「前編」



その街を、一人の老人が訪れていた。

長く白い髪、荘厳風雅な相貌は、ひと目見て西欧の人間とわかる。さらに彼は、中世ファンタジーの世界に出てくる魔法使いが着るような、青いローブに身を包んでいたのだ。

その全てを見透かすかのような蒼い双眸が、辺りをぐるりと見廻す。

夕暮れに染まる町並みを瞳に映し、老人の唇は、微笑の形を作り上げた。

「面白い街だ。神より奇跡を授かりし少女と、その奇跡を受けし少女。この二人なら、これから起こる<不幸>を打ち払うことが出来るだろう」

やがて老人の姿は、何処かへ遠ざかっていった――



「着きましたね」

眼前に聳える、見慣れた建築物の前で栞が、傍らの青年にそう言った。

「ああ」

祐一はこくりと頷いた。

明日のテストの復習に必要なノートをうっかり校舎に忘れてきてしまった栞のために、一人じゃ危ないからと、一緒に夜の学校へ取りに来たのである。

「ほんとにすみません、祐一さん」

「いや、構わないさ」

夜中とはいえ、今回は自分の学校だ。何より、忘れ物を取りに来たという大義名分がある。誰かに見つかったとしても、咎められる理由はほとんどない。加えて、あゆがいないため、足を引っ張られることもないので気が楽だった。

足音を忍ばせて、ゆっくりと校舎内に入る二人。別に悪いことをしているわけではないが、やはり夜の学校というのは緊張する。それもそうだろう、普段はまず足を踏み入れることがない場所には違いないからだ。

それにしても不用心な学校という点では、親友である「上月澪」の学校と大差ない。こんな簡単に入れるなら泥棒だって大助かりだ。まあ、あまり金目のものがあるとは思えないが・・・・・・などと失礼なことを考えながら、栞の教室へ向かう。懐中電灯を持ってきたものの、窓から降り注ぐ月明かりのおかげで、まったく不要といえた。

「あ、ここです。取ってきますね」

祐一に小さく頭を下げて、栞が教室の中へ入っていった。机の中にある、お目当てのノートを手に戻る。

「じゃ、いくか」

「はい」

このまま別段、何事も起こることなく帰路に着くはずだった――ほの暗い廊下に立つ、すらりと背の高い少女と鉢合うまでは。

「・・・・・・」

思わず、栞と祐一は言葉を失った。

月明かりに照らされる少女の姿。首の後ろでまとめられた長い髪。やや伏し目がちな双眼に、きゅっと一文字に結ばれた唇。夜目にも鮮やかな、紫色のリボン――三年の制服。ここまではいいだろう。

だが、その右手に携えられたもの。

西洋剣。

夜の校舎。顔立ちの整った少女に細身の西洋剣。

見よ、何と言う幻想的な光景か――

呆然としている二人の姿を、ちら、と一瞥したものの、少女は無表情のままノーリアクションだった。

しかしこの状況ではそれが絵になる。

実に非現実的かつ幻想的な光景だが、このままでは話が進まない。祐一が何か言わんとする前に、栞がおずおずと口を開いた。

「あの、雪だるまは好きですか?」

ずてっ。

こけたのは祐一だ。

「栞っ、それがこの状況で言うセリフか!」

「あ、ごめんなさい。あまりに唖然としてしまったので・・・・・・」

それにしたって突拍子すぎだ。

「こういうときは、何やってんだとか、演劇部の稽古なのかとか、お前は誰だとか訊くのが筋ってもんだろ」

「質問はひとつずつですよ、祐一さん」

こういうときはまともな栞だった。

「・・・・・・」

と、今まで無反応だった少女が、すちゃり、と剣の切っ先を栞たちのほうへと向けた。

びくぅっ、と驚く二人。いきなりボケとツッコミじみた会話をしてしまったのがまずかったのか?

気を落ち着けようと、しどろもどろになる二人に鋭い視線を浴びせる少女。

そのとき、少女の視線が自分たちに向けられてはいないことに祐一が気づいた。僅かながらにずれた凝視は、まっすぐにその肩越しへと――

「後ろ?」

次の瞬間、強烈な気配が背後で膨れ上がった。

「わ」

「きゃ」

見えない何かに弾かれたように、祐一と栞は壁にぶつかった。衝撃で一瞬、息がつまる。

何が起こったか理解できず、よろよろと立ち上がる二人の視線の先――

少女には見えない何かを感じ取れるのか――構えは青眼。

風が鳴った。それは少女へと向かう狂気の疾風か。肩のケープがふわりと揺れた。

その刹那。

二人は見た。少女の剣が、何もない空間に向けて振るわれるのを。そして、聴いた。

ざしゅっ!

裂けたのは空間か? 否。この状況なら理解できる。剣で切られれば傷つく――見えざるものを切り裂いたとしても、それはあたりまえの現実なのだ。

「・・・・・・」

暫し、虚空を見渡す少女だったが、やがてゆっくりと剣を下ろした。唇の動きが読めるなら、「逃がした」という呟きを聞き取れたかもしれない。

何事もなかったかのように、立ち去らんとする。待ったをかけたのは祐一だ。

「おい、まてよ」

少女は振り返らない。足音も遠ざかってゆく。

「待てってば! これはいったいどういう事だ? 何が起きたんだ? 説明くらいしてくれたっていいだろ!」

「そうですよ。銃刀法違反ですよ」

栞の言うことはまともすぎだった。

それが功を奏したわけではないだろうが、少女がぴたりと止まった。ちら、とだけ二人を見て、

「魔物」

と、ぽつりと口にした。

きょとんとする祐一と栞を後に、今度こそ足音は遠ざかっていった。


「うぐぅ・・・・・・怖いよ」

傍目に解るくらい、おどおどとした様子で月宮あゆが夜の道を闊歩する。たい焼き屋のアルバイトが、今日は少し遅く終わったのだ。従って、こんな時間に帰ることになる。

早足で歩くあゆの前に、何かが立ち塞がった。

「!」

それを見た瞬間、あゆは気を失いそうになった。

暗い夜道で、青いローブを纏った外国老人が目の前に現われたら、あゆでなくともびっくりするだろう。

「わわわわ」

あまりのことに気が動転するあゆに、老人が語りかけてきた。

「おびえることはない、神より奇跡を授かりし娘よ」

「え?」

あゆが驚いたのは、老人の声がとても流暢な日本語だったからか――それとも、その言葉の内容か。

「君にこれを与えよう。二人の少女を襲う<不幸>を打ち砕くものだ」

そういうなり、老人はあゆの前に手をかざした。

すると、おお! 夢か幻か、何もない老人の手の平から、銀色の輝きが発生したのだ。その光は、驚くあゆの胸の中へと吸い込まれていった。

「わ、わ、おじいさん、ボクに何したの!?」

慌てふためくあゆの耳に、悠然と歩み去る老人の一言が届いた。

「ロンギヌス」


「あっ、祐一君! 栞ちゃん」

暗い夜道の前方に見知ったシルエットを発見したあゆは、その二人に声をかけた。

すると、二人は何やらぎょっとしたように見えたが、あゆは構わず近寄った。

「大変なんだよ! ボク、さっきおかしなおじいさんに会って・・・・・・」

あゆが先刻の出来事を口にしようとする前に、祐一が「しーっ」と人差し指を立てた。

静かにしろ、というニュアンスは伝わった。ふと見ると、さらに前方にやや背の高い少女の後ろ姿。

祐一と栞はその少女の後をつけているらしかった。

「・・・・・・知らなかったよ、祐一君にそんな趣味があったなんて」

「人聞きの悪いことを言うなっ」

愕然としたあゆの視線に、祐一は真っ向から抗議した。こんなところでストーカー扱いされては堪らない。着かず離れずゆっくりと少女の後を追いながら、二人はあゆに事情を説明した。

夜の学校にノートを取りに行ったときに出会った不思議な少女のこと、そこで起きた出来事を、そしてその少女が何者なのか確かめるために尾行しているということを。

「へえ、そうなんだ」

ぽかんとあゆが言う。納得はしたようであるが、やや信じがたい様子なのは致し方あるまい。自分たちだってまだ半信半疑なのだから。

ここで会ったのも何かの縁、とばかりに「謎の少女追跡」にあゆも加わった。

――尾行は、さほど時間がかかることなく終焉を告げた。

三人はこれといって特徴のない、何の変哲もない普通のマンションの前に立っていた。この中に例の少女が入っていくのを見たのだ。

「どうしましょう」

困惑の視線を投げかける栞に、祐一は覚悟を決めた。

「ここまで来たらいくしかないだろう」

慎重に足を踏み入れる三者。エレベーターは二階で停止している。ほかに誰も入っていくのを見なかったから、二階のどこかなのだろう。

チン、と音をたててエレベーターのドアが開く。廊下に出た途端、祐一たちは驚きの声を上げそうになった。まるで待ち構えていたかのように、いや、実際そうだったのだろう。

少女は無言で三人を見ている。その凛とした眼差しは、初対面のあゆですらたじたじとなるものだった。正直、この状況は祐一たちのほうが圧倒的に不利である。

「ああ、いや、何だ。月が綺麗だな」

しどろもどろになる祐一。あゆが小声で「無茶苦茶だよ祐一君」と呆れた。

少女の右手が剣にかかる。

「わー、まってください、違うんです!」

栞が慌てて制止の声を上げる。

と、そのとき――

「あれ、誰かいるんですかー?」

かちゃりと、少女のそばのドアが開いた。

顔を出したのは一人の少女。淡いグリーンのリボンを頭に載せた、優しげな雰囲気の女性だった。

艶のある、さらさらのロングヘアーにどこか気品のあるその風貌は、深窓の令嬢という言葉がよく似合う。

「あ、舞、帰ってたんだ」

「・・・・・・佐祐理」

「あれ、この人たち、舞のお知り合い?」

佐祐理――と呼ばれた少女が祐一たちを瞳に映し、きょとんとした風に言う。

途端、弾かれたようにあゆが身を乗り出した。

「うん、そうだよっ。舞さんとボクたちは大のお友達なんだよっ」

いきなりの大嘘に驚いたのは祐一と栞である。これでは無茶苦茶なのはどちらなのかさっぱり解らない。

が、何故か剣の少女――舞は何も語らなかった。両方をかわるがわる見つめ、佐祐理は言った。

「はぇー。舞、三人もお友達できたんだ」

心底、びっくりしていた。それは何となくわかるような気がした。が、切り返しは早いらしく、すぐさま天使のような笑顔を返してくる。

「それじゃ、紅茶でも飲んでいきますかー?」

何故いきなりそうくる。

「こらこらっ。お前が否定しないから、この人完全に信じちゃってるじゃないか!」

さすがに耐えかねた祐一が怒鳴る。少しの間、無言でいた舞だったが、やがて小さく呟いた。

「・・・・・・違う」

「おそいっ」

「・・・・・・ふぇ?」


――で、結局祐一たちはこの二人の部屋で紅茶をご馳走になるという、ぶっ飛んだ展開と相成った。

「美味しいです」

栞がごくまともに感想を述べた。あゆは隣で「ふーふー」と紅茶を冷ましている。

「あははーっ。喜んでもらえて佐祐理もうれしいです」

屈託のないエンジェルスマイルが室内を輝かせた。

どうやらこの二人は親友で、さらに祐一たちの学校の卒業生らしかった。今年の春――2週間ほど前――に卒業した後、このマンションを借りて二人で生活しているの だという。

そして話が舞の剣と夜の学校のことになると、僅かに佐祐理の表情が曇った。何やら非常に答えずらそうな雰囲気である。言っちゃいけない、というよりも言っていいものかどうか迷っているといった感じだ。

「大丈夫ですよ、佐祐理さん。おれ達は多少のことでは驚きもしませんから」

自分たちが現実では起こり得ない「奇跡」に遭遇しているだけあって、祐一の声には自信が溢れ出ている。栞とあゆもこくこくと頷いた。

それを見て信頼に足る人物だと思ったかどうか、佐祐理は舞のほうを向いた。

「舞、話してもいい?」

「・・・・・・」

すると、舞の顔が途端に険しくなる。祐一たちはごくりと唾を飲んだ。やはり訊いてはいけないことだったか――どぎまぎとする一同に舞は口を開いた。

「紅茶がのどにつっかえた」

どべしゃあっ!

まるで某大阪喜劇のように、ばたっと倒れる一同。何とか起き上がった佐祐理がこほこほと咳込む舞の背中をさする。

「あ、あははーっ。舞、大丈夫?」

こくりと頷く。表情に変化がないので解りにくいが、大丈夫らしい。

落ち着いたところでもう一度訊いた。

「舞、話してもいい?」

「佐祐理がよかったら」

どうやら承諾を得たようだ。

そして話し始める声に祐一たちは耳を傾けた。

それはこういう事らしかった。

祐一たちの学校には魔物がいるらしく、夜になると活動を開始する。そして舞はずっとずっと昔からその魔物と戦ってきたのだという。さらに、佐祐理自身もそのことを知ったのはつい最近のことらしい。魔物の正体が何なのか、なぜ舞が戦っているのかはまったくわからないのだった。

「・・・・・・魔物」
話を聞き終わった祐一が唖然と呟く。佐祐理の声に虚偽の響きが感じられないだけに信じないわけにはいかなかった。

しかし、多少のことでは驚かないはずだった三人も、まさか自分の通う学校に魔物がいて一人の少女が人知れず戦っているという事実には驚嘆してしまった。

「でも、銃刀法違反」

栞はちょっとしつこかった。

すると、何を思ったか舞はすらりと剣を取り出すと、その刃を自分の左腕にあてがった。

「え」

三人が目を剥く暇もあればこそ、鋭い刃はするりと腕を滑った。

「え?」

三人は再び目を剥いた。確かに刃の通った肌には傷一つなかったのだ。

「あははーっ。驚きましたか? 実は舞の剣は切れないんです。バナナすら弾き返すなまくらなんですよー」

「えっ」

これにはびっくりした。栞が恐る恐る剣の刃に指を這わせてみたが、確かに傷ひとつつかなかった。刃のないイミテーションなのだ。

「とすると」

祐一は先刻の舞の戦いを思い出した。あの時魔物を傷つけたのは、斬撃によるものではなく、力押しの打撃によるものだったのだ。

「凄いな」

心の底から感心した。

「はい、舞はすごいんですよー。でもそれだけじゃなくて、とても優しいんですよーっ」

それはわかっている。さっきまでは少し考えるところがあったが、この二人の様子を見ているとそんな邪推はどこかへ吹っ飛んでしまった。

見ているだけで羨ましくなるような、暖かい確固たる絆がこの二人にはあった。
「うんっ。でももうボクたちも佐祐理さんと舞さんのお友達だよっ」

あゆが元気いっぱいに宣言する。祐一と栞にも依存はなかった。

「あははーっ、そうですね。お友達ですねー」

見ているだけで、暖かくなる笑顔。

「そういえば、学校を卒業している舞さんが、どうして制服姿で夜の校舎に赴いているんですか?」

栞が、もっともな質問をあげる。

「怪しまれにくいから」

間髪いれずに返事が来た。もし誰かに見つかっても、制服姿なら、私服よりも言い訳が聞くだろう。

備えあれば憂いなし、というところか。

「佐祐理が考案したアイデアなんですよー」
「なるほど」

かくして、一緒にいて退屈しなさそうな二人と友達になった祐一たちだったが、襲い来る<不幸>はすぐそこまで迫っていたのである――


「栞ちゃん、美坂どこにいるか知らないか?」

「お姉ちゃん・・・・・・ですか?」

無事にテストも終わり放課後、帰り際に話し掛けてきたのは北川だった。どうやら香里を探しているようだが。

「お姉ちゃんなら多分、部活だと思いますけど」

「何、そうだったのか・・・・・・」

北川はとても残念そうだった。

「お姉ちゃんに何か用があったんですか?」

「いや、用ってほどのことじゃないけど」

「もしかして、一緒に帰りたかったんですか?」

何気ない栞の言葉に、なぜか北川は大きく動揺した。

「な、なな・・・・・・お、俺はただちょっと聞いてみただけで、別に深い意味はなくてだな、その・・・・・・」

明らかに狼狽しながら北川は必死に言い訳を口走る。だが、言えば言うほど泥沼にはまってゆくその姿が非常に哀れだった。

「北川さん、私、応援してますから」

「な、なななな。そ、そういうんじゃなくて、いや、だから、じゃあそういうことでっ」

もはや自分が何を言っているのか解らなくなって、あたふたしながら遠ざかる北川のシルエットを、栞はぽかんと見送った。今日はいい天気だと思う。

帰り道の途中で祐一と別れ、栞は自分の家の帰路を辿った。

――その前方にそれはいた。

初め、それが何だかわからなかった。いくらこの街でもそんな格好で歩いている人間は見たことがないから。しかもそれが自分に向かって歩み寄ってくるとあれば、思わず一歩後退るのも仕方ないことだろう。

「逃げることはない、神の奇跡を受けし娘よ」

と、青いローブを纏った、その老人は言った。

海よりも深いと錯覚する蒼い瞳はどう見ても西洋の人間のもの。それでいて発せられる声は、この国で生まれたのではないかと思わんばかりの流暢な日本語であった。

「えっと、どちらさまでしょうか」

栞が立ち止まったときには、すでに目の前に老人の姿があった。

優しそうな顔。しかしどこか人間離れした威厳のようなものを漂わせていた。

「君にはこれを与えよう。襲いくる<不幸>から身を護ってくれる」

輝きは一瞬――眩い光はあっという間に栞の胸に収まった。

「えっ?」

驚いて視線を戻すも、いつのまにか彼方へと歩み去る老人の影法師が映るだけであった。

ただ一言が風に乗って栞の耳に運ばれてきた。

「サングリアル」


夕食後、いつものように学校へ向かう舞を見送った後、佐祐理は明日の朝食の下拵えに取り掛かった。

舞の身が心配ではないといえば嘘になる。だが、自分は彼女を信じている。

舞が約束を破ったことは一度もない。だから、大丈夫だと信じていられる。

ただ、もし自分にも魔物と戦えるだけの力があったなら、もっと現実的に舞の手助けをしてあげられるのではないか――そう思うことはある。

そんなことを考えているときだった。

「あれ?」

玄関に見慣れぬ剣が立てかけてあった。鞘に収まっているという時点で舞の剣とは違うことが明らかだし、何より彼女が大切な剣を忘れていくことなど有り得ない。それにこの剣は、まさしく宝剣といわんばかりに豪奢な外見をしていたのだ。そう、まるで昔の王侯貴族が持っていたかのような煌きである。

「・・・・・・」

まるで魅入られるかのように、佐祐理はそれに手を触れた。そして、何の躊躇もなくその剣を鞘から抜き放つ。

次の瞬間、目もくらむほどの光が迸った。



かつん。かつん。かつん。

リノリウムの床が鳴ったとき、舞は初めてそこに誰かがやってきたことを知った。魔物ではない。だが、こうして足音が聞こえるまでまったく気配を感じなかったのである。

それだけならここまで驚くことはなかった。問題はそれが自分の最もよく知っている人物で、さらにそれが、決してここに来るはずのない人間だったことだ。

風もないのに、舞と同じケープとワンピースをなびかせて――

「あははーっ。舞、助太刀に来たよー」

と、倉田佐祐理は言った。

「・・・・・・」

いつもの無口で言葉が出ないのではない。あまりのことに呆然としているのだ。

舞の双眸は、親友の少女のか細い右手に握られた、見事な輝きを放つ宝剣を捉えた。

「佐祐理・・・・・・それ」

「どうしてだか分からないけど、玄関に置いてあったの。でもこれで佐祐理は舞の手助けが出来るよ」

にっこりと微笑んだ。「佐祐理には無理」という言葉を、舞はなぜか出せなかった。

自分にまったく気配を感じさせなかったことが原因かもしれない。もし足音がしなかったら、間近まで近付かれないと分からなかったに違いなかったからだ。

どう考えてもその宝剣が何か不思議な力を佐祐理に与えていると感じた。

剣を手放すように言わんとしたその瞬間――

びしっ!

突然の怪音。決して人のものでは有り得ない。

「・・・・・・」

「魔物さんのお出ましというわけですねー」

嬉々として言う。やはり佐祐理にも魔物の気配を感じ取れるようだった。

何かが床を蹴る音。咄嗟に舞は剣を右斜め中段に構える。同時に、がしぃん! と激しい衝撃。魔物の突進を受け流し、返す刃で袈裟懸けに切りつけた。

柄を握る手の平は、僅かにかすっただけという感触を伝えてくる。一瞬、膨れ上がった気配は背後へと流れた。

「佐祐理!」

叫んで振り返る舞の瞳は信じがたい光景を映すことになる。

見えざる魔物の存在を提示するのは空気の鳴動のみ。襲い来る死の風を前に、佐祐理の身体が、ぼう、と霞んだ。ふわりと飛んだように見えた。

眼を見張った。魔物の攻撃を紙一重でかわして見せたのだと理解できた。

「姿の見えない敵と分かると、なぜか佐祐理の心に憤激の感情が湧きあがってきますよー」

鞘鳴りの音と同時に、今ひとすじの煌きが月明かりに照らされた。宝剣がゆっくりと上段にあがる。
一分の隙もない、なんと見事な動きか。

と、天井が響いた。頭上だ。見えない一撃は、しかし、不動の動きで避けられた。

宝剣を片手に、尋常な動作ではなかった。並の反射速度ではこうはいかない。

そして一閃。

ずしゃあぁぁぁぁぁ!

もし魔物に声があるなら、断末魔の叫びはこうであったろうか。深い霧が鮮明に晴れるように、今、魔物の気配は完全に消滅した。

「まずは一体、ですね」

何事もなかったかのように剣を鞘に戻し、佐祐理が笑った。

「・・・・・・」

舞は無言だった。ただ脳裏に電光の閃きが走った。

この剣は絶対に何とかしなければいけない――――


土曜の放課後。

栞は天野美汐の家を訪れていた。テーブルの上に用意された湯飲みを手に取り、一口やる。

「美味しいです」

玉露入りの上質のお茶だった。自販機で売っているようなものとは訳が違う。暫し、極上の味を堪能した後、栞は本題を切り出した。

「あの、美汐さん」

「何でしょうか、美坂さん」

同じように軽くお茶をすする美汐。無論、栞の声に耳を傾けたまま。

「・・・・・・<ロンギヌス>と<サングリアル>って何だか分かりますか?」

「・・・・・・」

美汐は、くい、とお茶を半ばまで飲み干すと、栞のほうを向いた。

「美坂さん。「アーサー王伝説」を存じ上げていますか?」

「いえ」

栞は首を振った。名前は耳にしたことがあるが、内容は知らない。すると、美汐は何やら思案顔で本棚のほうを見た。

美汐は徐ろに立ち上がると、その棚から一冊の本を取り出してテーブルの上に置いた。

「お貸しします」

ときたもんだから、栞は一瞬面食らった。

「知識は自分で得たほうが頭に入るものです」

「は、はい」

美汐の言葉に納得し、「アーサー王物語」とタイトルにある本を手にする。分厚いハードカバー仕様だった。裏表紙の隅に目をやると、「定価3000円」とあった。

ちらりと本棚を見ると、「グリム童話集」や「指輪物語」などが陳列していた。意外と夢があるのかもしれない。

とりあえず栞は丁寧に頭を下げて礼を言った。


帰り道。ばったりとその二人に出会った。

「祐一さん、あゆさん」

「あっ、栞ちゃん」

祐一の真横から笑顔を見せるあゆ。とことこと栞のそばに寄ってくる。

「奇遇だね、栞ちゃん。こんなところで何してるの?」

「友達の家に寄った帰りです。あゆさんと祐一さんは?」

「ボクたちはこれから商店街だよ」

「家を出た途端、待ち伏せしていたあゆに背後から不意打ちを食らったんだ」

「うぐぅ、他人が聞いたら誤解するようなこと言わないでっ」

即座にあゆが突っかかる。要するに、たまたま祐一の家の前を通りかかったあゆが、外出する祐一の後ろ姿を見かけて飛びついたということらしい。そう、彼女は月宮あゆであった。

「そうだ、栞ちゃんも一緒に行こうよ」

名案とばかりに手を合わせる。別段、用もなかったので栞は首を縦に振った。

――暫くして、あゆが明るく話題を振ってきた。

「これってダブルデートって言うのかな」

「馬鹿。それは二組のカップルが一緒にデートすることをそう言うんだ」

「あ、そうなんだ・・・・・・」

あゆはしきりに感心していた。

「うん、勉強になったよ」

やはり知能は七年前のままらしい――

「うぐぅ・・・・・・七年前のままじゃないよっ」

「なにっ、どうしておれの考えていることが分かった! さてはテレパスか!?」

「祐一さん、思いっきり声に出してましたよ」

「・・・・・・」

そのようだった。

「ひどいよ裕一君」

あゆはちょっと怒っていた。

「悪い、おれは正直なんだ」

「うぐぅ、もっとひどいよっ!」

あゆはかなり怒っていた。

「祐一さんが悪いです」

栞があゆに加勢した。こうなると祐一の旗色は敗北の色を濃くする。

数分後、手に紙袋を抱えて美味しそうにたい焼きを頬張るあゆの姿があった。

「うぐぅ、美味しい」

はぐはぐ、と満面の笑み。それからごそごそと紙袋から二匹を取り出し、祐一と栞にひとつずつ手渡した。

「ボクからのお裾分けだよ」

「おれの金だっ」

言いながら笑いあう三人の姿は、この上なく幸せそうに見えた。


「あ、佐祐理さんと舞さんだ」

太陽が西に傾きかけたとき、帰り道の途中で見間違えようのない二人の後ろ姿を見つけた。声をかけようとしたあゆが思わず立ち止まったのは、二人の右手に何かを包んだ長布が持たれているのを見て取ったからである。どう考えてもその中には剣が入っているに違いない。

「二人でチャンバラでもするのかな」

とりあえずそう言ったが、あゆ自信も本気ではなかった。大体、あの佐祐理さんが剣を振り回すところなど想像もつかない。加えて言うなら、二人は制服姿であった。

「うーん」

舞は無表情。佐祐理は笑顔。一見して普段と変わらないように見えるが、どこかおかしかった。どこが、といわれても困るが、言うなれば違和感というやつだ。極論すれば、隣の家の人が実は化け物だったということに気づかずに生活していた、という感じに例えられる。

「・・・・・・」

どうにも気になった祐一は、そっと二人の後を追った。

「あっ、祐一さん!」

突然のことに驚きつつ、栞とあゆも同行する。

――暫く歩くと、祐一たちにとって非常に馴染み深い建物が目に入ってきた。二人の姿はその中へ消えた。そう、祐一と栞の通う校舎である。

「・・・・・・学校?」

訝しみながら、祐一たちも中に入った。

土曜の夕方ということもあって人影もほとんど無い。夕焼けの照りつける中庭で二人の少女を発見した。すでに長布は地にあり、細身の西洋剣と鞘に収まった見目麗しい宝剣がそれぞれの片手に煌いていた。
「やっぱりチャンバラ?」

再びあゆが首をかしげる。祐一たちの姿に気づいているものの、舞はかまわず言葉を放った。

「佐祐理、その剣を手放して」

「はぇ? どうして? この剣のおかげで佐祐理も魔物と戦えるよ。もう舞が一人で苦労しなくてもいいんだよ」

「その剣は嫌な予感がする。捨てたほうがいい」

「あははーっ。舞は心配性だねー」

突然の会話の内容に、きょとんとする三人。
「どうなってるの?」

「さあ・・・・・・言葉の内容からすると、舞さんは佐祐理さんの持っている剣を処分させたいみたいですけど」

「何があったか知らないけど、喧嘩なんて似合わないぞ」

「違う」

祐一の台詞に、即座に舞が否定した。

「あれは佐祐理であって佐祐理じゃない」

「え?」

祐一は言葉の意味を理解しかねた。栞とあゆも同様だ。

「あははーっ。佐祐理は佐祐理ですよー」

さわやかに微笑む。どこからどう見ても、いつもの佐祐理さんだった。右手にある宝剣を除けば。

「あ、そうだ。舞、いいことを思いついたよ」

カラン、と鞘が地に落ちた。舞を除く三人の目が佐祐理の右手の剣に吸い付いた。真剣だ。夕焼けを受けて輝く刃の美しさよ。

どんなに腕のよい刀匠であろうとこう問うだろう。この剣を創ったのは、神か、悪魔か――と。

「舞。佐祐理と勝負しよ。もし佐祐理が負けたら、舞の好きにしていいよ」

何と言う宣言か。舞の技量を知る者からすれば、信じられない言動である。ましてやそれが、虫も殺さぬような美少女とくれば。

「私は佐祐理を傷つけない」

「佐祐理も舞を傷つけたりなんかしないよ」

ああ、何という事か。それはお互い、相手を傷ひとつつけずに闘おうというのである。常識的に考えても、どれだけ難しいことか分かるだろう。

それが達人同士の勝負なら、尚更だ。呆気に取られる三人の前で、勝負は始まってしまった。

細身の西洋剣が、青眼。美しき宝剣が、八双。二つの構えは、やがて、地を蹴る影となった。

きいぃん、と音がして、一瞬重なり合った二つの影が離れた。

「つぅ」

 
呻いたのは舞だ。闘牛の突進を素手で受け止めたら、こうなるだろうか。全身をとんでもない痺れが襲う。佐祐理の剣の一撃を受けただけでこの衝撃である。

正直、これほどとは思わなかった。前方に目をやると、佐祐理が爽やかに破顔した。

「ぞっ」という濁りが腹腔から這い上がってくる。湧き上がる恐怖と怒りを押さえ込み、だんっ、と舞が地を蹴った。闇雲に突っ込んだわけではない。宝剣が左下段から飛翔する。だが、空を切った。

初めから受ける気など無かった。否、二度は受けきれない。見事にかわした舞が、渾身の一撃を放つ。

だが、佐祐理はこれを間一髪で避けた。あと数センチ近ければ、宝剣の柄を弾き飛ばしていたはずの一撃だった。

「あははーっ。さすが舞は強いねー。でも――」

宝剣が霞んだ。跳ね上がったと見て取れたのは舞だけだ。

がっ!

「いまの佐祐理は、もっと強いんだよーっ」

きいぃぃん!

剣が宙を舞った。

「・・・・・・」

舞は茫然と何も無い手の平を見つめた。闘いは終わった。想像を絶する大殺陣を眼にし、祐一たちは言葉も出ないでいた。

「それじゃ佐祐理は夕食の用意をしに戻るね。舞、後で一緒に学校に行こうね」

すらりと刃を鞘に収め、長布で包むと、佐祐理は夕陽に染まる笑顔を残して、悠然と歩み去っていった。