目安箱の回収から戻った八重を見て、久瀬は溜め息を吐いた。理由は至って簡単で、悪夢が続く事を思い知らされたからである。彼女の胸に抱かれた紙束が何なのか、今彼は確かめる為に行動を起こす事すら面倒になっている。だが先に断っておくと、それは八重が原因ではない。強いて言うならば、それは久瀬が呼び込んだ災厄であった。
久瀬も予想していなかった訳ではない、ただそれでもそんな結果は起こって欲しくなかった。八重は苦笑したまま、胸の内の紙束、実に四十数枚をそっと机の上に置いた。どさり、そんな擬音を付ける程分量がある訳ではないが、さりとてそれは少ないと断ずる事の出来ない量ではある。簡単にグリーンボードに括り付けただけの目安箱の中に限界まで押し込められていたのだから、その偏執ぶりは凄まじい。良くて十枚程度を想定して作られた粗末な箱は、この数日で随分摩耗していた。
異様な量の紙束はほぼ一つの事だけを嘆願していた。
「やったな久瀬、今日で四日目だぜ」
八重の冗談も何処か投げ遣りで、疲れが見えてキレがない。武術を学んでいる彼女は直接的な暴力に対しては耐性があるが、姿を見せない精神的な攻撃には慣れていない。久瀬も別に精神的に強い訳ではないが、彼は常に他人の悪意に曝されて生きていた経験上受け流し方を心得ている。二人の露骨な消耗差は、つまりは経験の差と言い換える事が出来る。
それはともかくとして紙束の内容は多少文体や字体に差異はあれど、全て同じと見て良いだろう。『学食のAランチの内容を存続させる事』、ただそれだけを嘆願していた。
そもそも学生食堂というものは営利を第一目的に存在するものではない。「金のない学生や節約したい教師に対し格安で食事を振る舞う」事を第一義にする、貧乏人の味方である。薄利多売どころの話ではない、人件費と光熱費を考慮に入れると確実に赤字を宿命付けられている。埋め合わせは国庫から支出されている教育費の一部、つまり税金だ。
自分達が頑張れば頑張る程利潤が増える、という資本主義の原則から剥離して存在する学生食堂職員の金銭感覚が麻痺するのは当然と言えば当然である。だがそれでもバブル経済崩壊に伴う余波が未だに尾を引いているのだろう、国会での教育改革論がこの地方都市の学校にも波及していた。
曰く、無駄な支出を抑えるとの事だったが安易に予算を減らされた現場は堪らない。当然だが、予算が減らされた以上今までのやり方では足が出る。一見平和に見えるこの学校でも構造改革論が叫ばれるのは、そんな背景があったのだ。そんな流れの中、お役所体質が抜けない学食が矢面に立たされるのは自然な事であると言える。
今まではそれ以前に問題行動を起こす生徒がいた為に、そんな些細な事に構ってられるかという空気だったが、もう既に当人達の問題は解決したらしい。全く勝手な事だが、一々腹を立てていては組織の長はやっていけない。生徒会長たる久瀬は早速アンケートや売り上げの調査に乗り出したのである。
その結果がAランチ改革案なのだ。今までのAランチは白米、白身魚、味噌汁、生野菜、それにデザートのイチゴムースという献立であった。アンケートの結果、このAランチの評判が良くないらしいのだ。学食ではなく弁当か菓子パンを昼食に摂る(彼自身が料理をする訳ではなく、八重が彼の分まで弁当を作ってくる時があるのだ)久瀬にはピンとこなかったが、デザートに付いてくるイチゴムースが不味いとの事。これなら付けない代わりに安くして欲しい、それが民意であった。
勿論学食改革はAランチだけに留まらない、その他二十弱の要望を纏めたものとなっている。人気のないメニューの数量削減、似たり寄ったりのメニューの統廃合、要するに学食にも資本主義を導入しようという試みである。そもそも全校生徒アンケートを踏まえての改革試案だっただけに、生徒からのここまで強力な反発は久瀬も予想していなかった。
後に来るであろう栄養価の面から学食職員や保健教師からの反対意見だけに意識を集中させていただけあって、彼は思わぬ伏兵を踏んでしまった事になる。更に今もなお、先月の騒動が尾を引いて彼の生徒会内の評価は高いとは言い難い。副会長達はさっさと厄介事を会長の久瀬に押し付け、本丸である教師陣と学食職員達の反発に対する対策を練っていた。
「生徒の厄介事を解決するのは会長の仕事でしょう」、そう言われれば久瀬は口を噤むしかない。そもそも彼自身がその様な部署を半ば強引に設立させてしまったのだから、自縄自縛である。
「八重は学食でAランチ食べた事はありますか」
何故ここまでこのメニューに拘るのか、彼には今一判然としないものがあった。他のメニューの統廃合には特に批判がある訳ではなく、Aランチのみを標的にしているのだ。更にAランチそのものを廃止しようというものではなく、他の生徒達が不味いと言わしめるイチゴムースのみを廃止するというだけである。
幾ら異様な数の署名が来ようと、組織票であるなら無効だ。
「あるぜ、ムースは不味かったけどな」
八重も大多数と同じ意見であるらしい。久瀬は一頻り唸って、パイプ椅子に改めて深く腰掛ける。
「まあ、出した人間は分かっています。明日にでも呼び出して真意を聞く事にしましょう」
「調べたのかよ」
「いえ、先日紙束を目安箱に入れている女生徒を見ました」
「その時直接聞けば良いだろがよ、面倒臭ェな」
「そうもいかないでしょう、投書は生徒の権利ですから。知られたくない理由でもあるのかも知れません」
「ケッ、相変わらず融通が利かねェ奴だな」
それが久瀬という人間の優しさである事を八重は知っているが、口に出すのは何となく気恥ずかしい。思慮深いのに短気で、他人を思いやるくせに悪態を吐く。それで皆が幸せになるならと、被らなくて良い泥を進んで被る。それが誰からも感謝を受けずに偽悪の仮面を被り、少数派を踏み潰して一顧だにしない彼と八重がずっと一緒にいる理由だ。
「久瀬、もう良いだろ。今日は気分転換に商店街でも寄ろうぜ」
そう言うが早いか、八重は久瀬の腕を持ってパイプ椅子から引き剥がした。
「待ってください、まだ投書のファイリングが済んでいませんよ。それに」
そこで久瀬は言葉を切り、八重から目を背けた。理由は火を見るよりも明らかである、抱え込まれた久瀬の腕が八重の豊満とは言い難い胸に押し付けられているからだ。彼女の方も気付いていない筈がないだろうが、彼女はいつもの溌剌とした顔を崩していない。それは彼女が時折発動させる、久瀬限定のポーカーフェイスだ。その実、八重の心中は沸騰して飛散しかねない程に緊張と羞恥が吹き荒れていると彼が果たして知っているのだろうか。
「それに、まだ僕は帰ろうにもコートすら着てないんですから」
「あ、悪ィ」
腕を解放する八重。両者は心中で溜め息を吐いたが、その意味が真逆である事など知る筈もなく。
生徒会悩み相談室・二号案件
Me262Tan
空気が重い、生徒会に対する嘆願は最初から暗雲立ち込めるものとなっていた。いつもは久瀬と一緒に昼食を摂ったり長期休みの予定を話し合ったりと、八重にとってこの生徒会室は居心地の良い場所である。その様な私的な使用だけではなくこの部屋本来の、堅苦しい会議にも勿論使われるが、これ程までに剣呑な空気などはない。例外は先月、生徒会による不良生徒の処遇を決める会議の時くらいである。
それにした所で、こんな表情を司る筋肉を動かすのにも労力を要する会議ではなかった。八重の隣に座る久瀬も意味は違えどこの会合を苦々しく思っているのは事実である、だがそこは流石に生徒会長といった所か。八重には彼の憤りも、狼狽も感じられない。
「知っているでしょうけど、改めて自己紹介させていただきます。僕は生徒会会長の弘近 久瀬、こちらは生徒会会計の御桜 八重です」
「あ、はい。わたしは二年の水瀬 名雪です。こっちは、えっと」
「……私は同じ組の相沢 祐一だ」
名雪の隣に座った青年――祐一が言い淀んだ名雪に代わり、如何にも気怠げに答えた。剣呑な空気を隠そうともしない彼こそ、この場の空気を悪くしている張本人である。久瀬にとっては最悪の相手、二度と会いたくない人間であった。
久瀬と祐一はこれが初顔合わせではない、先月の騒動で反目しあった仲である。何もかも目障りだと言って生徒会と正面から対立した、久瀬にとって不倶戴天の天敵であった。学校の秩序の象徴たる生徒会、その長たる久瀬と秩序を乱す不良生徒を表面的に庇う(公衆の面前で立場上護るべきその不良生徒本人を殴り付けている場面に久瀬自身が遭遇しているので、真相は分からないという意味である)行為をしてきた祐一。
久瀬としては、祐一のしてきた事は絶対に許す事が出来ない。だが祐一にしても許されると思って及んだ行為ではあるまい。久瀬なりの推測で語るならば、彼には秩序よりも大切なものを護る為にやってきた事なのだろうと思う。そう思わなければ祐一の行動は支離滅裂に過ぎる、合理的たろうとするという彼の組の風評を信じるならば。
「さて水瀬さん、時間も惜しいですし早速本題に入りましょう」
久瀬はひとまず仇敵の祐一を無視する形で、本来の仕事を遂行する。この様な事態を久瀬が想定しなかった訳ではない事、長年集団の矢面に立つ事で培われてきたポーカーフェイスがここで役に立っているのだ。
「確認しますが水瀬さん、この投書をしたのはあなたですね」
八重がファイリングしてある当該投書を机の中央に持ってくる。その数は合計百五十を超えるのだから、名雪のやっている事の異常性が分かろうものだろう。
「えっと、……はい」
しばしの言い淀みが良い訳でも考えていた為か、それとも単純に言葉が出なかっただけか。実際は単純に「うん」と言いかかったので、間が空いただけだと久瀬は知る由もない。公的な場で言葉を選ぶくらいの教養は名雪にもあるのだ。付け焼き刃的なものでしかないが、この際それは関係あるまい。
――祐一、フォロー入れてくれても良いのに。
そんな些末事よりも名雪は今更ながら祐一が本当に頼りになるのか、不安でならなかった。半ば強引に彼の手を引っ張って連れてきたのは事実であるが、それはひとえに彼を信用していた事の裏返しである。非常に奸智に長け、いつでも冷静さを失わない従兄弟はこんな時とても頼りになる事を、彼女は経験的に知っている。いつもなら彼女がヘマをしそうな時、祐一は大体助け船を出してくれているのだ。
彼に言わせると「自分に被害が及ぶ前に何とかしているだけ」なのだそうだが、そんな事で名雪の中の彼の評価が減じる筈もない。漠然とした好意が七年の時を経ても未だに彼女の中に在るのは、そうした理由からだ。それが、そんな祐一の筈が。
「結論から言って、水瀬さんの要望は聞き入れられません」
祐一が最初から険悪な雰囲気を身に纏っている事、それが名雪には不安でならなかった。
「今回の改革試案は、今月初旬に実施した学食アンケートの結果であり民意です。それを覆すとなると、やはりそれなりに説得力のある説明が必要になります。あなたにはそれがありますか、水瀬さん」
射竦める様な久瀬の視線に怯み名雪は隣に座る祐一に横目を向けるが、彼は何の変わりもない。何の手助けもしてくれなさそうな彼を見切り、彼女は口を開く。余裕などない。
「だって、イチゴムース美味しいよ」
間。
正当性云々以前に、理由になっていない。いや会話にすらなっていない名雪の返答に、一堂は硬直を余儀なくされる。八重の、筆圧でシャーペンの芯を折った音を契機に凍結した時間からいち早く脱出したのは久瀬だった。中指で半分程ずれていた眼鏡を押し上げ、改めてパイプ椅子に深く腰掛ける。海千山千を目にしてきた彼だったが、この様な手合いに会った事はなかった。彼はまるで幼児と会話しているかの様な錯覚に囚われる。
「水瀬さん」
呆れ半分、義務感半分といった表情のまま久瀬が口を開く。
「はい」
「僕はあなたに感想ではなく、Aランチを原型のまま留めるに足る説得力のある説明があるのかと聞いたんですが」
改めて直接的な問い掛けに名雪は割と形の良い眉目をハの字に曲げ少しの間沈黙して、彼女なりの答えを出した。
「イチゴムースの良さをみんなに知って貰えば良いと思う」
ここに来て久瀬は初めて「斜め上」というものを味わう事となった。彼は全く話が噛み合わない事がこれ程苦痛だとは思わなかったのだ、先月まで生徒会を悩ませていた不良生徒とはまるで性質が異なる。彼を悩ませていた生徒はまるで事情を話さなかったので、端から理解が出来ない(それはそれで困った事態だった事はひとまず置いておく)のに対し、今回は理解が通じない相手である。
まるで宗教上の教義を頑なに信じる原理主義者の如く、彼女はイチゴムースの絶対性を信じて疑わない様だった。
「水瀬さん、あのですね」
「はい」
「イチゴムースが不味いので、付けない代わりに安くしろというのが今回のAランチ改革案なんですよ」
急速に久瀬は脳内に席巻しつつある倦怠感と戦いつつ、生徒会会報今月号の当該場所を名雪に見せた。黙読していく内に、彼女の表情が少しずつ険しくなる。どうやら自分にとって大事な部分だけを読んで、他の場所は飛ばしていたらしい。
読み終わった後、彼女は哀しげに視線を逸らして一言。
「こんなの、おかしいよ」
「いや、僕にそんな事を言われても何も解決しませんよ。だからこそこの民意を覆すに足る説得力を、イチゴムースを存続させたい水瀬さんに聞いたんですが」
うー、と唸ってから名雪は視線を落とした。生徒会の方針に異議があるものの、これといった対案は出せない様である。何だかんだ言っても人の善い久瀬としては、彼女のこの姿は心痛むものがあったが決定は決定だ。彼は憎まれるのも仕事の内だと割り切ったつもりだが、土壇場になると情が湧いてしまうのが彼の弱さであり美徳であるのだが。
そんな彼を見ているだけという状況は、八重にとっていつになっても辛いものであった。彼女も自分が力になれそうな時は喜んで力になろうとする。前回、天野 美汐の時は正にそんな感じだったが「改革」だの「対案」だの「正当性」だの「民意」だの、政治性が跳梁跋扈する今回の様な案件で彼女の出番はない。そんな時は久瀬の邪魔にならぬ様、書記に徹するのが賢いやり方なのだ。
「そこを何とか」
「なりません。僕一人の権力なんてたかが知れていますし、何より不正は駄目です」
名雪の口がへの字に曲がる。世情に疎い彼女だったが、学校での有名人の噂くらいは耳に入ってくる。この久瀬という生徒会長はまさしくそれに類する人物であり、名雪自身風聞を幾つか耳にしていた。曰く、陰険で口うるさい。曰く、嫌味ったらしくて権力主義者。だが実際に人となりに触れてみた名雪には、それらの評価は微妙なズレがあると感じていた。
「生徒会長さん、公務員みたい」
率直な名雪の感想にその場にいた三人は三者三様の反応を見せる。正鵠を射ていると腹の奥底から湧き出てくる笑いを堪えるのに必死な八重、自分でも思っていた事を他人に言われて些かむっとした表情の久瀬、何を考えているのか微妙に机の上に視線を落としている祐一。端から見れば微笑ましい限りの光景ではあるが、本人達は必死(何を考えているのか判然としない祐一を除く)である。
「何とでも言って結構です、それでは改革案は覆りません」
ぱきん、と八重の筆圧でシャーペンの芯を折る音が彼の科白の後に続いた。えらく笑いのツボに嵌った様で、彼女なりに真面目さを繕った顔面が微妙に歪んできたりしている。それも久瀬の咳払いで彼女は肩を振るわせ、停止を余儀なくされた。久瀬以外の誰も八重の表情になど気を配っていなかった事が幸いしたか。
「祐一も何か言ってよ」
現状で規範を何より尊ぶ頑なな久瀬に、名雪は早々に音を上げて隣の祐一に助け船を要請する。そもそもこの為に彼女はこの意地の悪い従兄弟を引きずり込んだ事は、祐一本人にも分かっていたので予想の範囲内と言える。どういって欲しいのかも、聡明なこの青年には当然見当が付いている。それでも、名雪の思い通りに彼が動くとは限らない訳で。
「名雪、言葉はあまり支離滅裂に並べるものではないぞ」
「わたしに対してじゃないよぉ」
そんな事は祐一とて百も承知である。
「私はそれ以前の問題だと言っている。剣には剣の、銃には銃の、言葉には言葉の戦い方がある。名雪の戦い方はその常道から大きく外れている、奇策と呼ぶには余りにお粗末に過ぎる。素人の力任せの打撃と、格闘家の習熟した技程に違いがあるのだ。故に私は今久瀬を責めるよりも名雪を責める」
彼の言った意味を半分も理解しているかどうか疑問符が付くが、期待していた祐一に裏切られたという事だけは名雪にも分かったらしい。視線を祐一から落とし、落胆の色を混ぜて怨嗟を絞り出した。
「祐一、極悪だよ」
「真実を突き付ける者が悪ならば、そうであろうな」
「祐一嫌い」
「好悪の感情など、好きにするが良い」
「ともかく」
放っておくと延々漫才を続けていきそうな名雪と祐一の会話を断ち切る様に、久瀬が会話に強引に割り込む。祐一は名雪の様に話の通じない相手ではないが、言葉に一々棘があったり正しく理論武装されていたりするので、久瀬にとって別に意味でやりにくい相手であったりする。先月は別の案件を巡って鋭く対立していたのも尾を引いているだろう。
「水瀬さんの今の言動では説得力はありません、ですからこのままでは現状は変わりません」
「そこを何とか、イチゴサンデー奢るからお願いだよ」
「僕には賄賂も泣き落としも通用しない事、水瀬さんも噂で聞いていませんか?」
理論を持たぬ抗議者に対し律儀に言葉を返す久瀬を、八重は呆れ半分で見ている。気性の激しい彼女なら、既に交渉を早々に諦めて脅しに掛かる段階である。彼も気が長い方とは言い難いが、律儀で己に課せられた義務を何としても護ろうとする所が八重との違いか。負わなくても良い苦労を背負い込む、何とも損な性格である。
「祐一、助けてよ」
「名雪は極悪な私の事を嫌いではなかったのか」
相変わらず鉄面皮を動かさず、視線だけを名雪へ向けて話す祐一はにべもない。
「今日の祐一のご飯は紅生姜。紅生姜を紅生姜と紅生姜の絞り汁で食べるの」
「ならば名雪はジャムにジャムを掛けたジャムで夕飯を食べるのだな。あの甘くない、オレンジ色の」
「うっ」
祐一の返し技に名雪が呻く。何やら良くない想像をしてしまったらしく、彼女の顔色が悪くなって言葉を詰まらせた。
「まあ冗談は置いといて、だ。この通り名雪は大衆を説得出来る様な理論を持ち合わせている訳ではない、だがこのままでは納得しそうにもない。だがそれでは名雪が席を立とうと思わずに、私もこの場に留め置かれる事を意味する。取り立てて忙しい訳ではないが、私は益体もない事で時間を浪費したいとは思わないのでね」
祐一が正面を――久瀬を見据える。尊敬も遠慮も容赦もない、真っ直ぐに射抜く彼の視線に久瀬は目を逸らしそうになるのを堪えた。戦略の面で言えば久瀬に一日の長があるが個々の局地戦、この様な細かな案件に関してはその限りではない。祐一には祐一独自の戦術がある事は、久瀬も先月に思い知っている。
「この案件は学食に限った事だろう」
「ええ、そうですよ」
「私は改革の規模をもう少し広くする事を提案する」
八重のノートに文字を書く音だけが生徒会室に響く中、祐一は言葉を続けた。
「つまり改革の範囲を学食のみから購買まで広げようと言う事だ。そこで試験的に今よりも品質の良いイチゴムースを単品で売り、売り上げ次第で定着させれば文句はなかろう。名雪も、生徒会も」
八重はこの祐一という男子生徒に対し内心舌を巻いていた。こういう発想は柔軟な発想のない久瀬では出て来ない。彼は決められた範囲内で最善を尽くす様にはするが、範囲そのものを作り替えようとはしないのだ。それは生徒会を納得させうるだけの説得力と、理論を持たない同級生を納得させる落とし所を兼ね備えた提案であると言えた。ただこの提案が通るかどうかは流石に業者や教師達の意向頼みの所があるのが、弱点と言えば弱点である。
ただ、提案してみるだけでもやってみる価値はあろう。
「分かりました、今度の生徒会で提案してみましょう。水瀬さんはそれで良いですか」
「えっと……はい」
何処を向いているのが分からない、浮世離れした雰囲気の彼女が引き下がった事に久瀬は内心安堵していた。
――某日某所。
「人を呼びだしたかと思えば、久瀬はそんなくだらない事を聞こうとしていたのか」
銜えた煙草から紫煙を燻らせ、祐一は呆れ返る。雑踏から遠い場所で、二人は落ち合っていた。久瀬に煙草を嗜む趣味はないが、別に他人が吸う事に対して抵抗はない。親に連れられて政治の場に駆り出された時に何度も嗅いだ匂いだ、いい加減慣れもする。
「ええ、あなたはとてもではありませんが他人の為に動く様な人間には見えませんでしたから」
あの場で口にしなかったが、二人だけならば本心で語れる。久瀬が本心を語れるのは気を許した友人か、それとも決定的に対立した事のある相手だけだ。具体的には前者が八重で、後者が祐一である。嘘は言わないが大抵の相手には肝心な所を語らない、そのスタンスは二人とも共通していた。
「あの場で私は言った筈だが。『私の為に提案する』、と」
「あなた流に言うならば、生徒会室に出張る事自体が面倒の始まりだと思いますが」
「ふむ」
左手で煙草を口から離し紫煙を吐き出してから下唇に鍵状に曲げた人差し指を付け、祐一は久瀬に感嘆符を送る。久瀬が一筋縄でいかない相手らしい事を、祐一は彼の返し方で再確認した。彼は胸ポケットから右手一つで器用に携帯の灰皿を取り出し、火の付いた煙草を灰皿の底に押し付ける。
「罪悪感からだ」
祐一の口から出た意外な言葉に、久瀬が目を丸くした。罪悪感、それは祐一という青年に何と似合わぬ言葉か。彼はお世辞にも自らの為に他人を傷付ける事に躊躇いを覚える様な人間ではない、そう久瀬は認識している。だが一面を以て全てを断ずる事の愚かしさ、互いの意見の折衝役を担ってきた久瀬が分からない訳もない。
伏し目がちにそう呟いて、次の煙草を銜えて祐一はライターで先端に火を付ける。
「私は名雪の心を壊した事がある。当時私は現在とは似ても似付かぬ餓鬼だったからな、己に余裕のなくなった感情に任せて名雪を壊した」
肺から祐一の口腔を通して紫煙が冬の温度差に負けて、一層白く存在を証明する。彼は視線を横の久瀬に移す。
「それは当の水瀬さんに言いましたか」
「言うと思うか? この私が、そんな事を」
皮肉な笑みを浮かべた祐一に対し、久瀬は頭を左右に振って答える。短い付き合いだが、両者は互いの性格を把握しているつもりである。悪態を吐きながらも結局は他人の為に動く久瀬と、何処までも『自分の為』という免罪符がなければ動けない祐一。どちらかが、或いは両方が少しでも素直であれば現在のこの奇妙な関係はあるまい。
敵同士だが、ある意味で同志でもある。同じ事を望みながら真逆を往く二人が仲良くなる事など、この先十年はあるまい。だからこそ対等に、遠慮も誇張もなく意見を交換出来ているとも言える。
「ただし私の罪滅ぼしはまだ終わった訳ではない、恐らくはまだ久瀬に迷惑を掛けるぞ」
「僕は君の事を一切庇いませんから、どうぞご自由にしてください」
遠くから声が聞こえてくる。それは浮世離れしたこの場に届く、現実の声だ。段々と近くなるそれは名雪のもので、大声で祐一を呼んでいた。「早速購買でイチゴムースを買ったから、二人で食べよう」、大体そんな内容だ。普通ならば高校生にもなってそんな事を大声で叫びながら歩くなど、恥ずかしくて出来る筈がない。だがそこはそれ、「名雪だから」という理由だけで彼女を知る者の理解を得られるのが哀しい所か。
「水瀬さんが君を呼んでいる様ですよ、早く行ってあげたらどうです」
「そうしよう、一々あんな大声で名前を叫ばれるのは敵わぬからな」
そう言って吸っていた煙草を灰皿で揉み消し、祐一は声のする方へ歩いていった。そんな彼を見送り、久瀬は人知れず溜め息を吐く。
「人の心はままならないもの、ですね」
それが己の人生と重ね合わせての科白だったのか、それとも鉄の精神を持つ人間だと思っていた祐一の意外な側面を揶揄しての科白だったのか、それは久瀬自身にも分からなかった。