其ノ壱「茶釜の怪」
海猫屋は、風音市にひっそりとたたずむ、飯屋を兼ねた不思議雑貨屋である。
店内の食事テーブルで炒飯を食べている常連客のおやじが、カウンターに向かって声をかけた。
「そういや、ぴかりちゃん。知ってるかい?」
「ひかりです、ひかり。何をですか」
と、店主である少女――月代彩が聞き返した。
おやじは「ここだけの話」とでも言う風に声を細める。他に客の姿は見えない。
「みなもちゃんの学校、大きな茶釜で一騒ぎ起きてるらしいよ」
みなも――姓を鳴風という――とは、風音学園に通う三年の女の子で、彩の親友である。
「茶釜で一騒ぎ?」
「ああ、なんでも――」
オウム返しに訊く彩に返事しようとして、おやじが安物の腕時計に目をやった。
途端に慌てた顔になり、彩は事情を察した。
「お勘定にしますか」
「ああ、悪いね。もう昼休みが終わりだ」
「ありがとうございました」
サラリーマンらしい苦笑を浮かべながら、勘定を済ませて飛び出す哀愁の背中。テーブルの炒飯は、まだ三分の一ほど残っていた。
買出しに出かけた先の商店街で八百屋のおばさんが。
「うちの息子から聞いたんだけどね、茶釜が動くって言うんだよ」
帰り道でばったり出会った、お得意様の紫光院霞。
「そうそう、月代さん。私は見たことないんだけど、いま学園で……」
「茶釜……ね」
店内の壺を拭きながら、彩はぽつりとつぶやく。
太陽が西に沈み、空が蒼茫に暮れた時、その少女はやってきた。
「ごめんね彩ちゃん、こんな夕食時に。電話で話そうかとも思ったんだけど、長くなるといけないから」
鳴風みなもである。
「別に構いませんよ、ちょうど食べ終わったところですし」
「よかった。それでね、話っていうのは……」
「茶釜の事ですか」
「えっ!? どうして知ってるの」
「噂も三度続けば噂ではなくなるといいます」
きょとんとするみなも。二人の近くでは、彩の飼い猫フォルテが晩飯を食べていた。
美味しそうに昼間の客の食べ残し炒飯を貪る、ナー、という鳴き声が響いたあと、みなもは事情を語りだした。
それが起こり出したのは一週間ほど前からだという。
最初はただの見間違いだと思った。だが、目撃者は多数にのぼり、その証言も一様に一致している事から、一挙に真実味を佩びてきた。
すなわち――学園内を大きな茶釜が徘徊しているというのだ。
ある生徒は、校舎の通路の角から茶色に染まった茶釜が、滑るように通り過ぎていくのを見た。
また、ある生徒は、トイレから茶釜が走り出てきたのを目撃して腰を抜かした。
その茶釜が走り去るとき、必ず奇怪な男の笑い声が響くという。
数日後には、学園中その噂でもちきり状態となり、怪異は現在も進行中ときた。
「それで、昨日はとうとう被害者が出ちゃって……」
悲しそうに目を伏せるみなも。
「まこちゃんのクラスメイトの男の子が、力を使って手に持った缶コーヒーを温めていたんだけど、茶釜に遭遇して、驚いたあまり温めすぎちゃって、手の平をやけどしちゃったんだって」
「それは……お気の毒に」
としか言いようが無い。
ちなみに、まこちゃんとは丘野真のことで、みなもの幼馴染みの青年である。
何にしても、実害が出てしまった以上、放っておくわけにもいかなくなったのだろう。
「事情は分かりましたが、私にどうしろと?」
「それなんだけど、あのね……学校としてはあまり騒ぎを大きくしたくないみたいで、その」
「はいはい、もういいです。つまり原因を突き止めてほしいと」
「うん、ごめんね。彩ちゃんはこういうことは得意そうだから」
彩は過去に幾つかの怪事件に関わっており、この街ではちょっとした有名人だった。
「それで、私はタダ働きですか」
「あ、解決したら、たこ焼きご馳走するよ」
「結構です」
「そんな、即答なんてひどいよ。美味しいたこ焼き屋さんなんだから!」
「……逆ギレですか」
「あ……っ」
指摘され、みなもは顔を真っ赤にして「ごめんなさい」と謝った。
その表情がまた可愛いもので、成程、容姿の整った女性とは、それだけで人生の得だと思うに充分過ぎた。それが無意識の成せるところというのがまた良い。
「まあ、わかりました。私もディレッタント(好事家)の性分がありますから」
「ありがとう、彩ちゃん!」
みなもに抱きつかれ、彩は頬が火照るのを感じたのだった。
喫茶店「one day」
「さあ、わかば。今日のメニューは?」
「ジャンボミックスパフェデラックスですわ、望ちゃん」
「わっ、なにこの馬鹿でかいパフェ!!」
「数人がかりでようやく食べきれるほどの、特大パフェですわ。妹を遠ざけていたお姉さんも、思わず笑うこと受けあい。三千五百円でお腹一杯」
「それで、これ誰が食べるの? まさか私たち二人で?」
「…………おほほほほ♪」
「わかばぁぁぁーーーーーーーっ!!!」
翌日の夕刻。風音学園の校舎は、鮮やかな茜色に染まっていた。
制服姿の男女三人が校舎に入っていった。彩とみなも、そして真のクラスメートの篠田。手の平をやけどしたクラスメートとはまた別人である。
「ねえ彩ちゃん。前から気になっていたんだけど、どうして彩ちゃんも制服なのかな」
「これが私の外出着なんです」
「そうじゃなくて……どうして学園の生徒でもない彩ちゃんが、制服を持っているのかなって」
「みなもさん」
「う、うん」
「細かい事を気にしていると、アホ毛が抜けますよ」
「えっ、わわ、そうだね。気にしない事にするね」
びっくりして頭の触覚アホ毛を大事そうに撫でるみなも。
それから思い至ったように、
「茶釜の正体ってなんなのかな」
疑問を口にした。同意語に「魔女の正体って何だと思う?」がある。
「妖怪だったりしてな」
「まさか……篠田くん、そんないくらなんでも」
「いえ、あながち的外れな意見でもありませんよ。実際に「分福茶釜」という妖怪は固有名詞として存在しますし」
「ええーっ!」
と、みなもと篠田がハモって驚いた。
「といっても、悪い妖怪ではありませんけどね」
昔々、あるお寺に守鶴和尚という住職がいた。
彼が千人法要の際、どこからか持ち込んだ直系六十センチにもなる大きな茶釜は、汲んでも汲んでもお湯が尽きる事の無い不思議な茶釜だった。
そのせいでお寺は繁盛したが、ある時、和尚の正体が狸だということが発覚した。
その後、守鶴和尚が姿を消したお寺には、お湯の出ることのなくなった茶釜だけが残されたそうである。
「ちなみに童話では、茶釜の方が狸だったということにされています」
「でも、でも、妖怪なんて……」
おろおろするみなもに、彩はふっと微笑して言った。
「この街では何が起きても不思議ではありません」
まるで某魔界都市のようなフレーズである。
校舎の三階に差し掛かった三人の前に、突如としてそれは現れた。
体は茶釜で出来ている。
血潮はお湯で、心は――
「年の瀬を独り寂しく過ごす人たちが好みそうなナレーションはどうでもいいです」
つまりは、早くも目的の茶釜に遭遇したという事だ。
「本当だったんだ……」
思わず立ちすくむみなも。
と、茶釜がガタガタッと左右に揺れたかと見るや、凄い勢いで移動を開始した。
「動いた!」
「追いますよ」
先陣を切って駆け出す彩。ハッとして、みなもと篠田が後に続く。
大釜の割に意外なほど素早く、距離を開けられないようにするだけで精一杯だった。
疾走の末、みなもの呼吸が荒くなってきた頃、追跡対象は突き当たりが左右に分かれている直線通路に入った。
「いまです、篠田さん!」
「よし、俺に任せろ。やぁってやるぜ!!」
野生化ばりの掛け声で、篠田は両手を派手に突き出した。すると、一瞬にして直線通路の床に、ワックスが薄く延ばされたではないか。
茶釜は角を曲がる事が出来ず、そのまま滑って正面の壁に激突した。
「やった!」
「お見事です」
ガッツポーズをとる篠田に賞賛を送る彩。後ろには、息を切らして追い付いてくるみなもの姿。
ぴたりと静止している茶釜を、用心して取り囲む三人。
「よく見ると、茶釜というよりはヤカンのような……」
いぶかしみながら彩が一歩を踏み出したとき――
がばっと音がして、茶釜から人間の男の顔と、腹と、両手両足が生えたのである。
みなもが驚いて悲鳴を上げた。男はオバケキノコのようなコスプレをしており、茶釜の中にはもう一人誰かいるようだ。
「いたぞ、あそこだ!」
突然、学生服を着た無数の男女が、どこからともなく、マトリックスの集団スミスの要領で、ぞろぞろと駆け寄ってきた。
三人が呆気にとられていると、コスプレ男と茶釜が、バッと窓から身を投げた。笑い声が、学生服の集団を嘲笑うかのように、地上へと尾を引いて流れる。
「くそっ、追うぞ!」
「逃がすか!」
たちまち散らばってゆく学生服の集団。彼らが、三咲町という町にある、とある学校の生徒会の学生だという事は、彩たちの知るところではない。
「まるで、水没した都市で幻の魚の影を追いかけて、虚しく銛を投擲する人々みたいだね」
みなもの表現はおそろしくマニアックだった。
後に残されたのは、夕陽の差し込む廊下に、ぽつりと立ち尽くす三名。
夕焼けを背に、彩は――
「とんだ茶番ですね……」
恐らく、今回の事件において、この台詞ほど的を射たものはなかった。
その後、風音学園に「分福茶釜」が姿を現すことはなかったという。
(了)
其ノ壱「茶釜の怪」ゲスト
分福茶釜(遠野志貴、乾有彦)
出典:歌月十夜