1月17日(日曜日) PARALLEL


 まったく、こないだはどうかしてた。
 結果的にはよかったものの、これからは自制心をちゃんと持とう。
 いや、でも秋子さんが相手じゃなかったらあんなにべらべらとはしゃべらないか……
 つくづく恐ろしい人だな…秋子さん。
 病院への道すがら、僕はそんなことを考えていた。
 ちなみに今日は日曜日。
 当然仕事はない。
 何をしてたかというと……図書館で本の散策をしていたのだった。
 いつ見てもいいものはいい。
 僕は図書館に入るなり、ごんぎつねとぶんぶく茶釜を読んだ。
 しかし、子連れの奥様がたから冷たい目で見られ泣く泣く児童文学コーナーから出て行く羽目になったのは悲しかった。
 中年男が童話を読むのが悪いと誰が決めたのやら……
 仕方なく郷土の資料を眺めていたのだが、久々に見てみてみると新鮮なものがある。
 ものみの丘の狐達の話は、いつ見ても僕を童心に返らせてくれる。
 仕事以外で資料に熱中したのは何年ぶりだろう?
 それにしてもあの資料のコーナーに高校生くらいの女の子がずっと座っていたのには驚いた。
 あの歳からああいうものに興味を示すとは、おばさんクサイ……いや、実に感心な学生だ。
 いずれ僕の前に生徒として現れるかもしれないな。


 日曜日の病院は静かだ。
 外来がいないので、中にいるのは入院している人とその家族ぐらいである。
 慣れてしまうと不思議なもので、今ではこの病院は我が家のようなものだった。
 全く寄り道することなくあの子の病室に向かった。
 ……ん?
 何だ?
 僕は最初何かの間違いかと思った。
 看護婦さんではない。


   久しぶりに訪れた雪の街。
   そこはいつもと変わりなかった。
   何もかもが
   しかし、今年は違った。
   見えないところで何かが起きていた。
   そんな中……
   あの子が眠る場所で、僕は一人の少女に出会った。


 全く見知らぬ少女があゆの病室の前に立ちつくしていたのだ。
 なんだか今にも溶けてしまいそうな儚げな印象を受ける。
 少女はあゆの病室のプレートに釘付けになっているようだ。
 僕は少女に手を伸ばそうとしたが、慌てて引っ込める。
 あ、危なかった。
 数日前の痛い記憶が一瞬フラッシュバックする。
 今肩に手を置いていたら、間違いなく変質者扱いされるところだった。
 そこで僕は落ち着いて声をかける。
 そう、できるかぎり何気なく自然に。


「どうかしたのかい?」
「え……」
 少女は心ここにあらずといった感じの目で振り返る。
「えと、どなたでしょう?」
 が、すぐに落ち着いた表情になって、僕に問い掛けてきた。
「あ……」
 何てことだ。
 僕はこんな年の離れた少女相手に一瞬どきりとしてしまった。
 なんてかわいい子だ。
 正直にそう思った。
「あ、いや、僕はこの病室にいる子の父親だが……娘のお見舞いかな?」
 とりあえず無難な線で質問をした。
 あゆのお見舞いにきた人は、僕と秋子さん以外6年間誰もいない。
 いまさら、あゆのクラスメートがやってくるとも思えないし、少女の正体は全く検討もつかなかった。
「いえ、知ってる人と名前が同じだったから気になったんです」
「それだけ?」
「はい……それだけ…です」
 なんだかおかしい。
 それだけという割には、妙にたどたどしいしゃべり方だ。
 ひょっとして……いや、ありうる。
 聞いてみる価値はあるかもしれない。
「街で赤いカチューシャをつけた、自称『ボク』の女の子に会ったのかい?」
「えっ?」
 唖然とした様子で口をぽかんと開ける少女。
 脈ありな反応だった。
 僕はたたみかけるように次の言葉を口にした。
「口癖は『うぐぅ』とか?」
 我が娘ながら、なんて説明しやすいんだろう。
 自称『ボク』と『うぐぅ』だけでたいていは事足りる。
「じゃあ、あのあゆさんはやっぱり……」
「ああ、僕の娘、月宮あゆだよ」
「でも、月宮あゆさんっていったら7年前から……ここで」
 少女の取り乱しようは数日前の僕たちを見ているようだった。
「そのことについては僕もよくわかっていないんだ。娘は今もここで眠ったままだし。娘に会ってみるかい?」
 実際にあゆの姿を見てもらったほうが早いだろう。
「いいんですか?」
 少女はおどおどした口調で尋ねる。
「かまわないよ。どうせ退屈していたところだし、話し相手になってくれないかな?」
「あ、はい」

 ん、ちょっと待てよ。
 どうしてこの子は休日の病院にいるんだ?
 しかも、重病患者が多いこのフロアに。

 重病患者のフロアに美少女……

「美坂栞」
 思いついた名前を口にしてみる。
「えっ?」
 少女はびっくりしていた。
 名前が当たっていたのだろう。
「どうして私の名前を?」
 怪訝そうに、視線をそらしながら僕の表情を伺う美坂栞。
 不審人物を見るような視線が痛いが、気にしないことにしよう。
 いや、気にしたら負けだ。
「やっぱりそうか。美坂記念総合病院の薄幸の美少女と言えば、病院内では有名だからね」
「あ、そういえば私ここでは有名人でしたね」
 ああそうでした、という感じで美坂栞は指を口に当てた。
 なんというか……とてもかわいらしい仕草だと思った。

 この病院には二人の有名な患者がいる。
 一人はもちろんうちのあゆ。『眠り姫』という名で噂されている。
 そしてもう一人、『薄幸の美少女』という名で噂される少女がいた。
 それが美坂栞である。
 病院経営者の娘にして、死の病に冒されているという話だったが……
「言葉のあやだと思っていたが、本当に美少女だな」
「わ、人に言ってもらったのは初めてです」
 美坂栞は顔を真っ赤にして言う。
 が、とても嬉しそうだ。
 本当にこれが死を目前にした少女なのか?
「…………」
 僕はその次にどう声を出していいのかわからなかった。
 それを察したのか美坂栞は口を開く。
「あの…私は噂どおりもうすぐ消えちゃいますけど、気にしなくていいですよ。普通の女の子と思って接してください」
「あ、うん。そうするよ」
 信じられない言葉だった。
 この子は自分の命をなんとも思っていないのだろうか?
 いや……、もう自分の命を運命と割り切ってしまっているのだろう。
 今会ったばっかりだったが、僕はこの美坂栞という少女に強く惹かれた。
 何故かはよくわからなかったが、恋愛とかいうものではないのは確かだ。
「それじゃあ、あゆさんに会わせてください」
 美坂栞はそう言って僕に笑顔を向けた。
 その笑顔の向こう側に……
 僕はこのあいだまでの自分の姿を見た。
 どうせ何も変わらないし、何も出来ない。
 そう思いながら病院に来ていた自分の姿を。
 僕はその空虚な笑顔が無性に悲しかった。




 あゆの病室で僕たちはお互いにあゆの話をした。
 不思議な子で、あまり熱心に話を聞いてくれるものだから、7年前のあゆとの出来事も全て話してしまった。
 そのお返しか彼女も自殺を図ったことなど、かなりプライベートなことまで話してくれた。
 会って間もない僕たちだったが、お互いのことをそれなりに理解したと思う。
「これからあゆさんはどうなるんでしょう?」
 ひとしきりお互いのことを話し合ったあと、美坂栞はこう訊いてきた。
「さあ、それは僕が知りたいよ」
「目を覚ますんでしょうか?」
「覚まして欲しい。僕は今祐一君といるあゆがそのためにあがいていると思いたい」
 それを聞いて美坂栞はあゆの顔を見つめて誰に言うともなく呟く。
「起きないから奇跡って言うんです」
「え?」
「でも、現実にも奇跡ってあるんですね」
 美坂栞はあゆが今祐一君のところにいることを言っているようだ。
「私、これであゆさんが目覚めたら……奇跡は起きるんだって信じてみたいです」
 僕はこの時美坂栞の目に光がともったことを見逃さなかった。
 全てをあきらめている少女が、あゆの目覚めに一縷の望みを持ったようだ。
 もし、彼女が生きているうちにあゆが目覚めたら……彼女の中で何かが変わるのではないか?
 僕はなぜかそんな気がした。


「またここで、話し相手になってくれませんか?」
「僕は構わないが、君はいいのか?」
 こんな知り合ったばかりの男と部屋に二人きりというのを両親が知ったらどう思うのか心配である。
「他に私の顔を真っ直ぐ見てくれる人はもういないですから……」
「そうか、悪いことを聞いた。うん、いつでも来てくれて構わないよ」
 さっき彼女が普通の女の子としてと言った意味がようやくわかった。
 もうすぐいなくなる彼女と心を通わすことは辛いことだ。
 だからみんな彼女とは距離をおきたくなるのだろう。
 そういう意味では僕は丈夫な方だ。
 妻を亡くした直後にあゆの笑顔を失って以来7年、生きてるとも死んでるとも言えないあゆを見続けているのだから。
 ある意味死に対して鈍感ともいえる。
 生きている幸せから疎遠になっているとも言えるだろう。
 あゆの居場所を守る決心をしたとはいえ、生きていることにそこまで魅力を感じているわけでもない。
 ある意味僕と彼女は似たもの同士なのかもしれない。
「それではさようなら、です」
 ふわっと羽毛のように立ち上がり、身を翻すと、美坂栞はそう言って部屋を立ち去っていった。







 食事に行く前に僕は噂好きな顔見知りの看護婦さんに、美坂栞のことを訊いた。
 すると意外な答えが返ってきた。
 最近の彼女はどういうわけか持ち直したらしく、今の調子なら春まで持つのでは、ということだった。
 病は気から、というのは結構当たっているものだ。
 おそらく、彼女が今日教えてくれたあゆや祐一君との出会いが彼女に生きる気力を持たせたのだろう。
 しかし、あくまで春まで生きられるかもしれないだけで、それだけだった。
 いかに彼女が頑張ったところで、あと10年や20年も生きられるわけではない。
 ……何を考えているんだろう?
 彼女は今さっき会ったばかりの他人じゃないか。
 赤の他人の僕が、彼女の先のことを心配してどうとなるわけでもない。
 馬鹿らしい……と思いつつも僕は何となく彼女のことが放っておけない気がしていた。






「で……さようならしたんじゃなかったのかい?」
「いつ来ても構わないって言いましたよね?」
 食事が終わって、あゆの病室にもどると、美坂栞が椅子にちょこんと腰掛けて待っていた。
「確かに言ったが……」
 明日からのことだと思っていた。
「あ……」
 美坂栞は話しかけようとして黙る。
「なんだい?」
「えと、なんてお呼びすればいいんでしょうか?」
 ああ、そういうことか。
 考えてみれば、さっきまではお互い自分のことしか話しておらず、本当の意味で話をするのは今がはじめてだった。
「そうだな……おじさまとでも呼んでくれ」
 冗談で言ってみたのだが、途端に美坂栞はしかめっ面をする。
 そんなに悪い冗談を言った覚えはないが。
「そんなこと言う人嫌いです」
 ぷんぷん、という擬態語がぴったり合いそうな表情で美坂栞が怒る。
「祐一さんには『お兄ちゃんと呼んでいいぞ』って言われました」
 祐一君の同類扱いされたわけか……
 しかし、こういう冗談はまだかわいい方だ。
 以前女生徒に『パパと呼んでいいぞ』と馬鹿な発言をして問題になった友人を知っている。
「冗談だ。月宮さんとか月宮教授とでも呼んでくれればいい」
 それを聞いて美坂栞はきょとんとした。
「教授さんなんですか?」
「うん、民俗学を研究している」
「そうなんですか。でも、なんだか堅苦しくなりそうだから月宮さんって呼ばせてもらいます」
「君のことは栞ちゃんでいいかな?」
「はい。それでいいです」
 栞ちゃんはあらためてよろしくといった感じで微笑んだ。
「それで何か話があるのかい?」
「いえ、何もないです」
 栞ちゃんはニコニコしながらそう言い切った。
「一体なにをしに来たんだ……もういい、帰りなさい」
 呆れたようにそう言うと、非難の視線が即突き刺さる。
「そんなこと言う人嫌いです」
「……それで僕にどうしろと?」
 なんて扱いの難儀な白雪姫なんだろう。
「私まだ夕飯食べてないんです。軽く食事のできるところに連れて行ってもらえませんか?」
「僕はもう食事をしたぞ」
「デザートでも食べて付き合ってくれるだけでいいですから」
 デザート……しまった見落としていた。これはおいしい。
 何を隠そう、僕はデザートに甘いものを食べるのが大好きだ。
 しかし、中年男が一人でデザートを食べるのは恥ずかしく、喫茶店でデザートを食べたのは7年前が最後となっていた。
 だが、栞ちゃんと一緒なら話は別だ。
 堂々と喫茶店に入ってデザートを食べられる。
「よしっ、行こう」
「あ、あの目が血走ってますよ」
 栞ちゃんが苦笑しながらこっちを見る。
 が、そんなのは気にしない。
 もう時間的にもぎりぎりだ。急いで行かないと喫茶店も閉まってしまう。
「わ、わ、置いていかないで下さいよ」
 さっさと歩き始めた僕を、栞ちゃんが慌てて追ってきた。







 僕たちは商店街にある喫茶店『百花屋』に来ていた。
 店の雰囲気は7年前と変わりがない。
「イチゴサンデーをお願いします」
「私はバニラアイスを」
 店員に注文を終えたところで、栞ちゃんに訊く。
「君の晩御飯はバニラアイスなのか?」
「好きですから」
 栞ちゃんはにっこり微笑んでそう答えた。
 その瞳には何の迷いもない。
「いやそうじゃなくて」
 バニラアイスはデザートではないのか?
 少なくともおかずではない。
「カレーとかだってあるのに」
「カレーなんて致死毒を私に食せって言うんですか?」
「ち、致死毒って……たかがカレーだろう?」
「私辛いのは苦手なんです」
 なんだそういうことか。
 しかし、面白い子だな。
 まるで……まるで、何だというんだろう?
「ならスパゲッティーとかでも頼めばいいのに」
 そういうと栞ちゃんはすまなそうな顔をした。
「私、内臓も弱っちゃってるみたいで、食欲がないときは本当に食べられないんです。バニラアイスはいつでも食べられるんですけどね」
「そうなのか」
 食べられないなら無理にすすめることもないだろう。
 栞ちゃんの場合アイスでも食べないよりはマシと言える。
 食べられるうちは元気だということだから……
「それに……」
「うん?」
「お昼にたい焼きを2つも食べたので」
 僕たちはそのことを思い出して笑った。
 まったくあゆの食い意地にもあきれたものだ。
 昔も皿に盛ってあったお饅頭が、話に夢中だったはずのあゆのお腹に消えていたことはよくあったが……、
 7年経ってもその癖は抜けていないらしい。
 そこに注文の品が出てきた。
「ところで、ここにはよく来るんですか?」
 病院から一直線にやってきたせいだろう。
 栞ちゃんはここを僕の行きつけの店だと思ったようだ。
「いや、7年ぶりだね。今もあったのには少し驚いているよ」
「7年前まではよく来たんですか?」
「ああ、家族一緒に休日にはよく来たものだよ」
 結婚前には妻とよくデートでここに寄った。
 そのころから僕はここのイチゴサンデーのファンになったのである。
 百花屋で家族3人がイチゴサンデーを食べていた風景をいまも鮮明に思い出す。
 そうだ、栞ちゃんに僕が惹かれる理由がわかった。
 彼女といると、なくしたあの幸せな時間を取り戻したように感じられるのだ。
 僕は栞ちゃんに娘のあゆを重ねていたのだろう。
 もしあゆが目覚めたら、こんな時間をすごせるのだろうか?
「あの、どうかしましたか?」
「あ……少し昔を思い出していたんだ」
「昔、ですか?」
「7年前。多分僕が一番幸せだったころのことを」
 一瞬の沈黙があった。
「今は幸せじゃないんですか?」
「ははは、全然幸せじゃないね。研究に打ち込んで、悲しいことを忘れようとしてる毎日だよ」
 それを聞いて栞ちゃんは不機嫌そうな顔をした。
「そうじゃなくて」
「え?」
「中年のおじさんがこんな美少女と一緒に喫茶店にいるんですよ」
 栞ちゃんは指を口に当てながら誇らしげに言った。
「はは、たしかにそれは幸せなことだな。栞ちゃんとこのままずっといられたら幸せだろうね」
 沈黙。
 栞ちゃんがなんともいえない顔をしてこっちを見ている。
「あ、あの月宮さんって最近話題のロリコンなんですか?」
 あやうく噴き出すところだった。
「君はかわいい顔してとんでもないこというな……」
「月宮さんの言葉からもっともふさわしい人柄を推察してみただけですけど」
「そのうち顔と言葉だけで人を殺せるぞ君は」
「そんなこと言う人嫌いです」
 その言葉も殺人的だよ……と言いたくなったが止めておいた。
 大人気なさすぎると思ったからだ。
「そういう意味じゃなくて、栞ちゃんといると娘といるみたいで幸せだって言ってるんだよ」
「そういうことだったんですか」
「納得してくれたかい?」
「えと、つまりロリコンではなくて子煩悩というわけですね」
 ……変質者→ロリコン→子煩悩
 最近僕はさんざんな言われ方されてないか?
「もうどうとでも言ってくれ」
 親ばかと言われなかっただけマシとしよう。
 僕は泣きたくなるのをこらえながらイチゴサンデーをつついた。











「ここ私のお気に入りの場所なんです」
「ここは……」
 百花屋を出たあと、僕は栞ちゃんに連れられて彼女のお気に入りの場所に来ていた。
 噴水のある公園。
 見覚えのある光景と、懐かしさに思わず感嘆の声がもれる。
「あの公園か……もう行き方を忘れていたよ」
「来たことがあるんですか?」
「ああ、妻とね。懐かしいな、夜はこんなに綺麗だったのか」
 僕は素直に感心していた。
 雪と電灯の光と噴水が幻想的な光景を作り出している。
 さながら冬の妖精国の宮庭といった感じだ。
「月宮さん」
 突然、噴水の縁に腰掛けた栞ちゃんが真剣な面持ちで僕に声をかける。
「今日は私の我儘に付き合ってもらってありがとうございました」
「僕こそありがとう。久しぶりに幸せな気持ちになった気がするよ」
 正直な気持ちだった。
 振り回された気がしないでもないが。
 親子としてあゆと一緒に休日を過ごせたような幻想に浸ることができたと思う。


「月宮さん、これでお別れしましょう。やっぱり私はこれ以上人と心を通わせちゃいけない気がするんです」
「なんだって……」
「これ以上私といると、最後に絶対後悔しますよ」
 僕は栞ちゃんの言葉に驚いた。
 どうしてこんな小さな女の子が一人で全てを抱え込むような悲壮な決意が出来るのだろうか?
 この子は残された時間を一人で過ごそうというのか?
 誰にも悲しい思いをさせないために……
「君は本当にそれでいいのか?」
「え?」
「たしかに僕は栞ちゃんの苦しむ姿なんか見たくはない。だから今お別れするのは僕にとってはいいことかもしれない」
「だったら……」
 だったらお別れしましょう、という栞ちゃんの言葉を遮る。
「だけど君はそれで幸せなのか? このまま閉じこもって一人でさみしく一生を終える気か?」
 僕の語気は知らず知らずの内に荒々しくしくなっていた。
 栞ちゃんにあゆを重ねていたせいだろう。
 もしあゆが同じことを言って僕の前から消えようするなら、見過ごすことはできない。
「だけど……私はお姉ちゃんにも見捨てられるくらい馬鹿だから」
 栞ちゃんの目には涙が浮かんでいた。
「たしかに家族だと栞ちゃんがもうすぐ消える運命にあることは耐えられないかもしれない。大事な人を失うということはそれだけ辛いことだし、それを経験したことがない者には厳しすぎる現実だ」
 胸が痛い。あの日の悲しみが込み上げてくる。
「僕だって2度味わったからといって、そんな辛い現実に慣れているわけじゃない。だけど僕は栞ちゃんを見捨てられない」
 なぜならそれは……。
「栞ちゃんを見捨てるということは、あゆを見捨てるようなものだ。どうしても一人でいたいと言うなら止めはしないけど、辛いなら頼ってくれてもいいんだよ」


 長い沈黙があった。
 だが、僕の真摯な心が通じたのだろう。
 栞ちゃんが僕の顔をしっかりと見据える。
「月宮さん……私本当は死にたくないです」
 そして栞ちゃんは震える声で言葉を搾り出した。
 胸の中にしまっておいた本心が出たようだ。
「大好きなお姉ちゃんとお別れしたくないです。お父さんやお母さんとも……だけど」
 運命だから……続く言葉は容易に予想できた。
「運命で片付けるのかい? あゆは必死にそれに逆らおうとしているのに」
「あ、あゆさん……?」
 栞ちゃんが一瞬硬直する。
 あゆの名前に反応したようだ。
「本当に……抗いようのない運命なのか?」
 もしどうしようもないのなら、僕はとても残酷な発言をしたことになる。


 再び長い沈黙があった。
「奇跡でも起きれば何とかなりますよ」
 栞ちゃんは自嘲気味にそう言った。
「それはまったく望みがないわけというわけではないんだね」
「はい。でも、起きないから奇跡って言うんですよ」
 と言ったところで『でもあゆさんの例がありましたね』と付け足す栞ちゃん。
「私の場合、死期が延び続けていることが奇跡なのかもしれません。本当は今日も生きているのが不思議なくらいだそうですよ」
 そうなのか?
 奇跡とは不思議であるだけなのか?
「栞ちゃん。それは奇跡じゃない。さっき聞いたんだが、君は今じゃ春まで持つかもしれないということだそうだ」
「そうなんですか、もう大奇跡ですね」
 あまり嬉しそうには聞こえない。
「違う! そんなのは奇跡じゃない。人を幸せにしてこその奇跡だろう? 悲しみをもたらすだけの奇跡なんて奇跡じゃない」
 今のあゆを奇跡として、このままあゆが目覚めなくてもそれを奇跡と言えるのだろうか?
 言えるはずがない。
 そんな奇跡はいずれ『運命の悪戯』として恨まれることだろう。
「栞ちゃん、あゆは目覚めてくれなければ奇跡じゃないんだよ」
「月宮さん……」
 気付くと僕は泣いていた。


 『起きないから奇跡って言うんですよ』


 死刑宣告同然の言葉だった。
 あゆのように思っている栞ちゃんにそんなことを言われると、あゆが目を覚ますことはないように思えて怖くて仕方がない。
「ごめんなさいです。でも、あゆさんは大丈夫ですよ。私なんかよりずっと前向きな人ですから」



 その言葉で幾分か救われた気がした。
 ポケットから取り出したハンカチで滲んだ涙を拭う。
 いつから僕はこんなに涙脆くなったのだろう?
 やはり、ここ数日のあゆのことで精神状況が知らず知らずのうちに不安定になっているのだろうか?
「栞ちゃん」
「はい」
「約束してくれないか? あゆが目を覚ましたら奇跡は起きることもあると信じると」
「え?」
 栞ちゃんは戸惑いの表情を見せた。
 が……
「賭けですか?」
 といつもの笑顔で聞き返してきた。
「そう思ってくれてもいい。だから、結果を見るまでは何があっても生き続けて欲しい」
 我ながら無茶な要求だと思う。
 しばらくの沈黙を挟んで栞ちゃんが口を開いた。
「わかりました。ドラマのイベントみたいで面白そうですし約束します」
 栞ちゃんは悪戯っぽい作り笑顔でそう言った。
「でも……私はそんなに気が長くないですよ。賭けの結果は早く出してくださいね」
 笑えない冗談だったが、それが栞ちゃんの精一杯の気持ちだったのだろう。
 いくら頑張っても栞ちゃんは春までが限界だ。
 おそらく栞ちゃんの言う奇跡は、想像もつかない苦痛を伴う手術か新薬による治療なのだろう。
 だがそんな犠牲を払っても、奇跡でも起きなければ成功しないものに違いない。
 このまま素直に眠ってしまった方が幸せだったと後悔するようなほどの。
「約束は厳守だよ」
「もちろんです。賭けは約束を守らないと楽しくないです」
 栞ちゃんは僕が賭けに負けたときのことに触れなかった。
 それはあゆが目覚めないことを意味するからだ。
 そしてそれは二人ともが望まない結末だった。






「おっと、もうこんな時間だ」
「わ、早く帰らないと病院の人に怒られますよ」
 僕の時計を覗き込んだ栞ちゃんが焦った声でそう言うが、なんだか状況を楽しんでいる気がする。
「栞ちゃん、今『これは面白くなってきたなー』って思っているだろう?」
「思っていませんよ。そんなこと言う人嫌いです」
 ニコニコしながらそう言った。
 説得力に欠けるとかいう次元を二周りほど超えている。
「…………」
 僕は無言で足早に歩き始めた。
「わ、酷いです」
 今日一日通してわかったが、栞ちゃんのペースに乗るとロクなことにならない。
 すこし突き放したような付き合い方をしてちょうどだな。
 そんなことを思いなが、栞ちゃんを連れて公園を後にした。




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