「後編」
「確かに、あの剣が原因としか思えないな」
舞から事情を聞いた祐一が納得顔で頷く。そうでもなければ、今まで剣を握ったことも無い少女が、一夜にして凄絶ともいえる剣技を身につけられるわけが無い。あの剣の冴えは尋常ではなかった。
「そうだとすると、あの剣は一体何なんでしょう」
栞の疑問に舞は「わからない」と答えた。ただ、何か不吉な感じがすることだけは確かだという。
「あの剣は、選ばれし者「ガラハド」にのみ手にする事を許されしもの。彼以外のものが鞘から抜いた場合、強力な呪いによりその身を滅ぼすことになる」
突然の声に、祐一たちは驚いて振り返った。いつの間にか中庭の中央辺りに、青いローブを纏った老人が立っていたのである。
「あっ」
栞とあゆが同時に叫んで顔を見合わせた。紛う事なき、例の外国老人であった。
「おじいさん、あの剣のこと知ってるの?」
あゆが驚いて訊ねると、老人は皺深い顔を微笑させてこくりと頷いた。
その柔らかな表情を見ていると、疑念や警戒心といったものが薄らいでいった。老人のもつ不思議な雰囲気のせいだろうか。舞がそっと近付いた。
「おじいさん。あの剣の事、話して」
「うむ。私はそのために来たのだからな」
何やら意味深にそう言い、老人は語り始めた。
時は西暦500年前後。アーサーが王になったばかりで、まだ円卓の騎士団が誕生していないころのブリテン。アーサーの配下にベイリンという騎士がいた。彼は非常に優れた騎士であり、後の円卓の騎士の中ではランスロットに次ぐ実力を誇るガウェインに匹敵するほどの腕を持っていた。当時、ベイリンに太刀打ちできたのは、ガウェインを除けばベイリンの弟のベイランだけであった。
ある日、アーサーの王宮に一人の乙女が訪れた。彼女の腰には見目麗しき鞘に収まった一振りの剣が佩かれていた。彼女が言うには、この剣は、強く優しく誠実で、どんなやましい事も考えない勇者にしか抜けないらしかった。その場にいた騎士たちがその剣を抜こうと試みたが、誰も抜くことが出来なかった。そこでベイリンが立候補し、見事にその剣を鞘から引き抜いて見せたのである。
だが、その瞬間、彼は強力な呪いの虜となってしまう。
剣を返してほしいという乙女の願いを無視し、彼はその剣を自分のものにしてしまった。乙女はとうとう諦めて立ち去った。
その直後、アーサーにエクスカリバーを与えた湖の姫がやってきて、災いを招かないうちに剣を持ってきた乙女か、ベイリンの命を差し出してほしいといった。しかし、すでに剣の呪いに魅了されていたベイリンはこれに怒り、その場で湖の姫を切り殺してしまった。
よりにもよって神聖な宮廷で、しかもアーサーの目の前で人を殺してしまったため、ベイリンは王宮から追放されてしまう。彼は失われた名誉を取り戻すために旅に出た。
一方アーサーたちは、王宮を訪れた魔術師マーリンから事の真相を聞き、本当は被害者であるベイリンを哀れんだ。実はあの剣は、乙女が自分の復讐のためにアヴァロンの姫からずるい手口で奪ったものだったのだ。
さて、苦難の旅を続けるベイリンは、マーリンの助けもあり、アーサーの許しを得ることが出来た。
その後ベイリンは、とある城を訪れることになる。そこで彼は、ひょんな事から、そこにあった聖なる槍を用いて「不幸の一撃」を起こしてしまう。
そして彼は、ある城にたどり着いたとき、そこにいた騎士と戦うことになる。その騎士は思いのほか強く、死闘の末に二人とも致命傷を負ってしまう。ところがその騎士は自分の弟であるベイランだった。ベイリンは戦いの前に、彼の盾が小さいのを気遣った兵士から盾を取り替えてもらっていた。もし盾を替えていなければ、自分の盾に刻まれた紋章で、ベイランに自分が兄だと気づかせることが出来たのに。
こうして剣の呪いにより、ベイリンとベイランは絶望の涙を流しながら息絶えたのだった。
その後、その剣は正当なる所有者であるガラハドの手に渡り、聖杯の探求を成功させる力となるのである。
「・・・・・・その剣が、いま佐祐理さんの手にある」
話を聞き終え、栞が愕然と呟いた。老人が「そうだ」と言った。
あゆも祐一も、そして舞も、すぐには言葉を紡げなかった。
「あの剣は、神に見出されし、この世で最も優れた騎士――聖杯の申し子「ガラハド」のための聖剣。彼以外の者には、恐るべき「不幸」と悲劇の「最期」をもたらす呪いの剣となる」
淡々と語る老人に、あゆが食って掛かる。
「ちょ、ちょっと待って。そんな剣がどうしてこの街にあるの!?」
「あの剣にはベイリンの怨念がこもっている。その無念は時を越え、新たな犠牲者を求めて、この街に現われたのだ。それはまったくの偶然であると同時に、神の意志でもあろう」
「どっちでもいい。そんなことより、その呪いを解く方法はあるのか?」
祐一の質問に老人は、栞とあゆを指差した。
「その為の力を、二人に与えてある」
舞と祐一が驚きの視線を二人に向ける。
「そ、そうなのか!?」
「えっ!? そんなのボク・・・・・・あれ、でも」
「もしかすると、そうかもしれません」
一応、栞とあゆは思い当たることがあった。
一瞬の静寂の後、舞が自分の剣を拾い、祐一たちのほうを向いた。
「明日、決着をつける。力を貸してほしい」
返事はすぐに来た。
「ああ」
「ボクたちに」
「まかせてください」
それを優しい微笑で見ていた老人が、ふっと舞に近付いた。
「君の親友のお嬢さんには、ベイリンの剣技が宿っている。その斬撃を一度だけとはいえ、よく受けきれた。大した腕だ」
緩やかに称賛すると、老人は舞の剣にそっと手を触れた。瞬間、淡い光が燈る。「?」という表情を見せる舞に、老人が笑った。
「君の剣に魔力を付与した。これであの剣から受ける衝撃を幾分か軽減してくれる」
「わあ、すごいね」
あゆがまじまじと舞の剣を見つめる。
「じいさん、一体何者なんだ?」
と、祐一が視線を向けたときには、すでに老人の姿は無かった。
すっかり陽が落ちた中庭を、ただ一筋、荒涼とした風が通り過ぎていった――
「栞、まだ起きてるの?」
「わ、お姉ちゃん」
突然ドアを開けられ、栞はちょっとびっくりした。時計の針は、11時を回っていた。香里からしてみれば、妹の部屋でまだ明かりが点いているので入ってみることにしただけだ。
「部屋に入ってくるときはノックくらい――」
「したけど返事が無かったから、勝手知ったる妹の部屋」
「あれ?」
栞は目を丸くした。どうやら読書に夢中で気が付かなかったらしい。
「それで、何読んでたの」
香里が妹の手にある本に目をやった。そのタイトルを見て、意外そうな顔をする。
「あ、これ。ちょっと興味があって友達から借りてきたんだけど、読んでみると話が面白くて・・・・・・」
栞はとりあえずそう答えた。言葉の内容自体に嘘は無い。
「ふーん」
と、香里が腕組みする。それがどういう意味での「ふーん」なのかは判別しにくい。
「確かに面白いわね。一人の優れた騎士と王妃との不倫が原因で、王国が滅びるお話なんて」
「そんな身も蓋もない・・・・・・」
「あら、言葉の通りよ」
そういって、香里は肩を竦めた。
「・・・・・・そんなこと言うお姉ちゃん、嫌いです」
人差し指を唇に添えて拗ねる栞だったが、声は怒っていなかった。
それを見て取った香里は、笑顔でドアに手をかけた。
「じゃ、ね。いくら明日が日曜だからって、あんまり夜更かししないようにね」
「うんっ」
栞も、満面の笑顔で返事した。
そして、運命の日曜日がやってきた。
「今日はこない」
薄闇の廊下、月明かりに照らされた剣士がそう言った。
「あははーっ。魔物さん、今日も来ないようです。せっかく見学に来てくれたのに、残念でしたね、祐一さん。あゆさん。栞さん」
鞘に収まった、例の剣を片手に、佐祐理は微笑んだ。やはり制服姿なのは、舞に合わせているらしかった。とりあえず祐一たちは軽く愛想笑いで返す。本番はこれからだ。
「佐祐理、ちょっと来てほしい」
そう言って、返事も聞かずに歩き出す。
「ふぇ? 舞、どこ行くの」
きょとんとしながらも、佐祐理は親友の後ろ姿を追った。祐一たちもその後に続く。密やかな通路に複数の足音が重なり、まるで共鳴するかのように、無機質なメロディーが鳴った。それはあたかも、死者を導く葬送行進曲のように――
「はぇー。浪漫あふれる光景ですねー」
頭上に広がる、満天の夜空を見上げて、佐祐理はうっとりとした。
都会では決して見ることのない、天然のプラネタリウムは、悠久の彼方より続く、永劫の時の中に輝く生命の煌きのように綺麗だった。
「それで、舞。屋上まで来たのは、佐祐理にこの星空を見せたかったから?」
返答は、自分の方へ向けられた、細身の西洋剣の切っ先だった。
「佐祐理。もう一度、勝負」
その言葉を聞いて、佐祐理は納得した。同時に、肩を竦めた。
「舞、まだ諦めてなかったんだ・・・・・・」
「今日で最後」
再び、青眼の構え。
「舞がよければ、佐祐理はいつでもお相手するよ」
鞘鳴りの音がして、夜の世界に煌きが一つ増えた。構えは八双。
見守るは、祐一たちのほかに、冷たい月ひとつ――
突如、張り上げた死闘の気に、祐一たちは息がつまりそうになる。凝縮された闘気の拮抗に、月光の降り注ぐ屋上は、真っ白に凍結した。
そして――どちらからともなく地を蹴った。
硬質の火花が散った。
佐祐理の剣の一撃を受け、しかし、昨日のように全身が痺れるほどの衝撃はなかった。
「・・・・・・その剣、いつの間に細工したの?」
佐祐理の感心したような台詞に、舞は答えなかった。
「うん、別に答えなくてもいいよ。そんな小細工で佐祐理は倒せないから」
常人の目には見えないほどの速さで、佐祐理の剣が上段から振り下ろされる。それを、すんでのところでかわす舞。確かにかわしたはずなのに、上衣の裾がすっぱりと切れていた。佐祐理の剣技の精妙さよ。
魔力で剣撃の威力を軽減することは出来ても、剣技の差だけはどうすることも出来ない。相手は、円卓の騎士の中でも強者とされるガウェインに匹敵するほどの腕を持っているのだ。一瞬でも隙を見せたら、その場で勝負は終わってしまう。
「あははーっ。本気できてもいいよ、舞」
天使のような、悪魔の笑顔。
言われなくても本気で打ち合う舞を、佐祐理は余裕であしらう。
「逃げてばかりいたら勝てないよ」
これだけ激しく動きながら息ひとつ乱さず、佐祐理は剣を下段に移した。
すでに舞の服のあちこちは小さく切り裂かれていた。
防戦一方を強いられながらも、舞は反撃の機会を窺っていたが、如何せん佐祐理にはまるで隙がないのだ。
「このままじゃ、やられる」
はあ、はあ、と疲労しながら、舞は剣を構えなおした。そのとき、月光が剣の表面を受けて反射した。一瞬、舞の目がくらむ。
無論、その隙を見逃す佐祐理ではなかった。
刹那のうちに詰め寄った横薙ぎの一閃は、見事に舞の剣を弾き飛ばしていた。
細身の剣がむなしく音を立てて屋上に転がる。勝負はあった。
だが――
「佐祐理さん!?」
祐一が叫んだ。すでに勝敗は決したはずなのに――呪いの力か――佐祐理は剣を振り上げた。
袈裟懸けに振り下ろされた刃の先は、無防備な舞の、がら空きの首!!
「危ないっ!」
無我夢中で叫んだ栞の前に、光り輝く杯が現われた。
つぎの瞬間、不思議な力に護られたかのように、佐祐理の剣が真横へすれた。
「それは!」
佐祐理の注意がほんの僅か、その杯――聖杯へとそれた。
おそらくは最初で最後のチャンスを、舞は逃さなかった。駆けざまに剣を拾うと、下段からそのまま振り上げた。
きんっ!
狙い違わず、剣の刃は呪いの剣の柄に命中する。佐祐理の手を離れたそれは、くるくると綺麗な円を描いて、空高く舞った。
それと同時に、あゆの前に一本の槍が姿を現した。
「あゆさん!」
「う、うんっ」
突然の出来事に訳もわからず、あゆはその槍を手に取った。
「うぐぅぅぅーっ!!」
本物の槍など見るのも初めてだし、使うのも初めてだったが、やけくそで投擲した。考える前に身体が動いていたという感じだった。
あゆの手を離れた「ロンギヌスの槍」は、永遠とも刹那とも思える一瞬の後――――
がっ!
呪いの聖剣に命中した。
そのまま眩い光の中に、剣が飲み込まれて消えた。まるで夢を見ているかのような一瞬の出来事だったが、それが嘘でない証拠に、淡くかがやく聖杯と聖なる槍が、ふわふわと浮かんでいた。
「やったのかな・・・・・・?」
いまだ半信半疑のあゆ。目を戻すと、ぐらりと倒れる佐祐理を舞が受け止めたところだった。
「佐祐理さんは?」
不安げな栞に、舞は「大丈夫」と言った。どうやら気を失っているだけらしい。ほっとする一同。ようやく一段落した屋上に、新たな来訪者が訪れた。
「よくやった。見事だ」
「あ、おじいさん!」
またしてもいつからそこに居たのか、青いローブの老人が月明かりの下に佇んでいた。それから徐ろに、宙に浮かぶ槍を指差す。
「これはロンギヌスの槍。十字架に架けられたキリストの脇腹を突いたものだ」
続いて、杯を指差す。
「そしてこれが聖杯――サングリアル。槍から滴り落ちたキリストの血を受けた杯」
最後に、栞とあゆを指差した。
「神の奇跡をその身に受けた、君たち二人だからこそ、聖槍と聖杯はその恩恵を与えたのだよ」
祐一と栞とあゆは、そっと顔を見合わせた。三人にはその言葉の意味がよくわかっていた。あの剣はもともと神の奇跡を宿したもの。ベイリンの怨念に相反するように、奇跡にかかわった二人の少女の元に引き寄せられたのだろう。
「そういや、あの剣はどうなったんだ?」
「元の時代、まだガラハドが手にする以前の世界へ還っていった。そのお嬢さんにかかっていた呪いも解けたよ。目を覚ましても、剣を手にしてからのことは何も覚えていないだろう」
その言葉を聞いて、祐一たちは安堵の息を吐いた。
やっと、終わったのだ。
ぐっすりと眠っている佐祐理を背負い、舞が老人と祐一たちのほうを向いた。
「ありがとう」
僅かながら、確かに微笑だった。そして、ゆっくりと屋上の出入口へと歩き出す。
――と、思いきや。
ふと何かを思い出したように、つかつかと栞の正面に立ち、
「嫌いじゃない」
ときた。
「・・・・・・はい?」
栞には何が何だかわからない。
舞が続けて言った。
「雪だるま」
「・・・・・・」
暫く思考を巡らせて、栞はずっこけた。初対面時に冗談で言った質問は、三日の時を越えて返ってきたのだった――
「おれたちは一件落着だけど、舞はこれからも魔物と戦っていくんだろうな・・・・・・」
唯一無二の親友を背負って、校舎を後にする舞を屋上のフェンス越しに眺めながらの祐一の呟きは、一抹の虚しさを感じてのものか。栞とあゆも、どこか翳りのある表情だ。
「魔物というのがこの学校に巣食う者たちのことを言っているのであれば、それは違うぞ」
「えっ」
祐一の呟きに答えを返したのは老人だった。
「あれは、過去が生んだ悲しい「心」そのものだ」
「じいさん、魔物の正体を知ってるのか!?」
老人は「うむ」と応えた。
「魔物の正体だけでなく、あの舞という娘の過去も、全て知っているよ」
まるで、当たり前のような返事。この老人には知らない事がないのでは、と思えるほど淡々とした言葉だった。
そこまで聞いて祐一は浮き足立った。
「じゃあ、舞の戦いを終わらせる方法も――」
「聞いて、どうするというのだね」
「え・・・・・・」
老人の言葉に、祐一たちは固まった。それは、初めて聞くようなずっしりと重い声だったからだ。この星には重力があるのだと、改めて再確認できた感じがした。
突然のことに言葉に詰まる三人を瞳に映し、老人は少しだけ声を和らげた。
「君は今、幸せかね?」
「は?」
いきなりそう訊かれ、祐一は困惑した。
「その二人のお嬢さんと一緒にいて、君は幸せか、と訊いたのだ」
質問の意味するところを理解しかねた。しかし祐一はきっぱりと言った。
「そんなの、聞くまでもないだろ」
老人は「うむ、うむ」と頷いた。それから目を伏せて、こう言う。
「では君は、自らその幸せを消し去ろうというのかね」
「えっ」
三つの驚きの声があがった。さらに困惑を深める祐一たちに、老人はまるで出来の悪い生徒に教えるように、厳かに語ってみせた。
「幸せとは、積み重ねられた悲しみの上に揺れる炎のようなものだ。悲しみを掘り起こそうとすれば、当然、炎は消える。君はこの時代には有り得ない奇跡と、知らずに通り過ぎていった悲しみの上に、その幸せを手にしたのだ。これ以上、君は何を望むというのだね? 二兎を追うものは一兎をも得る事が出来ないのだよ」
「・・・・・・」
老人の言葉一つ一つが胸に刺さり、祐一は何も言うことが出来なかった。
「だが、どうするかは君の自由だ。知りたければ、魔物の正体も、あの娘の過去も、全て教えよう。魔物との戦いを終わらせることも出来るだろう。さあ、どうするね」
選択のときが来た。何気なく呟いた言葉が、まさか自らの運命すら左右しかねない事態になろうとは誰が予測できただろうか。
冷たい夜空の下で、何を思う? 相沢祐一よ――
「だ、駄目だよっ!」
静寂を破ったのは、あゆだった。今までにないくらい、沈んだ顔をしている。
<探し物・・・・・・見つかったんだよ>
そう言った、あの日の表情に似ていた。
「だって・・・・・・ボク、幸せだもん! もう二度とこんな日がくることはないと思ってた。けど、今こうして、祐一君や栞ちゃんと一緒で、他人から見ればちっぽけで小さな幸せかもしれないけど、だけど、それが無くなっちゃうなんて・・・・・・ボク、そんなの嫌だよっ!!」
あらぬ限りの大声。やがて、ゆっくりと瞼が下がる。
「ボク・・・・・・悪い子かな? こんなお願い・・・・・・ボク、いじわるかな?」
小刻みに震える小さな肩。夜風に乗って、透明な涙が、きらきらとこぼれて落ちた。
「あゆ・・・・・・」
何も言えず、祐一は栞のほうを向いた。
静謐な表情だった。春の夜空には、白すぎる肌だった。
「祐一さん、私は――」
祐一はそれ以上、言わせなかった。
「おれは、栞のことが好きだ。ずっと一緒に居たいと思ってる。これから先・・・・・・何日経っても、何ヶ月経っても、何年経っても・・・・・・栞のすぐ側で立っている人が、おれでありたいと思う」
それは、いつか言った、あの日の言葉。あの、約束の日の――
「・・・・・・祐一さん」
ほうっと溜息を吐く栞の頭を撫でてから、今度はあゆのほうを向いて笑った。
「特別サービスで、お前ともだ」
「う、ぐっ・・・・・・祐一君っ!」
ものすごい勢いで、あゆが祐一に飛びついた。自然、彼のすぐそばにいた栞もその直撃を喰らうことになる。おわー、きゃっ、うぐぅ〜、という奇妙な叫びが屋上を転がった。
「賢明な判断だ。世の中には、知らないままのほうが良いこともある」
老人が穏やかに微笑した。
「さて、そろそろ君たちとはお別れだ」
そう言った老人の身体が、ゆっくりと輝き始めた。このまま消えるのだとしても、祐一たちは驚かないだろう。今夜の出来事で、不思議な事にはすっかり慣れた。
「あ、待ってください」
声をかけたのは栞だった。
「あの・・・・・・おじいさんはもしかして、カメロット最高の魔術師マーリンさんでは?」
確信を持った栞の問いに、老人は皺深い顔を微笑ませ、
「いかにも」
と言った。
やはり、そうだったのだ。
「でも、マーリンさんは、湖の貴婦人の姦計によって、決して出られない魔法の場所に閉じ込められたはずじゃ・・・・・・」
「肉体は閉じ込められても、魂は自由に動けるのだよ。あゆ君、半年前の君と同じような理屈だ。私の場合は自分の意志で、自在にそれが出来るといったところだ」
マーリンにとっては、児戯にも等しいことなのだろう。
「では時間だ。少々名残惜しいが、これでお別れだ。今、全ては聖杯のあるべき時代へ――!」
夜空に一瞬の煌きを残し、老人の姿は聖杯と聖なる槍とともに、その輝きの中に消えていった。
「祐一さん。さっきの言葉、嬉しかったです」
校舎を出たところで、栞が幸せそうにはにかむ。
その表情がまぶしくて、祐一は顔を赤くした。
「祐一君、ボクも嬉しかったよ」
あゆが笑顔で跳ねる。栞より年上なのに、妙に子供っぽい。
「まあ、お前はついでだけどな」
「うん、そうだね」
「・・・・・・え?」
あゆのあっさりとした肯定に、いつものように怒って突っかかってくることを想像していた祐一は、何となく出足をくじかれた。
知ってか知らずか、あゆが笑う。
「ついででもいいよ。ボクが嬉しかったことには変わりないんだから、ボクはすごく幸せな気分なんだよ」
「・・・・・・」
「祐一さんの負けですね」
栞が楽しそうに人差し指を唇に添えて、微笑んだ。
「・・・・・・うーむ」
今の会話に勝ち負けがあるかどうかはともかく、あゆをからかうのに失敗すると、なぜか負けた気分になる祐一だった。
一週間後――
「おいしいっ。佐祐理さんって、料理上手だね」
重箱の中のおかずを一口やって、あゆが感嘆の声を上げる。栞も同感の意を表す。色々な種類のおかずが華やかに詰められた五つの弁当箱。ものみの丘の草原で、大きなブルーのビニールシートの上に仲良く座る五つの人影。
「やっぱり佐祐理さんには、剣よりも手作り弁当が似合うな」
祐一も満足げに、タコさんウインナーを口に運ぶ。
「はぇ? 何の事だかわかりませんけど、おだてたって何も出ませんよー」
あははーっ、と佐祐理が笑う。その隣では舞が黙々と箸を進めていた。
と、その動きが急に止まる。
「・・・・・・」
「あれ、どうしたの? 舞」
佐祐理が不思議に思って見ると、その視線の先は祐一の弁当箱。
その中には、二つ目のタコさんウインナー。舞の重箱にはない。
「お、どうした。これが欲しいのか?」
こくり。
頷いた。
「あははーっ。佐祐理の振り分けミスみたいですね。ごめん、舞」
「よし、じゃあ・・・・・・って、おれの位置からだと届かないな。よし」
そう言って、祐一は自分の弁当箱を舞のところへ押し進めた。
「食べたら返せよ」
「あ、それなら佐祐理のお弁当箱を祐一さんに」
佐祐理が自分の弁当箱を祐一のところへ押し進める。
「そんな、いいですよ佐祐理さん」
「少しの間ですから、佐祐理は構いませんよ」
どんなときでも佐祐理さんは佐祐理さんだった。
「じゃあ、ボクの弁当箱を佐祐理さんに渡すよっ」
元気いっぱいに、あゆが弁当箱を佐祐理のところへ。
「それでは私のをあゆさんに」
栞の弁当箱が、あゆの元へ。
「・・・・・・」
すると、舞が無言で自分の弁当箱を栞に差し出した。
「何だ、舞。遠慮しなくてもいいんだぞ」
さっと、祐一が手元の弁当箱を舞に。
「じゃ、このお弁当は祐一さんに」
ささっと、佐祐理が弁当箱を祐一に。
「じゃあ、ボクのを佐祐理さんに」
さささっと、あゆが佐祐理へ。
「それでは、あゆさんに」
ささささっと、栞があゆへと。
「・・・・・・」
――以下同文。
「舞」
「祐一さん」
「佐祐理さん」
「あゆさん」
「・・・・・・」
さささささささささささささささささ!!
気がつくと、五つの弁当箱は眼にも止まらぬ高速移動を繰り返し、見事な五芒星を描いていた。
これぞ、安部清明の秘術!
「なんでやねんっ」
どこかの海沿いの田舎町で、誰かが裏拳をかました気がした。
季節は春。
陽だまりの街に降り注ぐ陽光。暖かな日差しが心地よい、ものみの丘の草原に響く楽しげな声。
「あははーっ。舞、頬にご飯粒がついてるよー」
今日もまた、平穏な一日。
(END)