其ノ陸「神風の鼓動」



 早朝の丘野家。朝食の時間になってもひなたは姿を見せない。

 ドアをノックして、返事がない事を確認すると、真は妹の部屋に入った。

 ぐっすり眠っている。声をかけても身体を揺すっても起きる気配はない。

「眠り病か……」

 慌てず騒がず、買い置きの「神木の木片」を取り出す。摩り下ろして水に溶かせたそれをコップで飲ませると、ほどなくしてひなたは目を覚ました。

「うにゅ……お兄ちゃん?」

「早く起きないと遅刻するぞ」

「うん、わかっ…………た……」

「ひなた!?」

 ベッドから前のめりに倒れる身体。驚いて抱き起こすと、ひなたは再び眠りについていた。

 特効薬である神木の木片が効かない眠り病――彼女はその最初の発病者となった。




 海猫屋でもなければ風音学園でもなく、ましてや喫茶店「one day」でもない。

 では何処であるのか。あろうことか、其処は、風音市市長の邸宅なのであった。

 その客室。長椅子に座っているのはギルバート・デュランダル市長。

 そして、来客用のソファに腰を下ろしているのは、誰あろう月代彩その人である。

「市長に就任した時に、この街ならびに君のことを知ったが、こうして直に会うのは初めてだね、彩君」

 風音市の市長は、就任時、風音神社に参拝する事が慣わしとなっている。その時に、街の秘密と、管理者である月代彩のことが脳裏に記憶されるのだ。

 そして、任期を終えて市長でなくなるとき、その記憶も自動的に抹消される。

 つまり一部の例外を除き、街の真実を知っているのは、彩と、現役の市長だけということになるわけだ。

「私を呼び出していったい何の用ですか」

「君はもうご存知だと思うが、神木の木片が効かない眠り病のことだよ」

 街の管理者ですら原因を特定できないでいるそれは、ひなたを含め、既に数名の発病者を出していた。騒ぎが大きくならないように市長が手を回しているが、このまま発病者が増えれば時間の問題になりかねない。

「残念ですが、私にも原因はわかりません」

「それなのだが、「聖なる風の結社」という存在を君は知っているかね?」

「……聞いた事があります。旧・大日本帝国の、一部の政府高官たちが集って結成された組織があると」

「そう、その名は<社>――シュライン。時の権力者を裏から支え、戦後の日本政事を影で操作してきた結社だ」

「まさか……それが今回の眠り病に関係しているとでも言いたいんですか」

「察しが早いね。まだ憶測の域を出ないが、そのとおりだよ」

「憶測の根拠は何です」

「どうやら最近、<社>の本部がこの街に移ったみたいでね。ちょうど今度の眠り病の発生時期と重なるのだよ」

 彩は絶句した。結社にはお抱えの能力者がいるらしく、管理者の目を欺けるとなると、相当の実力者に違いない。

「そこでだ、すまないが此度の件における調査をお願いしたいわけだ。協力してくれるかな?」

「私が街の異変を放っておくわけがないでしょう」

「ありがとう、感謝するよ。私も表立っては動けないが、<社>の本部が街の何処にあるか、極秘裏に調べるつもりでいる」

「わかりました。これで話は終わりですね」

 退室しようとする少女の背中に、穏やかな声が投げかけられた。

「ところで月代彩君、この街は素晴らしいものだね。風の神の夢に包まれ、想いの形である「力」を住人たちが得る事により、個人間の事件は起きても、決して大きな諍いや争いに展開する事はない」

「それがどうかしましたか」

「いや、なに。もしかすると、我々人間は神や精霊に支配されている方が、人間に支配されるよりも幸福に生きられるのかもしれないと思ってね」

「…………」

 複雑な視線を向ける彩。それに対して、あくまで冷静に、穏やかに口元を微笑ませるデュランダル市長の、その理知的な表情からは何も読み取れなかった。



 海猫屋へ帰る道すがら、真夏の日差しが照り付けるアスファルトの上を歩きながら、彩は思案をめぐらせていた。
 
 聖なる風の結社<社>――シュラインの調査をする事になったわけだが、何をどう調べればいいものか。

「結社本部の場所は市長に任せるとして、私は眠り病のほうから手をつけてみることにしますか。発病者の夢の中に入る事さえできれば何とかなるかもしれませんが……」

 翠星石と蒼星石のことが脳裏に浮かんだが、すぐに無理だと振り払った。眠り病は風の神の力によるもの。いかにローゼンのドールズと人工精霊の力を持ってしても、神の影響を破って夢の扉を開くことは不可能である。

 いくら考えても如何ともし難く、気が付けば海猫屋に到着していた。

「おかえり。どこへ行ってたのか知らないけど、遅かったね」

 いつもの接客スタイルを着こなした鳴風みなも。出かける間、彼女に店番を頼んでいたのだ。

「少し考え事をしていたら時間を食ってしまいました」

「あれこれ かんがえているうちに けものはひかりちゃんのからだを くいちぎった」

「棺が半ダース並に縁起でもないネタですね」

 しっかり返す彩も彩である。

「そうそう、お客さんが来てるよ。彩ちゃんに用があるんだって」

 みなもに言われ、客テーブルに目を移すと、

「やっほー」

「…………占いの出張サービスを頼んだ覚えはありませんが」

 エルフ耳の少女が元気な笑顔を見せていた。




 喫茶店「one day」

「わかば、今日のメニューは?」

「みなもさんの手作り弁当ですわ、望ちゃん」

「鳴風先輩のお弁当。それなら出来が悪いだけで害は無さそうね」

「そよかぜおまけシナリオの黒みなもさん特製なんですのよ」

「ふーん……って、黒?」

「中身を見ただけで瞳孔が開くと評判らしいですわ」

「ぎゃーーーーーー、目、目がぁぁッ!!」




 ――目を開けると、そこは不思議な光景が広がる空間だった。

「ここは……まさか夢の世界?」

「そう、夢の中よ。丘野ひなたのね」

 隣で当たり前のように肯定するディン。彼女に夢の世界へ入る方法があると言われ、半信半疑ながらも信じる事にした彩。丘野家へ連れてきたのは、単純に、発病者の中ではひなたが彩の唯一の知人だったからだ。

 そしてベッドで眠るひなたを前に、ディンの手を握って目を閉じると意識が遠くなり、気がつけば夢の世界というわけである。

「あっ、まだちゃんと自己紹介した事なかったわね。私はディン。ディン=テンプロール。よろしくね、彩」

「月代彩です。そんなことより、どうやって夢の中に……貴方はいったい……」

 それまで気にもとめていなかったが、彩は今初めて警戒心と驚愕を共に抱いた。

「女の子には秘密があって然るべきってことで納得して。あなただって、人には言えない秘密を隠しているんでしょ?」

「…………」

「手を貸す理由に関しては、以前いた場所で、似たような眠り病が発生した事件に巻き込まれたことがあってね。まあそれでちょっと気になったってわけなの」

 明朗な表情。市長とは別の意味で何も読み取れないが、少なくとも嘘をついているようには見えなかった。



 萎れかけた向日葵畑の中心で、ひなたは膝を抱えて座り込んでいた。

 彩とディンがいくら声をかけても応えない。それはさながら抜け殻のようである。

「大変、この娘の心が壊れかかっているのよ。このままじゃ精神が消滅して、完全に生ける屍になっちゃうわ」

「ひなたさん、夢の中で引き篭もりなんて恥ずかしいと思わないんですか」

 真剣な眼差しを据えて声をかけ続ける。何度か肩を揺すると、虚ろな眼窩が微かに動いた。

「お兄ちゃん?」

「違いますが、貴方が目を覚まさないと、真さんが安心できませんよ」

「お兄ちゃん……お兄ちゃん。ごめんね、ひなた、迷惑ばっかりかけて」

 どうやら彼女の目には、彩が丘野真に映っているらしい。

「ひなたがそそっかしくてダメなところばかりだから、お兄ちゃん嫌だよね?」

「成程……何らかの力が自己否定と自己憐憫の殻で覆っているんですね。発病者自身が想いを閉ざしているなら、神木の木片も効果が無い訳です」

「大丈夫だよ……ひなたはもうすぐ消えるから……そうすれば、お兄ちゃんもダメな妹から開放されて自由になれるよね……だから、安心して」

「ちょっと、黙って聞いてたら、あなたねぇ――」

 自己否定の嵐に、ディンが眉をつり上げて怒りをあらわにした瞬間、乾いた音が鳴った。

 彩がひなたの頬を平手打ちしたのである。さすがにディンも驚きを隠せない。

「そうですね、いま目の前にいる貴方はダメットさんです。でも、ダメじゃない人なんてこの世にはいません。何もしないで逃げ出そうなんて、お兄ちゃんは絶対許しません!」

 彼女がここまで声を張り上げるのは稀な事。見る見る、ひなたの瞳に光が蘇ってくる。

「ありがとうお兄ちゃん……ううん、彩ちゃん」

 周囲の萎れかけた向日葵が一斉に咲き誇り、ひなたは清々しい笑みを添えて空に溶けた。

 安堵の表情を交わす彩とディン。これで神木の木片が効くようになるだろう。

「それじゃ、私たちも夢から出ましょうか」

「そうはいかないな」

 突然の声と同時に、少女二人の身体は全く動かなくなった。

 肉体の自由を奪われ愕然とする二対の視線の先に、学生服を着た青年が立っていた。

「僕は月島拓也、<社>の三大エージェントの一人だ。カミカゼ始動の邪魔はさせないよ」



 温和な顔付きとは裏腹に、青年の双眸は狂気の濁りを浮き出させていた。

「動けないだろう。僕の毒電波に抗う事は出来ない、諦めるんだな」

 オゾム電波パルス。外界から浸透して人間の脳に影響を与える一種の毒電波であるそれを、彼は自由意志で操ることができる。大気中のオゾムを自分の脳をフィルターにして放出することで他人の脳を刺激し、欲望を増大させたり、肉体の自由を奪ったり、幻覚症状を引き起こさせたりすることができ、たやすく相手を廃人にすることも可能なのだ。

「私たちをどうするつもりですか」

「性奴隷にするつもりさ。たっぷりと甘美の声をあげさせてやるよ」

「嫌ーっ! どうして男って、そっち方向でしか物を考えられないの? 馬鹿、スケベ、変態、どうせ家庭環境が悪いからそんな歪んだ性格してるんでしょ!」

「よくも言ってくれたな…………壊してやる」

 逆鱗に触れたらしく、精神を破壊してしまえる程の量のオゾムがディンの脳内に流れ込む。

 たまらず悲鳴をあげるディン。そして、毒電波は彼女の精神の奥深くへと――

「あ……そんなことしたら……駄目、やめて!!」

「ははは、さあ壊れてしま――――っ!? ぁぁぁああああああああッ!?!」

 薄ら笑いは一転して頭を抱えての絶叫に変わった。同時に二人の身体も自由になる。

「なんダ、コレはぁァあぁ! お、オマエはいッタい……ぎャあああああああーーッ!!」

 崩れ落ちる月島拓也。彩が注意深く近寄って確認すると、完全に発狂していた。精神を破壊されたのは彼の方だった。彩には何が起きたのか全く分からなかったが、ディンのやるせない表情からして、不可抗力による結果なのは間違いなかった。

 そう、これは彩にも解らぬこと。月島は、ディンの精神の奥底に秘められた、決して触れてはならぬ領域を、力を垣間見てしまった。

 発狂程度で済んだのは、彼の自滅をディンが必死に抑えたからだ。そうでなければ、死という生易しい最期など超えて、月島の「存在」そのものが消滅していただろう。





 眠りから覚めたひなたを、真は強く抱きしめた。その目には涙が溢れている。

 そんな丘野兄妹の邪魔をしないよう、二人の少女は居間に移動していた。

 ソファに腰を下ろし、温かいココアを一口やってくつろぐディン。

 ベランダ側に立った彩は、カーテンの隙間から夜空を眺め、朧な月光を瞳に映す。

「カミカゼ……神風」

 その呟きは、限りなく憂いを佩びた反芻であった。

 (了)


 其ノ陸「神風の鼓動」ゲスト

 月島拓也

 出典:雫