その日、いつもは行かない街中に出たのはなんとなくだった。

 図書委員としての肩書きに恥じない毎日欠かさない読書もせずに、街にでたのはほんとになんとなくだった。

 左手につけている腕時計を一瞥。午後の二時。昼食を取るにはちょっと遅い時間。

 でも、小腹がすいているというわけでもなかったので、まずは本屋に寄る事にした。

 図書室に、自分のオススメの本としておかせてもらっている本の続きを見るためだ。

 一番最初に目に入るのは、大きい本屋。色々な県にチェーン展開している本屋だ。これを、彼女は早足で通り過ぎた。

 確かに品揃えもよくて、質もいい。だけれども、なんだか好きになれないのだった。

 ハンバーガーショップを曲がり、人気の少ない道路へ。そこにある、ちょっと小さい本屋が彼女行きつけの場所。

「おじさん。本、入ってますかー?」

 元気よく扉を開けて、元気はつらつとした声。親しい友人もあまり聞いたことのない声だ。

 しばらくして、棚の奥からゆっくりと中年の男性が姿を現した。濃いヒゲに、逞しい体つきで、手には何十冊もの本を抱えている。

「おぉ、入ってるよ。あっちのテーブルの上だ。代金は置いていけばいいからね」

「はいっ!」

 男性の指さした方へ向かい、厚めの本を大事に手に取る。

 題名は、つばさつばさ。彼女が今、一番気に入っている本だった。

 ポケットから急いで財布を取り出して、二千円を棚の上にたたきつけるように置いて、包装もせぬままに本屋を飛び出した。

 理由はとても簡単だった。

 早く『つばさつばさ』の続きを読んでみたい。たったそれだけのこと。

 店長が苦笑いをしていたのを、彼女は気づくことはなかった。











 雲ひとつない大空。照りわたる太陽。

 その中、彼女は公園のベンチに座り、買ったばかりの本を読み始めていた。

 いちページいちページ、ゆっくりと、じっくりと読み進め、傷をつけないように本をめくっていく。

 ちょっとしたところで、くぅ〜と可愛くお腹の虫が自己主張。瞬間顔を赤らめて、周りを見渡す。誰にも聞かれていなかったようで、ほっと胸を撫で下ろす。

 そこで、いい匂いが彼女の鼻腔をくすぐった。

 香ばしい香りに、甘い匂い。

 何かはすぐにわかった。鳴りはじめたお腹の虫ももう止まらない。

 財布の中身と相談し、彼女は屋台の前に立った。

「たいやき二つください」

「あいよ」

 差し出したお金は二百円。小さい小振りのたいやきを食べながら、再び本を読むのに没頭した。

 物語の主人公は、優しい女の子。

 ケガをした小さな小鳥を助けてあげようと色々がんばる話だ。

 時には失敗し、時には成功し、そして、少しずつ成長していく女の子。

 その諦めようとしない姿が、どこか彼女には印象的だった。

 時が経つのも忘れ、半分ほど読み終わった時に、夕焼けが差していた。

 このままでは母親にしかられるっ!

 母親に恐怖しながら、帰り道を走った。もちろん両手は本に添えて。まるで壊れ物を扱うかのように。

 だけど、それがいけなかった。

「あっ!」

 ズデン。

 鈍い打撲音が夕焼けの空に響いた。

「いったぁ……」

 涙目になりながら倒れた体を起き上がらせる。両手を本に添えていたせいで受身すらとることができなかったのだけれど、彼女にとってそれはさして重要じゃなかった。大事なのは体より本だった。

「本は……大丈夫っ」

 本の無事を確認して、パァっと笑顔の花が咲く。

「おいおい。お前は自分より本の心配なのかよ」

「えっ?」

 突然の声。ふと振り向いてみると、そこには壮年の男性が立っていた。

 手を顎に置き、いたずらっぽく笑っている。どこかムッとくるものを彼女は感じた。

「当たり前です。体は直すことはできますが、本は直すことはできないのですよ」

「まぁ、あながち間違っちゃいないけどな。それでもあんたは女の子だろうが」

「女だからってなんなんですか。私は本の方が大事なんです」

「そりゃ構わないんだけどな」

 男性は失笑したかのように小さく表情を動かした。

「それで、あんたがそこまでして守りたかった本ってのはなんなんだ? よかったら教えてくれないか?」

「何でそんなこと聞くんですか?」

「ただの興味さ。教えてくれないか?」

「うーん……ま、いいですね。これです」

 絶対に落とさないで下さいね、そう付け加えながら、つばさつばさを男性に手渡した。

 男性が表紙を見た、その瞬間だった。

 男性の手からつばさつばさが零れ落ちたのは。

「あーーーーー! なにするんですかっ! 大事な本なのに!」

 声を最大限に張り上げて叫ぶ。

 だけど、男性はそれが聞こえていないのか、本を無造作に拾って沈黙を守っているだけだった。

 それはさながら貝のように口を閉じていた。

「話を聞いているのですか! 本を――」

「なぁ、あんた。この本は好きなのか?」

「好きじゃなかったら怒るわけありません! 本に傷つけた責任、どう取ってくれるんですか!」

「そうか……この本が好きか。そうか……」

 後半は聞こえていないのか、意図的に無視しているのか。それはわからないが、男性はじっと本を眺めていた。

 どれくらい時が経っただろうか、どれくらい叫ぶ続けたのか、それは彼女にはわからなかったけれども、不意に男性が懐に手を入れ、一冊の本を取り出した。

 題名はつばさつばさ。彼女が持っている本の題名と全く同じものであった。

「責任って言ったな。なら、これをあんたにやる」

 そう言って、傷ついた本が彼女の手に乱暴に渡された。

「こんな、傷ついてたら――」

「その本はな、あんたが持っているものと違って、完全版だ。出版されたものとは違う話が入ってるものだぞ」

「えっ!?」

「何を隠そう、それは俺が書いた本だからな。そこまで好きならあんたにやろう。責任としては不満か?」

「い、いえ、そんな滅相もありません!」

「なんだ、急に態度変えやがって。ま、いいけどな」

「は、はぃ」

 顔がどうしようもなく熱かった。

 自分の尊敬している本の作者が目の前の男性だった。

 名乗り出てくれなかったとは言え、その間にどれだけの暴言を吐いたのかわからなかった。

 たまらなく恥ずかしかった。

「ま、もう必要の無くなった本なんだ。あんたみたいな好きなやつがもらってくれれば嬉しいよ」

 男性は幼子をあやすような笑顔を浮かべ、続けた。

「じゃな。大事にしてくれよ。なんたって世界にひとつの本だからな」

「あっ!」

 彼女がそうお礼を言おうとした時、すでに男性は背を向けて歩き始めていた。

 差す夕焼けの光が、どこかそれを寂しく見せていた。これからどこか違うところにいってしまうような、そんな感じだった。

 だからかもしれないが、彼女は声を大きく張り上げた。

「ありがとうございまーーーーすっ!」

 返事はなかった。











「へぇ、奇跡ってあるんだぁ」

 翌日。図書館で新聞の整理をしていた彼女は、ひとつの記事を見つけた。

 それは、七年間眠っていた少女が奇跡的に目を覚ました、という内容のものだった。

 日付は今日だから、起こったのは昨日のこと。

 くすっ、と笑みを漏らした。

「なんだか、あの人に貰った本みたい。偶然なのかな?」

 特別貸し出し図書に指定した『つばさつばさ』をちらっと見る。

 誰も借りていってくれないけれど、毎日置いているものだ。

 誰も読んでくれなくてもいい。ただ、そこにおいているだけでよかった。

「……さ〜ん」

 どこからか声が聞こえてきた。

 自分を呼ぶ声。長い間聞いてなかった声。

 何ヶ月もいなかった友人の声。

 ようやく学校に帰ってこられた親友の声。

 彼女は大声で叫んでいた。

「美坂さんっ。恥ずかしいから大声で呼ばないで下さいっ!」











 これは少女の夢の物語。



 ホントの少女は眠りの中。



 目を覚まさせたのは、奇跡でもなんでもないたったひとつのこと。



 優しい少女が助けた優しい小鳥。



 少女は知らない。助けてくれたのが優しい小鳥だってことは。



 小鳥は教えない。助けたのは自分なんだってことは。



 ただ、小鳥は小さいつばさを広げる。



 大空へ羽ばたくために、いてはいけない世界から消えるために。



 つばさつばさ――