今年もまた、この場所の桜達は美しい花を咲かせた。
人気の無い、所謂穴場と言った風情の桜並木だ。
空の蒼に、桜の花が良く映える。
美しい風景を楽しみつつ、わたしは真一郎さんの座る車椅子を押して、花弁の舞う小道をゆっくりと進む。
やがて、一際大きな桜の巨木が見えてきた。
緩やかな丘の上に、他の桜達に囲まれるようにして聳え立つ古桜。
その木陰に敷布を敷き、お弁当を広げてお花見に興じる。
先頃、お医者様にも桜の散る頃まで持たないだろうと宣告された。
きっと、これが真一郎さんとの最後のお花見になる。
無理な延命は、わたしも真一郎さんも望んでいない。
だからお薬も最低限の物だけを頂いて、入院もせず家族と一緒に残された時間を過ごしてきた。
残り僅かな時間を、出来るだけ長く共に居られる様に。
少しでも多くの想い出を遺せる様に。
「思ってた通り、綺麗に咲いてるね」
「うん。本当に綺麗……」
真一郎さんと二人、咲き誇る桜達に見惚れる。
美しい風景と、傍らにある大切な人のぬくもり。
とても、幸せな時間。
時が流れても、今この時の想い出が決して色褪せる事の無いように、心の一番奥に刻み込む。
「ふ……あぁ……」
「真一郎さん?」
二人無言で桜を眺めていたら、隣に座る真一郎さんが小さな欠伸をした。
「ああ、ごめんごめん。あんまり気持ちが良いものだから、少し眠くなって」
「ふふ。今日は本当に気持ち良いから。『春眠暁を覚えず』とも言うし」
「全くだ。昔の人は上手いことを言うものだね……ふぁぁ」
再び欠伸を漏らし、苦笑いする真一郎さん。
わたしも一緒に笑う。
「そうだ、膝枕なんてどうですか?」
ふと思いついて、ぽんぽんと自分のふとももを軽く叩きながら真一郎さんに言った。
ブランケットも持って来ているし、お昼寝には最高の環境だろう。
真一郎さんはほんの少しだけ考えて、口を開いた。
「いいのかい?」
「ええ。存分に寛いでくださいな、あなた」
冗談めかして答える。
少しだけ足を崩して、真一郎さんの頭をふとももに乗せた。
「ん、これはいい枕だね」
「ふふ、お褒め頂いて、恐縮ですわ」
持って来ている荷物の中から薄手のブランケットを取り出し、真一郎さんに掛ける。
真一郎さんの頭をゆっくりと撫でると、気持ち良さそうに目を細めた。
「ん……本当に眠くなってきたな」
「眠っていいよ? わたしは真一郎さんの寝顔を楽しませてもらうから」
「む、そう言われると少し寝づらいな」
そんなやり取りをしている最中も、徐々に真一郎さんの瞼は重くなってきているようだった。
もう既に、半分夢の中に入っているのではないかしら?
「ふ、あ……ああ、でも我慢できそうに無いね、これは」
「我慢なんてする必要ないけど」
「でも、私が寝てしまうとさくらが退屈じゃないかな?」
「大丈夫。さっき言った通り、真一郎さんの寝顔を見てるから」
真一郎さんの気遣いに対し、わたしが笑いながら答えると、ちょっとだけ複雑な顔をされてしまった。
「私の顔なんて見飽きただろうに」
「そんなこと無いわ。それに、飽きたらこの風景を楽しめばいいんだし」
「……それもそうか。じゃあ、少しだけ寝ることにするよ。足、辛くなったら起こしてくれていいからね?」
「ええ、わかったわ。おやすみなさい、あなた」
「うん、おやすみ、さくら」
そう言って真一郎さんが目を閉じる。
程なく、穏やかな寝息が聞こえ始めた。
しばらくの間、その寝顔を眺めていたら、ちょっとした悪戯心が湧いてきた。
眠る真一郎さんの頬を、そっとつついてみる。
反応は無い、どうやら良く眠っているみたいだ。
「真一郎さん、大好き……」
呟き、そっと唇を寄せ、穏やかに眠る彼に口付けた。
年齢を重ね、すっかり乾いてしまった真一郎さんの唇。
私の大好きな真一郎さんの唇。
「ん……さくら……」
「っ……!?」
真一郎さんがわたしの名前を呼んだ。
起こしてしまったかと思ったが、どうやら寝言だったらしい。
「……もう、びっくりさせない欲しいな」
少しだけ八つ当たり気味に呟く。
そんな自分が可笑しくて、思わず笑みが浮かんだ。
子供のような無邪気な寝顔から桜へと目を移す。
一斉に咲き誇り、僅かな時間で散りゆく桜の花。
その様が、永い永い時を生きるわたし達から見た、人間の一生と重なる。
真一郎さんの時間は、もうすぐ終わってしまう。
けれど、わたしの時間はずっと先まで続いている。
それがとても寂しかった。
「真一郎、さん……」
大切な人の確かなぬくもりと重みを感じながらわたしは。
間も無く訪れるだろう別れに、小さく身を震わせた。
さくらの下で
「……ん」
「真一郎さん、目が覚めた?」
涼やかな声が耳をくすぐる。
目を開くと、愛しいさくらが私の顔を覗き込んでいた。
陽は中天を過ぎていたが、桜の木陰で寛ぐ私達を暖かく包み込んでいる。
時折心地よい春風が吹き抜け、さくらの髪を揺らし、桜の花びらを空へと運ぶ。
それはとても幻想的な光景で、まるで完成された一枚の絵画を見ているかのような気持ちになる。
「さくら、私はどれ位眠ってたかな?」
「二、三時間くらいよ」
「そうか。ごめんね、足は大丈夫かい?」
柔らかな膝枕の感触を感じながら、さくらに問いかける。
何時までもこうしているのも負担になるかと思い身を起こそうとしたが、やんわりとさくらに押し止められた。
さくらが私の髪を優しく撫でながら、微笑みかけてくれる。
「わたしは大丈夫だから、楽にしていてね」
「……うん、それならお言葉に甘えちゃおうかな」
素直に身体の力を抜き、さくらに身を預ける。
穏やかで、幸せな時間。
私は再び瞼を閉じた。
全身で春の空気を、そしてさくらの温もりを感じる。
さわさわと、桜の梢が揺れる音が聞こえる。
小鳥が囀り、春風が様々な薫りを運んでくる。
「今日は本当に暖かいね」
「うん、もうすっかり春爛漫って感じで、とっても気持ち良い」
なんて幸福なんだろう。
そう思うと、自然と言葉が漏れた。
「ああ、私は幸せ者だね……」
「どうしたの、急に?」
「穏やかな時間を、愛しい妻と共に過ごせる。こんなに幸せなことは無いんじゃないかな?」
「真一郎さん?」
さくらが訝しげな様子で私の名を呼ぶ。
薄く目を開くと、さくらの瞳が不安げに揺らいでいるのが見えた。
私の髪を撫でている手にも、僅かに力が込められる。
私としては、ごく自然に思い浮かんだことを口にしただけなのだが、どうやらさくらに心配させてしまったらしい。
さくらを安心させようと、手を伸ばし、そっと彼女の頬に触れる。
さくらの頬の感触を楽しみながら、微笑みかける。
「大丈夫だよ、さくら。確かに、私に残されている時間は少ないけれど、今この瞬間に終わるわけではないのだから。
もう少し話を続ける位の時間はあるはずだから」
「……うん」
頬に触れた手に、さくらの手が重ねられる。
柔らかくて、暖かな手だ。
私の衰え、皺だらけになった手を包み込みながら、さくらは目を閉じる。
さくらの表情が穏やかなものに変わるのを見て、安堵の息を吐く。
「さくらと出会ってから、本当に、長いようで短かったね……」
「ええ」
さくらと出会ってから、本当にいろんなことがあった。
楽しいこと、嬉しいこと、辛いこと、悲しいこと。
陳腐な言い方だが、すべて大切な想い出だ。
「そういえば、出会ったばかりの頃、私はさくらに嫌われているんじゃないかと思っていたんだよな」
「……あ」
「はは、気にしなくても良いよ。今思い返してみれば、私の行動も馴れ馴れしかったと思うし」
そう言いながら、今は遠いあの日々へと想いを馳せる。
あの頃のさくらは、恐らく人間に対する不信感を拭いきれなかったのだろう。
よくよく考えれば、あんなに素っ気無い態度を取られていたのに良くもまあ話しかけ続けたものだ。
「本当に、懐かしいなぁ……」
「うん」
「唯子が居て、小鳥が居て。たまに千堂さんや御剣も一緒になって。皆で笑ってた」
風芽丘での日々。
少しずつさくらが心を開いてくれて、親しく話せるようになって。
さくらと恋人同士になれたときは本当に嬉しかった。
ああ、そういえば氷村とかいう奴のせいで一騒動起こったっけか。
一発くらい殴ってやりたかったな。
さくらとの結婚生活。
愛するひとと、気の置けない友人達に囲まれて過ごした幸せな日々。
二人きりで過ごす静かな日も好きだったが、それ以上に皆で過ごす賑やかな日は楽しかった。
騒々しい毎日を思い出し、自然と頬が緩む。
「本当に騒がしい毎日だったね」
「ええ。でも、とても楽しかった」
さくらと顔を見合わせ、笑う。
ひとしきり笑いあった後で、少しだけ、追憶に浸る。
「でも、もう皆逝ってしまって……そして私ももうすぐ、さくらを置いて逝こうとしている」
「真一郎、さん」
先に逝ってしまった連中の顔を思い出す。
どいつもこいつも笑いながら逝きやがってと、少しだけ的外れな感想が浮かんだ。
そんな益体も無いことを考えていると。
ぽつり、と。
頬に一滴、冷たい感触が落ちた。
「さくら……泣いているのかい?」
見上げると、さくらの瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちてきていた。
頬に当てていた手をずらし、彼女の涙を拭う。
小さな子をあやす様に、ゆっくりと、出来る限り優しく語りかける。
「泣かないで、さくら。君を置いて逝く私が言えたことではないかもしれないけれど。それでもやっぱり、笑顔の君を見て居たいから」
「……うん」
私の言葉に応え、さくらは涙で潤んだ瞳のままだったが、優しく微笑んでくれた。
私は、彼女の涙を拭っていた手を動かし、美しい髪に触れる。
柔らかな上質の絹のような、滑らかな手触り。
その感触を楽しみながら、言葉を継ぐ。
「うん、本当に幸せな日々だった。私は聖人君子じゃないから、心残りが無いだなんて決して言えないけれど。
それでも笑って逝ける位には、満足のいく人生だったよ」
そう言ってから気付いた。
ああ、あいつ等も最期の時はこんな気持ちだったんだろうなぁ、と。
そう思うと、また笑みが浮かんだ。
だが、そうこうしている内に、確実に終わりは近づいていたようだ。
少しずつ、感覚が鈍くなり始めている。
さくらの髪を梳いていた手にも、力が入らなくなってきた。
それに気付いたのか、さくらが私の手を取り、両手でそっと包み込んでくれる。
「ああ、暖かいなぁ。それに、とても柔らかくて気持ちいい」
「本当?」
「こんなことで嘘をついてどうするのさ」
二人して笑いあう。
私の手を包むさくらの手を、そっと握り返す。
精一杯の感謝を込めて。
少しでも私の気持ちを伝わるように。
「ありがとう、さくら」
「お礼なんて言わないで」
「言わせて欲しいんだよ。ずっと私の傍に居てくれて、嬉しかったから。
そして、ごめんね。最初から解っていたけれど、それでも君を悲しませてしまう」
目に映る風景が、次第にぼやけてきた。
どうやら、本当にもう時間が無いらしい。
さくらの手を握っている感覚も、もう殆ど無い。
頭の下にあるはずの、さくらの膝枕の感触も同様に無い。
柔らかく、暖かなさくらを感じられ無くなったのは、少し残念だ。
「出来れば私のことは、何時までも忘れて欲しくは無いけれど。
でも、想い出に縛られないで。きっと君のことだから、解ってくれているとは思うけどね」
「……うん」
さくらの声が震えている。
きっと、泣いているんだろう。
でも、私にはもう何も見えない。
頬に落ちているであろう、さくらの涙さえ感じない。
酷く、心が痛んだ。
「さくら、精一杯生きて。私は一足先にあちらに逝って、皆と一緒に待っているから。
いつか君が来て、私の知らない話を聞かせてくれるのを楽しみにしているから」
声がかすれ始めた。
もう話すことも満足に出来ないらしい。
ああ、でも。
声が出なくなる前に、さくらに伝えたいことが、まだある。
「さくら、大好きだよ。君を愛している。今までも、そしてこれからも。だから……」
「真一郎さん、わたしも、わたしも愛していますっ。だから、置いて逝かないでっ!!」
一瞬、意識が消えかけた。
けれど、さくらの叫びで持ち直す。
後、少しだけ。
もう少しだけ、さくらに伝えたいことがあるから。
「だからさくら。笑顔で……出来るだけ、笑顔でいてね。私の大好きな、満開の桜の様な笑顔で」
「うんっ……」
「ありが……と……」
そう言うのがやっとだった。
意識が、深い、深いところへと沈んでいく。
「真…ち…さんっ!」
ああ、さくらがないている……。
くやしいなぁ……もうおれは、なぐさめてあげることもできないんだ。
ごめんね、さくら。
だいすき……だよ。
「ありが……と……」
ザァァァァァァァ――。
真一郎さんの声を覆い隠すように、強い風が吹きぬけた。
そしてそれと同時に、真一郎さんの身体から力が抜ける。
命が失われる感触。
何度体験しても、決して慣れる事の無い悲しい瞬間。
「真一郎さんっ!」
風が収まった時、既に真一郎さんは息を引き取っていた。
先程まで感じていた微かな鼓動も、息遣いも、もう感じられない。
今はまだ残っているこの温もりも、時間と共に失われていく。
「……真一郎さん」
後から後から、涙が溢れ出す。
真一郎さんには笑顔でいて欲しいと言われたけれど、今はまだ、とてもじゃないけれど無理だ。
まだ温もりの残る真一郎さんの体を抱いて、声を上げて泣く。
どれ程そうしていただろう。
泣き疲れて空を見上げれば、夕闇が迫り始めていた。
少し強くなってきた風に、桜の花びらが舞い散る。
「真一郎さん……有難う御座いました。わたしも、ずっと、愛してます」
穏やかな顔で、まるでただ眠っているだけのような真一郎さんに語りかける。
決して覚めることの無い眠りに就いた、もう応えを返してはくれない愛しいひとへ。
真一郎さんの最期の願いへの返事をする。
「だから、頑張るね。真一郎さんの好きな、笑顔のわたしでいられるように。
でも……でも、もう少しだけ泣かせて欲しいの。また、笑えるように、もう少しだけ」
そう言って温もりを失った真一郎さんに口付ける。
お別れのキスは、冷たくて、涙の味がした。
もう一度だけそっと口付けた後、真一郎さんの亡骸を抱き上げ、車椅子へと乗せる。
そしてゆっくりと、歩き出した。
家族の待っている、我が家へ帰ろう。
そして皆で真一郎さんと最期のお別れをして、安らかに眠れるようにお祈りを。
夕日で赤く染まったあぜ道を、ゆっくりと歩く。
真一郎さん、わたしがそちらに行くまで随分時間があると思うけど、浮気なんてしちゃ駄目ですよ?
もし浮気してたら、思いっきり噛み付いてあげるから。
……真一郎さん、今は、さよならです。
心の中でお別れを言って、意識して笑顔を浮かべる。
真一郎さんとの約束を守るために。
わたしは、きちんと笑えているだろうか。
ねぇ、真一郎さん?
答えは無いけれど、それでも真一郎さんが笑いかけてくれたような気がした。
後書き
どうも、葬月です。読んでの通りとらハSSです。連載の方はほったらかしです。気にしないで下さい。
このお話は、さくらシナリオエピローグよりも更に後、真一郎の最期の一時であります。
前から書いてみたいと思ってのですが、今回ちょっとしたきっかけがあったので書いてみました。
楽しんでいただけたら幸いに思います。以上、後書きでした。
二〇〇五年一二月某日 禍津夜 葬月