ねえ、おかあさん
なに?
桜、きれいだねっ。わたし桜って大好き!
ふふ、そうね……私も好きよ。だって桜の季節は―――――
桜の季節は?
大切な思い出があるから…………
桜色の奇跡
「美汐さん、放課後ですよっ!」
「そうですね」
暦は四月、長い冬を経て花草は芽吹く春の季節。
年度も上がり、二年生となった天野美汐は隣の席の少女からかけられた声に返事をした。
「むう、淡白な返答ですね」
「そう言われましても他にどう返事を返せと?」
「ほら、例えば―――――『なにぃ、そうだったのか!?』とか」
「私は男子ではないのでそんなことは言いませんよ。それに、なんですかその返答は」
「いえ、これは私のお姉ちゃんのお友達がいつもやってるやりとりだと聞いたので…………」
やはり見聞きするのとは大違いですね、奥が深いです。と唸り始めた級友を見て僅かに微笑む美汐。
ほんの数ヶ月前までの彼女にはありえなかったことである。
天野美汐といえば無表情、無感動、無愛想の三拍子が通りの少女だった。
無論、それには幼いころの大切な存在との別れというショッキングな出来事があったせいなのだが、
そんなことを知るよしもない周囲はそんな少女を次第に敬遠するようになった。
美汐自身も人との関わりを避けていたので彼女は常に一人だった。
あの、冬の出来事がなければ。
美汐が沢渡真琴という少女を見つけたのはただの偶然だった。
そして、相沢祐一という先輩に出会ったのもただの偶然。
かつての自分たちを見ているかのような二人。
そんな二人に興味を抱き、自分でもわからない衝動のままに二人に関わっていった美汐。
それは自分から他者へ関わろうとした久しぶりの行動だった。
そして幾つもの悲しみと葛藤と優しさを繰り返して―――――今、美汐は笑っていた。
「美汐さんはこれからどうするんですか? もしよかったら私と一緒にアイスクリームでも食べに行きませんか?」
「いえ、申し訳ありませんが私は今日約束がありますので」
「むむ、残念ですが約束があるのならば仕方ありませんね」
「すみません」
ぺこ、と頭を下げて謝罪する美汐。
いつの間にやら姉からもらったというストールを装備して帰り支度を済ませた目の前の友人は今最も仲がいい女友達である。
確かに雰囲気こそ少しずつ変わって―――――否、戻っているものの未だ美汐の交友関係は狭いままだ。
が、新学年に上がって新クラスの中、物怖じせずに美汐に話し掛けてきたのはこの少女である。
人と再び触れ合うことを決意した美汐にとっては彼女は大切な友人だった。
そんな友人の誘いを断るのだから心苦しいのも当然である。
まあ、まだまだ四月になったばかりなのにアイスクリームは勘弁して欲しいという部分もあるにはあるのだが。
「それで、どんな男性なんですか?」
「は?」
「だから、約束の相手のことですよ。美汐さんの彼氏でしょ?」
「ほへ?」
思わず間抜けな声をあげてしまう美汐。
どうやら友人の中では約束の相手は男の人―――――すなわち彼氏ということになっているらしい。
「あの、確かに約束の相手の片方は男の人ですが別にそういう関係では」
「照れなくてもいいですよ美汐さん! 確かに奥手っぽい美汐さんにそんな人がいたのは驚きですが私は気にしません!
ああ、といっても誤解はしないでください。私はきっちりノーマルですから」
「いえ、ですから」
「いいですね、桜並木でデートですか。それとも花畑でピクニック? お弁当なんて広げちゃったりしてはいあーん♪
そして食後は膝枕で幸せ満開ですねっ」
いや、幸せ満開なのはあんただ、とは美汐は突っ込まない。
周囲のクラスメート達は是非ともそうしたいのを我慢しているようだったが。
「誤解です。相沢さんは」
「ふむふむ、相手の方は相沢さんとおっしゃると。
なんかお姉ちゃん辺りから聞いたことがあるような名前の気がしますが今は置いときましょう。
重要なのは美汐さんも恋する乙女だったという事実のみ!」
「こ、恋する乙女って……」
流石に恥ずかしくなってきたのか頬が染まってきた美汐。
実際に約束の相手の片割れたる相沢祐一とは恋仲などではないのだが美汐としては彼を憎からず想っていないことはない。
というかぶっちゃけ好意はある。
不意に美汐の脳裏に祐一の真剣な顔が浮かぶ。
かーっ
そう思ってしまうと頬が更に染まるのはとめられないのが人間というものである。
そしてそんな彼女の反応を見逃さないのがこの友人だったりする。
「わ、顔が真っ赤になりつつありますね美汐さん。これはいよいよ事実のようですねっ」
「ち、違いますっ」
わたわたと手を振って否定の意を示す美汐。
そんな彼女の珍しい慌てぶりはクラスの注目を集めた。
自分が注目されていることを察した美汐はますますしどろもどろになってしまう。
天野美汐沈没かと思われたその瞬間、
がらり
「あぅ……」
「真琴?」
救いの神、いや彼女の場合は狐か? が現れる。
ツインテールの少女、沢渡真琴だった。
普段は元気一杯な彼女だが、流石に私服姿では目立つのか教室の視線を一身に受けてかなり緊張しているようだ。
「わー、可愛い!」
「誰かの知り合いか?」
「ていうか何故私服なんだこの子?」
途端にやんややんやの騒ぎになる教室。
囲まれた真琴はもう半泣きである。
流石にそんな真琴を放っておくわけにも行かず、連れて教室を出ようと美汐が真琴に近づいた時―――――悲劇は起こった。
「あっ、美汐―――――」
美汐の姿を視界に入れた真琴は一転笑顔に変わり美汐の元へと彼女の名を呼びつつ駆け寄っていく。
そう、これだけならば微笑ましいだけですんでいたのだ。
真琴の続く言葉さえなければ。
「―――――お母さん!」
ここから数十分、阿鼻叫喚の宴が続きます。お好きな騒動をご想像ください。
「ぶははははははっ!!」
「…………笑わないでください、人事だと思って」
学校からの帰り道。
クラスメート達からの追求からようやく抜けることが出来た美汐は心底疲れた表情で道を歩いていた。
「ごめんね美汐…………」
「いえ、真琴のせいでは…………ありますが私はもう気にしていませんから」
「あぅ……」
「天野、顔がまだ引きつってるぞ」
「放っておいてください…………けど真琴。どうしてあんなことを言ったのですか?」
「だって…………祐一はお父さんだから」
「…………?」
どういうことですか? と理由を知っていそうな祐一へと視線を向ける美汐。
するとビクリと体を震わせて明後日の方向を向く祐一、明らかに何かを知っている態度だった。
「相沢さん、何か知っていますね?」
「いや、その、なんだ…………真琴がな、一緒にいたいっていうんだ」
「はい?」
「だからそのな、真琴は俺とずっといたいって。んでそのためにはどうしたらいいかって」
「…………けっこんじゃあ、別れることがあるかもしれないから」
おずおずと口を挟む真琴に美汐は大体の流れを理解した。
要するに真琴はまた何かの漫画本を読んで影響を受けたのだろう。
差し詰め離婚描写のあるものを読んだと思われる。
「…………三つほど質問があります」
「なんだ?」
「まず一つ目。結婚しても別れるとは限らないと思いますが」
「最もだ。けどどうにも真琴は思い切り影響を受けてるらしいんだよな…………」
「真琴?」
「真琴は、祐一とずっと一緒にいたいから…………」
ぎゅ、と祐一の服の裾を掴む真琴。
まるで捨てられないように必死になっている子犬のようだった。
その姿は確かに恋人や妻というよりは娘と言ったほうがしっくりくる。
「…………それに関連して二つ目ですが、何故相沢さんがお父さんなのですか?」
「いや、娘だったら何があっても一生その関係は変わらないじゃないか。
だからそう言ってみたら『じゃあ祐一の娘になる!』って感じで…………」
「理屈はわかりましたが、そういう場合は普通妹というのが当たり前では…………」
「言うな、俺も少し後悔した…………秋子さんや名雪に死ぬほどからかわれたしな」
ふ、と遠い目をする祐一。
どっちかというとボケ属性である水瀬親子にからかわれたのは流石に堪えたらしい。
「私の方が明らかに被害が大きいと思うのですが…………では、三つ目。何故私がお母さんなのですか」
「それは俺も知らん。真琴に聞け」
「あぅ…………だってお父さんがいるならお母さんがいるのは当たり前だし」
「いや、だから何故に天野がその配役になったのかを聞いてるんだが」
「…………だって、思いついたのが美汐だけだったんだもん。それに、祐一と美汐はらぶらぶだし」
ずるっ
ぴしっ
「わっ、祐一が倒れた! 美汐が固まった!」
「おい待て、いつ俺と天野がらぶらぶになった…………?」
「真琴が帰ってくる前から」
「お前は俺たちをそーいう風に見てたのか…………」
「え、でも名雪や香里も二人はそういう仲なんだよって」
「あの、凸凹コンビが。根も葉も…………まああるような気もしないでもないが、勝手なことを」
微妙に墓穴を掘ってる感じの愚痴が口から出てくる祐一。
どうやら多少は自覚していたらしい。
実際は本人達を除けば既に知人間では公認のカップル扱いなのだが。
というか本人同士もかなりあからさまなんだからお互いいい加減はっきりしろといいたい。
ちなみに、美汐はずっと固まっていたりする。
「〜〜♪」
「おい、天野」
「言わないでください。真琴のためですから私は大丈夫です」
「その言葉がお前の限界を知らせてくれているぞ」
呆れたようにため息をつく祐一の左手は真琴の右手に、
ぎくしゃくと擬音が聞こえてきそうなくらい緊張して歩いている美汐の右手は真琴の左手に、
まあ、要するに真琴を中央にして三人は桜並木を歩いているのである。
よく親子がやっているのを見かけるシーンだが真琴の外見では無論そんな風には見えない。
だが他に解釈のしようもなかったりする。
実際に道行く人々の好奇の視線を集めまくっているのだから。
「ねえねえ祐一、こうしてると真琴たち本当の親子みたい」
「には見えん。一体俺たちの年齢を幾つだと思ってるんだお前は。絶対にお前のような大きい子はいないぞ」
「じゃあ、小さい子はいるのねっ! 祐一ったら何時の間に美汐をてごめにしたの!?」
「ま、真琴っ!?」
「違うわぁぁっ!? ていうかお前は普段どんな本を読んでるんだ!?」
驚愕&羞恥で沸騰する美汐と吼える祐一。
祐一の頭の中は手をつなぐ程度ならなんて安請け合いするんじゃなかったという後悔と
真琴の今後の情操教育についての課題で一杯だった。
そんな祐一と祐一を見て笑っている真琴を真っ赤になりつつも見つめる美汐。
もしもここに占い師がいたのならなかなかに愉快な未来予想図が見えたことだろう。
ふわり
「あ……」
祐一と真琴が言い合う中、桜の花びらが一つ肩に降りるのを見て、ふと美汐は思い出す。
あの子―――――桜のことを。
(桜、なんて今思えば安直な名前ですよね)
幼き日の自分のネーミングセンスに苦笑する。
思えば桜との関わりはいつも桜の季節だった。
お互い無邪気に触れ合っていた一度目の出会いも別れも
喜びと、それ以上の悲しみにあふれた二度目の出会いと別れも
こんな、桜が満開の季節だった
(桜―――――)
あなたが帰ってくるのを待っています
忘れていませんよ
あなたがいなくて寂しい
何故あなたは帰ってこないのですか
どの言葉も浮かんでは消え、残るのはただ一つの言葉。
「私は今、笑っていられていますか…………?」
「笑ってると思うぞ」
「え…………」
自分でもわからないくらいの声の独り言に返事を返したのは祐一だった。
「うん、文句のつけようがないくらいの笑顔だぞ天野。思わず惚れてしまいそうなくらいだ」
「なっ、何を」
「いいんじゃないか?」
「え?」
「お前が笑っててもさ。笑う門には福来るっていうだろ? なんかいいことあるかもしれない」
「相沢さんのように…………ですか?」
それは真琴が帰ってきた祐一への皮肉だったのかもしれない。
だが、そこに悪意はなく―――――あったのは単なる疑問。
祐一は一瞬きょとんとした表情で、次の瞬間には美汐をドキッとさせるような笑顔で
「ああ、そうだな」
と笑うのだった。
「ゆういちー、お腹すいた」
「帰るまで我慢しろよ」
「だってすいたもんはしょうがないじゃない」
「…………はぁー、何が食いたいんだ」
「肉まん!」
「だと思ったよ。けどまだ置いてるのか、肉まんって…………」
「あのお店なら昨日まだあったわよ」
「お前って…………」
すでに目的の店へ向かって走り出した真琴を苦笑しながら追い始める祐一。
「天野、お前はどうする?」
「私はここで待っています。桜吹雪を鑑賞するのも風流ですし」
「わかった。けどおまえってやっぱ」
「物腰が上品だと言ってください」
「む」
不服そうな顔をしながらも、「すぐ戻ってくるから」と走り出した祐一を美汐は微笑んで見送る。
美汐は空に広がる青に舞う桜を見上げ、瞳を細めた。
「桜、きれいだねっ」
「…………?」
桜をじっと眺めていた美汐にかけられた声。
それは一人の少女だった。
ダッフルコートに羽つきのリュック。
カチューシャをつけた髪を揺らしながらその少女は美汐をにこにこと見ていた。
「あなたは……?」
「ん? ボクは月宮あゆだよ」
「私は天野美汐です。それで月宮さん、私に何か御用でしょうか?」
「ううん、特に用があるわけじゃないよ。ただ、キミの桜を見る瞳が気になったから」
「瞳、ですか?」
「うん」
そう返事を返すとあゆと名乗った少女も美汐にならって桜を見上げる。
美汐はあゆの言動に不思議さはあるものの、不快さを感じることはなかったので桜を見上げ続ける。
そして数分をそうして過ごす。
ただ二人して桜を見上げるだけ。
あゆは時折舞い降る桜の花びらを捕まえようとぴょんぴょん飛び跳ねていた。
美汐はそんな隣人の様子を横目で見ながらやはり桜を見上げていた。
「ねえ」
ふと、気が付けばあゆは桜から美汐へと視線を移していた。
何時の間にか周りからは人っこ一人いなくなっている。
美汐はまるで自分が目の前の少女によって別の世界に連れこまれたような錯覚を受けた。
「奇跡って…………なんだと思う?」
「唐突ですね」
「うん、ボクもそう思う」
「そうですね…………例えば、この空から両手では抱えきれないくらいのお菓子が降ってくるとか」
「ボクは降ってくるならタイヤキのほうがいいかな」
「それもいいかもしれませんね」
くすり、と笑いながら美汐は思う。
何故私は見ず知らずのはずの女の子とこんな話をしているのだろう、と。
気が付けば目の前の少女に心を許している自分がいる。
それを疑問に思わない自分がいる。
それはとても不思議なことだった。
「奇跡ってね、想いだと思うんだ」
「想い?」
「うん、誰かが大切な何かのために一生懸命願う想い。それが届くことが奇跡だと思う」
わかる気がする、と美汐は思った。
現に祐一は願い、そして真琴は戻ってきた。
それは紛れもなく想いという名の奇跡。
では、自分はどうだったのだろう。
桜ともう一度会いたいと願ったあの気持ちは想いではなかったのだろうか。
「でもね」
そんな思考に入りかけた美汐をあゆは笑ってさえぎる。
その表情はちょっと苦笑のようで、どこか残念そうだった。
「神様は不平等だから、想いを全て届けてくれないんだ」
「…………そうですね」
「だからね」
ぱっと花が開くようにあゆは笑い、数歩後ろへと下がった。
同時に風が桜の花びらを舞い上げる。
「ボクが届けてあげる」
「月宮さん? 何を―――――」
「気にしないで。使えなかったものをここで使うだけのことだから」
「待ってください。一体なんのことですか」
「真琴ちゃんのときはボクが出るまでもなかったから。だから…………」
「え―――――」
サァァァァ―――――
「祐一くんを、よろしくね。これは、そのお礼だから」
「消え、た…………?」
桜吹雪があゆを包んだ後に残ったものは静寂。
そこにあゆと名乗った少女の名残は存在せず、幻を見たのかと思わせるほどに。
「おーい、天野」
「あ、相沢さん」
「ん、お前一人か? なんかさっきこっちのほうから懐かしい声で俺の名前が聞こえてきたような気がしたんだが」
「それは」
「美汐ー!」
聞き間違えじゃないです、と言おうとした美汐をさえぎって真琴の声が響く。
手には肉まんを持って、もう片方の手で小さな女の子を引っ張って。
「え」
瞬間、美汐の目が見開いた。
瞳が、肩が、手が―――――心が震える。
「相沢、さん。その娘は……?」
「ああ、なんか肉まんをめぐって真琴と意気投合したらしい。折角なんで一緒に食べるかって誘ったんだ」
「えへへー、新しいおともだちだよ」
何故ならその女の子は
「そう…………あなたの、お名前、は?」
「桜」
「いい、名前ですね」
「あなたがつけてくれた名前。安直だけど、気に入ってるから」
「あ…………」
桜色の奇跡だったから
「―――――久しぶり、美汐」
「はいっ」
ふーん、そんなことがあったの?
ええ、不思議なお話でしょう
でも、結局その消えちゃった人ってなんだったのかな
さあ、それはわからないわね、けど―――――天使だったのかも。翼を背負ってたし
天使さん?
ええ、私の想いを届けてくれた天使さん
あっ、おとうさんだ!
ふふっ、あなたは本当にお父さんが好きなのね
大好きだよっ
さあ、行きましょうあゆ。桜や真琴も待ってるでしょうから
うん。ねえ、おかあさん。
何?
桜、きれいだね?
ええ、本当に―――――綺麗ね
Fin