プリティの春





 7年の夢に朝が訪れ、それから1年。
 月宮あゆは家庭の事情により水瀬家で暮らしていた。
 これはそんな彼女のとある春の日の物語。













【帰ったらすぐに買ってきた物を持ってシャワーを浴びてきなさい。(秋子)】

 秋子に頼まれた買い物から帰ってきたあゆを玄関先で待っていたのはそんな紙切れだった。
 買い物袋を下げたままそれを拾い上げてあゆは考え込む。
 ついでにあたりを見回してみるが、家には誰の気配もない。
「何だろこれ?」
 帰ってくるなりシャワーを浴びろという書き置きなんて見たこともない。
 丁寧だが、少し丸みがあってどことなく優しい感じのする文字。
 一瞬いつものごとく祐一の悪戯かと思ったあゆだったが、書き置きは間違いなく彼女が母のように慕う秋子のものだった。
 ということは言葉通りシャワーを浴びてこいということなのだろう。
 そしてあゆの買い物袋の中に入っているのは新しいシャンプー、リンス、ボディソープ、歯ブラシ、歯磨き粉等々。
 つまり洗面所や風呂場に置く類の物ばかりだ。
「ついでに歯も磨いといたほうがいいよね。たい焼き食べてきたし」
 深く考えるのが苦手なのかポジティブ思考なのか微妙なところだが、あゆはあっさり気持ちを切り替えるとそのまま風呂場に向かった。
 廊下に差し込むやわらかい春の日差しが嬉しいのか、少しスキップ気味に。
 そして……。
「うぐぅっ!」
 ベチッ!
 風呂場の前で盛大にすっ転んだ。














【上ったらそのままの格好でもいいから自分の部屋に行ってね。(名雪)】

 シャワーを浴びてバスタオルを取ろうとしたあゆの前にまた書き置きが姿を現わす。
 今度は彼女が姉のように慕っている名雪の物である。
 やっぱりそれを手に取って裸のまま考え込むあゆ。
 バスタオルで申し訳程度に胸と前を隠しながら。
 本人は気付いていないようだが、横から見れば肝心なところは丸見えである。
「そのままってこのまんま?」
 不審に思いつつもあゆはそのままの格好で廊下に出て自分の部屋に向かおうとした。
 そのままの格好とはあれである。
 つまるところすっぽんぽんで。
「うぐぅ! そんなの恥ずかしいよっ」
 水瀬家の廊下には一面が窓ガラスになっていて外が丸見え、言い換えると外から丸見えの所がある。
 そこにさしかかったあゆは外を眺めると……。
 顔を真っ赤にして猛ダッシュで風呂場に逃げ帰った。
 くどいようだがすっぽんぽんで。

【あ、よかったらこれ置いとくね。(名雪)】

 風呂場に駈け戻ったあゆはバスタオルを体に巻きつけようとして、近くのカゴに名雪の書き置きがもう一つあるのを発見する。
 書き置きと一緒に置かれていたのはきれいに洗濯された白いパンツとブラだった。
「うぐぅ……名雪さんひょっとしてわざと?」
 相手は目の前にいないが、あゆは思わず不満を漏らす。
 書き置きの主は要領が悪いだけで、あゆを裸のまま廊下を歩かせるつもりなど全くなかっただろうが。















【この服を着てリビングに行ってね。(名雪)】

 二階の自分の部屋に戻ったあゆを待っていたのは、また名雪の書き置きだった。
 短文で紙に余白があったのが寂しかったのか猫の親子の絵も描かれている。
 にゃー、にゃーとふきだし付きで。
 子猫が三匹で親猫が一匹なのは名雪にとっての水瀬家を表した絵ということだろうか?
 向かい合ってじゃれ合っている子猫二匹があゆと祐一。
 それを側で嬉しそうに眺めている親猫とちょっと大きな子猫が名雪。
 そう見えないこともない絵である。
 名雪さんらしい、と思いつつあゆは書き置きの通り目の前に置いてある服を見つめる。
 服というよりはドレス。
 ドレスというよりは子供服。
 白というよりは純白。
 おしゃれというよりはこざっぱり。
 かと思えば逆にも表現できそうな、そんなどちらとも言えない微妙な服だった。
 とりあえず、あゆが今まで着たことがないような服であることだけは間違いない。
 それと安い品物ではないということも。
「今日は何かの日なのかな?」
 少なくとも誕生日やクリスマスは数ヶ月前の話だった。
 首を傾げながらもあゆはそれを指示通りに着る。
















【お好みで使って下さい。終わったらダイニングに。(秋子)】

 今度は秋子の書き置きだった。
 リビングの机にそんな書き置きともに白い瓶が置かれている。
 それを開けると中には白い粉がたくさん入っていた。
 あゆがそれを一つまみ試しに取ってみると、それはさらさらしていてうっすらと指に残る。
 服と同じく真っ白なので汚れる心配はないようだ。
「……何だろ、これ」
 指についたそれをただじーっと見つめるあゆ。
 だが、ふとそこであゆの頭に閃くことがあった。
 今日この家に買い物から帰ってきてからの一連の不可解な書き置き。
 いや、秋子に頼まれた買い物からしてそうだったのかもしれない。
 あゆの頭に浮かんだのは、今は亡き母に昔何度も読んでもらったあの物語であった。
 山の中で狩りの途中に腹を空かせた男達がレストランを見つけてその中に入るが、そこには案内札しかない。
 その案内札に書かれているのは……。

【どなたさまもどうかお入りください。決してご遠慮はありません】
【ことに肥ったお方や若いお方は、大歓迎いたします】
【当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください】
【注文はずいぶん多いでしょうが一々こらえて下さい】
【お客さまがた、ここで髪をきちんとして、それからはきものの泥を落としてください】
【鉄砲と弾丸をここへ置いてください】
【どうか帽子と外套と靴をおとり下さい】
【ネクタイピン、カフスボタン、眼鏡、財布、その他金物類、ことに尖ったものは、みんなここに置いてください】
【壷のなかのクリームを顔や手足にすっかり塗ってください】
【クリームをよく塗りましたか、耳にもよく塗りましたか】
【料理はもうすぐできます。十五分とお待たせはいたしません。すぐたべられます。早くあなたの頭に瓶の中の香水をよく振りかけてください】
【いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう。お気の毒でした。もうこれだけです。どうかからだ中に、壷の中の塩をたくさんよくもみ込んでください】
【いや、わざわざご苦労です。大へん結構にできました。さあさあおなかにおはいりください】

 ここまで言えばオチはお分かりだろう。
 このレストランで料理を食べるのは客ではなく、客が料理に仕上げられるというわけだ。
 その物語の題名は『注文の多い料理店』。
 あゆの頭に料理店の真相が暴かれるところを恐ろしげな声で語ってみせる母の姿が思い浮かんだ。
 そして、次にここまでの流れが思い浮かぶ。
 正確には今日に至るまでの流れだろうか。
 7年の眠りから覚めた時、あゆの体はガリガリに痩せていた。
 だが、今はどうだろう?
 秋子のおいしい手料理のおかげでいい具合に肉がついている。
 体もシャワーを浴びて洗ったばかりできれいだ。
 更に自分の今の格好……。
 新品の白い服に、洗い立ての白の下着である。
 どこからどう見てもこの上なく清潔に見えるだろう。
 最後に、いま目の前に置かれている白い粉の小瓶。
 粉の正体は分からないが、置いていったのは秋子である。
 きっと水瀬家秘伝か何かの調味料なのだろう。
 以上、あゆの状況分析終了。
 つまり、今宵月宮あゆは晴れて水瀬家の食卓に上がるというわけだ。
「……うぐぅ」
 食べられるという恐怖に思わず泣き叫びそうになるあゆ。
 しかし、彼女は必死にそれを堪える。
 名雪や祐一ならまだしも、秋子がエモノを逃がすようなミスをするわけが無い。
 もう逃げることなど既に不可能なのだ。
 それに今まで自分に優しくしてくれた水瀬家の人々。
 でも、あゆは色々失敗をして迷惑をかけっぱなしだった。
 その恩返しになるのなら、おいしく食べてもらおう。
 そう覚悟を決めたあゆは唾をゴクンと飲み込み、白い粉を手に取った。
 そしてそれを頭上に掲げて……。
「何で泣きながら白粉(おしろい)を頭にかけてるんだお前?」
 リビングに入ってきた祐一があゆのその奇怪な姿を見て唖然としていた。
 続いて入ってきた名雪、秋子も。















「ぶっ、ははははははっ」
「祐一、笑っちゃダメ……あはははは」
「うぐぅ、ふたりとも笑わないでよっ」
 あゆから事の顛末を聞いて大爆笑するあゆの恋人兼居候仲間の祐一。
 名雪もそれをたしなめようとするが、よっぽどおかしかったのか堪えきれずにお腹を押さえて笑い始めた。
 その後ろでは、普段冷静な秋子まで笑いを必死でこらえているように見える。
 あゆは笑うなと怒るが、彼女の行動と思考には笑いどころしか存在しなかったのだから笑うなというほうが無理だろう。
「ごめんなさいね、白粉のブラシを置いておくのを忘れていたわ」
 あゆの勘違いを決定的なものにしてしまったきっかけを作ったことを秋子が謝る。
 あゆの母は化粧の類をあまりしない人だったために、あゆにとって白粉はあまりに馴染みのないものだったらしい。
 そこにきて化粧道具もなしに白い粉の瓶だけがぽんと置かれていては勘違いもするだろう。
「名雪、その頭の白いのを落としてやってきてくれ。そのあと予定通りダイニングに」
 ひとしきり大笑いをした後、祐一はそう言ってダイニングに向かった。
 それに名雪が相槌を打つ。
「あ、うん。あゆちゃん洗面所に行こ」
 そして、まだ恥ずかしさで顔を赤くしたまま涙目になっているあゆの手を引いて名雪もリビングを出て行った。
 残されたのは秋子のみ。
「やっぱりこれはあゆちゃんには要らなかったかもしれませんね」
 どこか楽しそうに呟いて秋子もまた白粉の小瓶を自室にしまうためリビングを後にした。















【ここでちょっと待ってろ。(祐一)】

 リビングの机に置いてあった書き置きの最後の一枚は祐一だった。
 ぶっきらぼうな文字がノートサイズの紙に大きく書いてある。
 あゆはそれを見て祐一君らしいなと思った。
 祐一達の当初の計画では、新しい服であゆが着飾るところまであゆ一人に全てをやるように誘導してそれからご対面という運びだった。
 目の前であれこれ世話をしていては変化が分かりにくくて面白くない。
 そのため、あゆが全てを終えるまで彼らは祐一の部屋で息を潜めていたのだった。
 あゆの勘違いで計画は当初とは違った形になってしまったが……。
 先のあゆの行動は服のことを祐一達の頭から完全に消し飛ばす破壊力を持っていたため、計画通りのご対面と大して変わりはなかった。
 服の感想を待ってしおらしくしているあゆの姿を上から下まで眺めて祐一が呟く。
「やっぱり思ったとおりだ。これじゃ物足りないな」
「うぐぅ、どうせボクはこんなおしゃれなのは似合わないよ」
 いつもどおり素直に褒めてくれない祐一にぶすっと頬を膨らませるあゆ。
 そして、意地悪を言わない秋子と名雪に助けを求めるが……。
「そうね……もう少し似合うと思ってたんですけど」
「うん、あゆちゃんらしくないよ」
 祐一の後ろに並んであゆを眺めていた二人も不満げだった。
「……うぐぅ」
 わざわざ似合わないものを買ってきて着せた上に『似合わない』ってあんまりだ、そんな気持ちのこもった『うぐぅ』である。
 人間の嗜好とは不思議なもので、値が張れば張るほどいいのかというとそんな単純なものではない。
 どんなに高いワインよりも缶ビールの方がいい人もいるし、高級料理よりもジャンクフードの方が好きな人だっている。
 人間が身につける物に関しても同じで、あゆは安物の方が似合う典型的なタイプであった。
 下手におしゃれなものを身につけると、すぐにけばけばしくなるとでも言おうか?
 今あゆが着ているのはウエディングドレスをかなりこじんまりまとめたような物だが、それでもどこか浮いた雰囲気がある。
「そうふてくされるなよ、ちょっと目をつぶってくれ」
「……えっ?」
「名雪も秋子さんもつぶってて下さい」
 祐一の言葉に応じて名雪と秋子がすぐに目を閉じたので、あゆも慌てて目をつぶる。
 そして数分ほど時間が経っただろうか。
 祐一が何かごそごそやって歩き回っている音が止んだ。


「よし、いいぞ。目を開けてくれ」
 目を開いたあゆの見たものは……。
 祐一の持った鏡に映った自分の姿だった。
「えっ、これ…ボク?」
 一瞬あゆは鏡の前にいるのが自分と信じられずに驚く。
 驚かずにはいられなかった。
 自分がこんな格好をして似合うなんて思いもしていなかった、まさにそんな姿が目の前にあったのだから。
「あらあら、今回は完全に祐一さんの勝ちですね」
「あゆちゃん、きれいだよ〜」
 秋子と名雪もそのあゆの姿に見とれている。
 わずか数分の間に祐一があゆにしたことはたった一つだけである。
 着替えをさせたとかそんな大袈裟なことはしていない。
 ほんのちょっとしたものを付け加えただけだ。
 だが、それだけであゆは見違えるように別人へと変わったのである。
「綺麗だぞ、あゆ。そうだなリトルプリンセス誕生って感じだな」
「え、ええっ!?」
 軽口を叩いて『ははっ』と笑ってみせる祐一。
 思いがけず祐一が素直かつストレートに自分を褒めてくれた事にあゆは更に驚いた。
 嬉しいのか恥ずかしいのかあゆの顔が耳まで真っ赤に染まっていく。
 だが、思わず内股気味になってスカートの真正面に両手を添えたあゆはますます祐一の例えそのものに見えた。
 祐一があゆにしたたった一つのこと、それは……。
「念のために言っておくが、冗談じゃなくて大マジだからな」
 あゆの頭には宝石をあしらった小さなシルバーのティアラが輝いていた。
 あゆの小柄な体にこざっぱりしたドレス、そしてちょっとしたアクセントのシルバーティアラ。
 その姿はまさに街にお下りになった小さな王女という感じのものであった。
「でも、何で?」
 自分をこんなに女の子らしく見せる服やアクセサリーを祐一達が選んでくれたのは嬉しい。
 だが、誕生日でもクリスマスでもない日に突然こんなイベントが用意されたのがあゆには全く理解できなかった。
 ついでに言うと一年前に目覚めた日でも、退院をした日でもない。
 それに対して祐一が目を泳がせながら頭を掻く。
 後ろの名雪と秋子も同様だった。
「まあ春だしな。なんとなくだな」
「ええ、あゆちゃんの結婚式という話で盛り上がっちゃいまして」
「祐一があゆちゃんには普通のドレスとか指輪交換は似合わないって言って、ね」
 その結果あゆに結婚衣装を着せてみるという計画があゆを除く水瀬家のメンバーで持ち上がったのだと秋子が説明する。
 一応あゆの目覚めた日や昨年の退院日に合わせるつもりだったが、祐一が待てなくなって今日実行したという事情も。
「じゃあ、この服もティアラも祐一君が選んでくれたんだ」
「ええ、そうですよ。わたしも名雪も思いつかなかったのに、これが愛の力かしら」
「やめてください秋子さん!」
 いつもぶっきらぼうな態度をとってる手前、あゆにぞっこんな一面を暴露されて照れる祐一。
 あゆはあゆで『愛の力』というストレートな表現にやはり照れて俯いていた。
「ほら、祐一。照れてないで言っちゃいなよ」
 照れ隠しのつもりであゆから視線を逸らしている祐一の背中を名雪が叩く。
 普段なら『うるさいな』と名雪を一蹴する祐一だが、今日は違った。
 視線をあゆに戻し、じっと見つめてしばらく考え込んだ後、大きく息を吸い込んで気を落ち着ける祐一。
 この機を逃したら二度はないという雰囲気にあゆも緊張する。
 そして……。
「あのな、あゆ。そのティアラは銀メッキのガラス細工なんだ」
「……うん」
 8年前のあの日に渡せなかったのがカチューシャ。
 今、祐一があゆに渡したものはティアラ。
 ともに同じところに付けるものである。
 きっとあゆなら『運命だね』とこの日のことを思い出して語るに違いない。
 それが思い出を深く記憶させ、より強い絆へと二人を導くのだろう。
「だけどいつか本物を贈る。だからその時、結婚してくれないか?」
「えっ?」
 それってプロポーズ?
 そう訊こうとしてあゆは口をつぐむ。
 そんなことは訊くまでもなかった。
 だからあゆはこう答えた。
「うん、その時は本当の王女様にしてね」
 あゆの言葉に対して祐一があゆの利き手に合わせて左手を差し出す。
 その意味を理解したあゆも左手を差し出した。
「ああ、約束だ」
「うん、約束だよ」
 そして指を切る。
 それはふたりだけが知る大切な儀式。
 だが、名雪と秋子からの拍手はない。
 祝福は本番に取っておく、これもまたそういう約束だったから。
「ああ、そうだあと一つ」
「……え?」
「俺も指輪なんて柄じゃないからな、その時にはお前らしい他の物を期待してるぜ」
「うん、きっと祐一君を驚かせてみせるよ」
 あゆの頭には既にその何かはあっただろう。
 でも、今はまだお預け。
 本番の楽しみがなくなってしまうから。













「よし、んじゃそういうことでちょっとこっち来いあゆ」
 話が一段落したところで祐一があゆに右手で小さく手招きする。
 何だろうと思いつつもしずしずと小股で近づいていくあゆ。
 そして、あゆが祐一の眼前まで来たところで、祐一の手があゆの肩に回され……。
 瞬間、あゆの体がふっと宙に浮いた。
「うぐぅ!?」
 祐一の顔がすぐ目の前にある。
 そして自分は宙ぶらりん。
 あゆは自分の置かれた状況を理解して本日何度目になるか分からない驚きを示す。
 背中と両足に回された祐一の両手。
 いわゆるお姫様抱っこの体勢である。
 後ろでは『わ』とか言いながら名雪が口をぽかんと開けていた。
 あゆも名雪も驚くのも無理がない。
 祐一が人前であゆにこんな積極的に接触するのは滅多にないことだし、それがよりによってお姫様抱っこだったのだから。
 だが、当の祐一はさも当然といった顔でこう言った。
「こんな格好させてるんだからこれが普通だろ?」
 プリンセスをお姫様抱っこ。
 なるほど確かにそれが自然だ。
 そう思った名雪とあゆは顔を見合わせて『そうだね』と笑う。
 それからしばらくの間、あゆは祐一の腕のぬくもりを楽しんでいた。




















 だが、これはあゆと祐一の物語である。
 こんなもので終わるわけがなかった。
 あゆを抱いたまましばらくダイニングを歩き回っていた祐一が窓の外を見て突然一言。
「そうだっ」
 と言った瞬間から騒動は唐突にやってきた。
 傍で見ていた名雪と、祐一の腕の中のあゆに嫌な予感が走る。
「このまま花見に行こう」
「えええええっ!?」
 あゆ絶叫。
 無理もない。
 仮にもあゆはドレス姿である。
 そんな格好で花見に行く人なんかまずいまい。
 行っていけないわけはないだろうが、注目の的になるのは間違いないだろう。
「で、でも、こんな格好だと皆が注目するよ」
 そう考えて、抱かれたままの体勢で抗議するあゆに。
「祐一、さすがにそれは恥ずかしいよ。お花見はいいけど」
 同席者の立場から抗議する名雪。
 だが、祐一は平然とした様子で言い張った。
「俺が花見客にあゆを見せびらかしたいんだ!」
「そんなこと言われてもボク困るよ。降ろして〜」
「大丈夫だ、今のあゆなら桜も霞む。来年は『花よりうぐぅ』の伝説を作れるぞ」
「そんな伝説いらないよっ」
「任せろ!」
 既に祐一はあゆの言葉を聞いちゃいなかった。
 そして、本当にそのままあゆを抱えて家を飛び出していく。
 彼にとって、この季節はそういう衝動的なモノが沸く時期なのだろう。
 春だから。
「……お母さん」
 助けを求めるように母を見つめる名雪。
 しかし、すぐにそれが無駄であることを知った。
 彼女の母は賑やかなのが大好きだから。
「楽しそうでいいわね。お弁当作ってから追いかけましょう」
「うん、わたしも手伝うよ」
 一旦諦めると名雪も笑顔に転じるのは早かった。












 あゆがいつもと違う格好をしても、祐一が素直になっても、あゆと祐一はやっぱりいつもの二人なのだった。
 ちなみに花見の後で祐一があゆをおいしくいただいたかはまた別のお話。