それは、一体どこまで儚いものだったのだろう。

人の夢で儚いとはよく言う……。

そう、まさに夢のような幸せのひと時だった。

彼女……濃紺の、ダークブルーでセミロングである髪の毛の少女に出会ったのは、去年の秋だった。

出会いはまさに運命めいていて、街角でぶつかり……、まぁ、ベタな話だ。

瞬間俺、皇崎瑞貴(こうさきみずき)は彼女に恋し、求愛して、めでたく付き合うことになった。

古ぼけた小さな公園。昼間も夜も、人っ子一人見かけたことのないそこが、俺たちだけの根城だった。

木漏れ日の指すベンチ。その後ろには枯れた桜の老木。

彼女を待つ時間は何物にも変えがたい楽しい時間だったし、彼女と一緒にいる時間もそうだった。

気付けば季節は一つ変わり、冬になっていた。

強くもなく、弱くもない雪が降る夜。

その日は聖夜、クリスマス。

彼女は自分の誕生日がクリスマスと一日違いなのを悔やみながら、イタズラに笑っていた。



――そして、あまりにも簡単に……、まるで積み木が崩れるように、破局……。



十字路を渡った瞬間の事故。

ドライバーの居眠り運転。

紅く、どこまでも紅く染まるアスファルト。

彼女は笑っていた。

だが俺は泣いていた。

ふがいない、悔しい、どうしようもない、自責の念が溢れる。

その場に救急車とパトカーがつく前に、彼女の命という灯火は吹き消された。

そして季節は一巡し、またも純白の妖精たちが舞い降りる季節がやってきた……。



















季節はずれの桜模様


















なにをするでもなく、ベンチに腰を下ろす。

今日も今日とて、この公園には人影どころかネコの影を見つけることさえできない。

右手に持った空の缶を持つ手は、すでに感覚をなくし俺の視線は公園を見てはいなかった。

今日は聖夜、クリスマス。

商店街や大きな公園、町の至るところは恋人ができたりできなかったりで大忙しの一日。

そんな特別な一日も、ここはまるで隔離された別世界のように受け付けない。

小さな砂場、小さなブランコ、覇気の出ない雰囲気をかもし出す。

ホワイトクリスマスだというのに、降っている雪は俺を祝福しているようには見えなかった。

そう、一年前のこの日……。364日たった今も、俺は未だにあのことを引き摺っている。

彼女が忘れられない、なんていう女々しい理由。我ながら情けないというかなんというか。

「言葉もないっていうのが、いいところ突いてるのか」

はぁ、と溜息。

白く色づけされたそれは、まるで桜の古木に溶け込むように後方へ流れていった。

見上げた空も、降ってくる雪も、隠れた太陽も、灰色の雲も……。

まるであの時あの瞬間から持ってきたような、空模様。

映るのはセピア色の思い出たち。

鮮明に思い出せる写真のような記憶が、ノイズのかかった映像のようにザーザーと頭をよぎる。

「あまりにも酷すぎやしないか?人を嘲っている神ってやつは」

ああそうだ。認めよう、認めてやろうじゃないか。

神の責任なんて、お門違いだ。

全ては、彼女を抱きしめられなかった俺のせい。

全ては、彼女の名を呼ぶことしかできなかった俺のせい。

ああ……、ダメだ。また涙腺が緩んでしまう。

ツー、という擬音と共に、視界がぐにゃりと歪んだ。

缶が手を滑り落ち、雪の上に軽い音を立てる。

雪はそれが義務とでもいうように、深々と、強くもなく……、されど弱くもなく、降り続けた。

両目を瞑る。途端に視界が暗くなる。

暗転。音はなにもない。冷たい、という三文字の機械的な感情だけが、嫌にはっきりと脳に届いた。

眼を開けると、やはりそこには雪の降る大空が広がっている。

満開の笑みをした少女が、淡い碧の瞳を瞬きしながら俺を見ることはもうない。

一瞬見えた薄れ行く幻想を、頭を振って容易く消し去る。

ダメだ、ダメだダメだダメだっ。

こんなことではダメなのだ。

彼女は俺になにを望んだ?

幻影を追い続け、過去に縛られることではないはずだ。

それこそ、彼女が嫌った愚行の最たるものではないか?




「過去を美化する、なんて表現があるでしょ?あれって、きっとその過去が今にあればいいって思ってるからだよ」

「だから私は、それはあまり好きじゃないんだ」

「今を歩むことを止めて、時計の秒針をストップさせる」

「それって、進むことができるのにしないってことでしょ?」

「過去を思い出にするのか、それとも過去に縛られるのか……」

「決めるのはその人だけど……。ならなんのためにその足がついてるんだっての!」





なぜか後半最後の一行は、よくわからない憤りを感じていたのかプンスカと頬を膨らませていた。

「進むことができるのに……、しない、か」

嘲笑の笑みを浮かべる。

あの時は漠然と話を聞いていたが、なんのことはない。俺も過去に雁字搦めにされている一人なのだ。

雪に半分埋もれた足を見つめる。自分の意思と反比例しているような、鉛の塊がそこにはあった。

「はは……。前を見つめるってのも、難しいことなんだな……」

空いてしまった右手で、顔を……とくに両目の部分を覆い隠した。

そうでもしないと、降り続ける雪たちに自分の醜態をさらしてしまう。

掌から漏れた二筋の線は、純白で装飾されたベンチにポトンと落ちた。






「……泣いて、るんですか……?」





ふいに聞こえた、少しハスキーがかった親しみのある声。

聞いたことはないはずだ……。いや、だが……。

掌が顔から離れる。視界が一気に広がり、歪んだ景色の中に一つの異色を見つけた。

それは、俺の生み出した幻影にしては、あまりにもリアルなもの。

深い深い蒼の髪の毛。

人を吸い込ませるような、碧の瞳。

降り続ける雪よりも白い、純白の肌。

マフラーで口元近くまで隠すその動作も、彼女と似通っていた。

「泣いてます……、ね」

返事をしようと思うが、言葉が出てこない。

せめて彼女の顔を見ようと、涙をぬぐった……。

似ている。確かに、そこにいたのは彼女に似ている別人だった。

一卵性双生児、とまではいかないまでも、輪郭、体格、仕草など、似通いすぎている。

違うところといえば、あの「笑顔」に手足が生えたような彼女に対して、こちらの少女は少々口下手で表情を出さない性格らしい。

「折角のクリスマスなのに……、どう、したんですか?」

まるで無表情。だが一瞬だけ、哀れむような……、自分のことのように悲しむ顔が浮かぶ。

「ちょっとな、哀しいことがあったんだ」

ようやく声を出せたものの、少し上ずっていてしかも皮肉っぽかった。

心はもう、慌てふためいてパニックを起こし心臓が破裂するぐらいに脈打っている。

もしも隣に転がる缶を今も握っていたら、スチールという事実などは関係なしに握りつぶしてしまいそうだ。

「男の子は……泣いちゃ……ダメ」

「手厳しいこというな……。まぁ、でも今は泣けそうにもない」

泣いている暇があるならば、彼女の顔を見つめていたい。

「でも……、泣きたい時は……思いっきり泣くのがいいです……」

「っておい、なんだその究極の矛盾は」

無表情のままよく意味の通らないことをいう彼女に、少し苦笑いをする。

それが、今日の日付で始めての笑みだということに気付いた。

「泣いて、泣いて、涙が枯れるまで泣いたら……、その後は、思いっきり笑う……です」

「そうか――あっはっはっはっはー。これでいいのか?」

最早作り笑いの域を声、乾いた笑い声が小さな公園に木霊する。

まったく、最高の喜劇というのもだ。

彼女を失ったその一年後に、また彼女に逢わせてくれたとでもいうのか?

「ダメ……です。それは思いっきりじゃない……です」

ベンチに座る俺を見下ろす彼女は、その細い人差し指を軽く上げる。

……これは、アレか?保母さんなどが子供にやる、「めっ」てやつか?

あまりにも覇気のなさすぎる表情でやられたので、なにがなにやらわからなくなってきた。

「ていうか、あんた何しにここに来たんだ?」

ここは誰も通らないような細道を歩き、ろくに整備されてない地面がでまくりの道を歩いてやっとつくところだ。

さすがに道に迷って、という言い訳は通用しない。

「……あなたに……あいに」

「……あー、すまん……今の俺にツッコミを求めているなら無理だぞ」

「……?……??」

心底不思議そうな顔で、彼女は「ツッコミ……?」などと呟いている。

一体どうすればいいというのだ。もう心臓の一つや二つ、破裂いていてもおかしくない。

「……それは置いといて……」

彼女はスタスタと俺の方に歩いてくると、ベンチの雪をどかし俺の左側に座った。

そこか……「彼女」の定位置だった場所……。

「笑ったら……きっと世の中変わります……」

どんな風に、と問いかける俺に対して、少女は初めて微笑んだ。

いや、それは微笑みと称すにはあまりにも小さな笑み。

だが……それでも俺が見とれるくらい、その小さすぎる笑みは綺麗だった。

「奇跡……起こります」

「……奇跡?」

「はい、奇跡……」

一旦会話が途切れた。

いつの間にか、雪の強さはやわらいでいる。

彼女が口を開いたとき、雪はすでにやんでいた。

「こうやって、あなたに逢えたのも……奇跡と言う名の運命……」

「……おもしろいこというな。だが生憎、今の俺は奇跡とか運命とか、そんな不確定要素は信じちゃいないんだ」

そう、さ。

奇跡なんて、都合よく起こるものではないんだ。

偶然を大げさに言えば奇跡になり、つまるところ偶然と奇跡の境界線は紙一重。

だから彼女は偶然助からず、奇跡も起きなかったのだから……。

「それでも……私は、あなたに三回も逢えました……」

「え?そうか……?俺、あんたに逢ったことないと思うんだが……」

記憶の塊を掘り返す。

思い出せない、という表現が正しいのか、それともあった事がないのか。

ともなく、俺は彼女の顔に見覚えはなかった。

もしあっていれば、きっと忘れないだろう。それが去年までの間だったら、特に。

「最初は、商店街ですれ違いました……」

「いや、待て。それは逢ったには入らないだろう?」

「次は……公園で、あなたを見ました……」

俺の言葉をスルーし、彼女は言葉を連ねる。

しかし、それも出会ったというカテゴリに属するかと言われると、少し自身がない。

「三度目は……ここで、泣いている貴方に出会いました……」

「ああ……まぁ、そうだが……」

今になって、この少女に泣き顔を見られたという事実が思い出される。

なんとなく……どうしてか、少しいたたまれない気持ちになった。

「孤独の中を迷走するあなたに、私は出会えました」

先ほどまでからは想像もできない、口調が違った一声。

運命、という言葉を信じてしまいそうなほどに、その美声はどこまでも気高かった。

「人は……一人では生きていけません……だから、人を愛する……です」

彼女は顔を俺の方に向け、マフラーを下に下げた。

形のいい唇があらわになる。

「人という字は、よく出来ています……一つの棒が、もう一つを支える……です」

この独特の喋り方は彼女の癖なのか、視線を俺からはずすと、彼女は空を仰いだ。

「信頼できる人に出会ったとき、心から愛する人に出会ったとき――





――その瞬間に、初めて人は【人】となりえる……です」





「へえ……以外に哲学的なんだな」

素直に感心させられた。

人は【人】となりえる……ならば今の俺は、確かに人間たるものではないかもしれない。

「……前半は……偉大なる金八先生のお言葉……です」

「あ、そう……」

……まぁ、俺が感心させられたのは後半部分なのだが、そういわれると少し微妙な気分になる。

それが人間の性質というものである。

「でも……一人じゃ決して起こせない奇跡も……二人でなら、起こせると思い……ませんか?」

「ああ……それでも、起きないときは起きないし、起きるときは起きる、そんなもんじゃないか?」

俺の答えをどうとったのか、彼女はまた先ほどの小さすぎる笑みを見せながら空を仰いだ。

「そう……ですね。でも、起こりますよ……奇跡は……起こせます」

これもやはり、力強い口調。

不思議な感覚だ。まるでそこに「彼女」がいるような、そんな錯覚に陥る。

「だって……ほら、奇跡は起きるためにあるものだから……」

そして、彼女は笑った。

「彼女」のように、どんな人も明るくさせるような、満開の笑み。

空を見て、雪の止まった世界に微笑んでいた。

……ひらり、と舞うものが一つ。

綺麗な桃色の……いや、それでは語弊が出てくるか。

綺麗な桜色の、老木の咲かせた桜の花弁。

「そういえば、あんたの名前、聞いてなかったな」

「……私、ですか?私は――」





――さくら……です。





木枯らしに揺られた花弁が一枚、彼女の髪をピンクに染めた。