真っ白な部屋。
そこにはツンとした消毒液の臭いが立ち籠もる。
この部屋は日の光が窓から絶える事はないのに何処か暗い……
まるで、外界を望むようで拒絶する部屋。
そんな、矛盾した印象を俺に抱かせる……ここはそんな部屋だった。
ふと、視線を部屋の中心に戻す。
そこにはこの広い部屋のたった一つだけのベッドがある。
そして、その上には一人の少女。
真っ白いシーツにくるまれて、まるで体だけ置き去りにしたように横たわっている。
ぴくりとも動かない少女。
無尽蔵に伸びた少し茶色がかった髪は少女の周りを穏やかなウェーブを描いてその体を庇護するように包んでいる。
俺が立っている窓辺からは、少女の様子は漠然としかわからない。
だから、少女が死んでいると言われたら俺は信じるかもしれない……。
もっとも、彼女がちゃんと生きていてくれることを知ってるからそんなことを思えるのかもしれないが……。
……やっぱり、信じそうも無いか。
そんなとりとめない事をぼんやりと考えつつ俺は一人、少女に語りかける。
「まったく、お前は何時まで眠り姫なんてやってるつもりだ?」
当然ながら、答えはない。
まぁ、分かってやってるから返事がないことについては俺も気にしない。
……もっとも、返事が無いことが少しだけ残念なのはしょうがないだろう。
そんな風に少々複雑な気分になりながら俺は何となく窓の外を眺める。
そして……目を奪われる。
「そういえば、ここは北国だったな……」
ぽつりと誰に向けられることもなく呟いた言葉。
だが、その言葉に今更ながら妙に納得している自分がいた。
……俺は、まだこの町になれて無いのかもしれない。
ガラガラガラ
何となく、窓を開ける。
この部屋の鬱屈した空気を少しでも吐き出させたかったからなのかもしれない。
遮る物がなくなった窓からはひんやりとした風が入ってくる。
まだ少し肌寒い……
でも、そんな風が結構心地良い。
それに、風にのってわずかに郷愁を感じさせるような柔らかい芳香が漂ってくる。
そうだ、これは……
「桜の匂いだね……」
思わず振り返る。
少女が身を起こしこちらに向かって淡く微笑んでいる。
「おはよう、祐一君。ボクずいぶん寝ちゃってたみたいだね」
俺の中でもっとも強く残る想いでの声。
その声がゆったりと俺の耳に染みこんでいく。
「ああ、少し寝すぎだ……」
俺は少し微笑んで、ゆっくりと少女の方へ歩き出す。
「……うぐぅ」
急に何かを思い出したのだろう。
笑顔だった少女は目一杯頬を膨らませると真っ赤な顔をして上目遣いで俺をにらむ。
どうやら何か怒っているらしい。
……相変わらず、可愛い怒り方だな。
そんな、不謹慎な事を考えつつとりあえず理由を聞くことにする。
「なに、そんなに怒ってるんだ?」
俺の問いに少女はきょとんとした顔になる。
ありゃ? 俺の見当違いだったのだろうか?
「別に、ボク怒ってないよ……」
ちらちらと俺の方を見ながら少女は俺の問いに答える。
ただ、何故か小声でぼそぼそと話すので聞き取りづらい。
仕方なく俺はその声を聞き取るために少女に顔を寄せる。
「うぐっ!?」
瞬時に少女の顔は緋色に染まり俺から遠ざかる様に体をのけぞらせる。
……俺、何かしたか?
「……はぁ、まぁいいや。どうせお前のことだからくだらないことなんだろ?」
ため息をつきながら身を離す俺。
少女は俺が身を離すと多少は緊張が解けたらしく、まだ赤い頬を両手で押さえながら俺を見上げる。
「くだらない事じゃないよ〜」
目を合わせるのが少し辛そうに俺と目線を合わせ様としない。
「じゃあ、なんだよ?」
少しぶっきらぼうに訪ねる。
先ほどからの少女の不可解な様子が俺を不機嫌にしているらしい。
「……なんで、祐一君なんともないの?」
思いがけない一言。
「は?」
思わず間抜けな返事を返してしまう。
「だって変だよ……。あんな事した直後だよ? なんで何ともないの?」
……あんな事?
「うわっ、何すんだよっ」
少女は俺の顔をぐいっと引き寄せる。
そして……
「――だよ」
俺にか細い声で耳打ちする。
どこか甘く切なげな声、俺は少しドギマギしてどこか夢見心地でその内容を聞き取る。
少女は、言いたいことを一方的に言ってしまうと俺を解放し、うぐぅ〜と呻きながら布団の中に顔を埋めて隠してしまう。
白いシーツと対照的なその真っ赤に染まった耳がどこか滑稽で、愛らしかった。
「……まぁ、いきなりアレはまずかったかもな」
……まだ健常者といえない少女ではキツかったかもしれない。
「うぐぅ……あんな長時間されたら……ボク死んじゃうよぅ〜」
布団から少し顔を起こし非難がましい目つきで俺をにらむ少女。
俺は、ちょっとばつが悪くなって話をそらせないかと何か話題を捜す。
「おかげで、こんなに時間まで起きれなかったし……まだ、どこかふわふわしてる……」
……ふわふわしてるのは寝起きだからだろ。
と思ったが、言わない。
どうせ、余計に怒らせるだけだ。
「なのに、なんで祐一君は何ともないの?」
……別に何ともないわけではない。
もっとも照れくさくてそんな事、言うつもりなんて無いが。
「ちょっと良い物見せてやるよ」
いきなり少女の体をお姫様だっこの要領で持ち上げる。
……まぁ、話をそらすためだ。
それにしても、相変わらずこいつは羽のように軽い。
「わっ、わわっ」
急なことで暴れる少女。
慌てて俺の首にしっかりとすがりつき体勢を整える。
少女がしっかりと掴まっていることを確認すると、俺はゆっくりと窓辺へ歩き出す。
そして……
「うわ〜」
腕の中から聞こえる歓声。
どうやら、お気に召したらしい。
「凄いよ。満開だよっ。満開の桜だよっ」
まるで、偉大な英知に気付いたようにはしゃぐ少女。
……いや。
ただ単に子供が宝物を見つけてはしゃいでるだけか……。
「綺麗だろ?」
「うん」
凄いねぇ……綺麗だねぇ……
そんなことを呟きながらじっと桜を見つめる少女。
そん表情はとてもほほえましく、見ている俺までつられて笑顔になる。
「どうりであんなに桜の匂いがするわけだよ」
「ああ」
その後しばらくお互い言葉も交わさずにただ満開の桜に見ほれる。
「……祐一君」
ふいに、少女が沈黙を破る。
「祐一君の心臓。凄くドキドキいってるね」
恥ずかしそうに……それでいてとても嬉しそうに微笑む少女。
……なんだか色々と見抜かれたような気がした。
「……春だからな」
「くすっ、そうだね。春だもんね」
誤魔化しきれない気恥ずかしさは結局ぬぐい去れなかった。
はなびら小唄〜桜一枚〜
病院からの帰り道。
俺は公園を通り抜けると、すっかり慣れ親しんだ並木道に出る。
冬の間こそただの裸木の並木だったのだが今はそんなことをみじんに感じさせない、新緑の列。
そんな中をゆっくりと歩く。
しばらくすると、景観ががらりと変わる。
桜並木の一帯だ。
そこには病院の窓から見えた桜に負けず劣らずの満開に開いた花々が互いの優劣を競い合ってる。
なかなか、壮観な景色だ。
……ふいに気付く。
その桜並木の中程で一人の老人がぽつりと立っていることに。
そのことに気になったのは別に老人が珍しかったからではない。
その老人は特に何するわけでも無く、ただ一本の木を眺めていからだ。
……何も咲いていない裸の木を。
俺は不思議に思い、その老人に近づき声をかけてみる。
「何を見ているんですか?」
……しばらく返事はない。
諦めて立ち去ろうとしたところで、返事が返ってくる。
「この桜の木を見てるんだよ」
おっとりとした優しい声。
穏やかで暖かくこの老人の人柄を感じさせる声だった。
「君には見えないだろうねぇ……」
少し、寂しそうに老人は呟く。
「私はこの桜の木に満開の花が咲き誇っている所を見てるんだよ」
……思い違いだったのだろうか?
老人は裸の木を見ていたはずだが……
「ほっほっほ、まぁ、君に見えないのも当然か……」
寂しそうな笑い声。
どこか老人の印象を儚げなものに変える。
「今年は私の想い出の中でしか咲いてないみたいだからのぅ……」
「……想い出、ですか?」
思わず老人に尋ねてしまう。
……もしかしたらぶしつけだったかもしれない。
だが、老人は気にすることなく返事を返してくれる。
「去年まではな……この桜も満開の花をつけていたんだよ」
「それはもう、見事な物でな……周りの桜が霞んで見える程の美しさだったよ」
……老人の話の真偽わからない。
俺はこの前の冬、この町にきたばかりだし、目の前の木はつぼみさえ付いてない裸桜。
だけど、何故かその言葉は不思議な説得力があり、何となく信じてしまう。
「でも……あまり残念そうじゃ無いですね……」
老人は驚いた顔で振り返る。
……もしかしたら失礼な事を言ってしまったのかもしれない。
「……どうしてそう思うんだい?」
老人は少し訝しげに俺に問い返してくる。
「いや、だってそんな顔してるじゃないですか」
とりあえず誤魔化すことなく、感じたことをそのまま伝えておく。
もしかしたら、老人の気を損なう発言かもしれないが、それはそれで仕方がないだろう。
「ほっほっほ、そうか……私はそんな顔をしていたか」
全くもって合点がいったと、老人は愉快そうに笑う。
……よかった、特に失礼をしてはいないようだ。
「実はな……私は、毎年この桜に願をかけていたんだよ」
老人は目を細めると、天を仰ぐ。
「七年前からずっとな……」
……とても切なそうな顔をする老人にどんな願いをかけていたのかは流石に聞けなかった。
「でもな……」
うって変わって明るい表情。
とても嬉しそうでこちらまで思わずつられてしまう。
……それにしても子供のようによく表情が変わる老人だ。
「つい先日その願い事が叶ったんだよ」
老人は再び裸桜を見上げる。
……とても愛しそうに。
「きっとこの木が叶えてくれたんだと思う」
……まるで夢物語のような発想だ。
だが、その発想は間違ってないような気がした。
「ただ、そのためにこの木が咲かなくなってしまったかと思うと、少し寂しくてな……」
……わかるような気がする。
七年間老人に何があったのかは知らない。
だが、きっと幸せとは言いがたいものだったのだろう。
俺は見たことはないが、きっとこの桜の木はそんな老人を慰めることが出来る程の魅力を持っていたのではないだろうか。
「俺も、一度見たかったな……」
桜の木を見上げぽつりと呟く。
「なら、少年。何時か又この桜が咲いた時、私と一緒にこの桜を見ないか?」
老人は楽しい計画を思いついたとばかりに俺に語りかけてくる。
「じいさんと二人でか?」
少しおどけて返事を返す
「不満か?」
老人も子供っぽい表情で俺に軽口を返してくる。
「いや、大歓迎だよ」
……実際この老人となら悪くない。
「ほっほっほ、今年は思わぬ所で思わぬ友人が出来たよ」
老人も嬉しそうに笑う。
「じゃあ、約束だ」
そういうと老人は小指を立てて腕を俺に向かって突き出す。
……指切りって事か?
「悪いが、男とそういうことする趣味はないんだ」
そういうと老人はますますおかしそうに笑う。
「君は面白いやつだのぅ……じゃあ、これならどうだ?」
腕は引っ込めることなく手のひらを開く。
今度は握手と言うことだろう。
「それなら、悪くないな」
そういって老人の手を握る。
老人の手はか細くざらざらとしていて、骨と皮だけの印象を与える。
もしかしたら、俺が全力で握れば折れてしまうかもしれない……
そんなことを、ふと思った。
「では少年、約束だよ」
「ああ、約束だ」
ただ、一つ、老人の手は、まるで心まで温まりそうな程、優しかった。
しばらくして、老人と別れた俺は未だに裸桜の前にいた。
その理由は何となくその木に見覚えがあった為だ。
何となく木をざっと眺める。
「ん?」
ふと、気付く。
俺の膝ぐらいの高さだろうか……その辺りに何か彫ってある。
俺はそれに近づくと確認してみる。
「……うっ、あいつなんて恥ずかしいことを」
そこには、小さな相合傘があった。
その両側には俺とあいつの名前が書かれている。
……そういえば、あの人形を埋める時、目印を付けた方が良いんじゃないか?
と言った俺にそんな物は無くても良いと妙に反対していた。
……なるほど、こんな物を付けてたからか。
「でも……まさかこの木があの人形を埋めた木だったとはなぁ……」
でも、その事に妙に納得している自分がいた。
……老人の叶った願い。
……この桜が一際綺麗だった理由。
それが一つに繋がったような気がした……
「桜の木の下に屍体が埋まっているから」
どこかで読んだ小説の一節だ。
「そしてその血を桜が吸い上げて綺麗な桃色の花を咲かせるから、か……」
あの天使の人形は、フェルトで出来た体にあいつの想いという血が通っていたものだ。
それを己の内に抱いて花を付ける桜。
それは、とても綺麗なものだっただろう……
「じいさん、残念だ。どうやら、約束の桜は見れそうにもない……」
そう呟くと、俺は裸桜を後にした。
数ヶ月後。
俺は教会にいた。
いや、正しくは俺たちは、だ。
正面には、真っ白いドレスに身を包んだ最愛の少女。
そして、その横には彼女の祖父である初老の紳士。
数ヶ月前、退院した彼女を引き取り養ってくれた方だ。
遠目からは、薄いベールに包まれて、彼女の表情はわからない。
手には造花ではあるが見事な桜のブーケが握られている。
彼女の祖父が、とある有名な職人に作らせた物だ。
特注だけあって、少女によく似合い、その清廉さを際だたせている。
しかし、それと同時に暖かさというか柔らかさも際だたせているのだ。
……もしかしたら、ひいき目に見ているのかも知れない。
……実際、表情すら俺にはわからない。
でも、俺の目に映る少女は世界で一番可憐で美しかった。
ゆっくりと、祖父に伴われてヴァージンロードを歩いてくる少女。
その厳かな歩みは少女に触れたいばかりにはやる俺の気を少し落ち着かせる。
……少し、冷静さを欠いていた事に恥ずかしくなる。
「……よし」
口の中で小さく呟く。
気を落ち着かせるために昔のことでも少し思い出そうとしたら、自然に声が出てしまった。
まぁ、誰かに聞かれたというわけでもないからいいのだが。
さて、……俺は改めて過去を振り返るため初老の紳士を見つめる。
彼にはとてもお世話になった。
事実、学生の身でありながら結婚式を挙げられるのも、全て彼のおかげだ。
両親の説得、資金の援助等、彼女の祖父の手を借りないことはなかった。
そして何より、この数ヶ月、あいつに家族というものを与えてくれた。
その姿は、みすぼらしい程に小さくなってしまっているが、その内面は俺なんかじゃ太刀打ちできないほどの深く大きな物だろう。
そんな彼を俺はこのたった数ヶ月の間に深く尊敬していた。
そんな偉大な相手より、俺は今日彼女を奪うのだ……。
……腹は決まった。
浮ついていた気持ちも収まり、俺はこの瞬間、新たに決意を固めた。
それと同時に彼女が俺の前にたどり着く
「祐一君……この娘を頼みますよ」
そういうと彼女の祖父はそっと彼女の背中を押し最後の一歩を踏み出させる。
「任せてください」
そして俺は、彼女の祖父に答えながらそっと彼女の手を取る。
彼は少し寂しそうに……それでいて、とても嬉しそうに笑い、俺たちから離れていく。
「では、式を始めます」
神父の宣言。
それが、俺たちの俺たちの結婚式の始まりの合図だった。
結婚式から数週間後。
彼女の祖父は死んだ。
死因は老衰。
眠るように安らかに逝ってしまった。
葬式に訪れたのは、俺の家族だけ。
とても質素な式であった……。
そして……
「今日で二ヶ月か……早いもんだな……」
季節は再び春となり、俺はあの桜並木を歩いていた。
横に最愛の妻を伴って……
「うん……そうだね」
少し寂しそうな顔。
だが、それはどこか諦めを含んだ表情であった。
多分分かっていたのだろう、祖父の命が長くなかったことに。
簡単に吹っ切れる物ではないが覚悟は出来ていたに違いない。
その証拠に、彼女の祖父が亡くなった時、彼女は少しだけ寂しそうな顔をして、少しだけ俺の胸で泣いただけだった……
「これ、喜んでくれるだろうか?」
俺は、手に持った桜のブーケを見る。
俺と彼女との結婚式で使った物だ。
「うん、きっと喜んでくれるよ。お祖父ちゃん桜の花が好きだったから……」
そういって懐かしそうに笑う。
祖父との事を何か思い出しているのだろう。
「ん?」
不意に目に止まった。
「え?」
彼女もつられて俺の視線の先を追う。
桜が咲いていた。
満開の桜の花が……
それはとてつもない美しさで、周りの桜が霞む様だった……
不意に頬を熱い何かが伝う。
横を見ると彼女も涙をこぼしている。
「初めて見るはずなのに……とっても、とっても懐かしいよ」
ぽつりと彼女は呟く。
「そうだな……まるで……」
その後の句はつげない。
「うん……そうだね。そうだよね」
彼女はそれでも理解したらしい。
俺はそっとその木の根本に墓に備える予定だったブーケを置く。
「これで良いよな?」
一応振り返って彼女に聞く。
「……うん、それで良いんだよ」
そして、彼女は俺の胸に飛び込んでくる。
俺は彼女を優しく抱き留める。
彼女は泣いていた……
彼女の祖父が死んだ時よりも激しく。
俺は、そんな彼女に言葉すらかけずにただ抱きしめるだけだった。
……不意に目の前にひらひらと落ちてくる物がある。
一枚の桜の花びらだった……
何となく右手を広げ手を伸ばしてみる。
不思議なことに桜の花びらは彷徨う事無く俺の手のひらに飛び込んできた。
思わずその手を握りしめる。
既に懐かしい記憶。
一年前に交わしたたわいもない約束。
全てが全てリフレインの様に何度も頭を駆けめぐる。
そして、この手から伝わる心まで温かくなるような優しさ。
全く違う物なのにそれは過去の記憶で交わしたものと全く同じだった。
俺はそっと自らの両手に掴んだ物をもう一度握りしめる。
そのぬくもりを確かめるように……
俺は生涯このぬくもりを手放すことはないだろう……