冬が終われば春が来る。

 桜が咲いたら会いに行く。

 だからそれまで、待っていて――。

















桜の咲く頃






 4月初頭。
 長く続いた北国の冬もどうにかこうにか収まりを見せ、まだ幾分冷たいながらも春一番が街を駆ける。長期休暇というにはあまりに短い春休みだが、来たる新学期に向けて英気を養うものとすれば充分すぎる日数だ。むしろ過度の休養は精神状態の腐敗を招く。まして彼、相沢祐一には、勉強でも運動でもこれといった目標が存在しない。居候にしてはあまりにも恵まれた環境と相まって、自堕落な日々を送るであろうことは本人なくとも察しが付いた。だからこそ、何かと理由をくっ付けては毎日のように外へと連れ出してくれる後輩には感謝している。
 もう少し計画的な買い物をしてくれれば尚良い。

 「相沢さん、次はあのお店です」
 「……あそこは昨日も行ったはずだが?」
 「今日は違うコーナーを見るんですよ」
 「一回で済ませろっての!」
 「次からは気をつけます」
 「本当だな?」
 「確約はできませんが、努力はしましょう」

 思わず憮然とする祐一を尻目に、年齢に不釣合いな言葉遣いで年頃の少女らしくクスクスと笑うのが天野美汐。
 奇妙なほど落ち着き払った仕草と十代半ばにして達観したように冷めた視線。彼女を周囲から孤立させると同時に、その性格を痛烈に特徴付けていた冷たい表情は最近なりを潜めている。少なくとも祐一と一緒にいるときは常にやわらかい雰囲気をまとうようになっていた。ほんの二ヶ月前まで微笑み一つ見せなかった少女が、である。それが今やウィンドウショッピングの合間に冗談交じりの談笑を交わすなど、人間変われば変わるもの。日増しに口数が増え、行動は積極的になり、時折見せる満面の笑顔など思わず見とれてしまうほど綺麗であった。そんな後輩の付き添い役は――例え荷物持ちだとしても――光栄でもあり気恥ずかしくもある。どちらにせよ、悪い気分でないのは確かだが。
 先のやり取りに二言三言言葉を足して、ご指名の書店へ移行する。そう大きくもない田舎の本屋だ。2,3度足を運べば自然とどこにどういった類の本が配置されているかは記憶出来るし、店内全てを見て回ったところで一時間もかからない。癖っ毛の後輩もご多分に漏れず、入店するなり目当ての棚へと直行した。
 本日発売とある漫画。見覚えのある題名。思い出すのに時間はかからない。当然だ。アイツの一番好きだった本。祐一は妻でもあり、恋人でもある少女の名前を思い浮かべた。
 沢渡真琴。
 借り物の名前と仮初めの身体。重すぎる代償を引きずってまで、温もりを求めた狐の子供。胸の疼きはまだ収まらない。やはり出かけて良かったと思う。自室に篭っていたところで、会えない辛さが募るだけだろうから。
 美汐がそこまで考えていたかどうかは定かでない。彼女にはまだ謎な部分が多い。もっとも2ヶ月そこらで底が見えるほど浅い人間だなどとは到底思えないのだが。

 「この漫画――」
 「……ああ、真琴が好きだったやつだろ?」
 「はい。……いえ、それだけではなくて」

 困ったように微笑むと――。

 「もう少し大きな本屋なら、一週間前には入荷されてるはずなんです」

 真琴のためか。自身のためか。あるいはその両方。いずれにせよ、少女漫画は似合わない。女子高生には。中でも天野美汐には。
 年老いた店主の、けれど不思議と危なげなく包装を施す様子を横目で見ながら、祐一は本日の予定を頭の中で反芻した。といっても大したイベントは入っていない。順番に買い物をこなして最後はものみの丘まで足を運ぶ。あとは柔らかい風を受けながら、二人寝そべって話をする。何のことはない。いつも通りだ。ただ昨日まで毎日のように続いてきた春休みの日課とは違うことが一つだけ。今日は美汐の話を聞く。今日は美汐が話を聞かせる。
 天野美汐に会いに来た、一匹の狐のお話を――。

 「お待たせしました。それでは行きましょうか」
 「ああ、そうだな」

 しわがれた声に見送られ、肩を並べて店を出た。途中、コンビニで肉まんを三個購入。一つは祐一の分。一つは美汐の分。最後の一つが真琴の分。4個買う必要はないらしい。そのまま町の外れへ向かう。




 道中、鈴の音を聞きながら――。










†     †     †











 「小説の好きな子でした」

 ヤな子供だな、おい。
 口まで出掛かった言葉を肉まんと一緒にそのまま飲み込む。その辺は主に似るのだろうか。そうなると真琴の我が侭で単純で社交性がないのも祐一に似たことになる。それは激しく否定したい。

 「最初は、私が読んでいるのを横から眺めるだけだったんです」

 当時何歳だったんだよ、お前は。
 再び嚥下。昔語りは続いている。野暮なツッコミは控えるに限る。長話は苦手だが、美汐の言う"あの子"には少なからず興味があった。容姿、性格、趣味、嗜好、向き不向き、得手不得手、器用不器用、その他諸々。知りたいと思う。どんなことでも。

 「そのうち一人で読むようになって――」

 そこで一度、言いよどむ。目は伏せられていたが、表情は間違いなく笑っていた。

 「すぐ飽きたんです」

 思い出し笑いだったらしい。つられて微笑む。多分その子は、小説が読みたかったのではなく、美汐と同じことがしたかっただけだろう。きっとそうだ。真琴の場合は二次元の魅力に取り付かれてあっさりハマってしまったようだが。

 「文字の多さに負けたんでしょう。それからは私にせがむようになりました」
 「本を読んでくれ、って?」
 「……はい」

 請われるままに、読んで聞かせた。求められるまま、側で眠った。言われれば手を繋いだし、頼まれれば頭を撫でた。出かけるときには付いてきて、帰るときにはすぐ後ろにいる。出来の悪い家族の真似事。それでもきっと充分だった。その子にとっては、美汐といられるだけで良かった。元々想いは一歩通行。顔も知らないどこかの誰かが、恋に焦がれて会いにくる。関心を引かれ、愛着がわき、絆が生まれ、そしてようやく異変に気付く。
 それは確かに呪いだ。あまりにも辛すぎる。祐一にはまだ美汐がいた。心の準備も出来ていたし、悔いのない最後を迎えられた。けれど彼女は違う。些細な前触れが高熱へ繋がり、あとは別れの瞬間まで一直線。正確な歳は知らないが、十代前半の多感な時期には辛すぎる出来事。

 「どれぐらい……」
 「え?」
 「その子は、どれぐらいお前の側にいられたんだ?」

 いくばくかの逡巡の後。
 思ったより、滑らかな答えが返ってきた。

 「ひと月足らず、ですね」
 「……真琴と同じようなもんか」

 喜んでいいのか、悲しむべきか。いや、そのどちらでもない。ただ受け止める。それだけのこと。結局のところ、祐一と美汐では何もかもが違うのだから。

 「音読は正直面倒でした。でも私の周りには活字の好きな人っていませんでしたから。同じ趣味、同じ時間を共有できるその子の存在は私にとっても救いだったんです」

 友達がいないのは昔からなんですよ、私。
 そんな台詞を笑顔で言い切る。別段面白くもない話。話すのは苦手。騒ぐのが苦手。だから一人。それは祐一も同じこと。しかし一人の方が気楽というなら。何故二人は今、こうしてここにいるのだろう。
 それは同じ目的のため。祐一の円と美汐の円。中心はまったく違っても、重なる部分が存在する。そのために。そのためだけに。

 「学校が終ったら寄り道しないですぐに帰りました」

 それから夕飯の仕度まで、本を読んで一緒に過ごす。夕飯は一緒に食べる。一緒に片付けをして、一緒にお風呂。また就寝まで一緒に読書。同じ布団で、同じ夢を。夜が明けたら朝ご飯。寂しげな見送りを受けて登校。そんな生活。

 「それがいつからか、学校まで迎えに来るようになったんです……」

 それと並行して。和食一辺倒だった天野家の食卓に洋食が混ざり始める。お箸が持てなくなったのだ。終わりは近い。

 「私の生活は変わりませんでした。多少不自由になってもお迎えには来てくれましたし、言語に障害が出始めても小説を読むときは嬉しそうにしてくれましたから」

 自分一人、浮かれていた。天野美汐はそう考える。しかしやはり学校生活においてさえ周囲に溶け込めない彼女にとって、確かにその子は"救い"だったのだろう。血縁関係はない。けれど家族と同じくらい近しい、最初で最後の、たった一人の親友。華やいだ日々は花火のように。一度だけ輝いて。そして散った。

 「相沢さんは――」
 「……ん?」
 「確かここで結婚式をしたんですよね?」
 「ああ、まあ、指輪の一つもなかったけどな」
 「私も一度だけ、贈り物をしたんです」
 「贈り物?」
 「はい。家族の証に」

 そう言って、胸元から手繰り寄せた銀のロザリオ。シンプルなデザイン。肌身離さず持ち歩いていたのだろうか。所々、傷がある。

 「あの子が好きだった小説で、姉が妹にロザリオを手渡すシーンがあるんです」
 「……」
 「ドラマや映画にも影響されやすくて、困った子です」
 「……あのさ」
 「はい?」
 「それってもしかしてカトリック系の、女子高の?」

 ぼんっ。美汐の顔が真っ赤に染まる。

 「ご、ご存知なんですか!?」
 「名雪の部屋に数冊あった。暇つぶしに読んでみただけだけど」

 今度はサーっという擬音と共に端整な顔立ちが青く染まっていく。赤くなったり青くなったり。まるで信号機。

 「わっ、私は別に同性愛に興味があったりとかしませんからね!?」
 「はぁ?」

 彼自身二,三冊目を通しただけでうろ覚えだが、確かその小説に恋愛要素的なものは少なかったと記憶している。舞台は前述の通り、カトリック系のお嬢様学校。その高等部では先輩が一番親しい後輩にロザリオを渡す習慣があるという設定だった。そしてそのロザリオ受け取った生徒は渡した先輩の"妹"となり、"姉"から学園の諸行事における様々な指導を直接受ける特別な関係になるとか何とか。とりあえず活字は自分に合わないということを痛切に実感した事件であった。

 「ご、誤解のないように釘をさしたまでです!」

 ゴホンと大きく咳払い。そういえば。もしかしたら、昨日本屋で買ったのはその小説だったのかもしれない。話は大きく脱線していた。
 けれど言わんとしていたことはわかる。要はおままごとのようなものだろう。美汐は姉妹の。祐一は夫婦の。しかし他人から見れば単なるお遊びであっても、それぞれにとってはこの上なく大切な儀式だったのだ。姉妹であれば、夫婦であれば。ずっと一緒にいられるのだから。

 「……最期は縁側で迎えました」
 「やっぱり、冬に?」
 「いいえ。桜が満開の、春真っ盛りでしたよ」

 別れには縁のない季節。もしかしたら、その子が真琴に話したのかもしれない。それを羨んで、沢渡真琴は春を欲した。どこにどう接点があったらそうなるのか。狐の世界はよく知らないが、そうだったら面白いと思う。ピントは合っていても"素敵"という言葉は使いったくなかった。何となく、女々しくて。

 「その日は少しだけ体調が良くて、一度着替えさせてあげてから思いついたんです」

 風に当たろう。桜を見ながら。

 「板張りの縁側に腰掛けながら、二人で桜を見上げました」

 手を繋いで、寄り添って。暖かな春の陽射しの下。桃色の花びらが舞う中で。最愛の人に看取られながら。安らかに逝けたことだろう。
 真琴はどうであったのか。憧れた季節に達することなく。冬の終わりに旅立った。それで満足出来ただろうか。疑念は尽きない。

 「相沢さん」

 呼ばれ、振り返る。視線の先には、やはり笑顔のままの少女。何故そうも強いのか。祐一にはわからない。美汐の話の端々から出る沢渡真琴の面影に、度々涙がこぼれそうになる。
 否。
 涙腺はすでに壊れていた。

 「相沢さん、泣かないでください」

 ほっそりとした指が、祐一の目許をそっと拭う。
 彼女は違う。祐一とは違う。こんなにも強い。祐一は違う。弱い。ほんの少し思い出しただけで、こんなにも涙が零れてしまう。忘れることなんて出来るわけがない。何もかもを覚えてる。声も、匂いも、温もりも。でも、背負い込むにはまだ重すぎる。沢渡真琴はもういない。世界のどこにも、いないのだ。

 「――きゃ!」

 可愛らしい悲鳴があがった。一つ年上。しかも男性。一回り大きな身体を受け止めるには、美汐は少し小柄すぎた。でもその慟哭を少しでも和らげることが出来るなら、と。美汐はやや控えめな胸に飛び込んできた祐一の頭を出来るだけ優しく撫でてあげた。それはちょうど、"あの子"にしたのと同じように。もしかしたら、嫉妬にかられたあの子がひょっこり顔を出すかもしれない。そんなあるはずのない出来事に、けれど少しだけ期待して。子供のように泣きじゃくる先輩の耳元で言葉を紡ぐ。

 「相沢さん」

歌うように、囁くように。一言一言。大事に大事に。


 私、あの子が帰ってくるとしたら、真琴の後じゃないかって思うんです。

 だって相沢さんは泣き虫ですものね。

 ……あ、怒りました?

 まあ、最後まで聞いてください。

 相沢さんは、真琴と一緒で寂しがりやだから。

 だから多分、真琴はすぐに帰ってきますよ。

 独りの寂しさを知ってる分、いつまでも相沢さんを一人にしておけないって。

 相沢さんには自分がいないとダメなんだって。

 自分だって寂しかったくせに、そんな理由をくっ付けて。

 そして今にきっと帰ってきて、また相沢さんに抱きつくんです。

 あ、真琴は泣くかもしれませんけど、相沢さんは泣いたらダメですよ?

 男の子ですからね。我慢してください。

 その代わり。




 今だけは、目一杯泣いていいですよ――。











†     †     †











 「姉さまっ!」

 校門の側で少女が叫ぶ。先輩が、同級生が、後輩が、教師が、果ては道行く通行人が。みんな一斉に美汐を見たような気がした。たまらず駆け寄る。
 しかし走る先にいる少女は一体何をどう勘違いしたのか、奇妙な笑みを浮かべ、両手をゆったりと広げて何かを受け止める姿勢を作り始めた。どうやら美汐を抱きとめるつもりらしい。好都合だ。その隙、もらった。美汐の手提げ袋――空っぽの弁当箱内包、総量200gちょい――を顔面めがけてぶん投げる。

 「――あっふぅ!」

 これまた奇妙な悲鳴をあげて、ゆっくりと背後に倒れる少女。ラストスパート。追いついて、背中を支える。

 「姉さま、イタイ!」
 「姉さまじゃありません! どうしてここにいるんですか!?」
 「……どうしてって、姉さまのお迎えですよ」

 周囲の視線が厳しくなる。天野美汐はノーマルです。叫びたくなるのを必死でこらえた。

 「あ、姉さま顔が赤い。ひょっとして照れてます?」
 「ち、違いま――っ」
 「えへへ、喜んでもらえたみたいで嬉しいです」

 ――ああ。ここで笑顔は卑怯だと思う。結局何も言い返せない。一番大切な宝物。自慢したいのと隠しておきたいのが半分半分。誰かに見られるのは恥ずかしい。だけどちょっぴり誇らしい。どうだ。これが私の妹だ。

 「ちょっ、姉さまっ。引っ張らないでくださいよっ」
 「やかましい! さっさと帰りますよ!」

 その細い腕のどこにそんな力があったのか。たかが女の子一人、されど女の子一人。引きずり回すにはそれなりのエネルギーがいるはずだったが。

 「姉さま、姉さま! わたし"ぱふぇ"が食べたいです!」
 「ダメです! 羊羹にお煎餅で我慢しなさい!」
 「姉さま、姉さま! あの"こーら"って実は美味しいんじゃないですか!?」
 「不味いです! 緑茶の足元にも及びません!」
 「姉さま、姉さま! そっちの"からおけ"、夕飯のおかずにどうでしょう!?」
 「問題外です! そもそも食べ物じゃありません!」

 通学路には喫茶店だの娯楽施設だのが多すぎる。普段滅多に外出しない少女。街のそこかしこに興味津々のようだ。一刻も早く学校から離れようと必死の形相の美汐。対して、少女は終始笑顔である。

 「姉さま、姉さま!」
 「はいはい! 今度は何ですか!?」

 かなりの距離を稼いだ。いい加減息も上がっている。美汐は腕の力を緩めた。くるりと少女に向き直り、真っ向から視線を合わせる。少女はニッコリと、本日一番の笑顔を見せた。

 「一緒に帰るのって楽しいねっ」

 ――だから、それは卑怯だと何度も何度も。
 説明しても無駄だろう。無垢で無自覚な光がある。だから美汐は何にも言わずに、少女の頭を優しく撫でた。

 「ええ、そうですね」




 私もすごく楽しいですよ、サクラ――。