「少女探偵・美坂栞の事件簿」
「・・・・・・ふう」
白く細い両手を胸に添え、小さく吐息を漏らす恋人の少女の姿を瞳に映した祐一は、心から感銘を覚えた。
「凄いぞ、栞。秋子さんのあのジャムをつけたトーストを、残さず食べきってしまうなんて」
祐一の言葉がすべてを物語っていた。
そう。デートの帰りに久しぶりに寄った名雪の家―――そこで出された秋子さん特製<謎のジャム>を塗ったトーストを、栞は―――ひと口食べて硬直したものの――なんと完食してしまったのである。これを香里に話せば「流石、あたしの妹」と、誉め称えてくれるだろうか――祐一がそんなことを考えているときだった。
「栞ちゃんっ」
がばっ!
「きゃっ」
「え?わ、あっ!」
ずてごろろーっ。
突如、何者かに背後から飛びつかれた栞はバランスを崩し、攻撃? を仕掛けた相手もろとも転がった。
「あいたたた」
頭を振って上体を起こす、ぶかぶかの帽子を被った襲撃者を、祐一は呆れた眼差しで見下ろした。
「あゆ。せめて飛びつく相手は選べって、前にも言っただろ」
「うぐぅ・・・・・・ごめん」
申し訳なさそうに謝って、月宮あゆは、うずくまる栞の背中に声をかけた。
「大丈夫? 栞ちゃん」
栞は蒼白だった――――――
<謎のジャム>つきトーストを平らげた直後に、あゆの飛びつきタックルを喰らったのだから堪らない。
ただでさえ雪のように白い肌が、いまや白亜のように映り、まさに白夜のごとき――
「暢気にナレーションしてる場合じゃないよっ、祐一君!」
あゆの声に祐一は我に返った。
「大丈夫か、栞」
栞が今にも意識喪失するのではと、不安になった祐一の耳に、かすれた声が届いた。
「洗面所・・・・・・借りて、いいですか?」
「ああ、いいぞ」
頷いて、祐一は自分がつい最近まで居候していた従妹の家を顎で指した。少しふらふらしながら、栞は本日二度目の水瀬家の門を抜けたのだった。
「凄い・・・・・・」
事情を聞いたあゆが、ぽかんと口を開けたまま感心したように呟いた。はっきり言って祐一も同感だった。
以前、祐一とあゆは、何も知らずに秋子さんの手作りジャムを食べたのだが、一口で硬直――理由をつけて二人して逃げ出してしまったことは、今でも記憶に鮮やかに残っている。
「すごいよ栞ちゃん。ボク、本当にびっくりしたよ」
戻ってきた栞を出迎えたのは、あゆの惜しみない称賛だった。
「えっと―――ありがとうございます、あゆさん」
何だかよく分からないが、栞はとりあえず礼を言う。その顔色は、さっきまでに比べてずいぶんと良くなっていた。
「ところで祐一さん。あのジャムは一体、何なんです?」
当然の疑問に祐一とあゆは、きっぱりとかぶりを振った。かつて祐一も気になって秋子さんにそのことを聞いたことがあるのだが・・・・・・一言「企業秘密」と返ってくるだけで、それ以上の追求は不可能だった。
「・・・・・・祐一さん、私決めました」
突然、栞がそう切り出した。
「決めたって、何をだ?」
「はい。私の手で、あのジャムの秘密を解き明かすことをです―――」
どことなく強い口調、本気だ―――と、祐一とあゆは思った。となれば、茶化してはいけないだろう。
それに祐一もそれに関しては興味がある。
「少女探偵・美坂栞の登場ってわけだな」
「あっ、それかっこいいいですね!」
栞の目が輝いた。
これでもう後にはひけなくなった。
「じゃあ祐一君が助手で、ボクが栞ちゃんの秘書だね」
「おわっ! あゆ、いつからここに!?」
「ボク、さっきからここに居るよ・・・・・・」
「そうなのか。それは気づかなかった」
「うぐぅ・・・・・・祐一君のいじわる」
とりあえず、あゆはからかうと面白いやつであった。
「面白くなんかないよっ!」
祐一のナレーションは、あゆの抗議で中断された。
「じゃあ栞。まずはどうする」
「そうですね」
栞は指先を唇に当てて空を見上げた。
「もう夕暮れですから、明日にしましょう」
明日は日曜日だった。
PM12時――三人の姿は待ち合わせ場所の市民公園にあった。この公園は、広くて噴水もあって、にもかかわらず人があまり集まらない静かなムード漂う場所で、祐一と栞にとっては、雪の日の物語の思い出の場所でもある。
ホワイトブルーのブラウスに水色のミニスカート、加えて黒のニーソックスという装いの栞同様、祐一とあゆもオーソドックスなラフスタイルをしていた。
「さあ、何からはじめる?」
「決まってます。探偵といえば、推理です。」
いきなりか、と祐一は思ったが、口には出さなかった。威風堂々とした栞の姿も悪くなかったからである。
しかし、あのジャムの材料をどうやって推理できようか。料理の腕は天才的に上手な秋子さんだが、当人がお気に入りという、あのジャムだけは別問題だ。
どんな材料を使用すればこんなものが出来上がるのか? という点でいうなら、あゆの手料理も相当な代物だが――それは単に黒い物体なだけであって、やはり「独創的な味」である謎のジャムとは根本的に違う――――――
「うぐぅ、ボクは料理が下手なんじゃなくて作り方を知らないだけだよっ」
祐一のナレーションは再び中断された。
「まあ、推理するだけしてみるか」
「はい、三人の知恵を結集するんです」
「うんっ! 三人寄れば、何とかの知恵ってやつだね」
かくして三人は謎のジャムの材料について推理をはじめたのだが、そんなすぐに閃くようなら苦労はいらない。
「うーん・・・・・・駄目です、わかりません。祐一さんは?」
「さっぱりだ」
と返事して、残る一人に目をやる祐一。右に同じ、という風にあゆが首を振る。
「文殊の知恵」は僅か三分で破錠した――――
「・・・・・・・・・」
うーむ、と唸る一同。
休日の、こんな清々しい青空の下で、自分たちは何をやってるんだろう・・・・・・一瞬そんなことを思ったが、それは考えないことにした。
「そうです!」
栞が、次の一手を思いついたというような表情で手を打った。
「探偵といえば、やはり情報収集です」
「それだよ栞ちゃんっ」
即座にあゆが同調した。
つまり、それぞれがジャムを持って知人にそれを味見させ、原材料を推測してもらうという訳である。
「わかった。それで、誰が秋子さんからあのジャムを借りてくるんだ?」
ふたつの双眸が祐一の方を向いていた。
「・・・・・・ま、仕方ないか」
三十分後―――
オレンジ色のジャムが中に入った三つの透明な小瓶を手に、祐一が戻ってきた。特に理由も訊かず、秋子さんは快く貸してくれたのである。
「それでは」
「調査開始だな」
「ボク、がんばるよっ」
小瓶を手にして頷きあった三人は、それぞれ別方向へと散っていった。
栞はまず自分の家に向かった。
「あら、相沢君とデートじゃなかったの」
ウェーブのかかった長い髪が印象的な美坂香里が、一時間とせずに返ってきた妹に不信めいた眼差しを送る。
「うん、そうなんだけど・・・・・・・」
少し歯切れの悪い口調で返事し、栞はポケットから例の小瓶を取り出した。
「ちょっと、お姉ちゃんにこれを試してもらいたくて」
罪悪感が声を震えさせた。
「・・・・・・」
瓶の中のオレンジ色の物体を無言で凝視した後、香里はこう言った。
「ねえ栞。それって、名雪の家においてある不思議な味のジャムだったりする?」
「えっ? どうして知ってるの―――」
「やっぱり」
栞は、姉が昔にそのジャムの被害を受けていることを知らなかった。
「それで、栞がどうしてそんなものを持っているのかしら―――?」
「う・・・・・・」
やっぱりお姉ちゃんに嘘はつけない―――栞は正直に説明することにした。
――――話を聞き終えた香里が、小さくぽかんと口を開けた。驚いているのだ。
「流石、あたしの妹」
「・・・・・・えっと。もう行くね、お姉ちゃん」
姉に誉められ、何だか気恥ずかしくなった栞はそそくさと家を後にした。
次に向かった先は、つい一ヶ月ほど前に知り合って仲良くなった「天野美汐」の家であった。
「あら・・・・・・美坂さん――――?」
突然やってきた珍しい訪問者の姿に、天野は一瞬きょとんとした。
「お久しぶりです。美汐さん」
栞はぺこりと頭を下げて挨拶した。
「実は美汐さんに、これを味見してもらいたくて来たんですけど」
務めて冷静を装いながら、オレンジ色のジャムを取り出す。何だか自分が悪いことをしているみたいで、心臓がどきどきした。
「・・・・・・ジャム?」
「あ、はい」
「・・・・・・ふーん」
胡散臭そうに見つめながらも、天野は近くの棚から小スプーンを取り出してきた。この一見クールな印象だが、本当はとても優しい所が姉と少し似てるな―――と栞は思う。
そんなことを考えている内に、天野はスプーンでジャムをすくって口の中に入れ、
「・・・・・・」
―――――――――固まった。
あまり表情を変えない天野がこんな顔をするのを、栞ははじめてみた。
「・・・・・・美坂さん、何ですか・・・・・・これ」
ようやく言葉を発した天野が、思いっきり怪訝な表情を見せる。正しい反応だと栞は思った。
「あの、そのジャムの原材料を当ててほしいんですけど・・・・・・」
「・・・・・・分かると思う?」
「ごもっともです」
明らかに剣呑な口調になってきた天野の顔を正視できず、謝るように頭を下げると、栞は逃げるようにその場を立ち去った。
天野との仲が壊れるんじゃないか、栞は少し不安になった。
公園に戻ると、祐一の姿があった。
「危うく、北川との友情にヒビが入りかけた」
冗談めかした祐一の言葉だったが、栞は笑えなかった。数分後にあゆも戻ってきた。
「どうでした?」
「たい焼き屋のおじさんと、パタポ屋のお姉さん、それと山葉堂のお姉さんにも当たってみたけど駄目だったよ」
「お前の知り合いは食い物屋ばっかりか」
「うぐぅ・・・・・・ほっといて」
図星らしく、反論は無かった。
「そういえば、お腹空きましたね」
食べ物の話が出たところで、まだ昼食を食べていないことに気が付いた。お弁当を作ってくればよかったと、栞はちょっとだけ後悔した。
「まあ各自、好きなものを買ってくればいいだろ」
祐一の提案の結果、
たい焼き。バニラアイス。焼きそば。
と、まとめて食べたら食当たりを起こしそうなメニューが公園のベンチに並んだ。
「ま・・・・・・いいけどな」
三人は噴水のふちに腰をかけて、昼食を食べ始めた。
例によって、カップのバニラアイスをおいしそうに食べる栞を見て、あゆはたい焼きを頬張る口を止めた。
「栞ちゃん、それひとつで足りるの?」
「え、はい」
呆然と訊いてくるあゆに、平然と頷く。
「駄目だよ栞ちゃん。昼食がバニラアイス一個だけなんて、栄養に悪いよ」
「昼食がたい焼き四個の女に言われたくないだろうな」
うぐぅ・・・・・・と言葉を詰まらせるあゆだったが、すぐに祐一の方を向き直ると、びしっと指を突きつけた。
「祐一君こそ、カップ焼きそばなんて身体に悪いよっ」
「それは、お互い様だろ」
「ちがうよっ! たい焼きは血糖値を上げて新陳代謝を上昇させるから、体力回復にいいんだよっ」
言い合う二人の姿が面白く、また可笑しくて栞は小さく微笑んだ。そこへ口論――といっても、祐一が一方的にあゆをからかっているようにしか見えないのだが―――を中断した祐一が話しかけてきた。
「大丈夫だ。平均睡眠時間が十二時間の少女や狐の居候、魔物ハンターや幽体離脱娘に比べれば、栞はまったく普通だから」
「・・・・・・それ、どんな基準ですか?」
栞はあまり嬉しくなさそうだった。
「うぐぅ・・・・・ボク、幽体離脱娘じゃないよ」
「ま、それはいいとして」
「よくないよぉっ!」
たい焼きを握りつぶしかねない勢いで抗議しかけたあゆの動きが、ぴた、と止まった。祐一が真剣な表情で自分を見ていたからだ。
「ありがとうな、あゆ」
「えっ」
まじめな声に、あゆはどう返事していいか困惑した。
「栞が今、こうして俺のそばに居てくれるのも、お前がたった一つだけの願いを栞のために使ってくれたおかげだからな」
「そうです。私・・・・・・あゆさんには、どれだけ感謝してもぜんぜん足りないくらいです」
「・・・・・・祐一君。栞ちゃん」
あゆは、胸が熱くなるのを感じた。祐一と栞の暖かい眼差しが、心の奥まで染み透っていくような―――そんな心地よさが胸いっぱいに広がっていった。
「ううん、違うよ・・・・・・」
顔を赤くしながら、あゆが言葉を搾り出した。ぎゅっと、胸元で両手を握る。
「最後のお願いをした後、ずっと眠りつづけるハズだったボクを・・・・・・祐一君と栞ちゃんは強い想いで目覚めさせてくれた・・・・・・から」
ひとつひとつ、辿るように、万感の思いを言葉に反芻させてゆく。自分がここにいる奇跡を噛み締めながら――――――
「だから、おあいこだよっ」
笑顔が陽光にきらめいた。と、それが「あっ」という顔に変わる。
「栞ちゃん、アイス溶けてるよっ」
「え、あっ」
見ると、陽光にさらされていたバニラアイスは、見事に溶解していた。
「あー」
いくら小食の栞でも、これは辛い。そこへあゆがたい焼きを差し出してきた。
「栞ちゃんにお裾分けだよ」
「おれの焼きそばもどうだ」
祐一もカップ焼きそばを寄せてくる。
「・・・・・・」
栞は少し考えて、焼きそばを手に取った。
甘いものは後にしたほうがいいと思ったからである。そして、ちょっと冷めた麺を口の中に入れた。
「ちなみに激辛ソース入りだ」
ごふごほっ!
激しくむせこむその姿は、さながら阿鼻叫喚の吐血地獄のようだ。
「こんなことする人、嫌いです」
「そうだよ。これは祐一君が悪いよ」
ここぞとばかりに、あゆが栞に味方した。
形勢不利を悟った祐一は、素直に頭を下げて謝った。結局、栞の昼食はたい焼き二個で事なきを得たのだった。
「もしかしたら、あのジャムの原材料は弟切草かも知れません」
不意に。唐突に。突然に。
何の脈絡もなく、栞がそう言った。
あまりに突飛すぎたせいか、食後の缶コーラを楽しむ祐一の手が止まる。ちなみに、あゆは緑茶だ。
「弟切草?」
「ボク、知ってるよ。切り傷や打撲なんかに効果がある草花だよね」
あゆは変なところで物知りだった。
「それで、どうして栞はその弟切草が秋子さんのジャムの原材料だと思うんだ?」
「それはですね」
栞は人差し指を唇に当て、少しまじめな口調で語り始めた。
「弟切草には、その秘密を漏らしたものが首を切り落とされるという迷信があって・・・・・・」
「うぐぅぅーっ!!」
そこまでは知らなかったらしく、あゆが悲鳴をあげる。そういえば、あゆは極度の怖がりだったことを祐一は思いだす。
「あゆさん、大丈夫ですか?」
「うぐぅ・・・・・・平気」
強がった返事だが、声は少し震えていた。
「そんなことより、話の続きを頼む」
祐一が先を促した。
「つまりです。結論として、秋子さんはジャムの原材料に弟切草を用いることで、その花言葉と引っ掛けているんですよ」
「花言葉?」
「はい」
栞が推理ドラマのような芝居がかった仕草で頷き、人差し指をくいと上へ向けた。
「弟切草の花言葉は『秘密』。そしてヨーロッパでは『迷信』、『独創』と―――そうなっています」
それを聞いて、祐一がアッと声をだす。
「そうか!弟切草にまつわる不気味な『迷信』、あのジャムの『独創』的な味・・・・・・そして秋子さんの返事は企業『秘密』―――」
「すごいよ栞ちゃん、名推理だよっ!」
あゆが感嘆の声をあげた。
「まあ、あくまで推理ですけど」
と、謙遜する栞だったが表情は嬉しそうだ。
物語は、いよいよクライマックスへ収束しようとしていた。
黄昏どきの水瀬家――――
台所のテーブルには、栞、あゆ、祐一の三人が半ば緊張の面持ちで椅子に腰をかけていた。
名雪は出かけているらしく、この場にいるのは四人だけだった。
その四人目――水瀬秋子が、三人に微笑みかけた。テーブルの上には、情報収集に使用した例の小瓶が二つ置かれてある。
残りの一個は、捨てられていなければ――天野美汐の家にある筈だ。
「実は秋子さんに訊きたい事があるんです」
「あら、何かしら? 栞ちゃん」
栞は、すっとテーブル上の小瓶を指差す。
祐一とあゆが、ごくりと喉を鳴らした。
「このジャムの原材料は弟切草ですか?」
栞が一気に勝負に出た。
聡明な秋子さんには、まわりくどい言い方や誘導なんて見破られてしまうだろう。
ならば逆に奇襲をかけてやるのだ。つまり先手必勝というわけである。
「・・・・・・」
秋子さんの顔が一瞬、硬張った―――ように見えた。
「このジャムの原材料は弟切草ですね?」
強く念を押す栞。
同じ手は二度と使えない。相手に考える隙を与えてしまってからでは遅いのだ。
「・・・・・・それは」
刹那、秘密の漏洩を許さぬキッチンの守り包丁が浮き上がり、秋子さんの首をぶった切った!
・・・・・・・・・・・・などという事はなく、秋子さんはいつもの穏やかな笑顔のまま、企業秘密という鉄の沈黙を通したのだった―――――
宵闇が今にも振りそうな市民公園に、ぼんやりと佇む影、三つ。
「結局、あのジャムの秘密・・・・・・解らなかったな」
「・・・・・・はい。でも、それでよかったんです」
栞が祐一に向かって微笑む。雪のような白い肌も、オレンジ色に染まっていた。
「謎は謎のまま終わった方が、物語としては面白いじゃないですか」
「成程っ、栞の描く風景画と同様に――って訳だ」
「そんなこと言う人、だいっきらいですっ」
「ごめん栞ちゃん。それに関しては、ボクも祐一君と同じ意見・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・」
ざぁっ、と風が通り抜けた。
それは―――春の終わりを告げる風。
夏の到来を予感させる、そんな日の出来事だった。
(END)