どうしようもなく善い奴だったから、私はそいつの事を忘れた。


宴の後に


半年前、まだ彼女はこの世界に在った。如何に儚き灯火であろうと、それは厳然として存在していた事は紛れも無い事実である。あの声、あの顔、あの身体、あの仕草、あの考え、全てが私に生きる喜びを――いや生きる目的を与えてくれた。私にとって、彼女以外は何もかもが些事であると言えた。
勉強にしたって休学中の彼女に教える為にやった結果が学年上位の常連だっただけの話であって、別に良い成績を取る事自体が目的な訳ではなかった。友達の選定にしたってそうだ、彼女の益になるかならないかだけが私の基準だった。彼女が私の側にいる、ただそれだけが私の世界だったのだ。
特にこの半年間、私は自分の為に行動した記憶が無い。それどころか医師の言うところには、記憶そのものが部分的に欠落しているらしい。一種の記憶喪失だと、私を診察した医師はそう言った。選択健忘の一種だと、そう私や家族に告げていた。
私にはそんな自覚は無い。もっとも、既にその程度の欠落がそれほど大きな事態を生むようには思えなかった。
どうでも良い。それだけが私の頭の中に残っている。誰かが彼女の側にいた、それは何となく記憶の隅に残っている。顔は分からない。名前も覚えていない。声も思い出せない。ふとした時にそれの面影が脳裏を過ぎる、その程度の記憶しか残ってないにも関わらず――
私はそいつが憎い。怨嗟の炎が対象を失って、私自身を焦がしている。狂おしく、私だけではどうしようもない程の巨大な感情の嵐が心の奥底で吹き荒れている。表面に出る事もなく主の制御を受け付けなくなった魔物は、ただひたすら自らを傷つける。
制御しようにも、暴走した原因が記憶の檻の中なのでどう手を付けて良いのか分からないのだ。かつての私はどうしようもなく辛いから、その人間を忘れようとした筈だ。思い出したくもないから、記憶に鍵を掛けた筈なのだ。だがそのお陰で、消し止め方の分からない憎悪だけが残り私の心を傷つけている。
傷薬ならば山程ある、だけれど傷の種類が分からなければどうしようもない。今の私はそんな感じだ。自分が受けた傷の正体が分からず、ただ訳も分からず恨みや憎しみ、時には殺意と戦う毎日。自己防衛の一種とも言われる記憶喪失が自らを苦しめる結果となっているのだから、なんとも皮肉な話である。
最高学年に上がって何とか学校も休まずに登校しているけど、つまらない毎日の連続だった。山も無し、谷も無しの円環は人からやる気を奪っていく。やる気を起こさせるものが無いから、授業が耳に入らない。彼女がいないだけで、こんなにも世界が変わるなんて思ってもみなかった。私の日常がこんなにも無味乾燥なものだったとは、今まで気付かなかった。
饒舌ではなかったけれど、私に心を開いてくれた彼女はもういないのだ。彼女がこの世に存在しない事を確認する作業は苦痛ではあったが、既に慣れてしまっている自分がいた。彼女が死んだ事に起因して私の記憶が封印されてしまったのは、間違い無いと思う。まるで開けるための鍵が目的の箱の中に入っている様なものである。本末転倒な上に、処置不可能な感情(もの)を残してくれた記憶喪失前の私には、恨み節の一つでもくれてやりたい気分だ。
空を分厚く覆う曇天はまるで私の心を、未来をも現しているみたいだった。生きる理由も希望も失せてしまった抜け殻の様な私には、世界は広すぎた。何処までも続く地平線の果てに何かあると期待する程に子供でもなく、さりとてこの無限に等しい有限で自分に必要なものを見付けられる程に大人でもない。
蒼天の下に這い蹲って生きる事に何の意味があろうか。それでも私を生かすのは、私自身の未練故であった。漠然とした死への恐怖と、茫洋とした生への執着が私を自殺へ導く事をさせないのだ。私とは、なんと醜い生き物であろうか。
教室でも私に話し掛ける者は誰一人としていないのも、当然と言えば当然である。
今日という日もまた、私の様な抜け殻に話し掛ける奇特な人間はいなかった。

翌日近所の雑木林で変わった生き物を発見したのも、注意力が八方に飛んでいた故であろう。別に絶滅危惧種でもなければいておかしいと言う程の生き物でもないのだが、この様な人里で発見出来る事は少々珍しいと言えた。
それはちょっとした偶然であったのかもしれないが、ほんの少しの奇跡であったのかもしれない。その生き物から、何故だか懐かしい匂いを嗅いだ気がしたのだ。
それは綺麗な黄金色の毛並みを揃えた、子狐である。相手(?)の方も私を認識したようで、私に顔を向けている。実物を見たのは初めてではなかったけれど、これ程間近で司祭を観察するのは初めての体験だった。凛々しいと言うよりは可愛いと言った方がしっくりくるその生き物に、私は親近感を抱いた。
人里と言う狐にとっての異世界でただ一匹で生きるその姿と、生きる目的を失って独りになった私の境遇を重ね合わせたのだ。曲がりなりにも自立するその子狐と、自立すら出来ずに壊れたままの私を重ねるのは失礼な気がしたが親近感までは消えなかった。独りと言う点では同じだと自らに言い訳をしながら、私は接近を試みる。
一歩、二歩、三歩と子狐を警戒させない様にゆっくり、そして確実に近づく。何をやっているのか、と私の一側面が疑問を投げ掛ける。するも別の側面が感情そのもので答える。言語化出来無い想いが冷徹な私の分身を打ち据えると、疑問を投げ掛けていた分身は沈黙する。
子狐はその場から動かない。人間と言う全く別種の生物が接近していると言うのに、その場から後退する事も逃亡する事もしないのだ。私は別に狐が食べる様なものを持っていないにも関わらず、だ(そもそも狐が何を食料とするのか知らないのだが)。結局私は危害を加える存在なのかどうかを選定する為に留まっているのだ、と心の中で適当に結論付けた。
そのまま一歩一歩確認しながら進んでいって、結局私は子狐の前まで来てしまった。これには流石に私も驚いた。普通動物は警戒心が高く、自分の安心出来る領域内に入れたりはしないものなのだ。人間にも当て嵌まるこの大原則は、野生動物の中でも生きている筈である。動物において大原則が通用しない場合の最も足る例は、その動物が以前人間に飼われていた事がある場合のみだ。
「お前、誰かに飼われていたの?」
 返事は当然返ってこない。他種族間の壁を超えて尚言語を理解しているのかなんて、私には分からない。問い掛けはただの自己満足の域を出ず、一元的・一方的な理解は価値観の押し付けに等しい蛮行である。そんな事は分かっている、だが分かっていても可愛らしい生き物に対してやってしまうのは女の悲しい性だろうか。
 子狐は変わらず私の前に立ち、見上げているのみである。私の下らない葛藤など知る由も無いだろう、無垢な瞳が心に痛い。
常識的に考えれば、飼われていた可能性は限り無く低い。狐を宿主とする寄生虫・エキノコックスの存在がある限り、狐を飼おうとする者は現れないだろう。それでも彼らに接触しようとするのは余程酔狂な狐好きか、それとも無知なる者――子供か精白だけである。この近所の人間達に餌付けされていた可能性も無くはないが、やはり現代医療では完全な除去が不可能な寄生虫を呼び込む可能性を冒してまでする事ではない。
私が分かった事は一つ、この狐が非常に人馴れしていると言う事だけだった。これ程まで人間が接近しても逃げ出さなかった、それだけが判断材料だったがそれで必要十分だろう。普通はここまで接近する前に逃げる。
そう考えた時、この子狐に私は認められた気がした。世界が私を受け入れている、そんな感じがしたのだ。それこそ自己満足にして一方的で傲慢な理屈の押し付けに相違無いが、最早失うものなど何一つ無い私にはどうでも良い事だった。
「名前、付けてあげようか」
 それは自然に手垢を付ける、出すぎた考えだったのかもしれない。他種族に対してここまで傲慢になれる種は人間以外には存在しまい、意思疎通も定かならぬ者に対して勝手な価値観を押し付けるなどと言う暴挙に出るのだから。
 だがその傲慢さこそが人類の特性でもある事もまた、事実である。人間とは野蛮な行為を自らに言い訳を課す事で誤魔化し、正当化せずにはいられない生き物なのだ。人はとても弱く、脆いから自らを守る鎧と矛を欲した。それが武器であり、宗教であり、階級であり、学問であり、組織である。精神的にも肉体的にも脆弱な人間が台頭してこられた理由こそが、その野蛮にして極めて傲慢な思考回路であるのだ。
 私は少しの間子狐の名前を考え(本当に少しの時間だった)、結論を出した。
「殺村 凶子」
 私が適当に口に出した名前(?)に対して、子狐は見事なまでの速度で反応した。
即ち、前足で私の脛の辺りを叩いたのだ。まるでコメディアンの突っ込みの如き電光石火の反応に、私は驚かざるを得なかったのは当然だろう。この子狐は人語を解するのだろうか(ところで狐語なんてあるのだろうか)、試しに確認を取ってみる事にした。
「殺村 凶子は、嫌?」
 また前足で繰り出される一撃が私のソックスの上から伝わった。信じ難い事だが、この子狐は本当に人語を解するのかもしれない。子狐に対する興味は、私の中でどんどん大きくなる。
「じゃあ……」
 今度は適当ではなく、もっとまともな名前を考える事にした。それは久しぶりに楽しい時間であった事に、私が気付く事はなかった。記憶の欠落が起こる前の、穏やかで幸せな刻が荒んだ心に染み渡る。
 私はその子狐が何の故でこの様な人里にいるのかを知らない。
 子狐は私が何の故でこの様な雑木林に分け入ったのかを知らない。
 それでも私の凍てついた心は少しずつ、少しずつあの日以前の暖かさを取り戻していったのだ。

 学年が進級してから早一ヶ月経ったが、相変わらず私に人間の友達は出来ていない。私の心を和ませてくれるのは、近所の雑木林に行くと必ず逢える子狐のみであった。退屈な授業をやり過ごして放課後に用事がなければ鞄を引っ掴み、すぐにでも子狐の所に飛んでいく。それがいつの間にか毎日の日課になっていた。
 いつもの雑木林に近づくと、いつもとは少々趣が違っている事に気付いた。この雑木林は自然公園に隣接しており、何本もの桜が植えられているのだ。そして桜は見事に七分咲きになり、華麗な花を魅せている。それは良い。だが問題は桜ではなく、その根元にあった。
 問題とは、その桜の根元には宴会を開いて騒がしく酒を喰らう集団がいる事だった。それを見た時、私の頭は瞬間湯沸かし機の如く沸騰した。彼らは別に悪い事をしている訳では無いだろう、花見をする事自体は日本に古くからある伝統行事であり何らおかしい所は無い。だがそう頭で考えても、怒りが後から後から湧き出してくる。
 聖域を侵された、そう表現するのが一番近かろう。原因は私と子狐、一人と一匹だけの世界だと私が勝手に思い込んでいた事である。こんなにも人が多くては子狐も姿を現さないに違いない。それどころか元来用心深さを備えた狐と言う種の事だ、二度とこの雑木林に近づかないかもしれない。
 それでも、私はいつもの地点へと歩を進める事にした。
私の受けた衝撃は私の心を急速冷凍させるに十分な威力を秘めていた。それでも一抹の希望を自らに言い聞かせ、奮い立たせる事が出来たのは一重に子狐の性格故である。子狐は人間がすぐ側まで近寄っても逃げる事が無いくらい、人馴れしていた。ひょっとしたらこの喧騒と人の気配を感じても尚、留まっているのかもしれないと思ったのだ。
そして、子狐はいた。
ただし、顔も知らない人間も同伴であった。
再び私の中を黒い感情が支配する。それは嫉妬、支配欲や独占欲から来る負の感情である。また、他者は私から大切なものを奪うのか。その理屈が理不尽極まりない事は承知の上だったが、感情は納得しない。
それは昔味わった心地である。大切なものを奪われるのは、これで何度目だっただろうか。
「あなたは誰ですか」
 質問と言うよりは、詰問に近しい物言いである。それはまるで子供、お気に入りの玩具を取られた子供そのものの幼稚な行動であった。言われた本人もまた私の失礼な言動にいささか気分を害したようで、剣呑な空気が周囲に張り詰める。
「人に何か尋ねる時は、自分から名乗るものでしょう」
 凛とした、透き通った声だった。私と同年代と思しき女性――いや少女は真っ直ぐに私を見据える。背格好は私と変わらず、そして服装も私と同じ高校の制服を着ている。決して喧嘩沙汰が強そうには見えないが、いざとなれば絶対に引かないと言う不退転の決意がその少女を凛々しく見せているのであった。
 しばしの間睨み合った後、意地の張り合いをしてもしょうがないと折れたのは私だった。
「ごめんなさい、私は美坂 香里。あなたは?」
 私が切り出すと、少女も臨戦態勢を解いて軽く会釈して自己紹介を始めた。
「こちらこそ大人気無い物言いでした、天野 美汐です。この子は真琴、沢渡 真琴」
そう言って子狐を抱いて私の前に出した(勿論彼女はエキノコックス対策だろう、マスクやら手袋やらロングブーツなどで完全防備されていた)。真琴、しかも苗字が沢渡。何だか人間みたいな名前で少しおかしかったのだけれど、妙に人間臭いこの子狐には丁度良いのかも知れない。
真琴。舌で転がしてみても、何だか気持ちの良い名前である。すぐに私は子狐の名前を気に入った。
「では、美坂さん。今後も真琴と友達でいてあげて下さい」
 その物言いは酷く切ない響きがあったけれど、私は知る由も無かった。
「香里、で良いわよ」
 私の挑戦的な物言いの裏に含まれていた安心感を、彼女は知る由も無かった。

繰り返す物語が今また、始まるのである。