闇があった。
人の持つ光が届かぬ闇が、そこにはあった。
だが、闇は同時に光を内包している。
矛盾。しかし在る。
人の住む街は遥か彼方の眼下に、闇を含む光を投げる月は、遥か頭上に。
そして、傍らには大きな桜の木が、一本。
ライトアップなどと言う無粋な事をせずとも、その古木は静かに自らを闇に浮かび上がらせていた。
孤独と孤高の丘に、彼は佇む。
そんな、春のある夜――
桜
「春が来て、ずっと春だったらいいのに……、か」
祐一の呟きが、春の風に染み渡ってゆく。
冬の冷たく斬り裂く風でも無く、梅雨時の不快になるような湿った風でも無く、それでいて春の嵐のような強い風でも無い、優しく身を撫でてゆくそよ風。
祐一には、その風がこの場に相応しい風のように思えるのだった。
だが、その優しい風ですら、桜の花にとってはいささか強過ぎるらしい。そよ風が吹くたびに、花びらがひらりひらりと夜空を舞う。
月明かりの下を舞い落ちる桜色は幻想的な雰囲気を醸し出し――それは、祐一に溜息を吐かせるのだ。
「――綺麗だ」
無意識の内に吐き出される言葉は、彼の心の奥底から出てきた想いだ。物言わぬ桜は、ただ己の命を咲かせ散るのみ。
しかし、その花の在り様が、祐一は好きではなかった。儚く美しい花は、一夜にして夢であったかのように散ってしまう。それが、彼が想う少女が在った在り様と重なるようで……。
「だけど、儚すぎる」
「それが、桜ですから」
自らの声に答えるような声。祐一は、その声の主を知っている。知っているからこそ、驚きもしないし振り返りもしない。
今晩は、その人物に連れられてこの場所に来たのだから。
「美汐は、桜は好きなのか?」
「いえ、嫌いですよ」
帰ってくる答えは、半ば矛盾した物だ。嫌いな物を見に行こうと言う美汐の思考に祐一は首を傾げ、しかし納得した。
美汐の言葉に納得させられる何かが、この桜にはあるのだ。
「そうか。でも……、綺麗だもんな」
「はい。この桜だけは、特別なんです。特別に好きで、特別に嫌いな……」
動かない祐一に、桜色がうっすらと滲んでゆく。その隣に並ぶ美汐もまた、頭に幾ばくかの花びらを乗せていた。
俯く事無く、前を見て桜を眺める美汐を見て、祐一は素直に綺麗だと感じる。
「どうして、俺を連れて来たんだ? この桜には、美汐なりの思い入れがあるんだろ?」
「だからこそ、ですよ。祐一さんにも、この桜を見て欲しかったんです」
確かに、この桜の木は美しい。人に知られず静謐と佇むその姿は、惹き込まれるような気さえするほどだ。
だからだろうか、祐一にはその美しさが怪談じみているような気さえするのだ。消極的無神論者、曖昧な現実主義者を自負する祐一は、そんな自分の思いを馬鹿馬鹿しいと考える。
「……ただの桜とは思えないな」
しかし、それを否定しきれないのも事実だった。圧倒されているのだ、この物言わぬ木に。
「案外、根本に死体が埋っていたりするのかもしれませんよ?」
「おいおい、冗談はよしてくれよ。一瞬ヒヤッとしたぞ」
悪戯っぽく微笑む美汐に、苦笑する祐一。……その美汐の微笑みに影がある事に、祐一は気付いている。
気付いているが……、祐一には何も言えない。そこに何があるのか、祐一には分からないから。だから、黙ったまま。
「……ここは、本当に特別な場所なんです。あの日、桜が見たいと言っていたあの子を連れ出して来た……」
「俺なんかを連れてきて良かったのか?」
「祐一さんがいなければ、私はここへ来る事が出来ませんでしたから。本当に、何年か振りにこの場所に来たんですよ」
美汐は、前へと歩く。そっと桜の幹に触れる美汐の後姿を、ぼうっとしたまま見つめる祐一。
慈しむように、愛しむように、桜の木を見上げる美汐。
「あの子にも、見せたかった……」
「美汐……」
もう、どうしようもない程の感情が溢れる。祐一は、その感情に身を任せた。
祐一には分かってしまうのだ、この不器用な少女が、心の内で涙を流しているのが。涙は流れず、声も震えず。でも、泣いているのだ。
仮面を被る事になれた少女の心は、繊細で傷付きやすい。
「祐一さん、あの子は――あの子達は幸せだったのでしょうか?」
「そうに、決まってるさ」
そうじゃなきゃ報われない。そう思いながら、祐一は力を込める。
「少し、痛いです」
「抱き心地がいいからつい、な」
祐一は、少し力を緩めた。自分の想いをこんな形で少女にぶつけてしまった事に、少し罪悪感を感じる。
「祐一さんだから、許すんですよ?」
「美汐だから、甘えてしまうんだって」
ざぁ、と風が吹く。
少し強く吹いた風は、辺りを桜色に染めてしまう。
ひらりひらりと舞う花びら。二人は、そろってその幻想的な光景を眺める。
「桜は、どうしてこんなに綺麗なんでしょうね……。綺麗じゃなければ、こんなに儚くなければ、私は……」
「想いが、咲かせているからさ。だから綺麗だし、だから儚い」
美汐が、祐一を見上げる。その視線に気付いているのか気付いていないのか、祐一は桜を見上げながら話を続ける。
「桜の下には死体があるって怪談は、あながち間違っちゃいないんだよ。根本に死体の埋っている桜は、美しく映える花を咲かせるって言うけど、それは死者の想いを受け継いでいるからなんだ」
「なら、この桜は、あの子の想いが咲かせているのですね……」
祐一の腕をするりと抜け出し、美汐は桜吹雪の中を舞う。自分のセリフを取られた祐一は、そんな美汐に少し微笑む。
「祐一さんって、意外とロマンチストなんですね」
「そうかな?」
「そうですよ」
微笑む美汐の姿に、祐一の心臓が跳ね上がる。特別美人だという事もなく、特別可愛いという訳でもないけれども、彼女の何気ない仕草が心を揺さぶり動かすのだ。
「祐一さんがそんな事を言うから、私まで信じそうじゃないですか」
「なんだ、美汐も結構ロマンチストじゃないか」
「祐一さんのせいですよ」
二人は、互いに向かい合って立つ。
「桜、やっぱりまだ嫌いか?」
「分からないです。でも……、好きにはなれそうです」
「そうか」
「祐一さんは、どうなんですか?」
「俺は元から好きでも嫌いでもないさ。もうちょっと図太く咲いていてくれればもっと好きになれるんだけどな」
祐一の身も蓋も無い言葉に苦笑する美汐。そんな彼女の横へ並ぶ祐一は、ふと思いついたように美汐に話す。
「今度また、みんなと一緒に見に来ようか」
「それもいいですね。私達だけの秘密にしておくには、少しもったいない気もしますから」
二人は、肩を並べて歩く。優しく降り注ぐ月の光の下、桜は静寂を纏ったまま、ただ咲き乱れるのみ。
最後に、美汐は後ろを振り返った。それにつられて、祐一も振り返る。
刹那、風が二人と木の間を吹き抜ける。木々のざわめきと、舞い散る桜。
髪を押さえながら一言呟いた美汐の肩を、祐一は静かに抱き寄せた。
さよなら、という言葉が風に散る。
美汐がずっと言えなかった言葉。
美汐がずっと言いたくなかった言葉。
桜は――ただ佇む。舞う花びらだけが、美汐へと舞い落ちる。
一滴の涙と微笑みが、春の闇に消えた。
Fin