其ノ漆「浜辺の歌姫」



 <社>――シュライン本部。薄暗い会議室に、紺のスーツを着た老人の姿があった。

 彼は元老院を束ねる長老。すなわち、<社>の首領にして指導者に他ならない。

「夢贄のひとつが解かれたと申すか……それはまことか」

「はい。しかも、私の力で夢の中へ送り込んだ月島拓也も、返り討ちにあって廃人と化し、もはや完全に再起不能です」

 と、返事したのは、祭壇らしき前に立った、会議室のモニターに映る一人の少女。

「オリジナルが動いたと申すか」

「いいえ、月島を倒したのは彼女ではありません」

「なんと……オリジナル以外に月島を倒すほどの者がいると申すのか。それは誰だ!」

「月島を送り込んだ夢から伝わってきたのは、この街の管理者の気配だけです。しかし、不意を突かれたのなら兎も角、管理者に月島が倒されるとは到底考えられません」

「万全をして敗北したというのであれば単なる偶然とは思えん……敵は相当な力を持った者とみた」

 髪が殆ど抜け落ちた頭。皺だらけの顔。見開いた両眼。しわがれた声。それでおきながら、長老の全身からは怨念とも妄執ともつかぬ空気が漂っていた。

「ならば事を早めねばならんな。ひかり! 我ら<社>の野望を阻まんとする者に死を!」

「御意。カミカゼ始動の準備を任せている彼の者に使いを送り、準備が済み次第戻ってくるよう伝えます」

 祭壇の炎が燈る。ひかりと呼ばれた少女の顔は、月代彩と瓜二つであった――




 一方、風音市市長の邸宅では。

「いやしかし予想外の事も起こるものだ。これは<社>の老人達も野望を早めようとするだろうな」

 呟いて、チェス盤に配置された駒を眺める。

「まあ、「鍵」は手の届く範囲にあるのだ……あとは彩君が<社>本部の場所を知るタイミングか」

 自室の長椅子に腰を深め、デュランダル市長は思考をめぐらせていた。




 海猫屋を訪れた一組の男女は、それぞれ朝倉純一、白河ことりと名乗った。

「以前、アイシアが世話になったって聞いて……」

「迷惑もかけたみたいですから、お礼とお詫びに来ました」

「別に結構ですが、そのためにわざわざ初音島からこの街まで?」

 彩の何気ない問いに、顔を見合わせて照れ笑いする二人。

「アイシアちゃんが風音海岸の浜辺は綺麗だって言ってたから……」

「まあ、ほら、せっかく夏休み中なわけだし」

 やや大きめのスポーツバッグには水着が入っているのだろう。だからどうというわけでもなく、彩が会話を打ち切ろうとしたとき、店のドアが開いた。

「月代さん、いる?」

「なんですか紫光院さん」

「成り行きで勤と風音海岸へ海水浴に行くことになってね、もしよかったら月代さんも一緒にどうかと思って、誘いに来たんだけど……」

 そこで純一とことりの存在に気付き、きょとんとする霞。一同、絶妙のタイミングで互いに視線を交差させ、三者の双眸は店主の少女へ集中したのだった。



 晴天の風音海岸は多くの人で賑わっていた。

 小学生くらいだろうか。髪の長い女の子が、鮮やかなハードパンチで男の子を猛打し、その横ではセミロングの髪の女の子が上品に微笑んでいる、そんな光景も賑わいの一つだ。

「朝倉くん、どうかな……似合うかな」

 少し恥ずかしそうに頬を染める白河ことり。白いビキニの水着が眩しい。

「ああ、バッチリ! 文句なし! 最高だ、ことり!」

 こちらもまた頬を赤くしてコクコク頷く純一。親指を立てて「グッジョブ!」である。

 嬉しそうに微笑むことり。水着は純一が選んだものであった。

「よく似合ってるわよ、白河さん」

「にゅおおおおぅぅぅぅおわ! ベリーグッドやで、ことりちゃん! 思わず目から鱗が飛び出すほど可愛くて綺麗や。苦節十八年、人生長生きするもんやなぁ」

「ありがとう紫光院さん…………と、橘くんも」

 オーバーリアクション全開の勤に苦笑を隠せない。

「あの、紫光院さんもよく似合ってますよ」

「あかんあかん、お世辞でもそれはきっついで。情けは人のためならずいうてな、下手に褒めたら増長するさかい、はっきり思ってることを口にした方がええで」

「勤、あんたね……」

「それよかことりちゃん、こうして出会えたのも何かの縁や。一緒に泳がへんか?」

 男、橘勤ここにあり。スーパーツトム音頭でも歌い踊りそうな勢いである。今ならばスーパーツトムサンバの方が受けがいいかもしれないのだが。

「いい加減にしなさいよ勤。白河さんに迷惑でしょ」

「面白いやつっていうか、調子のいいやつっていうか」

 スペシャルな悪友がいるせいか、純一はさほど気にしていなかった。この程度で動じていたら、とても杉並と付き合ってなどいられない。

「丁重なお誘い申し訳ありませんが……私と朝倉くんは、恋仲さんだから」

 奇声をあげてダウンする勤。見事なことりの一本勝ちである。

「にゅおおおおおおおお、なんちゅう羨ましいヤツや、純一ぃぃぃ!」

「おいおい、お前だって紫光院さんと恋仲なんだろ?」

 軽い返しのつもりだったが、反応は大仰だった。

「ちょ、ちょっと朝倉君。まかり間違っても私と勤がそんな――」

「ちょおまてや、何が悲しゅうてわいがこのブンドキ女と恋仲扱いされなあかんのや! おお恐ろしい、鳥肌が立ってきたでほんま。天狗じゃ、天狗の仕業なんじゃよ〜」

「つ〜と〜むぅ〜」

 膨れ上がる殺気。橘勤が犯した唯一つの過ちは、とてもシンプルな理由。

 紫光院霞を怒らせた――それだけだ。

「お空の星になりなさぁぁーーーーーーーーーい!!」

「わいは胸揉んどらんがなぁーーーーーーーーーーーーーーーッ!」

 謎の言葉と共に、今遥か遠い彼方へ吹き飛ぶ勤。溢れる涙よ、星になれ。

 男の子にハードパンチを浴びせていた女の子が、その光景を見て目を輝かせていた。

「そういえば、月代さんは?」

 ことりがそう呟いた時、浜辺を歩いてくる小柄な人影が三者の目に入った。その姿が鮮明になるにつれ、眉をひそめる視線に変わってゆく。

 月代彩は、涼やかなワンピース姿であった。




 喫茶店「one day」

「わかば、今日のメニューは?」

「水越萌さん特製の鍋料理ですわ、望ちゃん」

「へえー。そういえばあの姉妹って、ある意味私たちのライバルよね」

「でもそれは過去の話。今の萌さんは家事手伝いなんですのよ」

「そうなんだ。それはともかく、美味しそうよね」

「過去に囚われるのはいけませんわ。そんなことをしても何も戻りはしませんもの……なのに未来まで殺す気ですか! 望ちゃんが欲しかったものは本当にこんな鍋ですの?」

「だけど、だけどぉ! って、なに言わせるのよぉぉーーーーーーッ!!」




「だけど本当にドジですよね私。海水浴に行くのに水着を忘れるなんて」

 ビーチパラソルの下で苦笑してのける彩。実際は、単純に水着そのものを持っていなかっただけというのが本当のところだ。

「…………」

 不思議なデジャヴを覚え、ことりは無言で笑顔のフォローを返した。

 そう、シン・アスカ並の不遇さは別次元の彼女に他ならない。

「あっ、あのおじさん凄いね。海の上を立って歩いてる……あれも街の「力」なんだ」

 ことりが指差した先では、盲目の琵琶法師が杖を立てて海上に佇んでいた。

「……そうですね」

 間を置いて返事した彩の表情は、真剣――



 海の家で買ってきた焼きそばパン二つを手に、純一は砂浜を走っていた。

 ことりまで数メートルというところで何かに衝突し、思わず手を開いてしまう。

「ああーっ、大事なヤキソバパンが砂まみれに!!」

 地に落ちた食べ物の無残な様が目に焼きつき、頭を抱える純一。いと哀れ。

「いったい何が」

「…………」

 肩下に僅かにかかる髪をした、小学生ほどの女の子。どうやら衝突したのは彼女らしい。

 やや無表情気味に見上げてくる少女に、さてどうしたものかと対応に困る純一。

 とりあえず声をかけようとした途端、少女は身体を強張らせ、何か言いたげな視線を外して一目散に走り去っていった。

「なんなんだ……」

「朝倉くん、大丈夫」

「すまん、ことり。俺は大丈夫だがヤキソバパンが殉職した」

「ドンマイドンマイ。ところで、今の子は?」

「それが、よく分からん」

「本当はこのままじゃいけないって……わかってるはずなんだ」

「いや、誰だよお前」

 会話に割り込んできたのは、先程の少女と同い年くらいの少年だった。別の女の子にハードパンチを浴びて地に伏していたとは思えぬほどの頑丈さと復活の早さである。

 少年は少女の走り去った先を真摯に見つめる。そして、ことりもまた。



 少女は海岸沿いの岩陰で身を休めていた。ここならひとりになれるから。

 海面に映った無愛想な顔に、いっそう暗い翳が落ちてゆく。

 ♪〜 そよ風のハーモニー 心に溶けてく 想い出を紡ぎ合うように

 突然に歌声が流れた。岩陰の奥だろうか。雲ひとつ無い青空のように、爽やかで心地良い微風のように、透き通るほど澄んだ歌声が。

 天使のような美声に惹かれ、少女は歌声が流れる方に足を進めていった。

 その、胸に染みるメロディに勝るとも劣らない、可憐な容姿の娘がそこにいた。

 ♪〜 空に咲いた光の花が闇を駆けてく 幸せと 歌うように

 やがて歌が終わっても、少女は魅了されたようにその場を動けなかった。

「こんちわっす」

 と、白河ことりは、清楚で明るい微笑みを少女に向けた。



 控えめながらも薄く微笑み、少女は少年のもとへ駆けていく。

 それを満足そうに見送ると、ことりは後ろを振り返って言った。

「覗き見なんてはしたないぞ、朝倉純一」

「今しがた来たばかりから、覗き見てたってわけじゃないけどな。それよりたいしたもんだ。あの子と何を話したんだ?」

「それこそたいしたことじゃないですよ。他人と接するのは不安だよねって、そんな感じのことをちょっとね」

「ああ……」

 ことりが二年前まで持っていた能力。その意味。その理由。

 それを知っているからこそ、理解しているからこそ、純一は何も言わずただ頷いた。

「ところで朝倉くん。誰の目にも入らない岩陰の奥に二人きりで、何もなしですか?」

「いや、ちょ、何もって……おい、ことり」

「恋人さんなのに、こういうシチュエーションでキスのひとつもしないのは寂しいじゃないっすか」

 頬を桜色に染めての微笑。これで拒否できるほど朝倉純一は強くないし、もとよりそのつもりもない。

 純一は彼女の肩に手をかけ、ことりは彼の胸に手を添える。

 寄せては返す波の音。近づく互いの顔。潮騒の香りが届く砂浜で、二人はそっと目を閉じた――





「それは北海で死んだ尾長猿の牝。食べているスプーンは鯨の骨。そして、コップは古くなった馬の足首です」

 そう彩が答えると、杖をついた盲目の琵琶法師は姿を消した。

 妖怪・海座等の質問に答え、彩が風音海岸を海難から救ったことに気付く者は誰もいなかったそうな。



 (了)



 其ノ漆「浜辺の歌姫」ゲスト

 朝倉純一

 白河ことり

 ハードパンチを受けた男の子(佐伯和人)

 無口な女の子(恵美椿)

 髪の長い女の子(水無月瑛)

 上品な女の子(川原瑞音)

 出典:D.C. それは舞い散る桜のように