其ノ捌「ぬばたまに燈る星座」




 八月七日。その夜の風音神社は夏祭り一色に染まっていた。

「彩ちゃん、今日は付き合ってくれてありがとうね」

「お礼などいりませんよ。単純に暇を持て余していただけですから」

 左右に立ち並ぶ様々な屋台を尻目に、二人の少女が言葉を交わしながら通り過ぎてゆく。

 鳴風みなもは鮮やかな朱色。月代彩は深く濃い藍色。対照的な浴衣姿だった。

「ですが、私よりも丘野さんを誘った方がよかったんじゃないですか?」

「まこちゃんは、先にひなたちゃんと約束をしてたみたいなの」

「……そうですか」

 どこか沈んだみなもの声に、彩はただそれだけを返す。

「最近、まこちゃんとひなたちゃん、いつも以上に仲が良くなってるようだから……」

 みなもの苦笑いは、羨望と諦めの入り混じった複雑な翳を落としていた。

 丘野真と丘野ひなた、血の繋がらない兄妹の仲が微妙に変化を佩びてきたのは、確か七月中旬あたり――海水浴の少し前からだったと彩は記憶している。

「ちょうど、神木の木片が効かない眠り病から目覚めた後の頃ですね」

「そういえばその眠り病、発病者が多くなってきてるね。昨日は私のお友達も覚めない眠りに付いちゃったみたいで。今度機会があったら治してあげてくれるかな」

「そうですね、機会があれば」

 もやのかかったような会話は、交わしている当人達ですら気付かない。何か引っ掛かるところがある気はするものの、それが疑念に変わることはなかった。

「あっ、その、彩ちゃん」

「なんですか」

「ええと、あのね……」

 少し顔を赤くして、足をもじもじとさせるみなも。

 意を察した彩は、

「ここで待っていておきましょうか」

「ううん、いいよ。気にせず見て回ってて」

「わかりました」

 淡々と返事する彩に笑顔を残し、朱に染まった着物姿は、離れにある御手洗の方角へ遠ざかっていった。



 賑わう客に混じり、とくに表情を変えることなく屋台を見て回る彩。片手に持つリンゴ飴はついさっき買ったものだが、小学生に間違われた時は思わず眉根を寄せた。

「もしかして、君が彩かい?」

「……違ってはいませんが、初対面で名前を呼び捨てにされるいわれはありません」

 声をかけてきたのは十代後半とおぼしき青年だった。少なくとも彩に面識はない。

「ああ、悪い。僕はリアン、リアン=フレムデ。ディンから君のことを聞いていたから……前に一度見かけた事はあるんだけどね」

「彼女の知り合いですか」

 リアンと名乗った青年は軽く頷いた。彩は気取られないように警戒心を強める。ディンの知り合いなら、この人物も只者ではない可能性が高い。

「私に何か。それに、彼女と一緒ではないんですか」

「そうつっけんどんにしなくても、僕は怪しい者じゃない。ディンならさっきまで一緒だったけど、忘れ物に気付いたとかで取りに帰ったよ」

 彩の素っ気ない態度にも好青年風な爽やかさを崩さないリアン。外見以上に大人びているというか、落ち着いた雰囲気が滲み出ている。

「つまり、ひとつ挨拶でもしておこうと思って声をかけたわけですね」

「そういうことになるかな。君を見かけたのはまったくの偶然で、他意は何もない」

「わかりました。ではこれで貴方の用は済んだという事で――」

 素性の知れない初対面の相手と馴れ合う気は毛頭なかった。

「おや、ぴかりちゃんじゃないか、奇遇だなぁ」

「…………彩です。夏祭りで鉢合わせたところで、奇遇も何もないでしょう」

 久しぶりに名前を呼び間違えられ、彩はこの場を離れるタイミングを失った。

 愛想笑いが板についた小太りの中年男。リアル金魚柄の浴衣が異様にミスマッチした、海猫屋常連客の独身サラリーマンである。

「ん、そっちのカレは、もしかして彩ちゃんのコレかい?」

 にやりと笑って小指を立てる常連客のおやじ。同じ中年でも、鳴風みなもの父親ならまずしない表現だ。

 コレ発言に対し、彩とリアンはさらりと否定して受け流した。何の面白味もない反応にもめげず、おやじは、少女が持つ真っ赤にてかった丸い食べ物に視線を注ぐ。

「む、しかし美味しそうだなぁ」

「欲しいのならあげますよ」

 しれっとリンゴ飴を向ける彩。祭りの雰囲気を味わうために、何となく買っただけだ。

「それじゃあ遠慮なくご馳走になるよ」

 喜色満面で近寄ってくるおやじ。リンゴ飴を眼前にしてもその動きが止まらなかったとき、呆れたような無表情が初めて変化した。

 異変に気付いた時はもはや手遅れで、彩もリアンも対応が間に合わない。

 否。対処できない程の敏捷力だった。

「え……」

 彩の首筋に深々と突き刺さったのは、太く鋭い二本の乱杭歯。

 愕然と見開かれる双眸。地に落ちるリンゴ飴。名前を叫ぶリアンの声がひどく遠い。

 血液が急速に吸い上げられてゆく感覚と微妙な恍惚。ぐらりと視界がぬばたまの星空を仰ぎ、遠ざかる意識の果てで、

「ツァイ・ツ」

 呪文のような青年の言葉が耳に入った気がした。




 喫茶店「one day」

「わかば、今日のメニューは?」

「銀座三丁目にある和菓子屋、たましかや秘伝の「みょうがまんじゅう」ですわ」

「なにか老舗だって聞いた事があるけど、結構いけそうね」

「パソコン大会決勝進出者の名人も、思わずキーボードをまともに叩けなくなったくらいの名物なんですのよ」

「じゃあさっそく食べるわね、もぐもぐ」

「食べると物忘れが激しくなるという、とんでもないお饅頭だったりするのですけど」

「…………ここはどこ、わたしはだれ」




「欲しいのならあげますよ」

 しれっとリンゴ飴を向ける彩。祭りの雰囲気を味わうために、何となく買っただけだ。

「それじゃあ遠慮なくご馳走になるよ」

 喜色満面で近寄ってくるおやじ。その姿がリンゴ飴の間近に差し迫ったとき――

「危ない!」

 リアンの一声に緊張が走り、迫る危機を察知できた彩は、僅かな差で回避する事に成功した。

 驚嘆を顔に出すおやじ。その口にきらめく凶悪な乱杭歯と、溢れ出す妖気。

「そう……でしたか。どうもここ一週間ほど何かおかしいと思っていたら……そうですか、そういうことですか」

 海水浴の二日後辺りから頭に靄がかかったようになり、<社>の調査をしようという気力がなくなった。合わせるように神木の木片が効かない眠り病の発病者が続々と発生したのだが、彩や発病者の家族だけでなく、街の住民誰一人としてそれを深く気にしない状態に陥ってしまっていたのだ。

「貴方の仕業でしたか、馬呑吐(マートンツー)!」

「カカカカカカッ!」

 哄笑と同時に、おやじの姿が白のスーツに身を包んだ恰幅のいい中年男に変貌する。

 頭には白のハット、両目には丸い黒眼鏡。見てくれは不敵な笑みを浮かべたデブの中国人が、懐から呪符を取り出し何事か呟くと、周囲一帯は広域結界に包まれた。

「本来ならこんな結界など張らんのだがネ、カミカゼ発動の糧を減らすと闇が五月蝿いから仕方ないネ」

「カミカゼ……まさか貴方も<社>に関わっているというんですか!」

「利があるから手を貸してやっているだけのことヨ。ちなみに、ワタシはあそこでは三大エージェントの一人と称されているアルネ!」

「とんだ茶番ですね」

 苦虫を噛み潰したような表情で吐き捨て、彩は神刀を具現化させた。



 目を見張ったのは、リアンの剣捌きである。

 馬呑吐が周囲に潜ませていた僵尸の群れを、鋼鉄製の長剣で次々と切り伏せていく。剣は魔術で隠蔽していたようなのだが、それは彩にも感知できなかった。

 そしてリアンの剣技は凄まじいほど卓越しており、実戦経験豊富な彩から見ても百戦錬磨の実力とするに十分で、もし自分が彼と戦っても勝ち目は薄いだろうと実感する程だ。

 リアンが僵尸の群れを相手にしているうちに、彩は馬呑吐と一対一で戦闘を続ける。

「カカカッ! カミカゼ発動の下拵えを終えた詰めの相手が君とは面白い」

「カミカゼとはなんです。それで何をしようとしているんですか!」

「君も察しはついているのではないカネ? カミカゼは神風。<社>はその力を使って世界制服をしようとしているのだヨ」

「そんな馬鹿げた野望にどうして協力を!」

「ワタシとしても世界制覇などに興味はないね。ただ、連中の第一攻撃目標である愉快な合衆国が火の海になるのは、それはソレで面白いのではないかナ」

 捉えきれない速度で打ち出された鉄扇の一撃を受け、彩は口元からしたたる血を舐めた。

 耳障りな笑いを打ち消すように全力で攻撃を繰り出すが、そのことごとくが余裕で弾かれる。神刀の斬撃も思い描いたものを切断する力もまるで通じなかった。

 それも無理からぬこと。馬呑吐は真祖と呼ばれる高位の吸精鬼。しかも西洋のそれと比べて血統の古さも段違いで、一般に吸血鬼の弱点とされている物は全て効果が無い。彼程年を経ると健康の為に日光浴をかます位であり、道士としての力量も桁外れときている。

 さらに驚異的な不死性を誇り、灰にされて海に撒かれても一年と経たずに復活してしまう、まさに真正の化物と呼ぶに相応しい。数百年前、まだ根津村であったこの地に馬呑吐が現れた時は、たまたま訪れていた魔法使いマイトゥナと共闘して辛くも撃退した過去がある。

「<社>の野望が日本民族による世界制服なら、貴方だってカミカゼの力で処分される事になりますよ」

「その心配には及ばナイネ。自らの力に自惚れ過ぎている闇は気付いておらんが、カミカゼをどうにかできる「鍵」は他にもあるのだ」

「鍵……?」

 眉をひそめた少女の隙はあまりにも大きかった。次の瞬間には白い長布が首に巻きつき、ぎりぎりと激しく締め上げられた彩は苦鳴を発する。

 首を折られる寸前、半円を描く一閃が長布をバッサリと断ち切った。ゴホゴホと咳込む彩の前に立った青年剣士は、馬呑吐に向けて長剣を正眼に構えた。



 真祖の吸精鬼と互角に渡り合うリアンだが、実力は完全に伯仲している。互いに決定打を打ち出せないでいるとき、強烈な一撃に耐え切れず、鋼鉄の長剣が根元から砕け散った。

「しまった!」

「カカカカッ、もらったネ!!」

 絶好の好機に水平に瞬発する馬呑吐。しかし、その一直線の飛翔は思いもよらぬ方向から撃ち込まれた魔法の光弾に阻まれてしまう。

「なんで結界が張られてるのかと思ったら……ちゃっちゃと終わらせてよ、リアン!」

 石段を駆け上がってきたエルフ耳の少女は、間違いなくディン=テンプロールであった。

 簡単に言ってくれるなぁと心の中で苦笑しながらも、逆転した絶好の好機を逃さず、リアンは空間から具現化させた、燦然たる光沢を放つ剣を太った体躯の胸に突き刺した。

 心臓を貫かれたところで馬呑吐は死なない筈なのに、その顔に浮かんだのは驚愕の相。

「馬鹿ナ、ワタシの不死性が無視されるだと……」

「この魔劔μグランバスターは剣自体が魔性の力を封じ込める。貴様の命運は尽きた」

「ググッ……決してその劔の力だけではあるまい……お前はいったい……カ……カカカッ! 儂が滅ぶか……そうか……オマエが儂の『死』か」

 乾いた笑みで口端をつり上げた直後、馬呑吐の全身は灰も残らず消滅した。

 二度と復活する事のない、完全なる最期だった。




 祭りの喧騒に埋もれゆくリアンとディン。

 訊いても無駄だろうと判断し、彩は二人の素性を詮索しなかった。

 携帯電話にメール着信が入る。確認すると、名前は鳴風みなも。

 急用ができたから先に帰るという旨のお詫びを兼ねたメッセージだった。

「みなもさんに振られてしまいましたね」

 満天の星空を見上げる彩の眼差しは、どこか儚く寂しげで。

 頭上にきらめく射手座。以前みなもに披露された星座の知識が、少女の思いを濃く馳せた。




 風音市市長邸宅。

「カミカゼ発動は目前……そろそろ頃合か。<社>のエージェントが街全体に術を施してくれていたおかげで、住民の動揺を抑える手間が省けたというものだ。こちらも準備は整ったし、後は彩君にお任せするとしよう」

 水晶製のチェス盤と駒から目を離し、デュランダル市長は満足げに微笑を深めた――



 (了)


 其ノ捌「ぬばたまに燈る星座」ゲスト

 馬呑吐

 出典:宵闇眩燈草紙