。
「ん? 誰だろう」
僕は部屋の扉を開けて、首を出す。
看護婦さんだった。
「どうしました?」
「あ、月宮さんに電話です」
「電話?」
「はい、水瀬さんという方からです」
秋子さんか……。
「わかりました。今行きます」
僕は部屋の中に戻ると、栞ちゃんに電話のことを伝えた。
「わかりました。じゃあ私はそろそろ帰ります」
栞ちゃんはそう言うとペコッとおじぎして立ち上がる。
こういうところは今の若い子にしてはしっかりしていると思う。
ひょっとして、自分の病気で周りに迷惑をかけ続けているという負い目からなのだろうか?
この子が年に似合わないほど礼儀正しく社交的で、そして丁寧語をきれいに使いこなすのは。
きっとそうなのだろう、そう思うと胸が少し痛んだ。
「ああ、すまないね。おやすみ」
「はい、おやすみなさいです」
と、言ったところで栞ちゃんの動きが止まる。
「どうしたんだい?」
「そういえば、絵のことで忘れてました。あゆさんの話をしてもらってません」
しまった。僕もついつい忘れていた。
栞ちゃんは今あゆが何をしているのかに興味を持ったらしく、昨日少し会って秋子さんの話をしたとき、
『これから秋子さんが来たらあゆさんのお話を聞かせてくださいね』
と言って帰っていったのだった。
「悪い。今日も多分あゆのことだろうし、明日まとめて話すよ」
「約束ですよ」
「ああ」
「それじゃあ今度こそおやすみなさいです」
「ああ、おやすみ」
僕たちは一緒に部屋を出て、そこで別れた。
1月20日(水曜日) PARALLEL
「すみません……あゆが迷惑をかけたみたいで」
「いいですよ。あのあとあゆちゃんと一緒に家事をするのは楽しかったですから」
昨日の電話はあゆが水瀬家に泊まりに来たことを知らせる電話だった。
そして僕は今電話越しに平謝りしている。
それでどうして僕が謝る羽目になっているかというと……
料理も出来ないのに、張り切ったあゆが水瀬家の台所を破壊したからだ。
7年前にも同じことがあったような気がする……
「帰ってきたらちゃんと叱っておきます」
「帰ってきてくれたらいいですね」
「あ……はい」
子供を叱ることが出来るのはどんなに幸せなことか……失ってはじめてわかった。
「それでその後あゆちゃんと買い物に行きました」
「そこでもまた迷惑を?」
「月宮さん、あゆちゃんをもっと信頼してあげてもいいんじゃないですか?」
「…………」
この人にはかなわないな……
「そうですね」
「卵を3個割っただけですよ」
「…………」
徹底的に親の顔に泥を塗ってくれる娘だ。
その日、就寝に至るまであゆは失態を重ねてくれたようだ。
泊めてやってくれと頼んだ手前、穴があったら入りたい気分だった。
しかもそんな失敗ばかりのあゆに、秋子さんはお小遣いまであげたらしい。
「何もお小遣いまであげなくても」
「健気に手伝ってくれるものですから、つい。それにあゆちゃんはお金を持っていないでしょうから」
それに関しては少し怪しい。
この前から病室においてある小銭が相当な金額消えているのだ。
あゆが栞ちゃんとたい焼きを食べたという日は、特に減りがひどかった。
しかし……
説明もつかないし、言わないでもいいか。
「とにかく、迷惑かけてすみませんでした」
「いえいえ、名雪に妹が出来たみたいで楽しいですよ。あゆちゃんみたいな育てがいのある子が欲しかったです」
「……え?」
「冗談です」
だが、その声は少し残念そうだった。
電話を終えた後、僕はあゆと秋子さんの楽しそうな顔を頭に浮かべていた。
1月21日(木曜日) PARALLEL
ずっと一人だった……
あゆはそう言った。
あゆは僕のことを覚えていない。
秋子さんと電話を終えた後、そのことが頭から離れなかった。
それは僕に迷惑をかけたくないというあゆの心がそうさせているのか?
今のあゆは幸せそうだ。
あゆは幸せな夢の中にいる。
休みたいときにはいつ休んでもいいという夢のような学校の話を聞いたときそう思った。
もちろん、そんな学校などあるはずもない。
今のあゆの世界からは幸せに必要の無い要素が排除されているのは明らかだった。
不幸な記憶といえば、母親を失ったことだけしか覚えていない。
だがそれも幸せを認識するための対極概念だとすれば説明がつく。
それに、あゆにとって心に残るような不幸な出来事はあれくらいしかない。
あゆにとって僕は記憶に留まらない存在……
あゆの幸せには必要の無い要素なのだろうか……
1月22日(金曜日) PARALLEL
(あゆちゃんはかわいいですね)
(そうだ、こうなったら水瀬家の家族になってもらいましょう)
秋子さんはそう言って台所からオレンジ色の瓶を出す。
(これを食べればあゆちゃんも水瀬家の家族です♪)
秋子さんはトーストを用意して、他のジャムを食卓に並べていく。
(これでよし。あとはあゆちゃんがジャムに興味を持ってくれさえすれば成功ですね)
そこにあゆがやってくる。
少し遅れて祐一君もやってきたようだ。
「わあ、綺麗…」
あゆは並べられたジャムの瓶に興味を持ったらしい。
目を輝かせて、左右に首を振ってジャムを見回す。
「これってジャムだよね?」
「ええ、そうよ」
(まずは成功ですね。興味を持ってくれました)
「いっぱいあるんだね…」
あゆは感心したようにジャムに魅入っている。
そしてあゆはたくさんのジャムを代わる代わる塗って食べ始めた。
あゆは大好きなマダム・アキコお手製のジャムを楽しめて満足のようだ。
(頃合ですね)
「…あゆちゃん、実はもうひとつだけジャムがあるんですけど」
秋子さんは台所に用意してあったオレンジ色のジャムを取り出して、食卓に置く。
「これなんですけど…」
(ついでです。今日こそ祐一さんも正式に水瀬家の家族になってもらいましょう)
「祐一さんもいかがですか?」
「ジャムですか?」
「一口で構いませんから、試して貰えますか?」
(このジャムを試食してはじめて、祐一さんもあゆちゃんも企業秘密を共有する水瀬家の家族です♪)
「ボク、いっぱい食べるよ」
あゆは嬉しそうに名乗りをあげて、そのオレンジ色のジャムをトーストに塗りたくった。
「分かりました、一口くらいなら…」
祐一君もそのジャムを少しだけトーストにつける。
「いただきます」
そしてふたり同時にかじる。
(名雪が食べた頃からは随分改良を加えたけれど、どうかしら?)
「……」
「……」
一口かじったところで、二人の動きが止まった。
「あゆーーーーっ!!」
僕の手が虚空を掴む。
あゆの病室だった。
「夢……か」
よく覚えてはいないが……
あゆの身にとんでもない災難がふりかかったような気がする。
それも秋子さんの策謀によって……
「まさかな…秋子さんがあゆをひどい目にあわせるわけがないな」
とは思ったが、この日一日中この疑惑は晴れなかった。
そして、どういうわけかこの日秋子さんからの電話はなかった。
何かあったのだろうか?
1月23日(土曜日) PARALLEL
夜遅くに秋子さんから電話があった。
昨日の夜のお詫びとお礼を伝えられた。
正直秋子さんが病気で倒れるとは意外だった。
もちろんそのことを言ったら、『どういう意味ですか?』と少し怖い声が返ってきたが……
それにしても……
今までの秋子さんとあゆのふれあいを聞いているかぎり、二人は本当の親子のようだった。
あゆの献身的な看病は、まさに母を想う娘のそれである。
実際、秋子さんの風邪にうろたえていた時のあゆは7年前の母親の姿に秋子さんを重ねていたのだろう。
たしかに妻と秋子さんは似てなくもない。
特に大らかな性格という点では非常に似ている。
はっきり違うところがあるというと、髪の長さと顔くらいだろう。
僕の妻はショートヘアーで童顔だった。
あゆが童顔なのも妻に似たせいだと思われる。
ただ、違いといえばそれだけで、あゆが秋子さんを母親のように思うのも納得がいくことだ。
妻と一緒にいた時のあゆは幸せそうだった。
僕の幸せは、そんな二人の幸せな笑顔を見ることだ。
でもあゆの幸せは……
認めたくなかった……7年も待っていたのに……
1月24日(日曜日) PARALLEL
あゆは水瀬家を去った。
「あゆちゃんは…幸せな時間を恐れているみたいでした。わたしではあゆちゃんのお母さんのかわりにはなれないみたいですね」
秋子さんは残念そうだった。
「それは違いますよ」
「え?」
「幸せが本当に怖い人なんていませんよ。幸せに浸れば浸るほど……裏切られたときが怖いから…だから幸せが怖く思えるんです」
「月宮さん…」
「あゆは秋子さんのことを慕っていると思いますよ。僕よりもね」
電話を終えて僕は暗い気持ちになった。
あゆの態度が今の僕に似ていたからだ。
僕はこの7年、幸せとは無縁だった。
これは半分は本当だ。
だけど、どこかで幸せから逃げているのも事実だ。
7年前、あゆが僕を受け入れてくれたときは、幸せな家族の生活が始まると思っていた。
しかし、それは妻の死によって裏切られた。
そして、祐一君のおかげであゆが笑顔を取り戻し、せめてあゆとは幸せにやっていけそうだと思ったときも……
そんなささやかな幸せさえもあの事故で奪われた。
求めさえしなければ裏切られることもない。
僕はこの7年、本当の幸せというものを意図的に避けていた。
栞ちゃんにしても、少し面白そうだから相手をしているだけだ。
もっとも栞ちゃんも栞ちゃんで、死への恐怖を紛らわしたいから僕を相手にして楽しんでいるのだろう。
あの子の投げやりな雰囲気を持った言動がそれを示している。
僕と栞ちゃんの関係における幸せとは、虚像のような幸せだった。
二人とも本当に求めている幸せは別のところにあるのだから。
僕も栞ちゃんも幸せを失ってばかりだ。
幸せを取り戻すか、何か代わりの幸せを見い出せたとき、僕たちはもう一度幸せに向かって歩き出せるのだろうか?
秋子さんには夫の代わりに、名雪ちゃんやジャム作りという幸せがある。
だが、僕や栞ちゃんには何も無い。
失うばかりが幸せというものではないと知るまでは、とても幸せを求める気にはなれない。
そして、今のあゆもそんな心境なのだろう。
母親を失い、祐一君と別れた。
その記憶があゆを幸せから遠ざけるのは十分理解できることだった。
あゆは目覚める可能性がある。
幸せを取り戻せる可能性が残っているから僕は生きていられる。
その可能性だけが僕の生きがいだ。
もし……あゆが妻みたいにいなくなったら……
僕はこの先生きていける自信は無い……。
1月25日〜1月29日 PARALLEL
夢の終わりが近づいていた。
あゆが水瀬家を去ってから、祐一君の様子がおかしくなったのだという。
あゆとの間に何があったのかわからない。
ただ、ここにいるあゆに変化は無い。
事態は好転もしていなければ悪くもなっていない。
そう信じないと不安で仕方なかった。
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