1月17日(日曜日)


「あ、あれ? ここは?」
「病院よ」
 私が目を覚ますと、そこは見慣れた病室だった。
 時計を見ると朝の10時。
 どうやら誰かに運ばれてしまったようだ。
 物語になり損ねたことに少しがっかりする。
「まったく、絵を描いて疲れて外で寝てしまうなんて」
 溜息をついてベッドの私に歩み寄るお母さん。
 どうやらお母さんは私が自殺まがいの行為をしていたことを知らないらしい。
 あれ?
「お母さん、どうして私が絵を描いていたことを知ってるの?」
 絵は、ベッドの側に置いてあったが、これを描いて眠ったことなんて私しか知らないことだ。
 お母さんはきょとんとした目で私を見つめた。
「何言ってるのよ。香里と一緒に公園にいたんでしょ? まったくもう、病気なんだから無理しちゃだめよ。お姉ちゃんにもあんまり迷惑かけないでね」
「そっか、お姉ちゃんが……」
 お姉ちゃんは、私に病気のことを教えてから全く口をきいてくれない。
 いずれいなくなる私との関係を完全に遮断したかったのだろう。
 思えば私は祐一さんにお姉ちゃんのかわりをして欲しかったのかもしれない。
 私のことをよく考えてくれる人が側にいてほしかったのだ。
 でも、私はまだ失ってなかったみたいだ。
 あんな態度をとっていても、お姉ちゃんは私のことを気にかけてくれているらしい。
 私は『まだ生きているのも悪くないかな』と他人事のように思った。


「美坂さん、先生が呼んでますよ」
 お母さんの仕事仲間の看護婦さんがお母さんを呼びに来た。
「あ、はいはい。今行きます」
 お母さんはそれに振り返って返事をする。
「栞、お母さんは行くけど、あなたは自由にしてていいわよ。だけど、お姉ちゃんに面倒かけちゃだめよ」
「うん」
 お母さんはそれだけ言うと出ていった。


 自由にしていい、というのは慰めの言葉だ。
 普通なら、ついこの間自殺まで図った私を自由になんかするはずがない。
 でも、どうせ助からないなら止めるだけ無駄というわけだ。
 もっとも、思いやりがないわけではない。
 薬漬けにして拘束するくらいなら、残った時間で自分の好きな事をさせてやろうという医者のお父さんらしい思いやりなのだろう。
 実際私が薬を飲み忘れても、叱らなくなった。
 助かる見込みがないからだろう。
 それを知っているだけに、私は胸が痛んだ。
「どうしようかな?」
 ベッドの上でぼんやり天井を眺めながら思案する。
 もう学校には行けない。
 行ったらいけないのだ。
 私は悩み続けた。
 が、特にいい案も思い浮かばず、商店街に向かうことにする。
 いや、もぐら叩きをやっていれば、あの楽しかった時間が戻ってくるかもしれないと期待していたのかもしれない。






「やりました! 10点です」
 500円をつぎ込んで私はようやくモグラを10匹叩くことが出来るようになった。
 だが、それを見てくれる人はいない。
「……私は何をやっているんでしょう?」
 私は自分が何をしたいのかさっぱりわからなかった。
 それでも、それ以外にやれることなどなかったから私はまた硬貨を投入する。
 冷めている割に、私の手は冴えていた。
 上手いとはいえないにせよ、冷静にモグラを処理していく。
 もうすぐゲームが終わるかという時だった。
「あっ、栞ちゃん」
 声に振り返ってみると、あゆさんだった。
 あゆさんは私のほうに笑顔で駆け寄り……


 ベチッ!


 モグラさん4匹を巻き添えにしてゲーム機に突っ込んだ。
 両手、おでこ、あご。
 みごとな4HITだった。
「あ、本日の新記録です」
 20匹。
 前の新記録がなんだったかは知らないが、少なくともさっきの記録の2倍には違いない。
「ボクのことも少しは気にしてよ〜」
 涙目で台から顔を起こしたあゆさんがこっちを見上げていた。
「こんにちはです、あゆさん」
「こんにちはっ、栞ちゃん」
 眩しいあゆさんの笑顔に、思わず私の心まで温かくなる。
 はじめてあった時からそうだったが、私はあゆさんに不思議な印象を持っていた。
 今にしてみれば、私が探していたのは祐一さんではなく、あゆさんのほうだったのかもしれない。
 今の新月のように惨めな私と違って、まるで太陽を思わせるような明るい人。
 傍にいる人を輝かせる。
 あゆさんはそんな感じの人だった。
 あゆさんといたからこそ、祐一さんも輝いて見えたのだろう。
「一日ぶりだね」
「そうですね」
「またもぐら叩きをやってたんだ」
「はい」
「どうだったの?」
「あゆさんのおかげで新記録達成です」
 私はさっきのあゆさんの特攻を思い出して微笑んだ。
「うぐぅ、ひどいよ」
 恨めしげに据わった目が私を睨んでいた。
 目線がやや下なので意外に凄みがある。
 あくまで外見に反して『意外に』だが。
 それはともかく……。
「あの、うぐぅってなんですか」
「え、えへへ……なんでもないよ」
 気になって仕方ないことを訊ねると、あゆさんは照れ笑いをして誤魔化す。
 ああ、なるほど。
「あの、もしかしてすごくエッチなことなんですか?」
「う、うぐぅ! 違うよ!」
 あゆさんが顔を真っ赤にして否定する。
 どうやら、違ったらしい。
 本当に何なのだろう?
「そんなことはどうでもいいよ。さっきはよくもボクのことを笑ってくれたね」
 あゆさんが不敵な笑みを浮かべて私を指差す。
 ……つもりだったようだが、ミトンのせいで指差せない。
 あわててあゆさんはミトンを取り外すと、私を改めて指差した。
「お詫びにたい焼きをおごってもらうよっ」
「あゆさん……カツアゲに来たんですか?」
「え?」
 私の不審の眼差しに、きょとんとするあゆさん。
「ち、違うよ! 許して欲しければボクと勝負しようって言いたかったんだよっ」
 あゆさんはあたふたと身振りを交えて言い訳をした。
 はじめからそう言えばいいのに、ひょっとしなくてもあゆさんは相当の口下手なのだろうか?
「いいですよ。私が勝ったらどうなるんですか?」
 どうせやることもないのだ。
 お小遣いだって、もう持っている意味はない。
 だったらあゆさんの提案に乗ってみるのも一興だろう。
「ただで許してあげるよ」
「なんだか私が一方的に損してませんか?」
 私はわざと不満顔を作ってみた。
「わ、わかったよ。じゃあ、ボクがたい焼きをあげるよ」
「わかりました。じゃあ、覚悟はいいですね」
 やっぱりわざとあゆさんを挑発してみる。
 正直なところ、少しは上手くなったとはいえまだまだ私は下手くそだ。
 それでも場を盛り上げる台詞は言ってみたかったのだ。
「その言葉そっくり返すよっ」
 私たちは不敵に笑いあってコインを投入した。


 そして開始から20秒ほどしたとき……
 シュッ!
「えっ?」
 ガンッ!
 バキッ!
「うぐぅ!」
 バタッ!
 あゆさんの持っていたハンマーの先がとれ、台に当たって跳ね返ってきた先っぽがあゆさんの顔面を急襲した。
 避けようとしてバランスを崩したのか、それともハンマーが直撃してなのかは分からないが、両手を広げた格好で仰向けに倒れるあゆさん。
 ……さっきの4HITといい、漫画みたいな人だ。
「…………」
 倒れたまま顔を押さえているあゆさんに一瞬駆け寄ろうかとも思ったが……。
 勝負に負けたくなかった私は、見なかったことにしてモグラを叩き続けた。
「う、うぐぅ。少しは気にしてよ!」
 起き上がったあゆさんが憤慨する。
「真剣勝負に情けは無用です」
 私はもっともらしい口上を叩きつける。
「負けないもんっ」
 あゆさんは口をへの字に曲げて再び台に向かった。
 しかし、このとき既に決着はついていた。
 というのも……
 先のない柄だけのハンマーでモグラを叩けるわけがなかったからだ。


「うぐぅ。負けたよ」
 12対10。
 祐一さんが見ていたら、呆れるような低レベルの接戦と笑われるだろう。
「約束どおり、たい焼きごちそうしてくださいね」
「うん、約束だからね」
 勝者らしく胸を張ってみせる私に、あゆさんは特に残念そうな顔を見せず頷いた。
 ひょっとしなくても、勝ち負けはどうでもよかったのだろうか?
 多分、そうなのだろう。
 勝っても負けても、私も楽しかっただろうから。





「はふはふ、やっぱりたい焼きは焼きたてが一番だね」
「そうですね」
 普通はそうなんですけど……
 激闘から30分後、私たちは駅前のベンチに座っていた。
 山のようなたい焼きを抱えて。
「あゆさん、それ全部食べるんですか?」
 私は恐る恐る訊いてみた。
「えっ?」
 あゆさんが驚いた顔をする。
「栞ちゃん食べないの?」
「私は1匹でおなか一杯です」
「そうなんだ……ボク栞ちゃんと一緒にたい焼き食べたくてたくさん頼んじゃったよ」
 あゆさんがとても残念そうな顔をする。
 なんだかすごく悪い気がしてきたので私は言った。
「えと、じゃあ…あと2匹頂きます」
 本当は体のことを考えて1匹以上はやめておこうと思ったのだが、
 今更生き延びることを考えている自分が滑稽だった。
 食べたいものも食べられず、やりたいことは何もできない。
 こんなのは死んでいるのと何ら変わりのないことじゃないか。
 私にとって一日でも長く生きることは、死人になって生きることなのだ。
「のこりどうしよう……」
 あゆさんが残念そうな顔をする。
 茶色の紙袋は、まだずっしりと重そうだった。
「あとにとっておけばいいんじゃないですか?」
「だ、駄目だよ」
 あゆさんが取り乱す。
 それほどのことを言っただろうか?
「たい焼きは焼きたてが一番なんだよ」
「そうなんですか?」
「祐一君がボクにそう教えてくれたんだ」
 祐一さん……。
 そう言えばあゆさんはどういう経緯で祐一さんと知り合ったんだろう?
 前には『運命』とか言っていたけれど……。

「あっ」

 あゆさんが突然大きな声をあげる。
「どうしました?」
「そういえばまだお互いにちゃんと自己紹介してなかったよね」
「そうでしたね」
「ボクは月宮あゆ。あゆあゆじゃないよ」
「はい?」
 あゆさんの言うことは時々よくわからない。
 そういう人なんだろう、と自分を納得させ気にしないことにする。
「私は美坂栞です。あらためてよろしくです、あゆさん」
「こっちこそよろしくだよ、栞ちゃん」
 あゆさんがひときわ明るい表情で微笑む。
「あれ?」
 そのとき私はなんだかあゆさんの名前に聞き覚えがあるような気がした。

「月宮あゆ……」

「どうしたの?」
 あゆさんが不思議そうな目でこちらを伺っている。
 なんだか身近な名前だったような気がするがさっぱり思い出せない。
「いえ、なんでもないです。よく似た名前の人が知り合いにいた気がしたものですから」
「そうなんだ」
 あゆさんは笑顔でうなずいていた。
 多分納得したのではなく、何も考えてないだけ……と思う。
「ところで今日は何をしていたんですか?」
「ボクは探し物だよ」
「あの、ゲームセンターでなくしたんですか?」
 そう言うとあゆさんは少しうつむいた。
「わからないんだ。7年前になくしちゃったのはわかるんだけど、どこに何を忘れたのか覚えてないんだよ」
 会ったときから少し変な人だなとは思ったけど……
 今のあゆさんの言葉ほど変なものはなかった。
 普通忘れ物とは、落としたものが何であるかわかってないと探せないはずだ。
「だけど、ゲームセンターを見てたら何かがひっかかって……昨日からゲームセンターを探してたんだけど……」
 なんだか嫌な予感がする。
「ついついゲームに夢中になってしまったんだよ」
 予感的中。
「あゆさん。本気で探す気あるんですか?」
「あるよ!」
 あゆさんが頬を膨らまして憤慨する。
「全然説得力がないです」
「うぐぅ……」
「…………」
「えっ? 何? どうして黙るの?」
「あゆさん…私今何かエッチなこと言いましたか?」
「だから違うって言ってるのに……」
「じゃあ『うぐぅ』って何ですか?」
 本当はもう口癖らしいというのはわかっていたが、面白いのでからかってみる。
 祐一さんがあゆさんをからかってた理由がよくわかった。
 あゆさんは、からかうととても面白い人だと思う。
「うぐぅ、もういいよっ」
 などと思っているとつむじを曲げられてしまった。
 でも、適当に誤魔化しておけばすぐに機嫌は直るのだろう。
「冗談です」
 とりあえず謝ってみる。
 すると、予想通りあゆさんの眉間の皺がすぐに消える。
 なるほど、からかいがいがあるわけだ。
 誰だって根に持つタイプの人をからかいたくはないだろう。
「ところで栞ちゃんはどうして一人でもぐら叩きをしてたの?」
「家がもぐらさんに沈められたからその仕返しです」
「えっ? 家つぶれちゃったの?」
 あゆさんは本気で信じていた。
 この人を必要以上にからかうのはやめておいた方がいいかもしれない。
 話が進まなくなる。
「冗談です。することがないから腕を磨いてたんです」
「そうだったんだ」
「あゆさん……」
「何?」
「あゆさんと祐一さんってどんな出会いをしたんですか?」
「えっ? そんなこと訊いてどうするの?」
 あゆさんが顔を真っ赤にして訊き返してくる。
 なんというか…わかりやすすぎる。
 ドラマでもこんなにわかりやすい登場人物は見たことがない。
「『運命』って言ってたじゃないですか。私『運命』って言葉に興味があるんです」
 そう、色々な意味で。
 おそらく皮肉的な意味合いが強いだろう。
「うん。わかったよ。長くなるけどいいかな?」
「いいですよ。私お話は大好きですから」



 あゆさんは色々話してくれた。
 7年前にお母さんを亡くしたこと。
 そして泣いているあゆさんを祐一さんが慰めてくれたこと。
 二人はとても気が合ったこと。
 だけど祐一さんはこの街にずっと居続けることができなくて……
 二人は別れなければならなかったこと。
 そしてお別れの日、赤いカチューシャをもらったこと。
 それは幼い二人の美しくも切ない淡い恋物語だった。



「で、そのときに祐一君からもらったカチューシャがこれなんだよ」
 あゆさんはそう言って自分の頭を指差した。
 が、またもミトンをつけたままだったので、外して指を指し直す。
 傍から見れば明らかに間抜けだった。
 そもそもからして、ミトンをつけたままたい焼きを頬張るというのも変だ。
「似合ってますよ」
 安物なんだろうけど、祐一さんは一生懸命選んだのだろう。
 そのカチューシャは全く違和感なく存在していた。
「そう? 今日秋子さんにも言われたよ」
「秋子さん……?」
「あ、祐一君のやぬしさんだよ。やぬしっていうのは家で一番偉い人のことなんだって」
「家主さんですか」
 なんだか的をえているようで、思いっきりピントがずれているような説明だった。
 そうとも言えるだろうが、もともと家主に一番偉い人という意味はない。
 それにしても……今の話にはおかしなところがあった。
 普通に聞き流していたら気付かなかっただろうが、私は熱心に聞いていたので気になったのだ。
「あの、あゆさん……」
「何? 栞ちゃん」
「祐一さんは休みの間いつもこの街に来てたんですよね?」
「そう言ってたけど…?」
「『今度会うときはこれを付けて行くね』って約束したんですよね?」
 私はあゆさんのカチューシャに目をやった。
「うん」
 あゆさんの顔に不安の色が浮かぶ。
「そんな約束をしたのにどうして祐一さんは7年間もこの街にやってこなかったんでしょう? その約束からすると、また次の休みには会うはずだったんですよね?」
 それは明らかにおかしいことだった。
 祐一さんがあゆさんのことをすぐに忘れたとは考えにくいし……
 あゆさんを振ったとも到底思えない。
 それでいて祐一さんはこの街に自分の意思で戻ってきたわけではない。
 転校という家の都合でやってきただけで、そういう事がなかったらそのまま一生この街に来なかったということも考えられる。
「…あれ…じゃあ…祐一君はボクのこと…」
「それは絶対にないです」
 あゆさんは『ボクのことなんかなんでもなかったのかな?』と言おうとしたのだろう。
 それを察して私はすぐに否定した。
「祐一さんは馬鹿みたいに正直な人ですから……あゆさんを見捨てるなんてありえないです」
 祐一さんはそんな薄情な人じゃない。
 短い付き合いではあったが、それを私はよく知っている。
 そんな薄情な人だったら……
 どうして成人の日、学校にいた私に会いに来てくれただろうか?
 祐一さんは約束を絶対に守る人だ。
 恋人でもない私にでも、あんなにやさしくしてくれた祐一さんが……
 本当に恋心を懐いていたあゆさんとの約束を忘れるわけがない。
 でも……じゃあ一体どうして?

「何か悲しいことがあったのかもしれないよ」

 あゆさんがうつむきながらそう呟いた。
「ボクもお母さんがいなくなったときは、何も見えなくなったから…」
 …………。
 そうか、身内に不幸があったということも考えられた。
 誰か大切な人を失ったのかもしれない。
「そうですね。それで自分の街に閉じこもってしまったのかもしれないですね」
 絶望。
 私にも経験があることだった。
 お姉ちゃんに見捨てられて、自殺をするまでの数週間、
 私は自分の部屋に一人で閉じこもった。
 全てを……
 自分さえも忘れたい…そんな絶望だったから。

 それでもまだ疑問は尽きない。
 たとえそうだとしても……祐一さんからそんな雰囲気は感じられない。
 7年間会いに来なかった理由をあゆさんにも告げていないようだし……
 普通なら、まず約束を果たせなかった理由を話すものだろう。
 どうにも何か腑に落ちなかった。
 が、これ以上こんな話をしていても暗くなるだけだったから私は話を打ち切ることにする。

「何か複雑な事情があったのかもしれないですね」
「きっとそうだよ」
 あゆさんが笑顔を取り戻す。
「それに、ボクは今祐一君といられることがとても嬉しいんだよ」
 あゆさんは全てを溶かすような温かい笑顔でそう言った。
 その言葉に私の心の中の氷も少し溶かされたような気がする。
 あゆさんの言葉には今を精一杯生きるんだという意志が感じられた。
「あっ!」
 あゆさんが突然叫び声をあげた。
 何事だろう?
「うぐぅ…たい焼き空っぽ」
 涙目で茶色の紙袋を逆さにして振ってみせるあゆさん。
 なるほど、たしかに見事なまでの空っぽだ。
 話しながらずっとたい焼きをついばんでいるのは見ていたのだけど……
 まさかあれだけの量を一人で食べてしまうなんて……
「す、凄いですね」
「なんだかまだ足りないよ」
 残すのを心配していた人の台詞ではなかった。









 随分長いことあゆさんと話していたようだ。
 いつのまにか空は赤くなっていた。
「あっ、もうすぐ約束の時間だ」
 ベンチから立ち上がったあゆさんの先にあるのは駅前の時計台。
 針は4時20分を指している。
 なるほど、どうりで空がこんなに赤いわけだ。
「約束?」
「祐一君と映画に行くんだよ」
「そうなんですか」
「そうだ、栞ちゃんもいっしょに行く? チケットはないから、自分でお金を払わないとだめだけど」
「いえ、いいです。デートの邪魔はしたくありませんから」
 というのは方便で、私が出歩いているのを知ったら、祐一さんは怒るに違いない。
 それに私の病気のことがあゆさんに知られてしまう。
 あゆさんにまで余計な心配はかけたくなかった。
 見つからないうちに帰らないと……
「で、デートってボクは……」
 相変わらずわかりやすいあゆさんの反応を横目に、私は立ち上がった。
「それではあゆさん、さよならです」
「う、うん。ばいばい、栞ちゃん」
 病院に向かって歩き始める。
 途中振り返ると、あゆさんが大きく手を振って笑顔を見せてくれた。













 病院に帰った私は自分の病室に向かっていた。
 自殺未遂の夜以来私は病院にいる。
 両親からすると、救急車を呼ぶ騒ぎはもう御免ということだろう。
 私は今日のことを思い出して、笑いをこらえていた。
 もぐらさんへの特攻。
 ハンマーの惨事。
 気がついたら空っぽになってたたい焼き。
 そしてころころ変わるあゆさんの顔。
 自分の部屋に戻ったら、我慢せず大笑いしよう。
 私はそう思いながら長い廊下を歩いていた。


 !!


 その時……
 私の頭に何かが閃く。
 そして私の足は自然と、自分の病室近くの病室に向けられた。
 その病室の前に立って私は息を飲まずにはいられない。
「そうだった、月宮あゆって……」
 その病室にかかっているプレート……
 そこには……
 『月宮あゆ様』…という名前が刻まれていた。
 その病室は病院に長いこといる者は誰でも知っている患者の病室だ。
 美坂記念総合病院の眠り姫『月宮あゆ』。
 7年前の事故で植物人間状態になった少女。
 私は体が凍りつくのを感じた。
 7年前。
 何かの偶然だろうか?
 7年前という言葉と縁が深いあゆさんと、7年前から眠り続ける月宮あゆ。
 でも、もしそんな非現実的なことがあるのだとしたら……
 今日の私の疑問も解決する。
 でもそんなことはあるはずがない。
 私がいるのはドラマでも夢でもない現実なのだから。
 私がしばらくそのプレートに目を奪われていると、突然後ろから声をかけられた。


「どうかしたのかい?」
 その声の主は、少し怖い顔をしたおじさんだった。






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