定期試験が終わったばかりで油断していました。
 ちょっと浮かれて夜までウインドウショッピングなんてやっていたのが運の尽き。
 しまった、と思った時にはもう手遅れだったのです。
 体が全く言うことを聞いてくれません。
 そして、助けを呼ぼうにも呼べる人がいないという絶望的な状況。
 天野美汐の人生はここで終わってしまうのでしょうか?
 十二月五日、日曜日。
 十七歳の誕生日を目前に、私は人生最大の危機を迎えていました。






やみえな









 その日ほど友達がいないことを悔やんだ日はありません。
 この危機を乗り越えたら友達は積極的に作っておこう、本気でそう思いました。
 つまり、どういう状況なのかというと……酷い風邪をひいたのです。
 元来、割と丈夫だったので風邪というものを見くびっていました。
 土曜日、十二月に入って木枯らしが吹きすさぶ街中を、試験明けの開放感から夜まで散策していたのが良くなかったのでしょう。
 若干寝不足で疲労感が溜まっていた体にあの寒さは毒だったのです。
 帰って来てから『少々熱っぽい』と思いつつも、早めに寝れば治るだろうと考えたのが大きな間違い。
 風邪というのは、酷いものになると人を死に至らすというのは本当でした。
 そして、今年の風邪は非常にタチが悪かったのです。
 現在体温四十度近く。
 四十度なんて生まれて初めての経験です。
 しかし、未知の領域を経験出来てラッキーとかそんな馬鹿は言ってられません。
 初めて知りました。
 人間、体温が40度あたりになると体が全く言うことを聞いてくれないのです。
 まるで何かの怪しい薬品でも打たれたかのように、手足の感覚がほとんどありません。
「では行くぞう」
 とか、胡散臭そうな髭のおじさんが回転ベッドに私を寝かせて、不気味な笑みを浮かべながらスイッチを押す瞬間が頭に浮かびました。
 拷問用の電流のスイッチ……でしょうか?
 意識も朦朧として何を考えているのか自分でもよく分からなくなってきます。
 手っ取り早く言うと、あと一押しで死ねる感覚かもしれません。
 別の言い方をすると、解剖前の蛙です。
 ……洒落になってません、私。


 ああ、なんだか本格的に手足の感覚がなくなってきました。
 お母さんは、お父さんの海外出張について行っているので不在。
 一人暮らしをさせるとなると、私より心配と言われるお父さんのだらしなさもどうかと思いますが、それは置いておきます。
 とにかく問題なのは、お母さんに助けを求めようにもすぐには戻って来れないというわけです。
 おまけに今日は日曜日で病院にも行けません。
 風邪で病院に行くと追い返されるとも聞くので、少なくとも自分の足で行ったら駄目でしょう。
 いえ、それ以前に車もバイクもない私には病院が遠すぎます。
 たとえそれらがあったとしても、外の積雪とこの体調では運転のしようがありません。
 多分、おとなしく寝ていれば治るという気はします。
 しかし、吐き気も酷いのです。
 このままここで、ベッドで戻したら片付けることが出来ずに大変なことになります。
 更に心配なのがトイレに脱水症状。
 本格的に動けなくなったら、トイレにも行けませんし、水分も取れません。
 朦朧とする意識の中で何とか私はそれだけのことを考えました。
 そして出た結論は……もう恥も外聞も気にしている場合ではない、ということです。
 最後の力を振り絞り、私はベッドから抜け出しました。
 半ば這いずるような形で階段を降り、電話機を手に取ります。
 自分から電話をかけるなんて一年近くの久しぶりでしょうか。
 かける相手が同じというのも何だか皮肉に感じられます。

「はい、水瀬です」
 受話器の先から聞こえてきたのは男の人の声。
 よく知っている、おそらく私の唯一の友人と言える人でしょう。
「……相沢さんですか?」
「その声、天野か? 何かあったのか?」
「助けてください……死にそうです……」
「は!?」
「その、風邪で……うっ」

 そこまで言ったところで受話器を落としてしまいました。
 無理に起き上がったのか祟ったのか、強烈な吐き気を感じてしまったのです。
 慌ててトイレに引きずり込む、いえ、這いずり込む……ああ、もう何だかよく分かりません。
 とにかく息も絶え絶えにトイレに駆け込んだということです。
 トイレから出た私は、辛うじて水を口にし、それから家の鍵を開けて部屋に戻りました。
 不用心この上ないのは分かっていますが、状況が状況です。
 相沢さんが早く来て、扉に鍵がかかっていないことに気付いてくれるのを祈るしかありません。
 まあ、相沢さんの性格なら、鍵を開けていなくても二階に直接上ってくるか、窓を叩き壊すかしそうですが。
 でも、こんな状況だと、そんな相沢さんの性格が有り難いです。
 無駄に親切な人はおせっかいだと思って嫌っていました。
 でも、それは間違いでした。
 私みたいに、そう思っている人ほど、こういう時になってそんな人が身近にいてくれることに感謝するのだと思います。
 そんなことを考えながら、私はベッドに倒れこみました。
 動き回っていた時に我慢していた分が噴き出したのか、体の感覚と意識が根こそぎ持っていかれそうな気分の悪さに襲われます。
 明日は私の誕生日。
 なのに、何でこんな目に遭っているんでしょう?






 ひんやりとしたものを頭に感じて目を覚ましました。
「お、起きたか」
「相沢さん……すみません、日曜日にいきなり呼び出したりして」
 目を開けると、相沢さんが私のベッドの傍で、私の椅子に腰掛けてこちらを見ていました。
 先に声をかけたのは相沢さん。
 ということは……ずっと私の寝顔を見ていたということでしょうか?
 そう思うと恥ずかしくて、ただでさえ熱い顔が余計に熱くなります。
「おい、顔が赤いぞ。風邪か? って風邪なんだったな」
「恥ずかしいんです。寝顔をずっと見られていたかと思うと」
 私がそう言うと、相沢さんは顔をしかめました。
 何か気に障る事を言ってしまったのでしょうか?
「あのな、そういうことはもっと健康な時に言ってくれ。ずっとうなされてて、こっちは気が気でなかった」
「す、すみません」
「ま、気にするな。天野には世話になってるしな」
 お世話になっているのは多分私のほうです。
 あの日から、こんな私をいつも気にかけてくださって。
 自分から人との交流を拒んだ私にそんな資格なんてないのに。
 相沢さんを気にかけているようで、私はいつも相沢さんに甘えていました。
 明るく振舞う相沢さんと話をすることで、最近は周りの雰囲気も変わってきたと思います。
 いえ、私が変われたのだと思います。
 でも、やっぱり私はそんなに変わっていませんでした。
 クラスで出来たのは知人だけ。
 結局、こんなことになっても助けに呼べるのは相沢さんしか思いつかなかったのです。
「に、しても」
「はい?」
「俺で良かったのか? こういう場合、どうせ呼ぶなら同性の方が気が楽だろ?」
「そうしたいのは山々ですが……生憎、友達がいません」
「……まだ友達いなかったのか?」
 何故そんなに不思議な顔をするのでしょう?
 以前、私に友達がいないということはお話したはずです。
 あ、今確か『まだ』と言いましたか。
 頭が熱でぼーっとしてどうにもしゃんとしませんが、それはそれで酷いです。
「少しは友達もできた、と最近の天野を見てたら思ったんだけどな」
「……今後は作る努力をします。こんなのは二度と御免ですから」
「そんなに俺に看病されるのが嫌かいっ」
 相沢さん、そういういじけたフリしてこちらを見ないで下さい。
 思わず『嫌じゃないです!』と力いっぱい否定したくなってしまったじゃないですか。
「嫌じゃないです。ただ、恥ずかしいんです。やっぱりその……」
「ん? その、なんだ?」
 気づいてください、それくらい。
 相沢さんのそういうところが苦手なんです。
 でも、控え目な私はこう言ってしまうのです。
「……一応、私も女の子ですから」
「そうか、天野も女の子か。なるほど」
 一応、とつけてしまう自分が悪いのは分かってます。
 そこで毅然と言い張れば相沢さんだってこんな反応は返さないでしょう。
 やっぱり、心のどこかで、相沢さんが考えている女の子という人種と私は違う、と私自身が認識してしまっているのだと思います。
 それを改めないことには、言い張ったところで説得力がありません。
 こんなぼーっとする頭の中でも、それだけがはっきり分かってしまう自分が悲しいです。
 殺風景なこの部屋にクレーンゲームで取ってきたぬいぐるみやアクセサリを並べて、相沢さんに会う時には少しめかしこんで、同世代の女の子ときゃぴきゃぴ騒いで……。
 無理です。無理すぎます。
 そうすれば説得力あると分かっていても、実行したら三日で頭がおかしくなります。
 せめてどこか遠くに引っ越して、周りの視線くらいは先入観無しに見てもらえないとそんなの無理です。

「おーい、天野。意識はあるか?」
「あ……はい。辛うじてあります」

 顔の前で手を振られて慌てて我に返る。
 まずいです。人前で妄想に浸るなんて、意識がかなり定かではありません。
 走馬灯が見えないだけ死の危機はまだ訪れていないみたいですが。
「相沢さん、すみませんが……頭の上の濡れタオル……」
「交換か?」
「いえ、取って下さい。悲しいことに……体が痺れて動けません」
「ちょっと待て。風邪って言ったら頭に濡れタオルだろ?」
「それもそうなのですが、布団を被って発汗で熱を冷ます方が効果的なこともあるんです」
「おお、おばあちゃんの……」
 軽口を叩きかけた相沢さんの口が止まりました。
 私が睨みつけたからでしょう。
「相沢さん……元気になったらいくらでも聞いて差し上げますから、今日くらい病人として大事に扱ってもらえませんか」
「う、悪い。以後気をつける」
 実際私はおばあちゃんっ子でした。
 だから、自分に少々年寄りっぽいところがあるのは分かってます。
 多分、この頭の中にはおばあちゃんの知恵袋が本一冊分くらい入っているでしょう。
 ただ、やっぱりそれをからかいの種にされるのは本意ではないわけで……。
 なんて、相沢さんには一生分かってもらえそうにありません。
 悲しいことに、相沢さんという人を知れば知るほどそう思ってしまいます。
「ところで、俺は何をすればいい?」
「そうですね……」
 今のところ一応口だけはちゃんと動いているので救急車を呼んでもらう必要はないと思います。
 尿意もないのでトイレに担いでいってもらう必要もありません。
 とはいえ、『ずっと傍にいて下さい』では申し訳ないし、私が恥ずかしいです。
 あ……そうだ、こういう時はあれがありました。
「水分を摂っておきたいので……リンゴと白湯をお願い出来ますか」
「了解だ司令官。台所を借りてもいいな?」
「はい。あと……リンゴは冷蔵庫に入ってます。それと台所は一階の……」
「あー、そっちは分かってる。天野の部屋を探してて一階はあらかた調べたからな」
「そう……ですか」
「んじゃ、ちょっくら行ってくる。天野は楽にしててくれ」
「はい……」
 相沢さんにそう言われた私は肩の力を抜いて、目を閉じました。
 少々喋りすぎたせいで、気分が悪くなってきたのです。
 ですが、さっきより気は楽になりました。
 相沢さんが来てくれたおかげで、一人でいる不安が消え去ったからでしょう。
 やっぱり、私は甘えています。
 相沢さんは男の人でやっぱり力強いです。
 そして私より一つ年上でもあります。
 だから頼りがいがあるように感じるのでしょうか?
 こんな時、本当はぎゅっと抱きしめて欲しいんです。
 だけど、それは出来ません。
 私と相沢さんは……あくまで友達なのですから。







 本当は相沢さんに看病なんてしてもらいたくありませんでした。
 何かろくでもないオチが待っていそうな気がして、本能的な警鐘が鳴っていたんです。
 それは悲しいことに予想通りでした。
 台所から帰ってきた相沢さんのお盆に乗っていたものを見て眩暈がします。
 白湯はさすがにそのまま持って来てくれました。
 変に気を利かして、どくだみ茶とかを持ってきてくれる性格ではないのは重々承知しています。
 というか、そんな相沢さんは見たくありません。
 でも、相沢さん。
 リンゴをそのまま持ってくるのはあんまりだと思うんです。
「相沢さん……そのリンゴ……」
「おう、安心しろ。ちゃんと洗ったからガップリいってくれ。うん、うまい」
 全然理解してくれてません。
 しかも、食べていいなんて一言も言ってないのに、勝手に持ってきた二つ目のリンゴを私の目の前で堂々と丸かじりしています。
「あの、相沢さん……皮は剥いて頂けると助かるのですが」
「何? 皮ごと食べた方が風邪にはいいんだぞ」
「そんなの初耳です」
「この前雑誌で読んだところによるとだな、リンゴの皮にはテトロドトキシンというビタミンがたっぷり含まれていて……」
「テトロドトキシンはフグ毒です」
 私を殺す気ですか。
 もっともらしい化学成分名を言ってるだけでデタラメです。
「何!? ああ、ちょっとした記憶違いだ。クエン酸、そう、クエン酸がたっぷり含まれているんだ」
「……どう効果があるんですか」
「食えんって言うくらいだし、ダイエット効果があると思うぞ」
 話が逸れてます相沢さん。
 もうデタラメなのは丸分かりですし。
 このままではいつまで経ってもリンゴが食べられないので、私の方から折れることにしました。
 今日はとてもじゃないですが、相沢さんのテンションについていけません。
「もう、何でもいいですから食べさせてください」
「へ? 食べさせる?」
「熱のせいか……手足が痺れてうまく動かないんです」
「そうか、よし」
 相沢さんはそう言って、リンゴを私の口にそのまま近づけました。
 どうあっても私に丸かじりさせる気です。
 逆らっても仕方がないので、みっともないのに耐えながら私は口を開けました。
 口にリンゴが触れて、鼻にリンゴのうっすらと甘い香りが漂ってきます。
 歯を当てて、リスがかじるようにその果肉を……。
「あれ?」
 相沢さんが不思議な顔をして私を見つめています。
 私は必死です。
 でも、それでも無理でした。
 普段から大口を開けることに慣れていない上に、今日は歯に力が入りません。
 そんな私には、リンゴを皮ごとかじるという芸当はできっこなかったのです。
 私の歯はすかっとリンゴの皮を撫でるだけで、かちんと哀愁漂う小さな音を立てます。
 何度やっても、リンゴに傷一つつけることも出来ませんでした。
 これでは泣くしかありません。
「無理です……相沢さん……」
「うっ、悪い。本当は、リンゴなんてろくに剥いた事なかったんだ」
 ばつが悪そうに、リンゴを持って相沢さんは立ち上がりました。
 いくら品性に少々かけていると感じられる相沢さんでも、リンゴの丸かじりを女の子に強いるのは本意ではなかったようです。
 いえ、なんとなくそういう裏がありそうに思ってましたが。
「仕方ないな。病人に無理させるわけにもいかないし、ここは俺が無理をすることにしよう」
「えっ、いいです。相沢さんに……怪我をしてもらいたくありません」
「そういうわけにも行かないだろ。こっちは看病しに来てるんだからな」
 相変わらずよく分からない人です。
 無理を頼んでいるのは最初から私の方なのに。
 相沢さんは良くも悪くも、自分だけの行動規範で動く人だと思います。
「大丈夫だ。こう見えても図工で4を取ったことがある」
 リンゴの皮剥きは図工じゃないと思います。
 しかも追及したら、小学一年生の時のこととか言われそうで怖いです。
 とてもじゃないですが、詳しく訊けません。
「あ、そうだ」
 部屋を出ようとしたところで、相沢さんが振り返ります。
 何でしょうか?
「名雪、知ってるだろ?」
「名雪さんですか? はい、存じてますが」
 知っているといっても、実際に会ったのは今まで数度くらいしかありません。
 相沢さんのいとこで、居候先の家主さんの娘さんだと聞いています。
「名雪はちょっと出てるんだが、あいつの親友の香里ってやつなら頼めば来てくれると思うんだ。女同士の方が気が楽だろ、良かったら……」
「すみません……それは……」
「やっぱり、ダメか?」
 私は申し訳なく思いながらも、小さく首を動かしました。
 確かに同性の人が来てくれるのはありがたいです。
 でも、見ず知らずの人と会うのはそれ以上に不安で仕方がないのです。
「悪い奴じゃないんだけどな」
「ごめんなさい、名雪さんなら……多分、なんとか……」
「気にするなって。天野が人と会うのが苦手ってのは知ってるしな。余計なこと訊いて悪かった」
 相沢さんはそう言って部屋を出て行きました。
 包丁で怪我をしないことを祈るばかりです。






 だから、どうして相沢さんはこうなんでしょうか?
 今日、相沢さんの行動を見て余計に理解が出来なくなりました。
 リンゴを丸ごと持ってきたと思ったら、今度はウサギ形にかわいらしくカットして持ってきたのです。
 私の心境を露知らず相沢さんは愉快そうに笑ってそれを差し出しました。
「どうだ、天野。案外やってみれば出来るものだろ」
「ええ……まあ……」
 褒めたい気持ちは山々なのですが、世の中にはTPOというものがあります。
 手足もろくに動かない病人に、取りにくい皮のついたウサギ形リンゴを出すのはどうかと思うのです。
 そこまでして相沢さんは私に、フグ毒や謎の化学物質入りと称したリンゴの皮を食させたいのでしょうか?
 いえ、少なくとも農薬はたっぷりかかっていて体に毒だという気がします。
 頑張ってくれた相沢さんには申し訳ないですが、ここははっきり言うべきだと思いました。
 と思ったら、相沢さんはお盆を持って立ち上がります。
「じゃ、今度は皮を剥いてくる」
「……はい?」
「皮なんかついてたら食べにくいだろ? よく考えたらフォークも忘れてたしな」
 分かってて、わざとそんなものを持ってきたのでしょうか?
 人が苦しんでいるという時に……。
 そう思うと少々ムッとするものがあります。
「相沢さん……何故わざわざそういう剥き方をされたんですか?」
 自分でもわずかに怒気を孕んでいるのが分かります。
 当然です。気分もあまり芳しくない状況ですから。
 ですが、相沢さんはけろりとした顔でこう言ってのけたのです。
「いや、天野の驚く顔を見てみたくてな。意外に手先が器用で驚いただろ?」
「ええ……驚きました……」
 手先の器用さよりは、ウサギ形に剥くというセンスがあったことにですが。
「ま、それにずっと寝てばっかりで暇だろうから、少しは楽しんでもらおうと思っただけだ。じゃ、すぐ戻る」
 何故か敬礼をして相沢さんは部屋を出て行きました。
 何となく、楽しみたいのは相沢さん本人ではないかという気がしないでもないです。
 でも、それが相沢さんなりの思いやりだということが分かって、少し胸が熱くなった気もします。
 出来れば、そういう気遣いはもう少し病状の軽い時にして欲しかったですが。
 はっきり言って、今の私には楽しんでられるほどの余裕はありません。
 そういう余裕がないのが残念で仕方ありません。
 少しでも余裕があれば、相沢さんと楽しみを共有してあげることが出来るのに。
 その時の私は、相沢さんに一人芝居をさせてばっかりで大変申し訳ない気分でいっぱいでした。


 帰ってきた相沢さんは、リンゴの半分を四等分したものを、更に細かく切り分けて持って来てくれました。
 フォークにそれを刺して、私の口へと運んでくれます。
 驚いたことに、それらは丁度私の一口に合わせて切られていたのです。
 首を動かすのも億劫な私にとって、それはとても食べやすいものでした。
「しかし、天野って……」
 私の口に十個目のリンゴの一切れを運んだ時に、何かに感心したように相沢さんがそう呟きました。
 嫌な予感がします。
 こういう前ふりが来ると、決まって私が歳相応でないとかそんな感じの言葉が次に来るのです。
「随分かわいい食べ方するんだな」
 ほら、この通りです。
 これだから相沢さんは……って、はい?
「あの……相沢さん、今何を?」
 恐る恐る、相沢さんの顔を見上げます。
 今、確かに聞き間違いじゃなければ、私のことを『かわいい』と。
「ん? かわいい食べ方するんだなって言っただけだが」
「そ、そんなこと」
 事も無げに言ってのける相沢さんとは裏腹に、私は一気に頬が熱くなるのを感じます。
 多分、耳まで真っ赤でしょう。
「何でそんなに赤くなってるんだ……天野だって一つや二つかわいいところがあっても不思議じゃないだろ」
 褒められてません。むしろあんまりな物言いではないかとも思います。
 でも胸の動悸がどきどき止まらないのは何故でしょうか?
 自分で自分をかわいいなんて思ったことはありませんし、人にかわいいと言われたことも記憶の彼方です。
 ひょっとしたら、幼稚園の時に親類に言ってもらえたのが最後だったかもしれません。
 でも今は、身内でもない、ただ親しいだけの人に言われたのです。
 それも、客観的にかっこいいという範疇に入れて差し支えない男性からです。
 熱と火照りで頭がぼーっとしてきます。
「おーい天野、大丈夫か?」
 声が出せません。今声を出したら絶対にまともな発音にならないのは分かってます。
 そんな声を出してしまったら、もう相沢さんの顔を正視することは出来ないでしょう。
 だから私はただ無言で頷きました。
 動かすのも苦しいはずの首を必死に動かして。
「苦しいなら無理に喋らなくていいぞ。とりあえず、残りのリンゴ食べるよな?」
 返事の代わりに頷いて答えます。
 それを見て、相沢さんは次の一切れをフォークに刺し、口に運んでくれました。
 小さく口を開けて、リンゴを受け取り、しゃりしゃりとゆっくり咀嚼します。
 熱で味覚もおかしくなっているのでしょう。
 あまりおいしいとは思えません。
 でも、口の中に広がるかすかな甘さと、その香りは間違いなくリンゴです。
「そう、それそれ」
 次のリンゴを用意しながら相沢さんが私の口元を見つめています。
 何のことかよく分からないまま、私は次の一切れをいただくために口を開けました。
「せっかく小さく切ってるのに、天野は入るか入らないか、ぎりぎりくらいにしか口開けないんだよな」
 そして、口元を眺めながら更に続けます。
「しかも、すぐに飲み込める小さいものすら大事に噛んで飲み込むあたりがかわいらしいっていうか」
 懇切丁寧に解説しないで下さい。
 ううっ、見つめられています。
 相沢さんが本当に楽しそうに、私の口元を見つめています。
 知りませんでした。
 人に、異性に何かを食べているところをこういう目で観察されるのはこんなに恥ずかしいものなのでしょうか?
 それに、相沢さんがこんなに優しいところのある人だなんて初めて知りました。
 なんだか、このままずっと甘えていたい気持ちにも襲われます。
 もう頭が熱くなって何も考えられません。
 あとは相沢さんが残りのリンゴを全て私の口に運ぶまで、私は相沢さんのなすがままになっていました。
 覚えていることと言えば、食べ終わった後に「寝ます」と一言呟いて布団を被ったことでしょうか?
 恋はいつだって唐突だ。
 本当にその通りです。
 どんなに凍った心でも、恋心というものは一瞬で芽生えるものなのかもしれません。






 夢を見ていたかもしれません。
 何だかとっても暖かくて、気持ちのいい夢。
 でも、目を覚ましたらどんな夢だったのか思い出せません。
 それだけ長い間眠っていたのだと思います。
 気がつくと、私は明かりのついた部屋で眠っていました。
 窓の外は真っ暗です。
 確か、先ほど相沢さんにリンゴを食べさせてもらったのが三時ごろでした。
 外の様子から考えると今は十時くらいでしょうか?
 寝起きではっきりしない頭で、時計に目をやります。
 時計は意外にも、六時を差したばかりでした。
 そういえば、もう十二月なんですよね。
 六時ともなれば十分に真っ暗な時間です。
 体の方は、毛布にくるまって汗をかいたおかげでしょうか?
 気分の悪さや、火照りは大分引いたように思えます。
 手足の感覚も幾分か戻りました。
 でも、まだ峠を越えたというところのようです。
 やはりまだ体が動きません。
 それ以前に……何だか体中にまとわりつく感覚が。
 ああ、服が汗を吸ってぐしょ濡れなんですね。
 どうりで、どうにも妙な心地悪さがするわけです。
 着替えないと今度は冷やしすぎて、せっかく汗をかいた意味がなくなります。
 そういえば、部屋に電気がついてますけど、相沢さんはどうしたのでしょうか?
 部屋を見回します。
 すると、すぐそこにいました。
 勉強机の前に椅子を置き、足を組みながら真面目な顔をして私の日記を……。
 日記!?
 って、私は日記なんて書いてませんでした。
 幸いにして詩集も置いてません。
 見られると恥ずかしい物では他にアルバムが考えられますが、それも勉強机には置いてません。
 落ち着いて考えれば、見られて困るものはありませんでした。
 相沢さんが見ているのは、多分一年生の時の国語の教科書だと思います。
 特に書き込みをしたり、絵を描いた覚えはありません。
 でも、それでもそういうものを男性に見られると恥ずかしい気がするのは私だけでしょうか?
 無駄に気にしすぎ……かもしれませんね、私の場合は。


 布擦れの音に気付いたのか、視線に気付いたのか、相沢さんが教科書から顔を上げました。
「お。起きたのか。どうだ、気分は?」
「少しましになった気がします。すみません、机の体温計を貸していただけませんか?」
「ん、これか?」
「はい」
 ぎぃ、と椅子から立ち上がらず、椅子のローラーでこちらまで移動してくる相沢さん。
 なんとなく、その無精ぶりが相沢さんらしく思えて笑みが漏れてしまいました。
「ここ、置いとくぞ」
「はい」
 枕の横に体温計を置いて、相沢さんは片手に持っていた教科書に目を戻します。
 意外にさまになっている、と言ったら怒られるでしょうか?
 と、それより体温計でしたね。
 布団の中から腕を動かし、体温計に……手が伸びません。
 気分とは裏腹に、まだ手足の自由は戻っていないようです。
 多分、今は這うことすら厳しいかもしれません。
 それでも、なんとか少しずつ手を動かして体温計を脇へと運びました。
 相沢さんは、というと教科書に夢中です。
 こういう時こそ手を貸して欲しかったのに。
 一体何がそんなに面白いのでしょうか?
「相沢さん」
「ちょっと待ってくれ。あと一ページ」
 一ページと言われたら仕方ありません。待ちましょう。
 どうせ私も体温計の計測が済むまで待っていないといけません。
 そして、それから三十秒ほど時間を置いたところで相沢さんは教科書を閉じて後ろの机にそれを押しやりました。
「悪い悪い。で、体温は出たか?」
「まだです。そんなに私の教科書が面白かったんですか?」
 記憶にある限りでは、そんなに面白い物だったとは思えない。
 ましてや相沢さんが熱中するようなものとも。
「ん、いや、面白かったっていうか、あれ俺が一年の時に使ってたのとは別の教科書だったんだ」
「あ、そういえば……転校されたんですよね」
「そう。んで、暇だったし興味が湧いたから何となく見てたんだが、やっぱり物語って途中で読むの切り上げると後々気分悪いだろ?」
 それを聞いて私は少し笑ってしまいました。
 相沢さんは、そんなこと気にせず本を閉じるような人だとばかり思ってましたから。
 案外、失礼な印象を持っているのは相沢さんだけではないのかもしれません。
「はい、それはなんとなく分かります」
「まあ、あれだ。試験に関係ないと思えば意外に楽しめるものだった。というか、この国の国語は試験があるのが実にけしからん」
 実にけしからん、って何語ですか。
 風邪も少し快方に向かったおかげか、今は相沢さんの冗談も素直に楽しめる余裕があります。
 いえ、今日ほど相沢さんを楽しい人だと思ったことはなかったかもしれません。
 健康は失って初めてその大切さが分かる、そんな言葉があります。
 でも逆に、病気をして初めて分かるということもある気がするのです。
 私は今日、それを身に染みて実感していました。
 と、そこで体温計が小さな電子音を発します。
「相沢さん」
「なんだ?」
「少し横を向いていて下さい」
「何故?」
 どうして、分かってくれないんでしょう?
 リンゴで気が利く人だと思ったら、こういうところで全然デリカシーというものがありません。
 口にしないと分かってもらえそうにないので、仕方なく私は説明します。
「体温計を取り出すところを見られたくないです」
「ああ、なるほど」
 ぽんと手を打って横を向く相沢さん。
 分かってくれるならもっと早く察してください。
 なんて愚痴を言うのは余計なので、相沢さんが横を向いているうちに右手を使って、体温計を外に投げ出します。
 差し込んだときに右手を胸の上に置いたままにしてあったので、取り出すのは入れる時ほど苦労はしませんでした。
 でも、持ち上げて顔の方まで持ってくほどの力がありません。
「相沢さん、もういいですよ。あと、そこに出した体温計の表示……見ていただけませんか?」
「へ? 自分で見れないのか?」
「はい……随分楽にはなったのですが、まだ体がうまく動かせないんです」
「仕方ないな。どれどれ……」
 枕元に落とした体温計を相沢さんが拾い上げます。
 そして、そこに表示された数値を見て、顔をしかめました。
 何も言わず差し出される体温計。
 私もその数値を見て溜息をつかざるを得ませんでした。
 もっとも、私の溜息には少し安堵が含まれていましたが。
「三十八度九分ですか……」
「どういう状況だ?」
「朝よりはずっと良くなっています」
「そっか、ならいいか」
 相沢さんが安心した表情で椅子に深く腰掛けます。
 しかし、どうりでまだ体がうまく動かないわけです。
 三十八度九分は未だに私にとって未体験の領域でした。
「また寝るか?」
「はい、そうします。でもその前に……」
 寝ないとどうしようもない。
 でも、寝ようにもあまりに気持ちが悪いのです。
 さっき寝ていた間にぐっしょりと汗に濡れた服のままでは。
 着替えないと、逆に体を冷やして風邪を悪化させる危険もあります。
 しかし、着替えようにも、こう体が動かないのではどうしようもありません。
 こんな時、お母さんがいてくれればどんなに良かったでしょう。
 でも、今は相沢さんしか頼れる人がいません。
 こんなことを頼むのはとても気が引けます。思いっきり恥ずかしいです。
 でも、恥を取らなければ命に関わりかねません。
 本当に、この時ほど友達がいないことを後悔したことはありませんでした。
 相沢さんが悪いわけではありません。
 相沢さんが男性で、私が女性であるということ、それが問題だったのです。
 どうして世の中にはそんな面倒な違いがあるのでしょうか?
 看病されるのが私ではなく相沢さんならば、事はさほど問題ではないというのが余計に理不尽です。
 それでも頼むしかありませんでした。
「相沢さん……申し訳ありませんが、ご自分に目隠ししてもらえますか」
「……は?」
 着替えさせて下さい、と。


「なあ、本当にやるのか?」
「お願いします……」
「声が死にそうだぞ」
 自分でも分かってます。
 既に思いっきり恥ずかしい状態ですから。
 相沢さんはというと、目の周りにガムテームを貼っていかにも所在なさげに左右を見ています。
 相沢さんはまさに何も見えない闇の中にいることでしょう。
 ただ立っているだけでも足元が危なっかしく見えます。
 私自身、何もそこまでしなくてもいいと思いました。
 タオルで目隠しして下の隙間から少しくらい見えても、ここまで無理を頼んでる身ですから仕方ないと思っていたのです。
 それに、せめてわずかばかりでも真下は見えるほうが相沢さんも安心でしょう。
 真下しか見えない視界では私の体が見えるとも思えません。
 でも、相沢さんは『絶対に見えないようにする』と言ってガムテームの使用を選んだのです。
 あまりにも頑とした態度だったのでつい『そんなに私の裸は見たくないんですか』なんてとんでもないことを私は口走ってしまいました。
 もしそうだったら、それはそれで悲しすぎます。
 見られたくない、でも見たくないと言われるのは嫌。私はなんて我儘なんでしょう。
 相沢さんは、そんな私に困り顔で『だって天野もこの方が安心できるだろう』と答えたのです。
 状況が状況で、相沢さんを男性と意識しすぎているせいでしょうか?
 ガムテープを目の周りに巻いた面妖な姿だというのに、私のどこかときめくものを感じていました。
 やはり、何といっても、私のことを考えてくれたがゆえに、敢えてその方法を取ったというのが心に触れたのでしょう。
 よくよく考えると、相沢さんは会った時から優しい人なのかもしれません。
 私がそれを感じるほど心に余裕がなかったというだけで。
 何も出来ない病人という状況では、それが過敏に感じ取れるのです。
「やっぱり名雪呼んでこようか?」
「それは……」
 相沢さんがそこまでして下さっているのに、それを頼むのには罪悪感があります。
 それに、名雪さんと言うと、これから裸になる私の頭に思い浮かぶのはあの整ったプロポーション。
 駄目です。あんな人に私の発育不良で貧相な体を見られるのかと思うと、それはそれで悲しいものがあります。
 きっと着替えさせながらお世辞を言ってくれたりするのでしょうが、そんな会話を想像するだけで情けないです。
 これでも体育の着替えや水泳で、自分が他の人と比べてどの程度なのか十分知っていますから。
「もし……名雪さんがいたとして、こっちに来られるのはどれくらいですか?」
「そうだな、まさか夜道を走っては来れないだろうから……三十分くらいか」
 三十分、名雪さんをお断りするには十分すぎる時間でした。
 会話に不慣れで、見られるのも恥ずかしくて、来るまでに時間がかかる。
 この汗だらけの服で三十分も待つのは気持ち悪いです。
 おまけに、先ほどから布団を捲っているので上半身は汗が冷たくなり始めています。
「すみません。早く着替えたいので……相沢さんにお願いします」
「分かった。本当にいいんだな?」
「はい。呪うなら、風邪を引いた自分の不注意を呪います」
 相沢さんは何も見えないのです。
 だから、私が必要以上に恥ずかしがることはないのです。
 心を決めました。
 私は相沢さんに着替えさせてもらうんです。
 一度決意を決めたら、私は一本通るほうだと思います。
 顔の火照りもそれであっという間に引いていきました。
「で、まずはどうすればいい?」
「クローゼットの収納タンスに替えのパジャマと下着が入っています。それを枕元に運んで下さい」
「了解。と、言いたいところだが、目が見えん。クローゼットはどっちだ?」
 両手を前に突き出してふらふら歩く相沢さんの足取りはとても頼りありません。
 視界を完全に覆ってしまっているのですから無理もないことです。
「そのまま真っ直ぐです」
「おう……って、何か頭に!?」
「天井の明かり調節のヒモです」
 相沢さんは身長が私よりはるかに高いため、私の頭には当たらないヒモが頭頂部をかすったようです。
 笑ってはいけないと思いますが、その時の相沢さんの慌てぶりはとても滑稽でした。
 腰を引いて身構えて、首を左右に振ってはヒモを相手に牽制していたんです。
「そ、そうか。ビビらせやがって。おし、クローゼットはこれだな」
「はい。取っ手はもう少し下です」
「開いたぞ。次は?」
「一歩左の収納ダンス、一段目と二段目です……ああ、そこは三段目です。はい、そこが二段目で」
「んー、なんか二段目は色々入っているみたいで、どれを取ればいいのか分からないんだが」
「どれでも一枚でいいです……下着、ですから」
 下着の山に手を突っ込んで首をかしげている相沢さんの姿はとても正視できるものではありませんでした。
 ごめんなさい相沢さん。
 私がやらせたこととはいえ、一瞬軽蔑の念が浮かんでしまいました。
 下着を持たれることにはそんなに抵抗はありませんでした。
 肝心の相沢さんには、手に持っているものの形状や色など全く分からないのですから。
 何より、早くあの状態から解放して差し上げるべきでしょう。
 頼んだ以上、相沢さんの苦痛を早く終わらせることが私の責任です。
「えーっと、一段目からは何を取ればいいんだ?」
「畳んで上下を重ねています。ですから、二枚取っていただければ」
「これと、これでいいのか? うーむ、何を持ってるのかさっぱり分からん」
「はい、合ってます。そのまま後ろを向いてこっちに」
「分かった」
 さっき通った道筋を戻ると思って安心感があったのでしょうか?
 相沢さんはずんずんと戸惑うことなく私の前に戻ってきます。
 そう、まったく戸惑うことなく。
「相沢さんっ!」
「へっ? おわっ!?」
 止めるのが遅すぎました。
 相沢さんは戻りすぎて、私のベッドに足をつっかけてしまったのです。
 しっかり服と下着を握り締めていてくれたのは不幸中の幸いでしょうか?
 とにかく、相沢さんはなす術もなく私の上に覆い被さってきたのです。
「あ、相沢さん……」
「なんだ? どうなっているんだ?」
 布団を挟んで完全密着状態の私たち。
 しかし、状況が分かっているのは私だけ。
 相沢さんは目隠しのせいで、何がどうなっているのかさっぱり分かっていない様子です。
 ですから、私が一人恥ずかしがっても悲しいまでに無意味でした。
 それ以前に……重いです。
「どいて下さい。潰れます……」
「へっ? ってことは、これは天野のベッド? うわっ、悪い」
 慌ててベッドから起き上がる相沢さん。
 ようやく自分が寝ている私にダイブしたという状況に気付いたのか、顔は真っ赤です。
 というか、相沢さんもそういう恥じらいがあるんですね。


 どうにか替えの服を枕元に持ってきてもらえましたが、次はさらに難問です。
 私が相沢さんの目となって、服を脱がしてもらわなければなりません。
 なんとか袖を通すくらいの動作は出来ると思いますが、ボタンを外すような細かいことは出来そうにありません。
 いえ、手を上げるのが厳しいと言うべきでしょうか?
「や、やるぞ」
「お、お願いします」
 お互いに緊張が走りました。
 相沢さんは、女性を脱がすという想像をすることで。
 私は、男性に脱がしてもらうという現実を今から体験することに。
「もう少し右……はい、その下が一番上のボタンです」
「……ここか?」
「そ、そこはっ!」
 多分、私視点での右と左で言ったのがまずかったのでしょう。
 クローゼットの時と違い、今私と相沢さんは向かい合っています。
 つまり、私と相沢さんでは右と左が逆なのです。
 そして、相沢さんの手は首元のボタンを大きく外して……私の胸を掴んでいました。
「なんだ? どうした?」
「そ、そこ、胸です」
「え? ムネ? 胸!?」
 手をどけるも、相沢さんは何か釈然としない様子で手を眺めています。
 少々手を曲げたり伸ばしたりしては、しきりに首をかしげたのです。
 何が言いたいのかはそれだけでよく分かりました。
 触った感覚が全くなかったのでしょう。
 普通、こういう場合、女性は男性を怒るものです。
 しかし、相沢さんは目隠しという不可抗力の上、胸を触ったという自覚すらありません。
 いえ、自覚させることができませんでした。
 何か、それがとても情けなくなった私は……思わず謝ってしまいました。。
「……ごめんなさい」
「何で天野が謝るんだ」
 相沢さんは私の方に顔を向けて、ますます不思議な顔をするばかりです。
 胸を触られたのに、男性に謝った女性は私くらいではないでしょうか?
 ……恥ずかしすぎます。そして、情けなさすぎます。


「き、気を取り直してもう一度行きましょう」
「お、おう」
 なんとも言えない雰囲気で私たちは止まっていました。
 そんなことをしてる場合ではありません。
 今はとにかく着替えを済ませないと、汗に濡れたパジャマは既に相当冷えてきてます。
 しかし、冷静さをさっきのトラブルで失った私たちの息は完全にずれていました。

「天野、何か柔らかいものが……」
「それは私のほっぺです」
「何か固い変なモノが!?」
「目覚し時計です」

 胸を避けようとするあまりか、相沢さんの手は中々狙い通りのところに当たりません。
 むしろ、うまくいかないのに焦ってか、ますます乱雑になっていきます。
「相沢さん、少し落ち着いてください。落ち着くまで休んで下さって構いませんから」
「す、すまん」
 どかっと、椅子に深く腰掛け深呼吸する相沢さん。
 どうやらかなり混乱していたようです。
 ボタンを一つも外せないままなのはもどかしいですが、少し待つしかありません。
 何しろ私は体が全く動かないのですから。と……あれ?
 熱が下がる時間帯なのでしょうか? それとも、汗の気化熱で冷えたおかげでしょうか?
 手が、足が、少しはまともに動かせるようになっています。
 これならなんとか……。


 震える両手を上着にかけます。
 二三度失敗しましたが、それでも一つ目のボタンを外すことが出来ました。
 自分の手足じゃない感覚は抜けませんが、それでも一度出来れば二つ目以降は容易でした。
 一つ一つ、ゆっくりと外していきます。
 いけます。この調子でいけば、この気持ち悪い汗ぐっしょりのパジャマからも解放されます。
 私は夢中になって、いえ、必死になって体を動かしました。
 とにかく必死です。何しろ、ぽんこつな機械を無理矢理動かして作業するようなものですから。
 そして、上着、ズボン、下着……全てを取り除いた時、私は今日一番の心地よさに包まれていました。
 あらかじめベッドの枠にかけておいたタオルで体を拭くと、その感触はさらに広がります。
 僅かに体の表面に残った汗も、まだ若い私の肌はすぐに弾いてくれました。
 肌に直接当たるお布団と、体を撫でていく暖房の温かい風がたまりません。
 と、いけません。いくら気持ちよくてもこれは一時のものです。
 丸裸で目を閉じたりなんかしたら、風邪をこじらせるのは明白。
 それ以前に、相沢さんが傍にいるというのにこんな格好をするなんて、私は何を考えているのでしょうか?
 もともと相沢さんに脱がしてもらう予定でしたし、今更ではありますが。
 それでも、何も丸裸になることはありませんでした。
 上着を脱いだ後、上着をすぐに着替えた方が下は隠せたわけで……。
 まあ、やっぱり今更ですね。
 それに、ここまで体が動いたのはある意味幸運が重なっただけです。
 現に、また手足が痺れてきました。
 動き回って体温が上がってしまったのでしょう。
 今度こそ相沢さんに服を着せてもらうよりなさそうです。
 でも、せめて下着くらいは体の動く内に……それに脱いだ下着の片付けも頼めません。
 脱いだ下着は枕の下に押し込んでおきました。
 それにしても、こんなことを考える自分はどうかと思いますが……。
 そこの椅子で疲れたように天を仰ぎ見ている相沢さん。
 その相沢さんが今の私を見たらどう思うのでしょうか?
 正確には、私の体を見たら……ですね。
 決して私に見られたり見せたりする趣味はありません。
 ありえない話なので、余計にその瞬間を想像して楽しくなってしまうだけです。
 まさか相沢さんも、目の前で私がこんな格好をしてるだなんて思いもしていないでしょう。


 しかし、私は相沢さんという人物を侮っていました。
 いえ、よくよく考えていればそれくらい想像できたはずなのです。
 私の空想はとんでもない形で現実のものとなってしまいました。
 『自分でやってみる』と言うべきだったのです。
 相沢さんは私が丸裸であることをまったく知りませんでした。
 それどころか、私が何か必死に呻き声を漏らしているのを、熱で苦しんでいると勘違いしていたのかもしれません。
 突如立ち上がった相沢さんは、痺れをきらしたかのように叫びました。
「だあっ、もうまどろっこしい。名雪か香里呼んでくる」
 勢いよく剥がされる目を覆ったガムテープ。
 痛くないんですか? なんて訊く余裕はありません。
 相沢さんの目の前で、私は生まれたままの姿を惜しげもなく披露してしまったのでした。

「……あ」
「……あ」

 言葉にならないとはこのことでしょう。
 お互い、あまりにありえない事態が目の前で展開されて完全に思考停止してしまいました。
 見られたらいけない所を隠そうにも手がすぐに動きません。
 いえ、既に穴が開くほど見られてしまってます。
 ただ理解できるのは、ひたすらに恥ずかしいという感情だけ。
 それはどんどん高まっていき、止まることなく加速していきます。
 相沢さんはというと、ただ呆然として私を見つめるばかり。
 向こうを見て欲しい、なんて私のかすかな希望も伝わるわけありません。
 それどころか、相沢さんは次の瞬間とんでもないことを口にしたのでした。
 一言「きれいだ」と。
 それがトドメでした。
 頭の奥まで何かが達した感じがして……私は意識を失ってしまいました。


 多分、元から高かった熱が恥ずかしさで高まり、頭をオーバーヒートに追い込んだんだと思います。
 でも、それが余計に最悪でした。
 何しろ、私は男性の前で丸裸のまま意識を失ってしまったのです。






 目を覚ました時、つまり意識を取り戻した時、私は何かずしりと重いものを感じました。
 見ると、体の上にこれでもかというほどの布団や毛布がかけられています。
 おそらくは相沢さんが意識を失った私にかけたものでしょう。
 当然、その中で眠る私のところはサウナか何かのように熱く、体は先にも増してぐっしょりと濡れています。
 いえ、それ以前に私の体は裸のままでした。
 しかし、それだけ汗をかいたおかげでしょうか?
 今度は気分も完全に落ち着き、手足の感覚もほぼいつも通りに戻っていました。
 あくまで予想に過ぎませんが、体温も三十七度ほどにまで下がっているように思えます。
 つまり、ようやくいつもの風邪の状態に戻ったという感じです。
 相沢さんは……いました。
 机の前で椅子に腰掛けてぐったりしています。
 おそらく、これだけの布団をお父さんとお母さんの寝室からかき集めてきたせいでしょう。
 しかし、それはこの際問題ではありません。
 怒鳴りつける力も体には戻っていました。
 すぐさま相沢さんを呼びつけます。
「相沢さん!」
「うおっ!?」
 素っ頓狂な顔をして目を開ける相沢さん。
 私が激しく睨んでいるのを見て、その顔は一気に怯えに変わりました。
 どうやらお互いの立場というのがよく分かっているようです。
「見ましたね」
「う、いや、その……脱いでるなんて知らなかったから」
「私は目隠しを取っていいなんて、一言も言ってません」
「あれは、そうだ事故だったんだ。お互い忘れよう、な?」
「忘れられません。相沢さん、あれから私に何をしました?」
 あれからとは、もちろん私が意識を失ってからです。
 それを聞いた瞬間、相沢さんの眉がぴくりと動くのを私は見逃しませんでした。
「す、すぐに布団をかけて、冷やしたらいけないからと他の部屋からも……」
「嘘です」
 証拠も何もありません。
 でも、私は直感的にそれが嘘だと分かってしまいました。
 おそらくそれが女の勘というものなのでしょう。
 嘘を一瞬で看破された相沢さんは。汗をだらだらと流しながら小声で呟きます。
「……見とれていたかもしれない……その……ものすごくきれいだったし……十分ほど」
 ぷつん、でした。
 頭の中で何かが切れる音がしたと思います。


 そこから先のことはよく覚えていません。
 布団をはねのけ、私は丸裸のまま台所に向かいました。
 そこに置いてあった果物ナイフを手に部屋に取って返すと、恐れをなして椅子から転げ落ちた相沢さんを見下ろしながらこう言ったそうです。
「責任を取ってください!」
「責任って……」
「私は裸を穴が空くほど見られたんですよ? もうお嫁にいけません。責任を取ってください」
 本当に自分がそんなことを言ったのか、今でも信じられません。
 でも、その時の私はあまりの恥ずかしさに気が動転していたのでしょう。
 相沢さんは必死に冷静を装って私を諌めようとしたそうです。
 しかし、興奮した私にそれは逆効果でした。
 なんと私は、煮え切らない態度の祐一さんを押し倒し、喉下にナイフを突き付けながらこう叫んだというのです。
「相沢さんを殺して私も死にます! 死んでください!」
「分かった! 責任取る! 取るから殺すな!」
 その言葉を聞いた私は包丁を落とし、丸裸のまま相沢さんに抱きついて泣きじゃくり続けたそうです。
 それはもう凄い錯乱ぶりで、実際にそれを目にした相沢さんですら私だったとは信じられないと感想を漏らしていました。
 でも、それは私で間違いなかったと思います。
 断片的に残っている記憶で、確かに私はそういう行動を取っていました。
 特に、殺し文句は鮮明に覚えています。
 相沢さんからそれを聞いた時、ああ私が言った言葉だったんだ、とはっきり認識させられました。
 でも、もう一つ覚えていることもあるんです。
 相沢さんはその後、泣き続ける私の頭を、泣き止むまでずっと優しく撫でていてくれたのです。
 私が泣きやんだのは、ちょうど日が変わってからでした。
 十二月六日、私の誕生日。
 私の十七歳の誕生日のプレゼントは……そんな相沢さんの優しさでした。
 そして、それは今もずっと心に残る宝物となっています。












「へぇー、それで二人は結婚したんだ」
「ええ。おかしいでしょう?」
 私の膝に頬杖をついていた小さな女の子は、顔を起こして首を振ります。
 まだ伸ばし途中の小さなツインテールが、それに合わせて揺れてかわいらしいです。
「ううん、そんなことないよ。とってもいいお話だった」
「そう?」
「うん。やっぱり恋はいつだって唐突なんだよ」
 女の子は目をキラキラさせて相槌を打ちます。
 この子は本当にその言葉が好きですね。
 でも、ここはちゃんと親として言っておくべきです。
「でも、恋と結婚は別物だと私は思います」
「どういうこと?」
「祐一さんに責任を取らせて、結婚の約束をさせたけれども、やっぱり私は不安でした」
「……よく分からない。好きなら結婚して何が悪いの?」
 困り顔の女の子に、私はくすりと笑って言いました。
「祐一さんに恋心を持っていても、一緒に生活していけるのかは別問題でしょう?」
「あー、祐一っていい加減だもんね。美汐が心配になるのも仕方ないかも。自分は働かないくせにあたしを働かせたりしたし」
 女の子は私に同情しながらぶーっ、と不満を漏らします。
 その仕草が面白いので、やっぱり頬が緩みます。
 目に入れても痛くない子とは、まさにこのことでしょう。
「でも、その度に思い出したんです。あの日、祐一さんが私にくれた誕生日プレゼントのことを」
「撫でてくれたこと?」
「ええ。この人なら信じていかもしれないと思える優しさ、ですね」
「ふーん……結局、好きと結婚と何が違うの?」
 首をかしげる女の子。
 一緒になって首をかしげてみます。
 よく考えてみると、私もあまり違いが分かりませんでした。
「あんまり違いはないかもしれません」
「あぅーっ、何それー」
 むきーっ、と両手を振り上げる女の子の頭を苦笑いしながら撫でてあげます。
 あの時も、こういう関係になってもこの子はこれで落ち着くんですよね。
「まあ、これだけは覚えておいて下さい。結婚は何があっても信じられる人じゃないと駄目ってことは」
「あぅ……」
「まあ、まだ難しいかもしれませんね。じっくり考えていけばいいです」
「うん。時間はたっぷりあるもんね」
「それはそうと真琴……」
 ぽかっ、と膝の上に乗った女の子の頭を軽く叩きます。
 何度言っても癖が直らないのは仕方がないのかもしれませんが、それでも言っておかないといけません。
「私と祐一さんのこと、そういう呼び方しちゃダメっていつも言ってるでしょう?」
「はぁい、美汐……じゃなくて、お母さん」
 舌をぺろっと出して生返事。
 三日もすれば忘れてしまうでしょう。
 そう分かっていても、かわいい我が子には甘くなってしまいます。
 甘えん坊な真琴は、膝から今度は少し膨らんだ私のお腹に耳を当てて、実に気持ちよさそうに目を閉じました。
 何か聞こえるのでしょうか?
「ねえ、この子、お母さんが待ってる子かな?」
「さあ、どうでしょうね」
 真琴がこういう形で帰ってきたならあの子も。
 そういう思いはかすかにあります。
 でも、そうでなくても失望したりはしません。
 真琴は、神様がほんのちょっと与えてくれた奇跡だと思っていますから。
「覚えているといいね、お母さんのこと」
「ええ、真琴も仲良くしてあげてくださいね」
「うんっ」


 真琴と二人、目を閉じて静かに手を合わせました。
 幸せに、なれますように。










【後書き】
種村ジャンヌとか好きなので……。
真琴がアクセスなら、次の子はフィン……なんて想像してました。
祐一は、自分の娘なのに一緒にお風呂とか入れてもらえないんでしょうね(笑)