‐次の春まで、続く夢‐

第十九話 『夢の終わり』








美術室に、筆がキャンパスに擦れる音が響く。
西日の射す美術室に、愛璃と俺、山名先生の姿があった。

「しかし、うまいなぁ〜」

「そんなことないですよ」

俺の呼びかけに恥ずかしそうに笑う愛璃。
そんな様子を山名先生は黙って見つめていた。

「でも、モデルを見ずに描けるものなの?」

「一応ラフスケッチはしてあったし、構図も頭の中にしっかり残ってるから」

「……今俺がそのポーズとっても駄目か?」

山名先生が言う。

「うーん、あの頃とだいぶ違うからね、兄さん」

そう言って笑う愛璃。

「フン、どうせ兄さんは老けましたよーだ」

「ハハハ、先生、そんなに怒んないでくださいよ」

部屋に明るい笑いが響いていた。
そうこうしている間にも、愛璃の絵は完成へと近づいていた。




パキッ

「あっ!?」

乾いた音と共に、愛璃の持っていた筆が床に落ちる。

「手……滑らせちゃった」

もろかった筆は、真っ二つに折れてしまった。

「どうしよう……」

困った顔を見せる愛璃。

「……その筆じゃないと駄目なの?」

「え……駄目という事はないけど」

絵筆……?そう言えば……

「ちょっと待ってて」

俺は画材置き場に向かった。そして自分のロッカーを開ける。
確か……前に田中先輩が絵筆をくれたと思ったんだが。

「あ、あったあった」

俺はロッカーから真新しい絵筆を持って、愛璃のところに戻った。

「これ使ったらいいよ」

「え?この筆……?」

「俺のだけど、別にいいよ。俺、そんな絵とか描かないし」

「いいんですか?」

頷いて筆を手渡す。

「ありがとうございます」

「いいっていいって」

筆を受け取った愛璃は、早速それで続きを描き始めた。

「……」

後ろから無言で山名先生がこちらを見つめている。
確かに、ここで俺が筆を渡す必要はなかった。
渡さなければ、愛璃を少しでも長く存在させていられるかもしれない。
でも……、どうせ消えるなら、どれだけのことを彼女にしてあげられるか。
それが大事だと思った。








日もすっかり落ちて、美術室の中はすっかり暗くなっていた。

「電気、点けようか?」

俺は黙々と絵を描き続けている愛璃に尋ねてみた。

「あっ、……もうこんな時間ですか」

「見える?」

「大丈夫です。今までこの時間に描いてましたし」

「そう……」

絵を見る。
……素人目にはもう完成しているようにも見える。

「……これ、もう出来たの?」

「うーん、もうちょっと。せっかく描き上げられるんだから、納得いく物を描きたくて」

「……うまいな」

山名先生が呟く。

「ありがとう、兄さん」

「うん、うまいねコレ」

俺も素直にそう思った。

「安藤さんも……、何か恥ずかしいですね」

苦笑する愛璃。その笑顔がどこか儚い。

「……俺も描いて欲しかったりするな〜、なんて」

「安藤さんを?」

「まぁちょっと思っただけだけど」

「……描きたいですね、安藤さんの絵も」

「そう?じゃあまた今度描いてよ」

「そうですね……」

寂しく微笑む愛璃。
また今度……
その時が来ないことくらい、分かっていた。
でも、あえて話した。
わずかな期待を持って……








愛璃の筆が止まった。

「……うん」

一言呟き、立ち上がった。

「兄さん、……出来ました」

「ん……あぁ」

窓の外を眺めていた山名先生は、愛璃のもとに近寄ってきた。

「こんな風になったんだけど……」

「……」

「……兄さん?」

その絵を見て黙り込む山名先生。

「……いい。凄くいいよ」

「本当!?」

「あぁ。とてもうまく描けてる。一応美術教員の俺の目から見ても十分良作に当たるレベルだ」

「ありがとう……」

満面の笑みを浮かべる愛璃。
と同時に目元にうっすらと涙が浮かんでいた。
山名先生の目元にも……

「……安藤さんも見てくださいよ」

「ん、あぁ……」

絵を覗き込む。
そこには、椅子に腰掛けた若かりし頃の山名先生の姿が、とても美しく描かれていた。

「……うまいね」

「ありがとう……」

「……やっぱり、俺の絵も描いて欲しかったかな」

「……ありがとう、本当に」




その時だった。

ふっ……

「えっ……」

愛璃の身体が……透けている……?

「……でも、絵、描けそうにないですね……」

「あ、愛璃……!?」

山名先生も気付く。

「愛璃……」

「……兄さん、完成できて嬉しかった……」

「愛璃……」

「褒めてくれて、ありがとう……」

「……」

山名先生の目元に溜まっていた涙が、ボロボロと落ちていく。
だんだんと愛璃の身体が薄くなる。

「……安藤さん」

「……」

俺も、涙で視界がにじんでいた。

「……私、絶対に忘れませんから。安藤さんに逢えた事は……」

「……愛璃」

「絵……、安藤さんの絵、描きたかったですね」

「……描けるよ、描ける。いつか……」

「そうですよね……」

さらにいっそう愛璃の姿が薄くなっていく。

「……ちょっとの間だったけど、本当に楽しかったです」

「……」

「……さようなら……」

「……愛璃!!」

思わず叫ぶ。
そして、愛璃を抱きしめようと彼女のそばに駆け寄った。
が……
俺の腕は、愛璃の身体を抱くことなくすり抜けた。

「……愛璃……」

「……安藤さんが私を忘れても……私は安藤さんの事を、忘れません……」

「愛璃っ!!」

「……忘れませんから……」

「愛璃ぃーーー!!!」




カランカラン

愛璃の持っていた筆が床に落ちる。
そこに……愛璃の姿は……

なかった。

「愛璃……愛璃……」

その場にひざまずいて咽び泣く。

「……」

山名先生の目からも、大粒の涙が流れっぱなしだった。

「愛璃……」

悲しい……
でも、この悲しい気持ちすら……
消えてしまうのだろうか……
ならば、泣けるうちに泣いておこう。
俺は……とにかく泣いた。








「はーやーくー、遅れちゃうよー」

「あ〜分かった分かったって」

家の前から友恵が呼ぶ。

「急いでって!今日朝礼でしょ?」

「そうだったっけ?」

「じゃないとこんなに急いでないって〜」

「ヤバイヤバイ」

玄関を飛び出し、自転車にまたがる。

「ささ、早く早く」

「ちょ、ちょっと、そう急かすなって」

友恵の隣に並んで自転車を走らせる。


いつもの日常。




「桜、散っちゃったね」

「そうだな」

前方に見える校庭には、すっかり花の散った桜の木があった。

「でも何か変なんだよなぁ〜」

「どうしたの、やすくん?」

「ん?いやな、なーんかここんところの記憶があいまいなんだよなぁ〜」

「やすくんも?私も何かちょっと最近頭がボーッとしているというか、何かあいまいなんだけどね」

「友恵もか?……何だろうなぁ?」

「春だからじゃない?」

「春だからかぁ〜」

「春だからねぇ〜」

「……ってこんな所でボーってしてる場合じゃないって!遅れる遅れる!!」

「あ、急がなきゃ!!」

二人して自転車の速度を上げる。


変わらない日常。




放課後、いつものように部活に行く。
そこには田中先輩が待っていた。

「アンアン!コレは凄いぞ!!」

「……何ですか?」

「近所にため池があるだろ?あそこにな、何と夜な夜な海賊船が出るそうだ!!」

「はぁ?」

「……なんだそのリアクションは?信じてないだろ?」

「いや、コレばっかりは信じろと言われても……」

「いいよいいよ、俺一人で調べるからさ。で、もし財宝なんか見つけても、びた一文も分けてやらんからな」

「……まぁいいですけど。で、今から調べるんですか?」

「ん?あー、今日はアレだ」

「アレですか」

デートですか。

「と言うわけだ。じゃあな」

そう言って先輩は美術室を出て行った。


何もない日常。




「お、安藤」

準備室から山名先生が出てくる。

「ちょうどいいところにいた」

「何ですか?」

「ちょっと美術の授業の教材が届いたんだけどな、運ぶの手伝ってくれ」

「えぇ〜、肉体労働っすか?」

「いや、準備室にあるやつをこっちに運ぶだけだ」

「ならいいですけど」

俺は先生の後について準備室に入った。

「コレを運べばいいんですね?」

そこには段ボール箱が二つ。

「あぁ。結構重いから気をつけてな」

「はい……って重っ!」

「何だ、非力だなぁ」

俺は一度段ボール箱を床に下ろした。

「いや、本当に重いんですって……、ん?」

「どうした?」

俺の視線が一枚の油絵の所で止まる。

「あの絵……先生の自画像ですか?」

「あれか。そうだな」

そこには、若かりし先生の姿を描いた油絵があった。

「うまいですね」

「これな、先生の妹が描いてくれたやつなんだよな」

「妹さんがですか?」

「あぁ。……まぁ死んじまったけどな」

「あっ、すいません」

「いいよいいよ、褒めてもらってアイツも喜んでるだろうし」

「でも、昨日までありましたっけ?この絵」

「ん?それなんだがなぁ……、今日ここに来たらあったんだよな。俺持って来たっけなぁ〜ってよく分かんないんだな」

「分かんないんですか?」

「あぁ。何かここんとこ記憶があいまいというか何と言うか」

「先生もですか?」

「ん?」

「いや、自分も何かここ数日の記憶があいまいなんですよ。頭がボーっとしていると言うか何と言うか」

「そりゃ奇遇だな」

「友恵もそうらしいんですよ。みんなボーっとしてるんですかねぇ」

「ま、春だからな」

「春だからかぁ〜」

油絵を眺めながらぼやく二人。


本当に、何もない日常を俺は送った。








‐続く‐







多忙につきあとがき休み

次回最終話。その際にいろいろ総括でもしてみます。