第3話「のぞみ先生とマーベル伯爵」


「むにゃ……そんなに食べれないですよー……足もと、気をつけてく――はっ」

 なんだか懐かしい夢を見ていたわたしは、そこでうっすらと目を覚ました。

 のそりとベッドから上体を起こすと、ぼんやりと視線を左右させる。……まったく知らない部屋。

「えと、わたし、いったい……?」

 まだ状況が掴めない。なにがどうなっているんだろう。

「あ、痛っ?」

 唐突に頭がズキッと痛んだ。頭部に手をやると、包帯が巻かれているのがわかった。ということは怪我をしたことになるわけで。

 今日は金曜日。学校の帰りに和也さんと別れた後、ちょっとした用事で隣町のデパートに向かった。その帰り道、広い敷地のそばを歩いてて……考え事をしてたら、えと、電柱に頭をぶつけて、そこから先の記憶がなかったり。

「ていうか、電柱に頭ぶつけて気絶なんて、わたしほんとにトロすぎ……」

 我ながらしょんぼりする。低スペックだがいつも一生懸命なのがお前のいいところだ――って和也さんが言ってくれたことあるけど、褒められてるのかよくわからない。

 改めて室内を見回すと、おそろしくボロボロで、もしかして廃屋なのではないかと思ってしまう。ガラスの割れた窓から、さっきわたしが歩いていた道が見えた。そうすると、ここは敷地内の建物で、気を失ったわたしを誰かが運んできたのかもしれない。

 とりあえず、近くの床に置かれていた鞄とデパートの紙袋を確認。お財布もチェックしたけど盗られたものはなくて、ひとまず安心。

「包帯を巻いて手当てをしてくれたんだから、ゆ、誘拐でもないよね」

 心を前向きに言い聞かせて、ベッド横に揃えられていたローファーに足を下ろした。



 みしみしと音が鳴る床を踏みしめながら、びくびく屋敷内を歩く。人の気配がなくて、寂れた洋館みたいで正直怖い。

「あのぉ……だ、誰かいませんかぁ〜」

 おどおどと呼びかけるも、こんな情けない声、誰かいたとしても聴こえなさそう。

 時折、壊れた窓から冷たい風が吹きつけてきて心身ともに震えてしまう。冬に入ったばかりとはいえ寒いものは寒い。

 このまま帰りたいけど、手当てしてくれた人に何も言わずおいとまするのはちょっと。

「でも、もうこんな時間。遅くなるとお父さんとお母さん心配しちゃうし……」

 そう思いながら一階に下りたとき、どこかから年老いた男の人の声が。

「何が芸術だ。何が真実だ。何が自己実現だ」

 明かりの漏れる部屋。そこは絵画のアトリエで、黒いマントに身を包んだおじいさんが絵描きに使うナイフ片手に声を張り上げていた。

「わしの絵筆は時を越え、貴様らに目にもの見せてくれるのだ」

 キャンバスに向かうその姿が鬼気迫っていて、怖くて、とても声をかけられない。

「わしは描く、描き続ける。この世を闇に突き落とすまで!」

 ひときわ高く轟いた声に驚いて、わたしはうっかり物音をたててしまって、

「誰じゃ!」

「ひいぃっ」

 がくがくと立ちすくむ。や、やっぱり帰ればよかった。みるみる後悔が湧き上がってくる。

 泣きそうになるわたしをチラリと見て、ああ、と納得いったような顔をした。

「意識を失っていた小娘か……」

「あ……その、それではあなたが、ベッドへ運んで手当てをしてくれたのですか?」

「屋敷の敷地近くで迷惑をかけられるのは御免だ」

 つまらなそうに吐きすてるおじいさん。ううっ、なんだか敵意を感じる……お、お礼を言ってすぐに帰ろう。とゆうかこの空気とてもたえられません限界です。

 逃げるように視線を逸らし、――わたしは眼を見開いた。

「わ……っ」

 キャンバスに描かれた絵。

 すごい。

 すごい絵だ。

 芸術的なことなんてわたしには全然わからないのだけれど、とにかくすごいとしか言えなくて、その衝撃はずっと見ていたら目が麻痺しそうなほどで。

「あ、あの、お手数かけてしまって……わざわざここまで運んでいただいて手当てしていただかなくても、救急車でも呼んでくださればよかったのに……」

「救急車だと?」

「えっ……あ、あああの……」

「医者のような善意の皮を被った人非人どもなど、目にした瞬間に刺し殺してしまうわ!」

「ご、ごめんなさいごめんなさいっ」

 急にものすごい剣幕で睨みつけられて、数歩もあとずさるわたし。

 半泣きで、わけもわからず謝るしかできず、

「出てゆけ。今のわしは、子供といえどこのペインティングナイフで刺し殺しかねん」

「わ、わあーーーーーーっ」

 ナイフの刃先を向けられ、わたしは踵を返して逃げ出した。

「何が芸術だ。何が真実だ。何が自己実現だ。わしの絵筆は空を越え、貴様らのDNAまで破壊しつくしてくれるのだ」

 背後から響く怨嗟の言葉。無我夢中で走り、洋館から離れてだいぶたっても、しばらく足の震えはとまらなかった。



 翌日の放課後。

「ああ、そのお屋敷なら知ってます。マーベル伯爵の幽霊屋敷って呼ばれていて、隣町では有名みたい」

 同じ清掃委員の矢神由梨子さんに、あの寂れたお屋敷のことを訊いてみた。余計な心配はさせないように昨日のことは話していない。

「……マーベル伯爵?」

「そこに住んでいるという画家のあだ名で、本人はちゃんと日本人らしいですよ」

「そ、そうですよね」

「えっ?」

「あ……っ、いえ、なんでも」

 あのおじいさんはどう見ても日本人で、言葉も日本語だったし。

「わりと名の売れた画家だったらしいんだけど……ある日突然に絵画の世界から姿を消して、あの町に洋館を建てて移り住んだっていいます。以来、人を避けるように閉じこもって、滅多に人前に姿を現さなくなって、そのうち屋敷は寂れていって、今では幽霊が住むと噂で子供も近寄らないみたいなの」

「そうなんですか……あの、なんだか詳しいですね、由梨子さん」

「えっ……あ〜、その……近くにそんな有名な画家が住んでいるなら、一度会ってみたいと思うのは普通じゃないですかっ」

「えと、あ、あのぅ?」

 な、何も悪いなんて言ってないんですけど……そういえば由梨子さんは絵心があって絵を描くのが好きみたいだから、そのへんが理由かもしれない。

「まあ、危ないからって洋一さんに止められて、会いには行ってないんですけどね」

 洋一さんというのは由梨子さんの彼氏で、わたしたちの学校の卒業生らしい。最近紹介されたのだけど、以前、和也さんのしゃっくりを止めたときに出会った男の人だったのにはびっくりした。

「ところで、どうしてそんなことを?」

「えっ、あの、昨日隣町のデパートに寄った帰りに見かけて、気になっただけ……です」

「そうなんだ。あ、のぞみちゃんも、危ないからあの洋館に近寄っちゃダメですよ?」

 真面目な顔で注意される。近寄るどころか、屋敷の中でマーベル伯爵さんに会いましたなんてとても言えない。

 それにしてもあのおじいさん、そんな名の売れた画家だったんだ。

 ……なのに、なんで世間から隔絶しちゃったんだろう。



「差し入れだと?」

「は、はい……昨日、お礼を言い忘れたので、それも兼ねて」

 おずおずと、綺麗にラッピングされた箱をテーブルに置く。

 わたしはあの洋館を訪れていた。警戒心のなさは以前のわたしからは考えられないことだけれど、このおじいさんが危険な人には思えなくて。それにやっぱりちゃんとお礼だけはしたい。

「今度こそ本当に刺し殺すぞ!」

「ひいぃっ」

 絵描きのナイフで恫喝されて、思わず腰を落としそうになった。逃げ出したい気持ちを精一杯抑える。でも、もう一度怒鳴られたらたぶん駄目かも。

「子供にあたっても始まらん」

 踏みとどまるわたしを見て毒気を抜かれたのか、おじいさんは差し入れを開けてくれた。

「ケーキか……そういえば、もう何年も祝っとらんかったな」

 ぼそりと呟いて、おじいさんはミニキャンドルを持ってくるとケーキに挿して火をつけた。灯った明かりは十と少し。

「……わしにも昔、お前と同じ位の娘がおった。小学校を卒業したばかりだった」

「娘さん……?」

 過去形なのが引っかかって、子供と間違えられたのは気にならなかった。……慣れてるし。

 おじいさんはわたしに背を向けたまま、独り言のように話し出した。

「もう何十年前になるか……そのときも冬だった。雪の降る冷たい冬だ。ある夜、高熱で寝込んだ娘を背負い、わしは近くの医院を叩いた。億劫そうに出てきた医者は、診察時間外だから病院へ行ってくれと門前払いだ。病院へ行ったら、夜間受付の女が、保険に入ってなければ全額自己負担になると言ってきた。当時貧乏画家だったわしにそんな金があるわけがない。お金がなければ受付できないと、機械のように切り捨ておった。さらに遠くの小児科まで足を運んだが、金も保険もないと知ると、うちは慈善団体じゃないと断られた。やがて、背中の娘が息をしていないことに気づいたときは手遅れだった。動かなくなった娘を冬の街路に横たえ、わしは絶叫した。皮肉にも、わしの絵が売れ始めたのはそれから間もなくのことだった。――今日はその娘の誕生日なのだ」

「……」

 わたしは言葉が出なかった。茫然と、ただ、立ち震えるだけで……

「わかったなら帰れ。マルクスも、エンゲルスも、ケインズも、チエを救いはしなかったのだからな」

 憎悪を声に乗せるおじいさんの背には、見ただけで瞳孔が開いてしまいそうな絵の山。

 わたしは――わたしは泣き出してしまった。

 堰を切ったようにこぼれる涙。ゆう子ちゃんに男子生徒を紹介されたとき、わけもわからず泣きじゃくってしまったみたいに、とめどなく溢れて止まらない。

「ええい!」

「きゃあっ」

 おじいさんに突き飛ばされ、わたしは床に尻餅をついた。

「わしは憎む、この世のありとあらゆる物をすべて憎む。お前がいくら泣いたところで……チエはもうおらんのだ」

 苦い顔で一瞥したあと、おじいさんは力任せにケーキのミニキャンドルをなぎ払った。

 そしてそれは一瞬だった。一瞬で、周囲に炎が湧き上がった。

「テレピン油に火が!」

 本当に、瞬く間に、部屋は火の海と化した。

 と、とにかく逃げないと……って、あっ、あいたっ!? 

 突き飛ばされたときに腰を打ちつけたみたいで、身体がすぐに動かせな――

「こほっ、こほこほっ」

 少し煙を吸っちゃったのか、ノドが……息くるし……あれ、なんだか意識が……わ、わたしこのまま死んじゃうのかな。

「あ……え?」

 ぼんやりとした視界に、黒マントを脱ぎ捨てたおじいさんが映る。険しい顔つきで何か言っているみたいなんだけど聴き取れない。

 やがて、重力が軽くなったような感覚を最後に、わたしの意識は途絶えた。



 目が覚めたときは、病院のベッドの上だった。

 おじいさんがわたしを背負ってここまで運んできてくれたのだと看護士さんから聞いた。

「そ、それで、あのおじいさんは?」

 看護士さんは首を横に振った。

 あのひとのほうが重体だったのに、頑なに治療を拒んだのだという。

「ものすごい剣幕であなたの安否を気にしてね。命に別状はないこと、無事に助かったことを伝えたら……涙を流して、安心したように息を引き取ったわ」



 たとえば、この世界に何か大きな力が働いていたとして、あのおじいさんがそれに何かを願った結果なのだとしても、ただ無力なだけのわたしに何を知ることがあるのだろう。



 数日後。

 細い雨が降りしきるなか、わたしは焼け落ちた洋館の前に立っていた。

 幽霊屋敷は三日の間燃え続け、焼け跡からは一匹の猫の死骸しか発見されなかったそうだ。

 焼け屑の中から、原形を留めていない絵画の幾つかが眼に入る。

「……」

 おじいさんが憎悪を込めて描いた絵――それを見たのは、もしかしてわたしだけだったのではないだろうか。

 傘を持つ手が震える。

 小さな涙の粒が頬を伝い落ち、雨に混じって地面を濡らした。

 雨上がりに浮かぶ虹が、どうか綺麗でありますように。